極寒と温かさと
昨日は-3℃、今朝は-2℃と大寒の入り以来まさに大寒の日々が続く。南九州の当地では「極寒」と言っていいくらいだ。 朝7時過ぎ。東側の畑地帯はまるで雪が積もったようだ。
菜園のチンゲンサイは冷凍状態だがアブラナ科なので寒さにはめっぽう強い。
菜園では邪魔者の雑草たちにも、容赦なく霜を降らせるが、彼らも氷の結晶の化粧を喜んで纏っているかのようで憎めない。
世間は真冬の真っ只中だが、昨日の夕方見た残留孤児に関するニュースは心温まるものだった。 鹿児島県に帰って来た満州残留孤児の人たちが、ソ連軍の侵攻により満州で生き別れになった孤児たちをわが子同様に育ててくれた養父母に対する感謝の念を表すための石碑を建立した―というものである。
場所は天保山公園内で、ここは確か鹿児島市と中国の長沙市との姉妹盟約を記念して造られた東屋などがある所だ。
残留孤児は3千人ほどいたようだが、多くの日本人渡満家族の子供たちは、1945年2月に結ばれた「ヤルタ協定」の中の密約(ソ連の日本への参戦と領土の割譲)により、1941年に結ばれていた日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻してきたソ連軍に追われて逃げる途中に一家自決や病死・飢餓のために命を失っている。
残留孤児は無事に育った数が3千ということで、実際は倍くらいはいたのではないかと思うが、いずれにしても満州人家族に引き取られたために命拾いをして育てられた。これが満州人だったから良かったのだろう。中国本土人(漢民族)だったらこうはいかなかったに違いない。敵国日本の子供であるから―という理由で殺されるか、売り飛ばされるか、そうでなくとも相当な差別待遇を受けたはずである。
満州国は漢民族を支配していた満州族の王朝・清が辛亥革命により倒されたあと、日本が満州族の王統(宣統帝溥儀)を首班として建国させた国であるが、ここでは「五族協和」のスローガンのもとに日本が相当な資本を注ぎ込んで国家制度を整備しつつあった。
満州族にとっては日本の植民地支配はさしたる抵抗感もなく受け入れられる統治であったために、親日感情は強かった。その結果が残留孤児の満州族家庭への「温かい受け入れ」であった。
日本の満州支配を悪く言う作家や歴史評論家もこのあたりの経緯を目の当たりにして口をつぐむほかないだろう。最近亡くなった山崎豊子が残留孤児をテーマに大作を著したが、彼女にしてからが「日本の満州支配は悪であり、その犠牲者が残留孤児」というような認識である。本当の悪は中立条約を勝手に破って侵攻したソ連であり、それをそそのかした大英帝国なのである。
満州在留の日本軍の事実上の総指揮官とも言うべきあの石原莞爾はこの「五族協和」「王道楽土」を満州において実践しようとした人であるが、これあるがゆえにアメリカも戦犯には仕立てようがなかった。
この石原莞爾の先例が、1920年パリ講和会議の席上で日本からの出席者(全権大使:西園寺公望。副使:牧野伸顕=大久保利通の二男)で、「人種差別はもうやめよう」と採決を求めて多数決を勝ち取った史実である。
この時は議長役だったアメリカ大統領ウィルソンによって「全会一致でなければならぬ」と一蹴されてしまったのだが、日本はその後も「人種差別をなくす」という理念で植民地統治に当たったので、英米を中心とする欧米の人種差別的・収奪的な植民地主義とは鋭く対立をはじめることになり、その結果起きたのが太平洋戦争なのである。
アメリカのウィルソンは日本の提案と採決の結果に腹を立てて、帰国してしまった。アメリカが黒人差別を抱えていたからである。太平洋戦勝後も黒人差別を変えようとしなかった。戦後「日本に基本的人権意識と民主主義とを根付かせる」と言って来たが、まさに茶番という他ない。大きなお世話だ、自分の国はどうなんだ―と言ってやるべきだったのだ。
石碑の裏に「養父母之慈心」という題の漢詩が刻まれている。(和訳してみた)
驚天動地の戦禍の前に
三千の孤児が悲哀に泣き叫んだ
だが中国の古い伝統である徳の心で
養父母は孤児を慈しみ養育してくれた
2013年10月吉日
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