宇喜多秀家潜居跡整備記念講演会(垂水市松ヶ崎)
慶長5年(1600)9月、天下分け目の関ヶ原の戦いは西軍に属すると見えていた小早川秀秋の離反により西軍の総崩れとなり、わずか半日で勝敗が決まった。
その時に有名な薩摩島津氏の「退き口」が敢行され、島津義弘主従は堂々と敵中を突破して大坂堺に落ち延び、そこから船で日向細島港に到り鹿児島へ帰還したのだが、1500の手勢のうち戻ったのは30数名という完敗を喫している。
島津氏はすぐに領内を守るべく、態勢を整え東軍の訴追に備えた。翌年になって岡山城主で豊臣五大老のひとり宇喜多秀家主従が島津氏を頼って下向して来たのであるが、なにしろ西軍の副大将であった秀家であるから島津氏以上に東軍の詮議はやかましい。
まかり間違えば賊将を匿ったとして島津氏への懲罰は相当なものになるはずで、苦慮した島津義弘は大隅半島垂水牛根に本拠を持つかっての平家の落人でもあった平野家に預かってもらうことにした。
時代は違うが、同じ落人ということで平野家では歓待し、牛根山中にあった本宅(上屋敷)を秀家主従の住まいとし、自分たちは海岸べりの下屋敷に移り住むことにして、秀家をかばったのであった。牛根に住むこと2年3ヶ月、義弘の子・忠恒(のちに家久=江戸期島津氏第1代藩主)のとりなしにより、家康は罪一等を減じて秀家を遠島とし八丈島に流した。
秀家主従が去ったあと、平野家では旧暦11月の初申の日に祭祀を行うようになり、それは連綿と今日まで継続されているという。
このことに感激した岡山市ではこちらの松ヶ崎郷土史研究会との交流を開始した。今日はその関係者も含めて100人ほどが松ヶ崎公民館に集まり、記念式典が催されたのである。そのなかで志學館大学教授で県立図書館館長をも務める原口泉氏が講演を行った。
講演を聞く前にまずは整備されたという宇喜多秀家潜居跡を見学。
旧国鉄大隅線の高架の下に案内板がありここから向うに上って行く。
約150㍍ほど行くと分岐を示す看板が立つ。左手の「七人塚」の方へ。
きれいな歩道をに覆いかぶさるように巨大なヤマモモの木が度肝を抜く。これを左の方へ回り込むと、今度はこれも巨大なアコウの木が・・・。
この木の立つ所が「七人塚」である。どこの七人をここに埋葬したかというと、七人は平家の落人平野氏を狙ってやって来た源氏方の刺客で、平野家の剣の達人によってすべて斬られたのだという。
もとの歩道に引き返し、さらに200㍍で秀家公潜居跡。説明板によると秀家と従者の住む茅葺の家の下には牛根郷の郷士の家々もあり、防衛体制は十分だったようである。
最初の看板のあった旧国鉄大隅線の高架の上にあがるとカラー舗装が南の山の手へ延びているのがよく分かる。潜居跡は正面向うの小高い岡の下あたりだ。
高架から北側、海の方を眺めると、平野川の清流に架かる橋の右手に瓦葺の二階建てが大木の向こうに見える。あれが平野家の下屋敷で、そこには平野家36代という当主が今でも住んでいらしゃる(当主は後出)。
国道沿いの平野屋敷から2キロ半ほど西に行った所にある会場の「
松ヶ崎地区公民館」。
11時から始まるという原口教授の講演はやや遅れ、その前に平野家現当主が表彰を受け、挨拶に立った。
第36代平野家当主。
大河ドラマなどの鹿児島を舞台にしたテレビドラマで時代考証に引っ張り凧なのがこの先生。
天正年間から慶長年間までおよそ30年の濃密な歴史の動きに薩摩がいかに関わりをもったか、今年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」を縦横無尽に語りながらの熱弁はたしかに聴く者を惹きつける。
「今年のドラマこそは島津義弘をと期待したのですが、福岡に取られてしまいましたね。島津は対外的な戦いには意外と勝っていないのです。それに比べると黒田官兵衛は生涯50回ほどの戦いのほとんどに勝利していますから、仕方がないのかもしれません」
と自嘲気味に言っていたのが記憶に残った。
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