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垂水島津家第4代島津久信の墓所(垂水市)

 戦国武将で島津中興の祖と言われるのが15代貴久(1514~1571:父は日新公・島津忠良)であるが、その弟の忠将は永禄4年(1561)に大隅福山の廻城の戦いで命を落とした。

 それを悼んだ父・忠良は忠将の遺児・以久に垂水郷を与えて領主とした。これが垂水島津家の始まりである。ところが江戸に幕府が開かれると、以久は佐土原藩3万石に転封となった。跡目を継ぐべき実子の彰久(てるひさ)はすでに慶長の役において戦死していたので、孫の久信に垂水が任されることになった。

 この忠将から数えて4代目の久信こそが実質的な垂水島津家初代と言うべきであるのに、なぜ垂水ではなく鹿屋に墓があったのか、先日(13日)の歴史ロマン探訪の際に立ち寄った鹿屋安養寺での話題となったのであるが、今朝、垂水に所用があったので「垂水島津家墓地」を訪ねて安養寺から移されたという久信の墓を確かめた。

 垂水島津家の墓地は垂水フェリー乗り場から国道に出たところの信号を左折し、桜島(国分)方面への道を走ると、4つ目の信号(手前の信号は「市役所前」との表示)を右折する。この通りには垂水高校が右手に、垂水小学校が左手にあり、かっての馬場(乗馬教練の道)であった。Cimg7766 信号から、道路はほぼ東に向かう。300mほどで左手に小学校の塀と、長屋のような建物が見える。Cimg7752 垂水小学校校門。入り口に建つのは長屋。藩政時代からの貴重な木造建築である。この小学校に江戸時代は「お仮屋」が置かれ、領民統治の中心だった。長屋は当時の面影を伝える。

 お仮屋がまだ置かれない江戸の初めのころまで、ここには「林之城」と呼ばれる城があったが、その建設者こそ久信であった。Cimg7749 慶長16年(1611)のことで、ここを拠点にして久信は城下の町割りなどの整備を始めたが、間もなく鹿屋に蟄居を求められて移住する。

 蟄居の理由はよく分かっていない。久信の精神異常と見る郷土史家もいれば、本家への確執、とくに久信の母・玉姫の出である16代義久(貴久の長男)派と17代義弘(貴久の二男)派の間で起こった後継者争いによると見る史家もいる。

 歴史的な理由付けとしては後者の方が勝っていると思う。前者は後継者争いをめぐる波乱を一個人である久信に覆い被せてしまい、当時の島津氏の置かれた状況を歴史的に理解する道を閉ざしかねない。

 墓地はこのお仮屋跡の垂水小学校からさらに東へまた300mほど走ると、急に道が細くなるが構わずにそのまま東進して約100m、左手のシラス台地に向かって行く道があるから左折する。Cimg7763 この道の最奥が島津家墓地である。Cimg7761 何の変哲もない鉄製の観音開きの門の中が島津家墓地。二代目で佐土原藩主に栄転した以久を除く歴代当主の墓が並ぶ、という。

 肝心の久信の墓は、中ほどにあった。Cimg7759 久信は鹿屋に蟄居後はかなり荒れ狂ったらしく、領民の男女を問わず悪さをしたらしい。鹿屋の八尾墓地公園(新生町)入り口に建つ「おきん供養の碑」は、そんな久信の悪手にかかって殺されたおきん女を慰霊する。

 まるで日本書紀の武烈天皇の悪行を読んでいたか―を思わせる久信の行動を見たら、郷土史家ならずとも「久信は精神分裂症だった」と決めつけたくなるだろう。しかし歴史論としては時代相を見据えておかなくてはならないのである。「何が彼をそうさせたか」の「何が」を探ることが必要となる。

 墓地の外回りの道路からは読めなかったのだが、領主の墓に対面するかのように大きな説明看板が建てられている。Cimg7755 歴代16領主の功績・エピソードが書かれている。名前にルビがふってあるのはありがたい。Cimg7756 特筆すべきは14代の奥方・八百姫(お朝)。25代重豪の子で南部藩に養子に行った信順の娘だが、重豪の娘の茂姫が徳川11代将軍家斉の正室(広大院)となり大変な子宝に恵まれたことにあやかって長寿でもある重豪の孫娘ならば―とあの13代将軍家定の正室の候補に挙がったのだが、先に垂水島津家14代の貴敦に嫁いだため、白羽の矢は今和泉島津家の於一(おかつ)こと篤姫(天璋院)に降りたという経緯があるそうだ。

 お朝が徳川家の正室であったら、歴史は変わったか? 成ってみないと分からない―が真相だが、南部藩はいくらか地位が上がっただろう。気苦労も多くなったに違いないが・・・。Cimg7757_2 7代目の久治の時(享保5年=1720年)に、柊原村と野里村とを併合し、家禄18000石となっている。Cimg7758 解説の最後にはこう書かれている。

「垂水島津家は一門家(垂水・加治木・重富・今和泉)として最上位の家臣として本家を支え、城下屋敷も鶴丸城に最も近い旧県庁(今の県民交流センター)の場所にありました。・・・(中略)・・・●「一門家」の墓で自治体所有は垂水市だけです。」

 始祖・忠将以来16代約300年の同じ一家による一貫した統治は確かに長期であり、地域の文教的風土を形成するに十分であったに違いない。

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