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大隅史談会6月例会

 大隅史談会では今年度から月例会を開催し、史論集『大隅』上に書くだけではなく、大隅全域の歴史的な風土・事象・論点を語り合って行くことを決めた。これにより、本来の史談(歴史談義)が活発化し、大隅の歴史の再認識がなされ、かつ興味ある人々を迎え入れるがためである。

 その第一回(5月例会)は記念として、鹿児島古代史、特に隼人史の権威である鹿児島国際大学前大学院教授で現講師の文学博士・中村明蔵先生をお招きし、大隅古代史を絡めて話をしていただいた。(記念講演の様子は当会のホームページ「鴨着く島おおすみ」で)

6月例会は22日(日)に5月例会と同じ会場で開催したが、久々にというか珍しくというべきか、『大隅57号』(4月発行)に掲載の執筆者二名の同じテーマをめぐる討論となった。

 そのテーマとは「鹿屋市永野田町にある国司塚には誰が祀られているのか?」というもので、塚の近くの永田家(元衆議院議員・永田良吉の実家)が1200年とも1300年とも言われる長い間、ひっそりと同家だけで祭りを続けてきた対象の「塚」の被葬者をめぐる歴史論議であった。

 会長の私(松下)が国司塚の場所など基本的なことを写真を大画面に映しながら説明し、この塚の主を、「定説の大隅国初代国司・陽侯史麻呂(やこのふひと・まろ)は有り得ない。地元大隅(鹿屋・肝属)の大首長だった肝衝難波(きもつき・なにわ)とするのが至当である」と独自の解釈を発表。Cimg9097国司塚の祭祀の形。塚と呼ばれる円墳も外周の柵もない空間に、紙の幣を54本と別に丈の高い2本を素の地面に刺しただけのシンプル極まりない祭祀状況である。

 律令政府の意向で、大隅国が日向国から分離して設置された713年4月には大規模な叛乱が発生しているが、政府軍への地元豪族の抵抗は大きかったようで、同じ年の7月に「隼人を討った政府軍の将兵1280余人へ勲功を授けた」とある。

 この際に、地元大首長の肝衝難波は政府軍に追われ、鹿屋中心部にあった「国司城」から逃れて永野田の「国司山」まで来て絶命したのだろう。それを祀ったのが、難波一族であったと思われる永田家だったに違いない。

 政府軍に反抗した以上、敗れた難波やその一族は「朝敵・賊軍の首謀者」であり、墓を造ろうにも造れず、このような塚(墓)とはとても思えないただの広場のような場所でひそかに祀るほかなかったのだろう。

 もしこれが、政府軍側(勝者)の指導者・大隅国司・陽侯史麻呂の塚(墓)であったのなら、堂々と塚を築き、石碑か建屋をその墓の前に作ったはずである。遺骨などは大宰府経由で平城京へ送られ、遺族の元に返されたとしても、大隅国府の管理地として立派な社殿(神社名を付けるとしたら国司大明神か)さえ建立されてもおかしくない。なぜ人目を避けるようにひっそりと祀る必要があるのだろうか、しかも1300年も。

 これに対して「間違いなく大隅初代国司・陽侯史麻呂だ」と主張するS氏。Cimg9100

 陽侯史麻呂が鹿屋に巡検した時に地元の隼人に襲われ恨みを呑んで死んだからこそ、長い間祀っているのであって、遺骨は都へ送られてここには無いにしても、恨みの念はこの地に残り続けるのでそれを慰霊するために地元民が祀るのである。そのことは自分がここで育ってそう教えられてきたのであり、実際にここで遊んで小便を垂れたら珍子が腫れてしまった従兄弟や、女人禁制なのに入った女性二人が寝込んでしまったという祟りの実見もあり、絶対譲るわけには行かない―とやや、感情的に走った解釈であった。

 幼少のころから聞かされてきたことは、心の琴線に触れているので、否定されれば「自己否定されたような気がする」のは分かるが、それはそれとして、歴史を学ぶのであればそこはぐっとこらえて相手の意見に耳を傾ける余裕が欲しいものである。

 仮に国司・陽侯史麻呂も肝衝難波もどちらも同じ戦乱で死んだとして、国を奪いに来た政府側の指導者と、地元で営々と自分なりに統治してきた国を奪われた肝衝難波とではどちらが恨み深いだろうか? 当然、国を奪われた方であろう。

 ここで思うことは、地元の人間が地元の大首長・肝衝難波のことを知らないか、知っていてもさして興味を持たない不思議である。(僕は地元の人間ではないので余計に首をかしげる。)地元における古代前史(奈良朝以前)への理解はここでぱったりと止まってしまうのである。

 肝衝難波の出自などを考えて行くと実に面白いのだが、「大和王朝に楯突いてコテンパンにされた豪族だ。バカなことをしたものだ。雲散霧消したのだろう。」などと解釈すると、大隅半島の古代史以前は見えなくなってしまう。

 同じことは古墳についても言える。「前方後円墳は大和王権との密接なつながりを示す」まではいいが、「大和王権のお墨付きを得て造成した」となると、ここでまた地元における古墳時代史への理解は実に薄っぺらなものとなってしまうのである。

※来月の7月例会は ①「クマソへの旅」武田 ②「邪馬台国・投馬国・狗奴国」松下の二本立てです。

   7月27日(日) 13:30~16:30 

   会場は5,6月と同じ「県民健康プラザ鹿屋健康増進センター」

   500円(資料代他)

  

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