高円宮家典子女王と千家国麿氏との婚約
正直言ってまさかの婚約発表会見であった。
高円宮典子さまは25歳、相手の千家国麿氏は40歳という年の差である。だが見た目では国麿氏は童顔で若く見える。逆に典子さまの方が年齢にしてはやや上に見える。しかも、トークは一枚上だ。(画像は今朝のTBS「関口宏サンデーモーニング」から。以下同じ)
「プロポーズの言葉は」という質問に、すかさず「ありませんでした・・・よね」と応じた典子さまの表情はむしろ晴れ晴れとしていたのが印象的だった。押しかけ女房的な気配さえするあっけらかんとした典子さまは現代っ子なのだろう。 千家(せんげ)家は「出雲国造家」であり、同時に代々出雲大社の宮司を務める家柄で、この国麿氏で85代目となる。出雲大社の祭神は大国主神で、天孫ニニギノミコトに「国譲り」をした国つ神のトップである。
そういう家柄に嫁ぐことになり、一種の神代(神話)の再現ということで、この先、出雲詣でが激増し、かつ「神話ガール」が巷を闊歩するようになるかもしれない。 ところが祀っているのは国つ神の大国主神だが、千家家の祖先は天照大神の次男とされる「天穂日命(あめのほひのみこと)」という天つ神であるからややこしい。
つまり大国主神に葦原中つ国の国譲りを迫って国譲りをさせたアマテラス側の一族(次男家)が国つ神・大国主神を祀っているのである。そのことは国譲りの際の条件であったという。
国譲りのあとにいわゆる「天孫降臨」した皇室の始祖であるアマテラスの長男・天忍穂耳(アメノオシホミミ)の子ニニギノミコトの叔父に当たるのが天穂日命であり、したがって皇室の一員である高円宮典子さまと、婚約者の千家国麿氏は国譲り時代を始原とすればほぼ同祖と言ってよいわけである。 では国譲り時代とは具体的にはいつの頃なのか、千家国麿氏が男系で直系の85代目ということから逆算してみる。
1代を25年としてみると2125年前、20年としてみると1700年前ということになり、おおむねこの範囲に収まると考えられるから、両家(皇室と千家家)が分かれた国譲り時代とは紀元前110年から紀元後314年のころに起こった史実であると言えるのではなかろうか。
考古学的年代観で言えば弥生時代の中期後半から後期にかけて、ちょうど日本列島全体が米作りに邁進していた時代と重なり、列島が「豊葦原瑞穂の国」と名付けられておかしくない時代でもあった。各地に豪族がひしめき始めた時代でもある。
この年譜は余りにアバウトであるので、もう少し詳しく見て行く。
千家82代の尊統(たかむね)が著した『出雲大社』(学生社)という本があるが、その196ページに、「当時(文治2年=1186)の第48代国造孝房は神主職をもって祭祀を司るだけとなった。」とあり、48代目の時代は1186年を含んでいることが分かる。
同じページには「元弘三年(1333)、後醍醐天皇は隠岐より伯耆の船上山に還幸し、鎌倉幕府討伐の軍を起こされた時は、53代の国造孝時は・・・」とあるので、文治2年(1186)から元弘3年(1333)までの147年間に足掛け6代が存在したことが分かる。したがって一代の期間は29.4年から24.5年の間で、平均をとると27年。
この元弘3年(1333)から先々代(国麿氏の祖父)の第83代尊祀(たかとし)氏の死亡した2002年までは、足掛け31代で669年であるから、一代は21.3年から22.3年の間で、平均は21.8年。
鎌倉期から南北朝時代の頃の出雲国造一代の就任期間の方が、後世の就任期間よりも3割近く長いのが不思議だが、これらを勘案すると、出雲国造家の一代は24年前後とみて大過無いようである。
以上から、現在の85代国麿氏からさかのぼるほぼ2000年前に、建国神話に登場する「国譲り」に当たる出来事があった―と想像していいのかもしれない。舞台は九州北部と自分は考えているのだが・・・。
実にいにしえを想い起し、考えさせてくれるビッグニュースであった。
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