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大相撲に明るい兆し

 平成26年の初場所も今日が千秋楽。

 幕の内力士の取り組みが始まる前に各段の表彰が行われたが、今場所は幕の内より下位の優勝力士のすべてが日本人であった。Cimg7796 これまでのすべてを記憶しているわけではないが、モンゴル出身者をはじめ外国出身力士がどの段でも優勝しなかったのは珍しいことかもしれない。

 残念ながら、幕の内は期待の稀勢の里が番狂わせで故障までしてしまい、日本人横綱誕生は遠のいてしまったが、それでも遠藤という石川県出身の新人は期待に違わぬ取り口で大相撲ファンをうならせてくれた。

 鹿児島県志布志市出身の千代丸がついに十両優勝を果たしたが、先場所は弟の千代鳳が優勝しており、十両で兄弟力士の連続優勝というのは初めてだという。これも収穫だった。Cimg7794 中学時代は柔道で鳴らしたようで、もともと体格はよかったのだろうが、千代の富士の部屋に入門してからはあんこ型の立派な体になっている。突き押しと粘りが身上のようだ。

 一つ下の21歳の弟はすでに幕の内力士で、千代丸もこの優勝で来場所の幕の内昇進は確実なので、若・貴以来の兄弟幕の内力士が誕生しそうである。Cimg7793 鹿児島県出身の幕の内力士はもう一人里山がいる。こちらは奄美大島出身の32歳。今場所は珍しい決まり手などで国技館を大いに沸かせたが、惜しいかな負け越しを喫してしまった。幕の内残留が微妙になっている。

 それにしても鹿児島出身の幕の内力士が少なくなった。昔は・・・一世代前の事だが、大関・若島津、大関・霧島、小結・寺尾、小結・逆鉾、薩州洋、陣岳、旭道山・・・と数多くいたし、三役力士もいた。

 地元鹿屋の高校の相撲部など結構強かったのだが、今は相撲部自体あるのかどうか分からないくらい相撲離れが進んでしまっている。しかし若い千代丸・千代鳳兄弟の活躍次第では今後また人気が再燃するかもしれない。大いに期待しよう。

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極寒と温かさと

 昨日は-3℃、今朝は-2℃と大寒の入り以来まさに大寒の日々が続く。南九州の当地では「極寒」と言っていいくらいだ。Cimg7787 朝7時過ぎ。東側の畑地帯はまるで雪が積もったようだ。Cimg7790 菜園のチンゲンサイは冷凍状態だがアブラナ科なので寒さにはめっぽう強い。Cimg7789 菜園では邪魔者の雑草たちにも、容赦なく霜を降らせるが、彼らも氷の結晶の化粧を喜んで纏っているかのようで憎めない。

 世間は真冬の真っ只中だが、昨日の夕方見た残留孤児に関するニュースは心温まるものだった。Cimg7778 鹿児島県に帰って来た満州残留孤児の人たちが、ソ連軍の侵攻により満州で生き別れになった孤児たちをわが子同様に育ててくれた養父母に対する感謝の念を表すための石碑を建立した―というものである。Cimg7779 場所は天保山公園内で、ここは確か鹿児島市と中国の長沙市との姉妹盟約を記念して造られた東屋などがある所だ。

 残留孤児は3千人ほどいたようだが、多くの日本人渡満家族の子供たちは、1945年2月に結ばれた「ヤルタ協定」の中の密約(ソ連の日本への参戦と領土の割譲)により、1941年に結ばれていた日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻してきたソ連軍に追われて逃げる途中に一家自決や病死・飢餓のために命を失っている。

 残留孤児は無事に育った数が3千ということで、実際は倍くらいはいたのではないかと思うが、いずれにしても満州人家族に引き取られたために命拾いをして育てられた。これが満州人だったから良かったのだろう。中国本土人(漢民族)だったらこうはいかなかったに違いない。敵国日本の子供であるから―という理由で殺されるか、売り飛ばされるか、そうでなくとも相当な差別待遇を受けたはずである。

 満州国は漢民族を支配していた満州族の王朝・清が辛亥革命により倒されたあと、日本が満州族の王統(宣統帝溥儀)を首班として建国させた国であるが、ここでは「五族協和」のスローガンのもとに日本が相当な資本を注ぎ込んで国家制度を整備しつつあった。

 満州族にとっては日本の植民地支配はさしたる抵抗感もなく受け入れられる統治であったために、親日感情は強かった。その結果が残留孤児の満州族家庭への「温かい受け入れ」であった。

 日本の満州支配を悪く言う作家や歴史評論家もこのあたりの経緯を目の当たりにして口をつぐむほかないだろう。最近亡くなった山崎豊子が残留孤児をテーマに大作を著したが、彼女にしてからが「日本の満州支配は悪であり、その犠牲者が残留孤児」というような認識である。本当の悪は中立条約を勝手に破って侵攻したソ連であり、それをそそのかした大英帝国なのである。

 満州在留の日本軍の事実上の総指揮官とも言うべきあの石原莞爾はこの「五族協和」「王道楽土」を満州において実践しようとした人であるが、これあるがゆえにアメリカも戦犯には仕立てようがなかった。

 この石原莞爾の先例が、1920年パリ講和会議の席上で日本からの出席者(全権大使:西園寺公望。副使:牧野伸顕=大久保利通の二男)で、「人種差別はもうやめよう」と採決を求めて多数決を勝ち取った史実である。

 この時は議長役だったアメリカ大統領ウィルソンによって「全会一致でなければならぬ」と一蹴されてしまったのだが、日本はその後も「人種差別をなくす」という理念で植民地統治に当たったので、英米を中心とする欧米の人種差別的・収奪的な植民地主義とは鋭く対立をはじめることになり、その結果起きたのが太平洋戦争なのである。

 アメリカのウィルソンは日本の提案と採決の結果に腹を立てて、帰国してしまった。アメリカが黒人差別を抱えていたからである。太平洋戦勝後も黒人差別を変えようとしなかった。戦後「日本に基本的人権意識と民主主義とを根付かせる」と言って来たが、まさに茶番という他ない。大きなお世話だ、自分の国はどうなんだ―と言ってやるべきだったのだ。

 Cimg7784 石碑の裏に「養父母之慈心」という題の漢詩が刻まれている。(和訳してみた)

  驚天動地の戦禍の前に 

  三千の孤児が悲哀に泣き叫んだ

  だが中国の古い伝統である徳の心で

  養父母は孤児を慈しみ養育してくれた

         2013年10月吉日

 今の中国共産党政府に聞かせてやりたい「徳と慈愛」の心。かっての中国人の多くは持っていたのではなかったか・・・。Cimg7786

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南九州は火山噴火期に入った?

 ここ7年ほど桜島は昭和火口が活発化し、去年は噴火・爆発850回余りで、3年前から毎年900回に迫る回数を上げてきている。

 去年の場合、8月以降に噴煙が上空5000mに達する大きな噴火が数回あり、さらなる活発化を印象付けたが、年の暮れに来て南海上の十島群島の諏訪之瀬島の火山が突然のように噴煙を上げ、また年が明けてからは阿蘇山も小規模ではあるが2回ほど噴火した。

 桜島の大正大噴火から満100年になったのを記念したわけではないだろうが、ここのところ南九州の活火山は桜島に負けじと目覚め始めている。

 今日は気象庁の噴火情報によると、今年5、6、7回目となる噴火を午後4時の時点で記録しており、おそらく最後の噴火による降灰かと思うが、外で庭仕事をしていると、3時半ごろになって急にそれまで晴れていたのに太陽が霞み始めた。

 風が強まって寒くなったので慌てて上着をはおり、空を見上げると、太陽がまるでおぼろ月のような姿であった。Cimg7773 午後3時半とあって太陽は南西方向にかなり傾いている。右手の北東方面からの風に乗って、火山灰が太陽を横切るように左手の南東方向へ向かっていたのだ。Cimg7771 南東の吾平町方面がかなり霞んでいる。Cimg7769 真東の肝付町方面はもっと霞みが強く、山の稜線さえはっきりしない。Cimg7768 望遠を使わない普通の広角で写すと、山を覆う灰の上に青空が広がっているのが分かる。Cimg7775 わが家の軽自動車のリアガラスにこびりついた桜島の灰。今朝がた出かける前に水洗いして綺麗になっていたので、この3時半前後の30分ほどの降灰で積もったことになる。

 3年前の1月26日に霧島連山の一火山・新燃岳が突如大噴火を起こし、西の風に乗って都城方面に大量の火山灰を降り積もらせた(3センチ前後)ことは記憶に新しいが、あの山も一過性で終わったという証拠は無く、これから連動して行く可能性もあり、南九州の活火山の動きはますます目が離せない。

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垂水島津家第4代島津久信の墓所(垂水市)

 戦国武将で島津中興の祖と言われるのが15代貴久(1514~1571:父は日新公・島津忠良)であるが、その弟の忠将は永禄4年(1561)に大隅福山の廻城の戦いで命を落とした。

 それを悼んだ父・忠良は忠将の遺児・以久に垂水郷を与えて領主とした。これが垂水島津家の始まりである。ところが江戸に幕府が開かれると、以久は佐土原藩3万石に転封となった。跡目を継ぐべき実子の彰久(てるひさ)はすでに慶長の役において戦死していたので、孫の久信に垂水が任されることになった。

 この忠将から数えて4代目の久信こそが実質的な垂水島津家初代と言うべきであるのに、なぜ垂水ではなく鹿屋に墓があったのか、先日(13日)の歴史ロマン探訪の際に立ち寄った鹿屋安養寺での話題となったのであるが、今朝、垂水に所用があったので「垂水島津家墓地」を訪ねて安養寺から移されたという久信の墓を確かめた。

 垂水島津家の墓地は垂水フェリー乗り場から国道に出たところの信号を左折し、桜島(国分)方面への道を走ると、4つ目の信号(手前の信号は「市役所前」との表示)を右折する。この通りには垂水高校が右手に、垂水小学校が左手にあり、かっての馬場(乗馬教練の道)であった。Cimg7766 信号から、道路はほぼ東に向かう。300mほどで左手に小学校の塀と、長屋のような建物が見える。Cimg7752 垂水小学校校門。入り口に建つのは長屋。藩政時代からの貴重な木造建築である。この小学校に江戸時代は「お仮屋」が置かれ、領民統治の中心だった。長屋は当時の面影を伝える。

 お仮屋がまだ置かれない江戸の初めのころまで、ここには「林之城」と呼ばれる城があったが、その建設者こそ久信であった。Cimg7749 慶長16年(1611)のことで、ここを拠点にして久信は城下の町割りなどの整備を始めたが、間もなく鹿屋に蟄居を求められて移住する。

 蟄居の理由はよく分かっていない。久信の精神異常と見る郷土史家もいれば、本家への確執、とくに久信の母・玉姫の出である16代義久(貴久の長男)派と17代義弘(貴久の二男)派の間で起こった後継者争いによると見る史家もいる。

 歴史的な理由付けとしては後者の方が勝っていると思う。前者は後継者争いをめぐる波乱を一個人である久信に覆い被せてしまい、当時の島津氏の置かれた状況を歴史的に理解する道を閉ざしかねない。

 墓地はこのお仮屋跡の垂水小学校からさらに東へまた300mほど走ると、急に道が細くなるが構わずにそのまま東進して約100m、左手のシラス台地に向かって行く道があるから左折する。Cimg7763 この道の最奥が島津家墓地である。Cimg7761 何の変哲もない鉄製の観音開きの門の中が島津家墓地。二代目で佐土原藩主に栄転した以久を除く歴代当主の墓が並ぶ、という。

 肝心の久信の墓は、中ほどにあった。Cimg7759 久信は鹿屋に蟄居後はかなり荒れ狂ったらしく、領民の男女を問わず悪さをしたらしい。鹿屋の八尾墓地公園(新生町)入り口に建つ「おきん供養の碑」は、そんな久信の悪手にかかって殺されたおきん女を慰霊する。

 まるで日本書紀の武烈天皇の悪行を読んでいたか―を思わせる久信の行動を見たら、郷土史家ならずとも「久信は精神分裂症だった」と決めつけたくなるだろう。しかし歴史論としては時代相を見据えておかなくてはならないのである。「何が彼をそうさせたか」の「何が」を探ることが必要となる。

 墓地の外回りの道路からは読めなかったのだが、領主の墓に対面するかのように大きな説明看板が建てられている。Cimg7755 歴代16領主の功績・エピソードが書かれている。名前にルビがふってあるのはありがたい。Cimg7756 特筆すべきは14代の奥方・八百姫(お朝)。25代重豪の子で南部藩に養子に行った信順の娘だが、重豪の娘の茂姫が徳川11代将軍家斉の正室(広大院)となり大変な子宝に恵まれたことにあやかって長寿でもある重豪の孫娘ならば―とあの13代将軍家定の正室の候補に挙がったのだが、先に垂水島津家14代の貴敦に嫁いだため、白羽の矢は今和泉島津家の於一(おかつ)こと篤姫(天璋院)に降りたという経緯があるそうだ。

 お朝が徳川家の正室であったら、歴史は変わったか? 成ってみないと分からない―が真相だが、南部藩はいくらか地位が上がっただろう。気苦労も多くなったに違いないが・・・。Cimg7757_2 7代目の久治の時(享保5年=1720年)に、柊原村と野里村とを併合し、家禄18000石となっている。Cimg7758 解説の最後にはこう書かれている。

「垂水島津家は一門家(垂水・加治木・重富・今和泉)として最上位の家臣として本家を支え、城下屋敷も鶴丸城に最も近い旧県庁(今の県民交流センター)の場所にありました。・・・(中略)・・・●「一門家」の墓で自治体所有は垂水市だけです。」

 始祖・忠将以来16代約300年の同じ一家による一貫した統治は確かに長期であり、地域の文教的風土を形成するに十分であったに違いない。

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寅次郎の子守唄(14作目)

 毎週土曜日の夕方に放映されている「寅さんシリーズ」も昨日で14作目。1975年の製作だからほぼ40年前のもの。Cimg7736

 この14作目は初めて見るのだが、観ていて少し違和感を覚えた。

 というのは、今回はマドンナが二人いたのである。ひとりは佐賀県呼子港のヌード劇場のダンサーで、春川ますみが演じていた女。もうひとりは地元葛飾の病院に勤める看護婦役の十朱幸代。

 開始のしょっぱなに、さくらの夫ひろしが印刷の機会に右手を巻き込まれて病院に行った―というシーンが出てくるが、その時に明るくはきはきとした看護婦として登場したのが十朱幸代であった。Cimg7737 治療室から出て来たひろしを心配そうに見守るさくら。Cimg7739 帰り際に「何かあったらまた来てくださいね」―てきぱきとひろしに言い含める十朱幸代。タコ社長も感心している風だ。

 病院から帰ってとら屋の奥の座敷で、タコ社長や帝釈天の御前様を含めてみんなが病院の看護婦の噂話などしている所へ帰って来た寅は、御前様の言う「とら屋の大黒柱(跡継ぎ)」という話には全く乗せてもらえずに拗ねてしまい、また旅に出る。Cimg7742 行った先は佐賀県の東松浦半島の突端にある呼子港。ここで知り合ったのがヌードダンサーをしているという女。Cimg7746 港の店で買ったアンパンを春川ますみに分けてやる。

「こんな小さな町で、あたしの裸なんか見る人がいるっていうんだから・・・」という春川に、寅さんは、

「あんたの裸を見に来たんじゃなくて、美しさを見に来るんだよ」と言う。

春川ますみは「あんた良かことを、言いよるね!」と心を開く。Cimg7744 この春川ますみの同僚だったダンサーが子どもを産んで放り出してどこかへ行ってしまったのを、春川ますみが面倒を見ながら父親を探し出して子どもをその父親に手渡すというシーン。(父親役は月亭八方)

 ヌードダンサーながら心根の優しい役が春川ますみで、寅さんがこんな女にぞっこんほれておかしくはない。

 それがこの話では、その晩に宿泊した宿で、赤ん坊と父親(月亭八方)と再会し、一緒に飲みまくった挙句、翌朝起きてみると寝ている赤ん坊の横に「どうか赤ん坊をよろしくお願いします」と置手紙があり、父親は遁走してしまい、寅さんが赤ん坊を押し付けられて柴又に帰る。

 これから赤ん坊をめぐる話が展開すると思いきや、柴又ではひろしの怪我で知り合いになった十朱幸代との恋愛をめぐる内容にすり替わって行く。

 ここからは佐賀県呼子港での赤ん坊押し付けられ事案は無くてもいいような展開になり、どうも二つのマドンナ映画を一つにまとめてしまった感があるのだが・・・。

 赤ん坊は本当は春川の実の子で、結局寅さんはお人よしにも預かって来てしまい、「こんな家庭もいいなあ」などと思いつつ、春川に次第に惚れていき、訪ねてきて「実は、私の実子なの―」と告白され、所帯を持とうかという気になったところで、実の父親が現れて寅さんのはかない恋が終わる―というストーリーで一話が出来ていたのかもしれない。

 十朱幸代との恋は義弟のひろしの怪我がきっかけで始まるが、これももう少し膨らみを付ければこれはこれで一話が成り立っただろう。

 何か予算か撮影上の制約があったのかもしれないが、寅さんシリーズが始まって10年目の第14作はちょっと首をかしげるストーリー展開であった。Cimg7741 この作では「おいちゃん(叔父ちゃん)」役がまた代わり、下條正巳が演じるようになったが、おばちゃんの三崎千恵子は相変わらずだ。この作で一番の好演者はこの三崎千恵子だったろう。実子のいなかったおばちゃん(三崎)が、赤ん坊の両親が現れて引き取りに来た際の、渡すものか―という渾身の演技と、赤ん坊が去って行ったあと、赤ん坊に着せていた服や下着などを奥の部屋で畳みながら涙を流すシーンは、見ていて実に切ないものだった。

 

 

 

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したたかなり、仲井真沖縄県知事

 一昨日の「関口宏サンデーモーニング」では、名護市辺野古沿岸に米軍基地建設のための埋め立てにゴーサインを出した仲井真沖縄県知事が、新年になってからの県議会でさんざん追及されたあげくに「辞任を求める決議案」を出され、賛成多数で採択された―という話題が取り上げられていた。Cimg7691

 昨年暮れに安倍総理による直談判で、米軍普天間飛行場の5年後の返還と、その移設先として名護市辺野古の海岸部を埋め立てることにOKを出したことに触れ、仲井真知事が「これ以上ない最良の妥協案を提示していただき、これなら辺野古海岸を埋め立てることに許可を出したい」と記者会見で述べたが、これに対しては、

「金で、持論だった普天間基地の県外移設を引っ込めて辺野古への県内移設を容認してしまったのは公約違反であり、県民に対する裏切りだ!」

 というのが沖縄県民の声であるようだ。

 政府の助成金がどのくらい落ちるのかは推測でしかないが、今後30年にわたり、沖縄に一種の賠償金が一定の額で入るのは間違いない。批判はそのことを指しているのだが、県知事にとっては、この助成金こそが沖縄にとって長期のカンフル剤的な資本になり、活かさぬ手はないーということだろう。

 批判をかわすやり手上手の面目躍如なのが知事の答弁だ。Cimg7685 「県外移設」は確かに公約だが、Cimg7686 辺野古海岸部に米軍の滑走路を造るにしても、相当な時間がかかる。Cimg7687 「県外」と公約したが、一方で「辺野古埋め立ては許可しない―とは言っていない」と答弁。

 あれれ?ーと思ったが、知事の真意は「県外移設なら、辺野古海岸部を埋め立てる必要はない」に対する命題の対偶、すなわち「辺野古海岸部を埋め立てるなら、県内移設」を持って来て安倍総理との取り引きに臨んだに違いない。

 結局、県内移設を認めたので「逆も成り立つ」というわけで、「辺野古海岸部に普天間の代替である滑走路を造るほかない」となった。

 このあたりは「詭弁」のように聞こえるが、次の図解で真相が明らかになる。Cimg7701 普天間飛行場は5年以内に運用停止(返還)されるが、名護市辺野古の海岸部を埋め立てて滑走路を造り普天間基地の代用飛行場となるには、最低でも9年半かかる。

 ということは普天間基地が返還され、その代替飛行場が完成するまで、最低でも4年半は普天間基地機能は県外(本土もしくはグアム)に移されることになる。この期間、普天間基地はまさに「県外移設」の状態である。だから公約違反ではない―仲井間知事の論法はこうである。

 なるほど、うまい、と言うべきか、したたか、と言うべきか。

 安倍総理を手玉に取り、県民を「けむに巻いた」仲井真知事は、本土には稀なタフネゴシエーター知事だろう。沖縄の苦労とともにある最高責任者としての知事の姿に、ある種の共感を覚えるから不思議だ。

 できれば4年半の間に日米基地協定など破棄され、沖縄が真に平和で豊かな「うるまの島」に戻ることを願う。

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中国の反日・侮日行動の背景

 暮れに安倍総理の靖国神社の参拝があり、それに対して中国が(韓国も)即座に非難発言をよこしたが、その経緯とコメントは12月29日付のブログ(「安倍総理の靖国神社参拝」)で書いておいたが、そもそも彼ら中国人が何故いつも声高にあのような発言を繰り返すのか―。

 一国の総理が国内の一施設を訪れたからといって、それが戦争時の日本軍の侵略性・残虐性を称揚するというような明らかな意思の下に、たとえば北朝鮮でよく見られる大々的な記念行事のような形で行われたのならいざ知らず、このような姑根性のような非難の仕方は常軌を逸している。

 「愛国無罪」とうようなスローガンで中国の若者たちが、事あるごとに日本人の経営する企業やスーパーなどを壊して回る行為も、常軌を逸している。

 この反日・侮日は江沢民が指導者だった頃から格別にひどくなったようである。教育の現場でも日本軍の侵略性と残虐性を針小棒大に教え始めたのも江沢民時代であった。

 この江沢民という人物について、ウィキペディアで調べると、何と実父は日本と組んで蒋介石の国民党政府に対抗しようとした南京臨時政府(反共でもあった。首班は汪兆銘)への協力者であり、江沢民自身はその当時は南京大学学生だった、とのことである。

 したがって彼は本来なら反共産党分子として除名か、下手をすれば抹殺されかねない状況にあったのに、かろうじて文革の嵐も乗り越え、ついに中国の最高指導者まで登りつめた。しかしその際、青年期までの反共的な生きざまを大っぴらにされては困ることになるわけで、このことを隠す、あるいは隠さないまでも心の中には忸怩たるものがあったはずだろう。

 そのために逆に「南京事件で中国民兵・国民党軍・共産党軍士は殺害されたが、そのほとんどは日本軍によるもので、その数は30万人だ」と針小棒大に宣伝し、教育上もそう教えるようにしたのだろう。その後から、日本に来る研修生などの非道や日本人殺害が目に見えて多くなった。すべて「愛国無罪」の精神の発露だとすればとんでもない話である。

 国内の混乱や腐敗を他国のせいにする、あるいは他国への侮蔑にすり替えるのが、「大国」の常套手段になるのはアメリカなどにも見られることだが、中国の場合、日本へ向けられる場合は「日本軍の侵略・残虐」をキーワードとして叩きやすいからだろう。日本人もそう叩かれて「すみません。南京じゃ大変なご迷惑をお掛けしました」―と謝ってしまう歴史の真実に疎い輩が多いからいよいよつけ上がっているのだ。

 この江沢民を「すぐれた指導者である」と持ち上げているのが、ニクソン大統領の時代に「忍者外交」を演じ、対中国国交に道を開いたキッシンジャー元国務長官である。

 今日読んだ『キッシンジャーからの警告 2000年日本が再起する条件―日高義樹のワシントンレポート』(1999年・青春出版社刊)の第3章には、空軍機で中国に向かう寸前のキッシンジャー一行に出会った、という面白い部分がある。

<もう28年も前の昔のことになるが、1971年7月1日、ワシントンの夏の盛りの暑い日、私がワシントン郊外のアンドリュース空軍基地のVIPの部屋にたまたま入って行ったとき、キッシンジャー博士の一行が特別機を待っているのにぶつかったことがあった。このとき、私は気がつかなかったが、キッシンジャー博士はニクソン大統領の特使としてパキスタンを経由して北京を訪問するために旅立つところであった。キッシンジャー博士は中国を国際社会に連れ出した歴史的な人物であり、そして、まさに1971年からすでにほぼ30年間、中国の国際社会での動きを眺めつづけた政治家である。>

 本当に「たまたま」だったのか、日高氏はNHKのワシントン駐在員として記者だったわけで、たまたまではないような気がするが・・・。

 とまれ、このことからアメリカの忌み嫌う共産国家との国交が始まった。キッシンジャーは、アメリカ・中国ともにソ連を敵国としているという利害の一致があったから国交樹立が可能になった―と言っているが、真実は周恩来に語ったという「国交は日本の伸長を抑える<瓶の蓋>(重石・栓)である」―が本音だったろう。(キッシンジャーは米中協会の会長だそうだ。)

 日本はその頃、えらい勢いで経済成長を遂げており、アメリカの経済的な脅威になって来ているうえ、「LT貿易」という形で、共産中国と細々ながら経済交流を促進していたので、そのことのほうがアメリカにとって潜在的にはさらなる脅威だったのだ。

 キッシンジャーはそこに楔を打ち込んで「日中の離間」を図ったわけである。その頃、中国は反日でも侮日でもなく、むしろ親日の革命世代が多かった。何しろ日本軍が中国共産党軍(八路軍)の敵である蒋介石の国民党軍と戦って弱体化してくれなければ、戦後、共産勢力が国民党に打ち勝つことは難しかったからである。

 こういう歴史の真実は、アメリカが中国との国交を樹立する前には革命世代の共産党幹部たちには共通の「歴史認識」だったのだが、中国が資本主義化し、アメリカナイズされてからの指導部は江沢民を頂点に「反日・侮日」に変わって行った。その底流にはアメリカの日中離間策があり、江沢民の個人的な経歴がそれを増幅させている。

 「歴史認識」は時代とともに味付けは変わるが、江沢民以降の中国のは極端すぎる。だれも信用しない国になるだろう。少なくとも日本人は信用してはいけない。

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冬枯れを彩る山茶花(鹿屋市打馬・田崎)

 昨日今日と二日続けての霜が降り、世間はいよいよ冬枯れ本番を迎えている。去年の冬も寒かったが、今年も今のところ負けてはいない。

 初霜は去年が11月1日、今年はかなり遅くて11月23日。ところが12月に入ってからの降霜のペースは驚異的で、去年が9回で例年よりはるかに多かったのだが、今年は何と12回を数え、出遅れた分を穴埋めした。

 年が明けてからは2回で、初霜からこれまでの合計は16回。この数字は奇しくも去年と同じである。気象予報士によると夏がえらく暑いと、かえって冬は寒くなって平準を保つのだそうだから、全体としては温暖化傾向にはあるにせよ、不思議なことではないらしい。

 田崎神社で買った「かごしま暦」(さつま暦とも言う)によると、昨日の5日が小寒であった。もう寒の入りなのだ。道理で寒い。

 寒さがつのると、外は冬枯れ一色となり、今頃は草も樹木も殺風景になる。

 そんな中でひとり気(色気)を吐いているのが山茶花。Cimg7664 所用で出かけた打馬町の、とある人家の広い庭の一角に、薄紅色のと純白のとが並んで花を咲かせていた。どちらも八重で、花の着きが尋常ではない。もう盛りを過ぎていたが、それでも賑々しい。Cimg7671 帰りに通った田崎多目的公園の周囲に咲く山茶花。Cimg7669 並木道のような遊歩道に入って見ると、かなりの落花がある。椿と違ってぼたぼたと落ちていないので、これはこれで風趣がある。Cimg7672 一体全体、公園の周りに何本あるのだろうか。100本は、まず、下らない気がする。 Cimg7667 Cimg7673 日溜まりの中で眺めていると、冬の最中であることを忘れてしまう。少しでも長く咲いていておくれ。

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初詣2014(鹿屋市田崎町)

 午後3時過ぎに田崎町に鎮座する「七狩長(ななかりおさ)田貫神社」(通称・田崎神社)に初詣で。Cimg7662 夕方に近いが、かなりの車が初詣にやって来ている。Cimg7651 鳥居の手前の狛犬は5~6年前に立派なのが新調された。堂々たる大きさである。Cimg7653 ところが、鳥居をくぐり、石段を10段ほど上がった境内入口に、去年、一対のこれまた立派な御影石製の馬が備えられた。

 まさに今年の干支である「午年」に因んだものであろう。Cimg7656 参拝客は引きも切らずに訪れる。祭神は京都の上賀茂神社と同じ「別雷(わけいかづち)神」で、伊勢国の住人・田丸玄播という人が賀茂神社の分霊をここに招致した、という。Cimg7655 拝殿で参拝を済ませ、左手の奥に歩を進めると、そこには別宮がある。「西之宮」といって、これこそが本来の地元神で、「七狩長(ななかりおさ)」という地元の豪族が祀られている。(手前が西之宮の本殿。向うが田貫神社の本殿)

 田貫神社とは「田主神社」のことで、農耕を司る神(別雷神は稲妻を象徴とする神で、水と稔りを左右する神と言われる)であり、狩長は文字通りには「狩猟の主」で、もともとは狩猟の豊饒を司る神々だった所へ、農耕神が付加され、むしろ上位神となったもののようである。

 風変わりな神社名がそのことを物語っているのは面白い。

 『山城国風土記』の逸文によると、下鴨神社に祀られている「鴨建角身(かもたけつぬみ)神」は、曽の峰(霧島山か高隈山か)に降臨し、そこから大和葛城山に移り、さらに木津川中流の岡田鴨に移動し、ついに鴨川をさかのぼって京都の現在の場所に到り、そこに鎮座したという伝説を持つ神である。伊勢の国の田丸玄播という人はおそらくそのことを知っていて、当地に「本地返り」させたのではあるまいか。Cimg7654 田丸玄播の墓碑。「田丸玄播神」と刻まれた墓塔が祀られている。

 鴨神はここもだが、串良町下小原の万八千神社も賀茂氏が招致したというし、大崎町の「横瀬古墳」の前方部に祀られているのも賀茂神社で、大隅地域は加茂氏とのつながりが強い。この辺りのことをもう少し詳しく調べてみたいと思っている。Cimg7659 広い境内の向こうには樹齢900年という大楠が聳えている。その左隣のは二本に分かれたイチョウで、楠に比べると見劣りがするがあれはあれで結構な大木なのである。そういえば、イチョウは「鴨脚」と書くんだったから、加茂(鴨)氏を想像させる。(京都の賀茂神社は「葵の御紋」で、実は鴨の足の形を表しているとの説がある・・・)

 とまれ、本年の恙なく、穏やかならんことを!

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謹賀新年2014

 2014年元旦、明けましておめでとうございます。今年もよろしく、また、皆さまにとって佳き年でありますように―。

 今朝はそう冷え込まなかったが、いつものように6時過ぎにウメを散歩に連れて行こうと庭に出ると、かなりの風が吹いていた。薄手のフード付きのウィンドブレーカーを着て出て正解だった。

 ほぼ西風で、風上に向かうとやはり寒い。平均して7~8㍍、ときには10㍍くらいの風なので、散歩は早めに切り上げた。

 7時半、国旗を玄関口に立てようと外に出ると、東の空が明るい。Cimg7639 残念ながら、快晴なら見えるはずの肝属三山のシルエットが見えない。山をすっぽりと薄雲が棚引いて覆っている。

 それでもしばらく待つと、横雲の上に太陽が顔を見せた。Cimg7644 2分もすると、Cimg7648 完全に姿を現した。平成26年の初日の出だ。7時41分だった。

 3日前の12月29日、霜が降りるほど冷え込んだ快晴の朝、余りに荘厳だったので、同じ場所で撮ったのが次の写真。Cimg7542 高圧線鉄塔の尖端が、ちょうど肝属連山の稜線に掛かっている。Cimg7547 この時は7時30分に日の出を迎えた。Cimg7649 愛犬ウメともども・・・、ハッピーニューイヤー。

 

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