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伊勢神宮で「遷御の儀」が行われる

 10月2日に伊勢の内宮で「遷御の儀」が行われた。Cimg6553 10月2日の夜7時のNHKニュースから。Cimg6554_2 式年遷宮は1300年前から、すなわち奈良時代初頭からというふうに言われている。伊勢神宮が創建されたのは少なくとも1300年前以前であることは、713年に編纂された古事記の「天孫降臨」の段に、次のように書かれているので 間違いない。

<・・・天降し給ひき。ここに(注:天照大神は)その招きし八尺の勾玉・鏡、また草薙の剣、また常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)、手力男神、天石門別神を副へ賜りて詔りたまひしく、「これの鏡は専らわが御魂として、わが前を拝するがごとく、斎き奉れ。次に思金神は前の事を取り持ちて政(まつりごと)せよ。」とのりたまひき。

 この二柱の神(鏡と思金神)は、さくくしろ五十鈴の宮に拝し祭る。>Cimg6534 伊勢神宮が別名で「五十鈴の宮」と呼ばれるのは、五十鈴川の畔に建つからであるが、しかしもっとも古い名称は「磯宮」であった。次に、『日本書紀』垂仁天皇の25年条を引用する。

<時に天照大神、倭姫命におしへて曰く「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむと欲す。」とのたまふ。故に、大神の教へのままに、その祠を伊勢国に立てたまふ。よりて斎宮を五十鈴川の川上に興す。これを磯宮といふ。すなわち天照大神のはじめて天より降りますところなり。>

 はじめ天照大神は崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリ姫)に掛かって20数年を過ごし、のちに垂仁天皇の皇女・倭姫にバトンタッチされ、倭姫は天照大神を鎮める佳き地を探し求めて、宇陀・近江・美濃と歩いたあげくに見出したのが伊勢国だった。これが確かなら垂仁天皇代はおよそ西暦300年の頃であるから、古事記の時代より400年も前に天照大神は伊勢に祀られたということになる。

 いずれにしても天照大神を祀る歴史は相当に古いし、式年遷宮も同じくらいに古いのかもしれない。20年にいっぺん何もかも作り直して祀り替えるのは、「常若(とこわか)」という観念からだそうだが、鹿児島では毎年正月になると「若う、おないやしたなあ(若くなりましたね)」と挨拶する伝統があるが、これと似ているのが面白い。Cimg6538 前日の10月1日には、新調なったすべての調度類を川原で清めるという儀式があった。男性神官に並んで女性の神官も相当数見えているが、これらの調度類の差配をする女性たちだろうか。Cimg6558 女性といえば、皇族からあの黒田清子さま(清子内親王)が、遷宮臨時祭主として参加されていた。正確に言えば「元皇族。元清子内親王だが、理屈は抜きに精進なさっていると思う。Cimg6550 午後8時からの儀式の行われる時間帯に、天皇皇后両陛下は東京の皇居から遥拝されるという。

 東京の皇居―とはきつい言葉だが、「朝敵の徳川幕府の根城を、新しい維新政府のトップである天皇が乗っ取った証拠」であって、長い文化的伝統のある皇室の本拠地にはふさわしくなく、やはり京都の御所がお似合いである。京都からなら伊勢も近く、天皇・皇后の出御もかなったであろうに・・・。次の式年遷宮の際には京都からお出でになる様子を拝見したいものである。

(追記)

 敗戦後はGHQの「神道指令」によって、戦時中の皇民化教育の総本山とも言える伊勢神宮は解体の危機に晒されたそうであるが、「伊勢神宮は宗教施設ではなく、周辺の大森林帯における付帯施設に過ぎない」というような、<宗教ではなく大自然を崇拝・信仰する日本人の心の拠り所説>を強調することで、かろうじて取り壊しを免れた―というような話も聞いている。

 確かに神宮周辺の空撮をみれば、それは一目瞭然だろう。

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