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卑弥呼が遷都した?(糸島と纏向)

 先ごろ放送されたNHK「ヒストリア」をビデオで観たが、以前から「邪馬台国は大和の纏向にあった」としていたNHKの歴史観に若干の変更というか、修正がなされた。

 「若干」と言ったが、見方によっては相当な修正である。

 というのは、『魏志倭人伝』を読んでいながら、「邪馬台国はもともと畿内大和にあった」としたい多くの考古学者の考えに同調してきたNHKも、さすがに九州北部の糸島市の豪華絢爛たる副葬品を持つ「三雲・井原王墓遺跡」やこれまで発見された中で最大級の内行花文鏡を5面も副葬した「平原王墓(一号墳)」を前に、

 ―これはもしかしたら、やはり糸島のような2世紀までの一大国家(これを倭人伝における伊都国としている)が、のちの3世紀に突如として形成される纏向遺跡につながると考えた方が正しいのではないか―

と、<大和王権遷移説>に軸足を置き始めたのだ。Cimg9027女優の鶴田真由を起用して、纏向と糸島を訪ねさせて番組を進行させていた。エピソード1から3までに分け、1では纏向について、2で、糸島の王墓群を、そして3で女王の後継者について紹介している。Cimg9046大和邪馬台国説を代表する現地考古学者も、卑弥呼の墓としている「箸墓古墳」の被葬者を九州から、あるいは吉備からの到来者という可能性があると言い始めている。

 これまではこのような大和邪馬台国論者は、「卑弥呼は大和で生まれ、大和を中心に倭人国家群を統制し、亡くなってから箸墓古墳に埋葬された」と言って来たのである。つまり「箸墓」という証拠があり、纏向では日本列島各地の土器が発掘される、というものであった。Cimg9037さらにNHKを含む多くの報道機関は纏向で巨大な「宮殿状の建物」の柱穴が確認されたことで、これを3世紀最大(72坪)とし、「卑弥呼の王宮ではないか」と言って来た。しかし規模だけなら4000年前の三内丸山遺跡(青森県)にもあったし、富山県の縄文後期の桜町遺跡では1メートル級の柱穴を持つ建物があったことが分かっている。それから考えると3世紀ならば決して最大とは言えない代物で、各地では見つかっていないだけの話で、纏向のように丹念かつ密度の高い発掘が行われれば、どこにでもそれらしいものは見つかるだろう。「卑弥呼の宮殿」などという文言はやめて欲しいものだ。Cimg9048エピソード2では、糸島市が紹介された。タイトル自体がすでに予見を含んでいて、視聴者を引っ張り込もうとしている。Cimg9054伊都国歴史博物館。糸島市は旧前原町と旧糸島町とが合併して誕生した。前原町の方が人口も経済力も大きかったのだが、「伊都国」を継承しているとの意味合いで糸島市としたらしい。

 さて、この博物館の基になったのが「糸島高校郷土博物館」で、地元の奇才「原田大六」が中心になって数々の考古学的成果がもたらされ、今日の立派な歴史博物館を見ることになった。

 原田の最大の功績は「平原古墳」の発掘であった。その結果は著書『実在した神話ー発掘された平原弥生古墳』にまとめられた。Cimg9063平原古墳は実は2世紀のもので、考古学的に言う古墳は3世紀以降のものであるから、平原古墳という表現は正確ではない。しかし原田自身が「平原弥生古墳」と著書にもうたっている如く、ここの墳墓こそ古墳時代の幕開けのもので、大和の古墳と比べても副葬品に遜色はなく、かつ大和より古いのだという思念を込めている。Cimg9067径20m程度の、大和ではとても古墳とは言えないような小さな墓から、40面の鏡、しかもそのうちの5面は径が46.5センチというとてつもない大きさで、この現物を前にしたらどんな考古学者も「ここには大和とは違う王権があった」と認めざるを得まい。

 このほかに装身具類が数々見つかっているので、ここの被葬者は女王であろうというのが定説である。

 Cimg9075_2この女王こそ卑弥呼だろう―とするのが今回のヒストリアのテーマである。

 ここ糸島の平原王墓の造られた華やかなりし時代と、卑弥呼が大和で死んだ247~8年との開きは約50年で、「卑弥呼は糸島(伊都国)が栄華を誇った時代にこの地に生まれ、その後大和に移り、大和で死んだ。そして箸墓に葬られた」―と解釈したいようなのである。Cimg9073糸島を研究してきた考古学者の一人が「糸島(伊都国)で行われてきた考古学的な習俗(風習)がヤマト(纏向)で突然出現する」と平原王墓の前で述べていた。上の考えのダメ押しである。Cimg9080エピソード3では、原田大六が平原弥生古墳を調査研究して見出した「女王の遺体は糸島(旧前原町)の東にある日向峠に向かって足を向けて横たわっているが、これは冬至の太陽の昇る方向であり、生命再生の意味を持つ」(要旨)を踏まえて、次のように解釈していた。

―埋納されたたくさんの大鏡に太陽の光を反射させ、遺体の横に寝かされた新たな巫女に降り注ぐことで後継者としての霊力を移したのだろう。

と。

 まあ、よく作られた放送だが、あくまでも推理である。

 まず第一に糸島市は「伊都国」ではないのだから、話にならない。

 原田大六も糸島を伊都国とし、邪馬台国は大和とする説だが、彼の場合は卑弥呼を日本書紀に登場する孝霊天皇の皇女「ヤマトトトヒモモソヒメ」と考え、後継者の台与を「ヤマトトトヒメ」と比定しており、自分の発掘した平原王墓に眠る女王を卑弥呼というような勇み足は考えてはいない。年代が違いすぎるからである。ここが「マイ邪馬台国」「マイ卑弥呼様」論者と違う点である。きちんと考古学的年代観を踏まえ、安易に自己の希望的感情に走らなかった科学者の面目が生きていた。

 私見では邪馬台国は九州島内にあり、その場所を八女市郡域とするが、その当時の糸島は「五十(イソ)国」であり、大和とは別の崇神(大倭)王権の発祥地であった。しかし半島における魏の南下政策に危惧を感じた崇神と子の垂仁一族は「大倭」を率いて、大和へ東征した。

 それが纏向の王権であり、一族の巫女頭であったヤマトトトヒモモソヒメは三輪山を信仰する土着勢力であるオオモノヌシとの<聖婚>に失敗して、「箸で陰(ほと)を衝いて」死んでしまう。その結果造られたのが「箸墓」であり、箸墓古墳は伝承通りヤマトトトヒモモソヒメでよい。もちろん卑弥呼でも何でもない人物である。

 ヤマトトヒモモソヒメがオオモノヌシとの<聖婚>に失敗したことと、皇女ヌナキイリヒメが「大和大国魂(やまとおおくにたま)」という大和の地霊を祭った時に「髪が抜け落ち、痩せてしまって祭ることができなかった」ということ。この二つの事績は、崇神一族が大和土着ではなく外来性の王権であったことを余すことなく語っている。(いずれも「崇神天皇紀」による。)

 糸島からの王権の移動ありとすれば、それは崇神の率いる「大倭」による王権の移動であり、これにより奈良に「大和」が誕生したのである。




 






















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