眼が泳いだ記者会見
22日の猪瀬東京都知事の記者会見ほど「眼が泳ぐ」という意味の分かるイベントはなかった。
記者団からの質問に対して何度も躊躇するたびに、これでもかと眼が泳ぎまくっていた。 一番眼が泳いだのは「誰から5千万円を手渡されたのですか?」という質問に対してだった。(画面は今日の『関口宏サンデーモーニング』から)
言うべき必要はないと思う、との返答に、さらに突っ込まれると、とうとう「徳田毅議員です」と認めた。徳洲会病院という組織ぐるみの選挙違反で、親族や関係者から逮捕者が続出している火中のトップ(実際のトップは父の虎雄だが、社会上のトップは衆議院議員である息子の毅である)から直々に手渡されたとはさすがに言いにくかったのだろう。
資金提供を自らが依頼したのか、選挙資金ではなかったのか、どこで渡されたのか・・・等々、言いよどむ場面と眼の泳ぐ場面とが延々と続き、これには猪瀬知事も堪えたろう。あの東京オリンピック誘致成功の時の晴れやかな自信に満ちた表情とは雲泥の差だ。 13日に東京地検特捜部が家宅捜査をしたところ、徳田寅雄氏の妻の関係先に5千万円が現金で保管されており、妻は画面のように述べたそうだ。
だが、この返済は徳洲会に捜査が入り、逮捕者が出てからのことだから、辻褄合わせの慌てふためいた返済だろう。一年も前に借りたわけで、たとえ本当に「借りたけれど使わなかった」のであれば、少なくとも都知事選挙が終わり、当選が決まってからすぐに返すはずのものだからだ。それが、一年近く後のこの時期になってから返したというのは、「あの金がヤバイ組織からのヤバイ金となりそうだから、何とかかき集めて使わなかったことにして返しておくに限る」と考えてのことではないか。 個人的な借金であり、選挙資金ではないーと述べ、画面のような言い方をしているが、選挙に出るという挨拶に回った先でポンと5千万円はないだろう。常識的に考えて「選挙費用の足しにしなさい」ーとして渡されたに違いない。依頼したかどうかは別にしても、だ。
ここは白黒を自ら発表した方がよい。あるいはもしかしたらこの選挙資金がらみの資金提供を持ちかけたのは、猪瀬知事の前任者で徳田虎雄氏との親交の篤い石原前東京都知事の「入れ智恵」だったかもしれない(考え過ぎか?)。
せっかく東京都知事選始まって以来の最高票で堂々と当選し、その後の手腕ーとくに東京にオリンピックを誘致したことで選挙民である東京都民の評価も高い(筆者はさほど評価しないが)のだから、この際、しらを切らずに「白状」したらよい。たとえ検挙されて一度は野に下っても、再選挙では返り咲くに決まっている。
一度解職されて、浪人し、その後に再出馬で当選したら、ちょうど自分の時に誘致したオリンピックが開催される巡り合わせになろう。それはそれでドラマチックなことではないか。
※猪瀬都知事が25年前に著した『ミカドの肖像』(1986年・小学館発行)を最近読み終えたばかりであった。ここで「ミカド」というのはもちろん日本の天皇のことなのだが、カタカナ表記は、実はその数年前にちょっとしたブームになったフランスの二人グループ歌手(デュオ)が「ミカド(MIKADO)」という名であり、なぜそのような名を付けたのか、という疑問がこの書の枕となっていて、これと日本の天皇の不可解さとが渾然として展開して行く一種の推理小説の面白さがある本である。
中で、自分が惹きつけられたのは、西武グループの創始者・堤康次郎が皇族や貴族の好んだ軽井沢の別荘地開発により今日に及ぶ大資産を形成したことと対比させて述べている京都の北山の山中にある「八瀬村」のことである。
八瀬村には「八瀬童子(やせのどうじ)」という伝統職の人たちが住んでいる。その人たちの起源は、
―八瀬村のこうした伝統(明治維新以来、地租税が免除され、それは昭和20年まで続いた)の縁起は、後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢に追われて比叡山に逃げ込んだ延元元年(1336年、南朝歴では建武3年)にまで遡ることができる。八瀬童子は、神輿の形をした乗り物に後醍醐天皇を乗せ、比叡山の頂上まで送り届け難を救った。天皇家と「鬼の子孫」と称された村との独特の関係はこの伝説を拠りどころに成立していた。(同書・173ページ)
また、
―明治維新で江戸が東京になり、千代田城に明治天皇が入城する際、百余名の八瀬童子が神輿の形をした鳳輦(ほうれん)を担いで京都を出発した。京都で、天皇家とその藩屏たちの運搬係であった八瀬童子は、新政府の中に位置づけられることになった。天皇家の行事は、私的なものから公的なものへと回復するのだが、それに伴い、八瀬童子の役割も公的なものに切り換えられていく。しかし、免税特権については、近代官制の例外として認められるのは困難であった。 そこで宮内省は、地租税金に相当する金額を八瀬童子に下賜するという、少しまわりくどい方法を採った。また、明治天皇東上の際、八瀬童子が若干名、雑用係として千代田城に残されたが、その既成事実を追認して16名を公務員として採用した。戸数130余りの集落であったから、十軒に一軒は安定した俸給生活にありつけたことになる。(同書・175ページ)
このような人々の村が京都の山中にあり、後醍醐天皇の時代から昭和20年まで特別な扱いを受けていた―という認識(発見)は、猪瀬氏の驚きであり、読者の驚きでもある。
後醍醐天皇の時代から明治維新後の明治天皇東京行幸まで、事あるごとに天皇用の神輿の形をした鳳輦(ほうれん)を担いだ八瀬童子を再発見した猪瀬都知事なら、「千代田城は皇居にふさわしくないから京都御所に還っていただこう」という「還幸」を推進できる知事だろうと思うから、是非とも、出直しをしてでも頑張ってもらいたいと自分は思っている。
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