「高天原」をもとめて(曽於市末吉町)
昨日(3月22日)は忙しい日だった。
午前9時過ぎに、『大隅57号』の原稿の中で、最終校正でもっとも赤字訂正の多かった九大名誉教授H先生の物の打ち合せに印刷所に走り、その足で約50キロを1時間15分ほどかけて曽於市末吉町の耳鼻科に行った。
先生曰く、「アレルギーは、放っておけばどんどん悪くなるのです。ちゃんとマスクをしていますか。家の中こそスギ花粉が溜まるので寝る時もマスクをして寝る方がいいのです。」
先生の説では、外で飛んでいるスギ花粉は地面に落ちたあと雨が降って流れたりしてもう舞い上がったりしないが、家の中に入ったスギ花粉は家の中では雨が降らないのでそのまま居座って悪さをする―そうである。
なるほどな、道理で寝てから鼻が詰まったりくしゃみをしたりするものな。やはり家の中の掃除を徹底するしかないか・・・。
そのあと、午後からは北九州からの来客を「メセナ温泉」で待ち合わせることになっていた。
メセナ温泉内の食堂で昼食を摂り、しばらく時間をつぶす。
1時半に客人が到着。この人は昨年も『三国名勝図会』に載っている「高天原」を訪ねたいと連絡をよこしたのだが、あいにく去年の3月のこの時期に邪馬台国関係の調査で福岡県朝倉市、春日市、糸島市、佐賀県唐津市、多久市、小城市、佐賀市そして吉野ヶ里公園を回っていたので今年初めて会うことになったのである。
会ってみて予想よりずっと若い人なのにはちょっと驚いた。
挨拶もそこそこに「高天原」へ急いだ。
道々話を聞くと霧島市のイザナギ神社が彼の守護神社とのこと。去年も3月のこの時期に来てイザナギ神社に詣で、独特の「修行」をするらしい(具体的にどんな修行をするのかは聞かなかった)。
イザナギノ命の縁で調べているうちに、わがホームページに行き当たり、『三国名勝図会』が記すところの末吉町南之郷周辺の「高山のすえ、低山のすえよりさくなだりに落ちたぎつ早川の瀬に坐すセオリツヒメという神・・・」などの伝承地を目で確かめてみたいとの思いで訪ねて来たとのことであった。
実は去年の春、私はその伝承地を訪ねてブログにも書いておいたのだが、彼はそれを見てなおさら探訪したいということで今回の訪問となったわけである。
まずは、桜谷(さくらだに)を目指して南之郷の高岡小学校付近から南の谷に入った。この桜谷には人家は無く、1キロ余り入ってようやく田んぼ地帯が見えてくる。田んぼと言っても沢沿いの細長い田んぼで、よくもこんなところにまで田があるな―というような場所である。
次に目指したのは、桜谷の上流を登りつめ、峠を越えたところにある「吉原」集落で、ここは曽於市ではなく志布志市の領域で、さっきの道に戻り右折して東方向へ行き、高岡口というちょっとした峠を右に(南に)折れたところにある。
途中で「花房峡」を見たいというので、寄り道をすることにした。
花房峡キャンプ場入り口にて。
花房峡に降りてみたが、途中の道はイノシシの掘り返しがひどくて歩きにくかった。冬場の山間はどうしてもこうなるのだが、仕方あるまい。
花房峡から僅かに県道を南へいよいよ「吉原」だが、やはり去年出かけて確かめたように、「高天原」への道は荒れていて行くことは不可能であった。
雨が降れば沢になる道しかなかった。ここを登りつめ、さっきの桜谷からの道を合わせた辺りが「高天原」であろう―とは『三国名勝図会』の見解であるが、ではその「高天原」に神々は居るのかというと、まず居ないだろう、いや居るはずはないだろう。高天原とは天上の世界だからである。天上とはどこなのか? もっともっと高い山の上か、宇宙か。宇宙にもロケットが飛んでいく時代だからいずれ発見されるのだろうか? 答えは「否」だ。なにしろ見えない世界なのだから・・・。
「吉原」に住んでいる人たちが、囲炉裏を囲んでの子供への昔語りに―「このあたりで一番高い山に高天原から祖先が降りてきたのだよ。」―ということであるに違いない。吉原に肝付姓の人々が住んでいるが、おそらく高山の肝付氏が島津氏の軍門に下った(天正2年=1572)あと、多くの家臣が高山から末吉に移住(改易)させられているが、その中にいた肝付氏一族の誰かがこの山中に居を移したのかも知れない。
あるいは高山一郷をいったんは安堵された肝付氏本宗は天正8年(1580)に薩摩半島の阿多に改易されたが、一族のうち誰かがひそかに逃れてここに入植したということかも知れない。島津氏は負け組には厳しく、最終的に根絶やしにする傾向が強いからである。
「葦原中つ国」にちなんでわが山中の小宇宙を「葦原」と呼び、「あしはら」では「悪し原」となって語呂が悪いので 「吉原」に改称したのではないか。
吉原から再び県道に戻り、さっきとは逆に北上する。途中スタンドでガソリンを満たし、そこから約3キロほど行くと「中岳ダム入り口」があるから左折する。
中岳ダムは畑への潅漑用ダムで、上流から流れ込む水量では不足するため、ポンプアップしているそうである。大淀川の源流地帯とはいえ周囲の山は500㍍に満たない山ばかりなのだから、もともとダムを満杯にするような計画は立たなかったのだろう。
地元の人が近くを通ったので「最高峰は橘岳と呼んでいるんですか?」と聞くが、「さあ、中岳ダムやっで、中岳じゃろかい。」と何だか頼りない返事。『三国名勝図会』では「橘嶽」とあるが、その名称は地元では通用していないようだ。
中岳ダムのサイトを過ぎて2キロほど行くと道はもう下りになる。途中左手に見えた高い峰がこの山塊の最高峰(452㍍)だろうか。
下り切る少し手前に広がる「田代谷」(たしろだに=地元ではタシトダン)。すぐ下の農家はニワトリの放し飼いをし、またポニー馬を三頭ばかり飼っており、ブルーのビニールフェンスの内側を飛び跳ねていた。
檍小学校のすぐ横に下りて来て、幅5mほどの大淀川を渡り、もとの集合場所メセナ温泉に
向かった。途中、温泉の200㍍手前に鎮座する「住吉神社」に立ち寄った。鳥居周辺のソメイヨシノがもう少しで一分咲きというところであった。
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コメント
由来は分からないのですが、 本家と分家は家紋が少し違うのかな…と思います。
投稿: hanaori | 2014年3月24日 (月) 13時49分