『垂水史談会のあゆみ』を恵贈される
垂水史談会(会長・中島信夫氏)より、『―復活20周年―垂水史談会のあゆみ』という冊子を頂いた。
送り主は中島信夫・垂水史談会会長である。中島先生はわが大隅史談会の理事もされている。
中島先生が平成6年にそれまで約20年間途絶えていた「垂水史談会」を復活し、垂水に関する歴史の再認識を目指し、新たな会員を加えて再興したものである。
垂水史談会の歴史は古く、創立は昭和2年(1927年)までさかのぼる。発足当時の会員は10名ほどで、会員になるには地方の名士である必要があったようで、今日の姿とはだいぶ違うが、この時は7年後の昭和9年にはいったん会の活動は閉じられている。
戦後の昭和31年(1956年)、史談会は復活し、30名ほどで運営が始まった。42年(1967年)に戦後の初代会長・山口栄之氏が亡くなると、再び会は衰微しはじめるが、それまでに山口氏が収集した史料(古文書・系図・歴史書)などは垂水市史編纂の準拠とされ、さらに47年(1972年)には山口氏から史談会へ提供されていたそれら史料は氏の教育委員会へ一括して寄贈されることになった。名付けて「山口文庫」とされた。
しかし、昭和50年には再び会の活動は停止する。
時を経て平成5年(1993年)、史談会の会員であり、垂水市文化財審議委員でもあった中島先生は垂水の歴史的遺産の重要性に鑑み、再度の史談会活動の復活を目指した。そして翌平成6年に総会を開催し、垂水史談会は復活を果たした。
以後の20年は中島会長の指導の下、研究調査はもとより講演会・歴史研修会を年に数回開催しつつ、会報を発行して垂水の朝野に働きかけて来たのである。
御礼の電話を差し上げると、御歳に似合わぬ元気な声で話された。
「垂水は歴史遺産が多い町でその顕彰に努めて来たが、いまひとつ残念なのは平成9年だったか、市議会に対して歴史資料館を建設してほしい旨の請願を出し、受理されたのだが、いまだに建設の目途が立っていない」
そうで、何度も悔しさをにじませておられた。
上述のように昭和47年に史談会所有の垂水のみならず様々な古文書・記録・書籍などを市に寄贈してあり、歴史資料館さえできればそれらの史料類が安心して保管され、また活用されるに違いない。
ー陳情の結果、10年後には建設すると約束されたのにできないのはどうしてですか?
「いやあ、行政側にいろいろあってねえ。よそじゃ、トップのツルの一声で決まるところもあるというのに・・・」
残念至極のお声であった。
故・山口栄之氏収集の文書等の寄贈記録。第一回分として1083点が寄贈された。
神皇正統記・東関紀行・日本外史など貴重本が見える。
桜島噴火記・旧造士館回想録・垂水太平記など稀覯本もある。
こういった書籍資料のほかに古文書や家系図など散見され、史料として散逸しないよう、また研究に資するためにも歴史資料館は必要だ。
このことは鹿屋市についても言えることで、有形文化財を重んずる余り、せっかくの史料を持ちながら蔑ろにしているのである。
箱モノはこれ以上いらないというならば、箱モノを建設せずともやって行ける方策はないものか、情報最先端のアイテムを使えばわずか数センチの記憶媒体にすっぽり収まるやもしれぬ。このあたりのことを真剣に考えて行かなければなるまい。散逸してからでは遅かろう。
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