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インカ帝国と日本人

 4時から5時頃にかけて放映されていたBS103では、「世界遺産ミステリー」というテーマで世界遺産に登録された史跡などの不思議を追いかけていた。

 今日見たのは「エジプトのピラミッドは王の墓か」という考古学者の吉村作治・元早稲田大学教授の現地取材ものと「インカ帝国の創始者は日本人か」というものだった。

 初めのピラミッドに関しては、「ピラミッドは来世(死後)の世界を表現し、神々との交流のための施設」というもので、ミイラという肉体から魂が分離され、その魂が鎮まる場所であったことが明らかになった。

 ピラミッドの中をいくら探してもミイラという墓の主が見つからなかったことから「墓ではなく宗教施設」というのが以前から言われており、今回のはそのダメ押し的放映であった。

 スフィンクスを手前に置いてずうっと伸びて行く参道の先に大ピラミッドがある。そのピラミッドには手前に付属施設があったのだが、今は小山のようなピラミッドだけが残っている。

 この姿を<スフィンクス=狛犬><ピラミッド=本殿>と見立てて日本の神社建築になぞらえ、エジプトから2千年という時間をかけて日本にたどり着いた時、日本人はピラミッドに替えて祖先を崇拝する施設を造った、それが神社だ―と吉村作治はコメントしていた。

 しかし日本の神社建築は仏教が導入されてからその伽藍様式を模倣したと言われており、ピラミッドではないだろう。むしろピラミッドに匹敵するのは「神奈備山」で、奈良の三輪明神を例にとると神の宿るのは神社本殿ではなく、後方に聳える「三輪山」であり、山そのものがご神体であるという点で小山のようなピラミッドとはよく似ている。

 しかしその相似的なつながりに歴史的蓋然性はないだろう。

 ところが次の「インカ帝国は日本人が作ったのか」には歴史的必然性が感じられる。Cimg9183 日本に駐在大使として住んだことのある「フランシスコ・ロワイサ」という人物が書いた本で、どういうわけか、ペルーの図書館では一般人が読めないような所蔵庫に隔離してあった。

 確かに南米のインディオたちは日本人に似ている。Cimg9177純粋な高地ペルーのインディオ女性。日本のどこにでもいそうである。

 こういった外見もその一つだが、向こうの伝承に「ペルーのインカ帝国を築いたのは日本人」というのがあり、それもインカ帝国の王族の末裔という人が言っているのは注目に値する。Cimg9166 インカ皇帝の子孫。この人は現代日本人で言うなら奄美・沖縄系の風貌をしている。Cimg9175 インカ帝国初代皇帝・マンコ・カパック夫婦はチチカカ湖に降臨したという。この「チチカカ」が「チチ=父」「カカ=母」の意味だというから驚きである。Cimg9219 とある村の百歳の老婆の語る伝承では、マンコ・カパックは太平洋の彼方からやって来たそうだ。

 高地クスコからだいぶ南の海岸近くにある遺跡では20体のミイラが発見され、遺伝子調査をしたら東アジアの系統とそっくりであることが判明している。

 また、ペルーより北にあるエクアドルの海岸部で発見された土器類が南九州で5千年以上前に盛行した「曽畑式土器」とよく似たものであることが分かっている。

 どうやらルーツは南九州のようだ。南九州とくに鹿児島に多い「成人T細胞白血病」と同じものを起こす遺伝子も向こうには多いという。

 約7千年前に鹿児島の離島「硫黄島」を含む一帯で、人類有史以降最大規模のカルデラの噴出があり、それは高度に進んでいた南九州早期文明を壊滅させたのだが、宮崎方面に逃れた縄文人で、さらに海を渡って移住したものがあり、四国南部や本州へ船出したはいいが天候の影響で流されて南太平洋を南米にまで漂流し、漂着した一団があったのだろう。それがまずエクアドルの海岸部に根付き、その後次第にペルー方面へ南下したに違いない。

 インカ帝国の時代はそれよりずっとあとの12世紀から16世紀であったから、5,6千年前に移住した南九州人ではなく、鎌倉時代に入るか入らないかの時代ということであれば、源平の争乱により押し出された一群の人間であったのかもしれない。

 頼朝の追討を受けて奥州平泉で戦死した義経は、そこでは死なずに大陸に逃れ、モンゴルの皇帝チンギスハンになった、という伝承があるが、それの南米版か。海と言えば同じ頃、沖縄の琉球王朝の始祖と言われた「舜天王」も、実は本土から逃れた鎮西八郎為朝のことだ―という説もあるくらいだから、あながち否定はできないだろう。













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対馬丸遭難70周年

 6月27日は朝からえらい雨。

 特にひどかったのが午前11時頃から12時頃までの1時間で、家のどこにいても雨脚の音が響いてくるほどだった。Cimg9130_2庭全体が水に覆われている。無人(?)の犬小屋の向こうの菜園は完全に水没している。Cimg9136昼前のNHKの天気情報を見たら、なるほど、11:30の時点でわが鹿屋を含む大隅半島の半分くらいに大量の雨が降っている。

 これが梅雨末期の豪雨で、間もなく梅雨が明けるというサインならいいが、まだまだ梅雨の真最中なのだから、この先が思いやられる。

 続いて昼のニュースに入ったが、天皇・皇后の沖縄ご訪問(6月23日の慰霊の日)の一環で「対馬丸記念館」を訪問されたというニュースが流された。Cimg9128海底で見つかった対馬丸。

 終戦の一年前の8月22日、那覇港から本土に疎開する学童・引率者・父母を乗せた「対馬丸」(6千トン強)が、長﨑に向かう途中、鹿児島県のトカラ列島悪石島の沖でアメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没し、乗組員を含む1500名前後が犠牲になった。「前後」と曖昧なのは、最終的に乗り込んだ乗客の総数が不詳ということだそうである。

 まあ、それにしてもアメリカの非戦闘員への攻撃には腹が立つ。いくら軍の徴用船とはいえ、軍艦ではない船を撃沈までする必要はないだろう。本土空襲でも軍事施設は無論だが、学校にまで焼夷弾を落とし、畑に出ていたお百姓にさえ機銃掃射を行っている。ひどい奴らだ。戦時国際法違反だ。Cimg9140記念館近くの「小桜の塔」に献花をされる両陛下。

 「小桜の塔」は1954年に建立された対馬丸戦没児童を追悼する記念塔である。Cimg9144記念館内をご覧になる。Cimg9129亡くなった国民学校児童等の写真がずらり。ちょうど天皇(昭和8年生)と同じ世代の人々の遺品の数々が展示されている。

 この記念館は15年ほど前に悪石島の海底で見つかった対馬丸を引き上げる代わりに開設されたという(2004年)。800㍍という深さから引き上げるとなると費用がかかり過ぎるということだったらしい。遺族としては遺骨なりとも―という気持ちだったろうが・・・。

 それでも両陛下が足しげく沖縄への慰霊の訪問をされることで、遺族や関係者の大いなる慰めになっているに違いない。

 自分は5年前の冬に姪の結婚式で沖縄に行き、観光ルートで摩文仁の丘・ひめゆりの塔などの戦跡を巡り、最後に波之上宮を参拝しているが、すぐ近くにあるこの記念館も小桜の塔も見過ごしてしまった。

 今度、沖縄に行くことがあればぜひ訪問してみたい。(序でに沖縄そばの名店にももう一度!)
















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大隅史談会6月例会

 大隅史談会では今年度から月例会を開催し、史論集『大隅』上に書くだけではなく、大隅全域の歴史的な風土・事象・論点を語り合って行くことを決めた。これにより、本来の史談(歴史談義)が活発化し、大隅の歴史の再認識がなされ、かつ興味ある人々を迎え入れるがためである。

 その第一回(5月例会)は記念として、鹿児島古代史、特に隼人史の権威である鹿児島国際大学前大学院教授で現講師の文学博士・中村明蔵先生をお招きし、大隅古代史を絡めて話をしていただいた。(記念講演の様子は当会のホームページ「鴨着く島おおすみ」で)

6月例会は22日(日)に5月例会と同じ会場で開催したが、久々にというか珍しくというべきか、『大隅57号』(4月発行)に掲載の執筆者二名の同じテーマをめぐる討論となった。

 そのテーマとは「鹿屋市永野田町にある国司塚には誰が祀られているのか?」というもので、塚の近くの永田家(元衆議院議員・永田良吉の実家)が1200年とも1300年とも言われる長い間、ひっそりと同家だけで祭りを続けてきた対象の「塚」の被葬者をめぐる歴史論議であった。

 会長の私(松下)が国司塚の場所など基本的なことを写真を大画面に映しながら説明し、この塚の主を、「定説の大隅国初代国司・陽侯史麻呂(やこのふひと・まろ)は有り得ない。地元大隅(鹿屋・肝属)の大首長だった肝衝難波(きもつき・なにわ)とするのが至当である」と独自の解釈を発表。Cimg9097国司塚の祭祀の形。塚と呼ばれる円墳も外周の柵もない空間に、紙の幣を54本と別に丈の高い2本を素の地面に刺しただけのシンプル極まりない祭祀状況である。

 律令政府の意向で、大隅国が日向国から分離して設置された713年4月には大規模な叛乱が発生しているが、政府軍への地元豪族の抵抗は大きかったようで、同じ年の7月に「隼人を討った政府軍の将兵1280余人へ勲功を授けた」とある。

 この際に、地元大首長の肝衝難波は政府軍に追われ、鹿屋中心部にあった「国司城」から逃れて永野田の「国司山」まで来て絶命したのだろう。それを祀ったのが、難波一族であったと思われる永田家だったに違いない。

 政府軍に反抗した以上、敗れた難波やその一族は「朝敵・賊軍の首謀者」であり、墓を造ろうにも造れず、このような塚(墓)とはとても思えないただの広場のような場所でひそかに祀るほかなかったのだろう。

 もしこれが、政府軍側(勝者)の指導者・大隅国司・陽侯史麻呂の塚(墓)であったのなら、堂々と塚を築き、石碑か建屋をその墓の前に作ったはずである。遺骨などは大宰府経由で平城京へ送られ、遺族の元に返されたとしても、大隅国府の管理地として立派な社殿(神社名を付けるとしたら国司大明神か)さえ建立されてもおかしくない。なぜ人目を避けるようにひっそりと祀る必要があるのだろうか、しかも1300年も。

 これに対して「間違いなく大隅初代国司・陽侯史麻呂だ」と主張するS氏。Cimg9100

 陽侯史麻呂が鹿屋に巡検した時に地元の隼人に襲われ恨みを呑んで死んだからこそ、長い間祀っているのであって、遺骨は都へ送られてここには無いにしても、恨みの念はこの地に残り続けるのでそれを慰霊するために地元民が祀るのである。そのことは自分がここで育ってそう教えられてきたのであり、実際にここで遊んで小便を垂れたら珍子が腫れてしまった従兄弟や、女人禁制なのに入った女性二人が寝込んでしまったという祟りの実見もあり、絶対譲るわけには行かない―とやや、感情的に走った解釈であった。

 幼少のころから聞かされてきたことは、心の琴線に触れているので、否定されれば「自己否定されたような気がする」のは分かるが、それはそれとして、歴史を学ぶのであればそこはぐっとこらえて相手の意見に耳を傾ける余裕が欲しいものである。

 仮に国司・陽侯史麻呂も肝衝難波もどちらも同じ戦乱で死んだとして、国を奪いに来た政府側の指導者と、地元で営々と自分なりに統治してきた国を奪われた肝衝難波とではどちらが恨み深いだろうか? 当然、国を奪われた方であろう。

 ここで思うことは、地元の人間が地元の大首長・肝衝難波のことを知らないか、知っていてもさして興味を持たない不思議である。(僕は地元の人間ではないので余計に首をかしげる。)地元における古代前史(奈良朝以前)への理解はここでぱったりと止まってしまうのである。

 肝衝難波の出自などを考えて行くと実に面白いのだが、「大和王朝に楯突いてコテンパンにされた豪族だ。バカなことをしたものだ。雲散霧消したのだろう。」などと解釈すると、大隅半島の古代史以前は見えなくなってしまう。

 同じことは古墳についても言える。「前方後円墳は大和王権との密接なつながりを示す」まではいいが、「大和王権のお墨付きを得て造成した」となると、ここでまた地元における古墳時代史への理解は実に薄っぺらなものとなってしまうのである。

※来月の7月例会は ①「クマソへの旅」武田 ②「邪馬台国・投馬国・狗奴国」松下の二本立てです。

   7月27日(日) 13:30~16:30 

   会場は5,6月と同じ「県民健康プラザ鹿屋健康増進センター」

   500円(資料代他)

  

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二種類の合歓の木

 今年の梅雨は本格的だ。梅雨入り宣言と同時に曇りまたは雨の日が続いた。

 半月前に「梅雨の晴れ間」があった時に、せっせと草むしりをしたのだが、その際に手の甲に貼っていた整形外科から処方された何とかテープ(サロンパスの医療用)と太陽光の紫外線が反応して、かぶれてしまった。

 根占のネッピー館の塩湯温泉が効くと思い2回通ったおかげか、皮膚科の処方がよかったのか、どうやら快方に向かっており、水脹れとかゆみはようやく収まった。

 しかしまだ右手の甲は火傷をした痕のようにケロイド状に黒ずんだままだ。それでも今日は晴れ間が見えたので庭に出て草取りをした、ばっちり手袋を嵌めて。

 うれしいことがあった。それは合歓の木が両方とも満開状態になっていたことである。Cimg9116これは大木となった山採りの合歓。Cimg9112淡いピンク色の上品かつ可憐な咲き具合だが、今年はいつもより花着きが悪いようだ。Cimg9108この春に園芸店でもとめたヒメ合歓。

 大木の野生合歓とは比べ物にならない小木なのに、咲いた花数はやたらに多く、しかも色あでやか。Cimg9114風に揺らぐ様子をしばらく眺めていたら、どこかからかモンシロチョウが止まりにやって来た。分かるのかねー。蜜があるのかねー。

 今は背丈が1メートル。来年が楽しみだ。





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卑弥呼が遷都した?(糸島と纏向)

 先ごろ放送されたNHK「ヒストリア」をビデオで観たが、以前から「邪馬台国は大和の纏向にあった」としていたNHKの歴史観に若干の変更というか、修正がなされた。

 「若干」と言ったが、見方によっては相当な修正である。

 というのは、『魏志倭人伝』を読んでいながら、「邪馬台国はもともと畿内大和にあった」としたい多くの考古学者の考えに同調してきたNHKも、さすがに九州北部の糸島市の豪華絢爛たる副葬品を持つ「三雲・井原王墓遺跡」やこれまで発見された中で最大級の内行花文鏡を5面も副葬した「平原王墓(一号墳)」を前に、

 ―これはもしかしたら、やはり糸島のような2世紀までの一大国家(これを倭人伝における伊都国としている)が、のちの3世紀に突如として形成される纏向遺跡につながると考えた方が正しいのではないか―

と、<大和王権遷移説>に軸足を置き始めたのだ。Cimg9027女優の鶴田真由を起用して、纏向と糸島を訪ねさせて番組を進行させていた。エピソード1から3までに分け、1では纏向について、2で、糸島の王墓群を、そして3で女王の後継者について紹介している。Cimg9046大和邪馬台国説を代表する現地考古学者も、卑弥呼の墓としている「箸墓古墳」の被葬者を九州から、あるいは吉備からの到来者という可能性があると言い始めている。

 これまではこのような大和邪馬台国論者は、「卑弥呼は大和で生まれ、大和を中心に倭人国家群を統制し、亡くなってから箸墓古墳に埋葬された」と言って来たのである。つまり「箸墓」という証拠があり、纏向では日本列島各地の土器が発掘される、というものであった。Cimg9037さらにNHKを含む多くの報道機関は纏向で巨大な「宮殿状の建物」の柱穴が確認されたことで、これを3世紀最大(72坪)とし、「卑弥呼の王宮ではないか」と言って来た。しかし規模だけなら4000年前の三内丸山遺跡(青森県)にもあったし、富山県の縄文後期の桜町遺跡では1メートル級の柱穴を持つ建物があったことが分かっている。それから考えると3世紀ならば決して最大とは言えない代物で、各地では見つかっていないだけの話で、纏向のように丹念かつ密度の高い発掘が行われれば、どこにでもそれらしいものは見つかるだろう。「卑弥呼の宮殿」などという文言はやめて欲しいものだ。Cimg9048エピソード2では、糸島市が紹介された。タイトル自体がすでに予見を含んでいて、視聴者を引っ張り込もうとしている。Cimg9054伊都国歴史博物館。糸島市は旧前原町と旧糸島町とが合併して誕生した。前原町の方が人口も経済力も大きかったのだが、「伊都国」を継承しているとの意味合いで糸島市としたらしい。

 さて、この博物館の基になったのが「糸島高校郷土博物館」で、地元の奇才「原田大六」が中心になって数々の考古学的成果がもたらされ、今日の立派な歴史博物館を見ることになった。

 原田の最大の功績は「平原古墳」の発掘であった。その結果は著書『実在した神話ー発掘された平原弥生古墳』にまとめられた。Cimg9063平原古墳は実は2世紀のもので、考古学的に言う古墳は3世紀以降のものであるから、平原古墳という表現は正確ではない。しかし原田自身が「平原弥生古墳」と著書にもうたっている如く、ここの墳墓こそ古墳時代の幕開けのもので、大和の古墳と比べても副葬品に遜色はなく、かつ大和より古いのだという思念を込めている。Cimg9067径20m程度の、大和ではとても古墳とは言えないような小さな墓から、40面の鏡、しかもそのうちの5面は径が46.5センチというとてつもない大きさで、この現物を前にしたらどんな考古学者も「ここには大和とは違う王権があった」と認めざるを得まい。

 このほかに装身具類が数々見つかっているので、ここの被葬者は女王であろうというのが定説である。

 Cimg9075_2この女王こそ卑弥呼だろう―とするのが今回のヒストリアのテーマである。

 ここ糸島の平原王墓の造られた華やかなりし時代と、卑弥呼が大和で死んだ247~8年との開きは約50年で、「卑弥呼は糸島(伊都国)が栄華を誇った時代にこの地に生まれ、その後大和に移り、大和で死んだ。そして箸墓に葬られた」―と解釈したいようなのである。Cimg9073糸島を研究してきた考古学者の一人が「糸島(伊都国)で行われてきた考古学的な習俗(風習)がヤマト(纏向)で突然出現する」と平原王墓の前で述べていた。上の考えのダメ押しである。Cimg9080エピソード3では、原田大六が平原弥生古墳を調査研究して見出した「女王の遺体は糸島(旧前原町)の東にある日向峠に向かって足を向けて横たわっているが、これは冬至の太陽の昇る方向であり、生命再生の意味を持つ」(要旨)を踏まえて、次のように解釈していた。

―埋納されたたくさんの大鏡に太陽の光を反射させ、遺体の横に寝かされた新たな巫女に降り注ぐことで後継者としての霊力を移したのだろう。

と。

 まあ、よく作られた放送だが、あくまでも推理である。

 まず第一に糸島市は「伊都国」ではないのだから、話にならない。

 原田大六も糸島を伊都国とし、邪馬台国は大和とする説だが、彼の場合は卑弥呼を日本書紀に登場する孝霊天皇の皇女「ヤマトトトヒモモソヒメ」と考え、後継者の台与を「ヤマトトトヒメ」と比定しており、自分の発掘した平原王墓に眠る女王を卑弥呼というような勇み足は考えてはいない。年代が違いすぎるからである。ここが「マイ邪馬台国」「マイ卑弥呼様」論者と違う点である。きちんと考古学的年代観を踏まえ、安易に自己の希望的感情に走らなかった科学者の面目が生きていた。

 私見では邪馬台国は九州島内にあり、その場所を八女市郡域とするが、その当時の糸島は「五十(イソ)国」であり、大和とは別の崇神(大倭)王権の発祥地であった。しかし半島における魏の南下政策に危惧を感じた崇神と子の垂仁一族は「大倭」を率いて、大和へ東征した。

 それが纏向の王権であり、一族の巫女頭であったヤマトトトヒモモソヒメは三輪山を信仰する土着勢力であるオオモノヌシとの<聖婚>に失敗して、「箸で陰(ほと)を衝いて」死んでしまう。その結果造られたのが「箸墓」であり、箸墓古墳は伝承通りヤマトトトヒモモソヒメでよい。もちろん卑弥呼でも何でもない人物である。

 ヤマトトヒモモソヒメがオオモノヌシとの<聖婚>に失敗したことと、皇女ヌナキイリヒメが「大和大国魂(やまとおおくにたま)」という大和の地霊を祭った時に「髪が抜け落ち、痩せてしまって祭ることができなかった」ということ。この二つの事績は、崇神一族が大和土着ではなく外来性の王権であったことを余すことなく語っている。(いずれも「崇神天皇紀」による。)

 糸島からの王権の移動ありとすれば、それは崇神の率いる「大倭」による王権の移動であり、これにより奈良に「大和」が誕生したのである。




 






















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満開のアジサイ(鹿屋市南町)

 今日は梅雨の晴れ間となった。南町の山下(やまげ)というところにグラウンドゴルフ場があり、そのあたりが見頃を迎えていた。Cimg9092
向かう途中の人家の垣根から顔をのぞかせるガクアジサイ。Cimg9090グラウンドゴルフ場の入り口や道路際にずらっと咲いていた。

 このグラウンドゴルフ場は大脇さんという個人が自分の所有する畑を転用したもので、以前に利用させてもらったことがあった。Cimg9088

今日は誰もいなかったが、たいていの日はプレーをしている。月に一回くらいは大会のような催しがあるらしい。(最近は来ていないので詳しくは分からないが)Cimg9086小ぶりだが花の部分は特大の一株。Cimg9091道路の向かい側になだらかに連なる「横尾山系」。

 左手のピークは愛宕山といい愛宕権現が祀られている。そのすぐ下から湧き出す沢水をこのグラウンドゴルフ場に引いているという。

 愛宕山の稜線の右手を下りきったところにほんのわずかに曲線のピークが見えるが、あれが「陣ノ尾」で、南北朝のころに砦が築かれた。山向こうの豪族・禰寝(ねじめ)氏の手になるという。

 ここ山下(やまげ)辺りは南北朝期から戦国期にかけて幾度かの決戦の舞台になった。有名な戦いでは、南朝方の大姶良城主だった肝付兼成(兼重の弟)がここで戦死している。地元の豪族・獅子目(志々女)氏の反抗で命を落としたという。

 同じ頃、兄の兼重も陣中にて没し、その後志布志の南朝方武将・楡井頼仲の一党が大姶良まで回復するも、禰寝勢などの攻勢によって3年後の1357年には頼仲も自害し、大隅地方での南北朝の戦乱は武家方の勝利に帰している。









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ノルマンジー上陸作戦決行70周年記念式典

 フランスで挙行された「ノルマンジー上陸作戦決行70周年式典」には、当時のドイツと戦って勝利した側の国々が集まった。(写真は今朝7時ののNHKニュースから。以下同じ)Cimg9000ノルマンジー上陸作戦はドイツによって占領されていたフランスを解放するための作戦で、対独戦争の掉尾を飾る大規模で華々しい戦いであった。これによってナチスドイツはフランスから掃討され、やがてナチスドイツを率いたヒットラーも自殺に追い込まれることになった。

 対ドイツ戦勝記念のような作戦であったからそれを祝う席にドイツの出席は無いだろうと思って見ていたら、何とメルケル首相の顔が見える。画面に向かってプーチン大統領の右隣りの人物のすぐ後ろである。 Cimg9014報道ではそんな不可解にはお構いなく、メルケル首相がプーチン大統領とメルケル首相の蔭になっているウクライナ大統領(ポロシェンコ)との<仲介役>を買って出ている風な様子をとらえていた。Cimg9005 カメラが少しずれて蔭になっていたポロシェンコ大統領の顔が見えたが、実に忌々しいというか不機嫌な顔をしている。仏頂面でおなじみのプーチンも真っ青だったろう。 Cimg9003_2ウクライナ問題で冷え切っていた米露両首脳が久々に「立ち話」をしたとかで、これを演出したフランスのオランド首相の外交手腕が持ち上げられていた。なるほどこれが首脳外交というやつか。

 ところがこれを上回るのが、ドイツの外交だ。対独戦勝利の最大の作戦が行われた式典に当の成敗された側のドイツ首脳が堂々と参列しているのである。

 その言い分はこうだろう。

―確かに70年前、ドイツは英米仏はじめソ連とも戦い敗れましたが、あの時の政権はナチスによる一党支配の非民主主義的ドイツでした。もともと望むべくして民主的に立ち上がった政権ではなく、ファシズムの流れの中で強権的に作られたのがナチスドイツですから、ナチスがいなくなって元の市民的なドイツに戻ったのです。

 したがいまして、私どもドイツ国民にとって、ノルマンジー作戦からの連合国軍の対ナチス戦争はわがドイツの「解放」戦争でもあったのです。ですから現代のドイツ国民を代表してドイツ国民がナチスからの解放を獲得したこの作戦の70周年記念式典に参列して祝うのです。

 こういうのを巧妙な(詭弁的な)外交戦略というのであり、日本人は逆立ちをしても真似ができないだろう。

 このようなドイツのやり方を見て日本人の多くは、「ドイツは偉い。ナチスの残滓を真剣に拭い去ったドイツに日本も見習うべきだ!」などと、思ったりするが、ドイツと日本の対英米戦争の意義が全く違っているということを見過ごしている。

 ドイツの対英米仏露戦争はいわゆる白人帝国主義者同士の角遂であるのにたいして、日本の対英米戦争は白人植民地主義とそれへのカウンターだったのである。前者にはユダヤ人問題とホロコースト問題が横たわってはいたが、基本的には「兄弟げんか」、後者は人種差別問題を根底とした「他人同士のけんか」であった。

 日本も来年(2015年)英米にこう言ったらいいのだ。

・・・今度、対日戦(太平洋戦争)勝利70周年式典が開かれたらぜひお招き下さい。日本は第一次大戦後のパリ講和会議の際に「人種差別撤廃法案」を提出しましたが、賛成多数でありながら英米に葬り去られたのです。その後、英米流の植民地主義とは違う形の台湾統治や日韓併合を行い、それなりの成果を上げてきましたが、結局、欧米の連合軍の前に敗れました。

 しかし戦後は各植民地が欧米の桎梏を離れどんどん独立を果たしました。

 この有色人種諸国の独立を祝おうではありませんか。日本は負けましたが、戦った結果多くの植民地は解放へと向かったのです。これを日本人は祝わずにいられないのです。お招きいただきましたら大変うれしく思います。

 安倍さんに注進してやりたい!











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高円宮家典子女王と千家国麿氏との婚約

 正直言ってまさかの婚約発表会見であった。

 高円宮典子さまは25歳、相手の千家国麿氏は40歳という年の差である。Cimg8948だが見た目では国麿氏は童顔で若く見える。逆に典子さまの方が年齢にしてはやや上に見える。しかも、トークは一枚上だ。(画像は今朝のTBS「関口宏サンデーモーニング」から。以下同じ)

「プロポーズの言葉は」という質問に、すかさず「ありませんでした・・・よね」と応じた典子さまの表情はむしろ晴れ晴れとしていたのが印象的だった。押しかけ女房的な気配さえするあっけらかんとした典子さまは現代っ子なのだろう。Cimg8949 千家(せんげ)家は「出雲国造家」であり、同時に代々出雲大社の宮司を務める家柄で、この国麿氏で85代目となる。出雲大社の祭神は大国主神で、天孫ニニギノミコトに「国譲り」をした国つ神のトップである。

 そういう家柄に嫁ぐことになり、一種の神代(神話)の再現ということで、この先、出雲詣でが激増し、かつ「神話ガール」が巷を闊歩するようになるかもしれない。Cimg8954 ところが祀っているのは国つ神の大国主神だが、千家家の祖先は天照大神の次男とされる「天穂日命(あめのほひのみこと)」という天つ神であるからややこしい。

 つまり大国主神に葦原中つ国の国譲りを迫って国譲りをさせたアマテラス側の一族(次男家)が国つ神・大国主神を祀っているのである。そのことは国譲りの際の条件であったという。

 国譲りのあとにいわゆる「天孫降臨」した皇室の始祖であるアマテラスの長男・天忍穂耳(アメノオシホミミ)の子ニニギノミコトの叔父に当たるのが天穂日命であり、したがって皇室の一員である高円宮典子さまと、婚約者の千家国麿氏は国譲り時代を始原とすればほぼ同祖と言ってよいわけである。Cimg8962 では国譲り時代とは具体的にはいつの頃なのか、千家国麿氏が男系で直系の85代目ということから逆算してみる。

 1代を25年としてみると2125年前、20年としてみると1700年前ということになり、おおむねこの範囲に収まると考えられるから、両家(皇室と千家家)が分かれた国譲り時代とは紀元前110年から紀元後314年のころに起こった史実であると言えるのではなかろうか。

 考古学的年代観で言えば弥生時代の中期後半から後期にかけて、ちょうど日本列島全体が米作りに邁進していた時代と重なり、列島が「豊葦原瑞穂の国」と名付けられておかしくない時代でもあった。各地に豪族がひしめき始めた時代でもある。

 この年譜は余りにアバウトであるので、もう少し詳しく見て行く。

 千家82代の尊統(たかむね)が著した『出雲大社』(学生社)という本があるが、その196ページに、「当時(文治2年=1186)の第48代国造孝房は神主職をもって祭祀を司るだけとなった。」とあり、48代目の時代は1186年を含んでいることが分かる。

 同じページには「元弘三年(1333)、後醍醐天皇は隠岐より伯耆の船上山に還幸し、鎌倉幕府討伐の軍を起こされた時は、53代の国造孝時は・・・」とあるので、文治2年(1186)から元弘3年(1333)までの147年間に足掛け6代が存在したことが分かる。したがって一代の期間は29.4年から24.5年の間で、平均をとると27年。

 この元弘3年(1333)から先々代(国麿氏の祖父)の第83代尊祀(たかとし)氏の死亡した2002年までは、足掛け31代で669年であるから、一代は21.3年から22.3年の間で、平均は21.8年。

 鎌倉期から南北朝時代の頃の出雲国造一代の就任期間の方が、後世の就任期間よりも3割近く長いのが不思議だが、これらを勘案すると、出雲国造家の一代は24年前後とみて大過無いようである。

 以上から、現在の85代国麿氏からさかのぼるほぼ2000年前に、建国神話に登場する「国譲り」に当たる出来事があった―と想像していいのかもしれない。舞台は九州北部と自分は考えているのだが・・・。

 実にいにしえを想い起し、考えさせてくれるビッグニュースであった。

 







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