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1300年の祭祀に参列

 鹿屋市永野田町の永田家は衆議院議員で最後は鹿屋市長となり初の名誉市民になった永田良吉(1886年生~1971年没)の生家であるが、この永田家では特異な祭祀が1300年続いていると言われている。

 今日、11月14日は、例年斎行すると決められた「11月の中の丑の日」ということで本日午前祭祀が行われた。今年の1月の大隅史談会主催の歴史探訪で訪れた時に、祭主である現当主の永田良文氏からそう聞いており、10日ほど前に再度確認して参列させていただいた。Cimg1056 永田家から西に200㍍ほどのところにある「国司塚」。ここが祭祀の行われる場所である。舗装道路からの高低差はなく、拍子抜けするほどオープンな広場が展開している。左右からのコサン竹の群生が特徴的な空間だ。Cimg1054 10時少し前に到着すると、広場の奥の一叢の竹の群生の前で、祭主の永田さんと神主の田島さんが祭礼の準備に余念がなかった。

 田島宮司が担当するようになった30年ほど前までは、夜中に行う祭祀で、永田家から松明をともして御幣などを持参したらしい。その間始終無言で行うのが取り決めであったそうだ。Cimg1060 10時に祭式が始まった。神主の前の紙の御幣群は人の霊魂の依り代で、田島宮司が以前話してくれたところによると、金幣を18本、日本幣を36本立てるという。

 金幣は被祭者の名が分かっている場合で、日本(ひのもと)幣は被祭者の名が定かでない場合の依り代で、道路わきの教育委員会が立てた説明看板にあるような「大隅国初代国司・陽侯史麻呂が大隅隼人に襲撃されてここまで逃げて死んだゆえ国司塚と言い、祭祀で立てる幣のうち18本は騎馬武者云々・・・」というのとは違っている。

 『鹿屋市史・上巻』(昭和42年発行)にはそういう説明はない。初代国史が隼人に襲われて死んだ720年より前にここで「国守」が死んだように書いてある。したがって鹿屋市史説を採用すれば、ここに祭られているのは初代陽侯史麻呂ではない。

 では、ここに祭られている「国司」とは誰か。

 今日行われた祭祀のタイトルでは「国守祭」としてあることから推理すると、この「国司塚」に祭られているのは「国守」で、大隅国が無理やり当時の政府から独立させられた時に「我こそは国守(国主)である」として抵抗した人物ではないかと思う。

 したがって当時の大隅に確実に存在した豪族「肝衝難波(きもつきなにわ)」と考えるのが順当だろう。永田家は明治以降の新平民ということであるが、王政復古の大号令により律令制の確立した大和王朝の古例に復活したにもかかわらず平民のままでいるのは反逆者の子孫だからではないか。(西郷さんが明治政府確立の最大の功労者であるにもかかわらず、死して靖国神社には祀られていない。それは西南戦争により明治政府に弓を引いたからであるが、そのことと似ている。)Cimg1064 祭文を詠み上げる田島宮司。

 18本プラス36本で54本の依り代幣は1300年前に亡くなった「国守」以降の代々の霊位、つまり先祖代々を祀るものだろう。1300年で54代というのは、一代平均が23、3年となり、これは理にかなった数字である。

 54本の幣の上に高々と一本だけ背の高い幣があるが、あれは昭和46年に亡くなった永田良吉の功績をたたえて特別にあのように祀っているという。これも理に適っている。良吉は功績も経歴も明々白々に知られているのだから。Cimg1065 参列者が玉ぐしを捧げたあと、お供えのお神酒で簡単な直会。Cimg1066 最後に幕末の勤王家某(名前を失念)の歌を唱えて式は終了した。40分ほどの祭礼であった。Cimg1062 昔からここは「女人禁制」とかで、祭式の間、家族と言えども女性は参列できないらしい。永田家の家族・親類の女性が4,5人、広場の外で見守っていた。



















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おおすみ祭礼と行事」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。
ブログは更新されていらっしゃいますでしょうか。
突然のご連絡、失礼いたします。

東京で映像ディレクターをしているものです。
隼人の乱の記述から古代史を調べているうちに、ここの記述にたどり着きました。

> したがって当時の大隅に確実に存在した豪族「肝衝難波(きもつきなにわ)」と考えるのが順当だろう。永田家は明治以降の新平民ということであるが、王政復古の大号令により律令制の確立した大和王朝の古例に復活したにもかかわらず平民のままでいるのは反逆者の子孫だからではないか。

このあたりの記述でお聞きしたいことがあるのですが、永田家は「新平民」であるというのは現当主の方からお聞きしたのでしょうか。
ナガスネヒコや饒速日を祖先とする氏族に似たような例が多いことから郷土史的な関心があり、お聞きいたしました。

ご連絡いただければ嬉しいです。
何卒、よろしくお願いいたします。

投稿: 池亀 | 2020年3月30日 (月) 01時03分

池亀さん、東京はついに緊急事態宣言下に入りましたが、大変なこととお察し申し上げます。

こちらでは4名の感染者ですが、県内在住者の感染者はなく、みな入込者の感染です。今のところ二次感染はなさそうです。
したがって小中高の休校はなく、新学期が始まっています。朝の犬の散歩のときに徒歩や自転車で通学する子供の姿を見るとうれしくなります。

さて、ご質問ですが、永田良吉代議士を祖父に持つ現当主永田良文さんがおっしゃっていますから間違いなく「新平民」だったはずです。

新平民とは「士族」ではなかった――という意味でそう言われたと思いますが、もし江戸時代以前からの武家の家柄であったら、明治10年の西南戦争では真っ先に西郷軍にはせ参じ、うっぷんを晴らしたかもしれません。

もっとも負け戦になってしまったため、さらに没落の運命をたどった可能性が高かったでしょうが・・・。

饒速日は物部氏が祖先として奉斎する神ですが、物部氏は御存じのように神仏戦争で聖徳・馬子連合に敗れ、各地に落ち延びました。

大隅の串良町と高山町には、物部守屋は殺されずにここへ落ち延び、その子孫が串良川沿いに十五社神社や月読神社を建立しつつ、最終的に南の高山川沿いに「四十九所神社」を建てて神主になって現在に至っているという「守屋伝説」があります。(神主家の姓を「守屋氏」といいます。)

大隅には「落人伝説」かなり残されており、この物部守屋伝説のほかには各地に平家の落人伝説、なかでも安徳天皇の伝承は興味をそそるところです。

永田家の場合は落ち延びたわけではなく、当地で政府軍に敗れてからずっと逼塞して生き延びてきた家系ということになります。

投稿: kamodoku | 2020年4月 9日 (木) 14時00分

(追記)
当ココログブログ「鴨着く島」は一昨年の8月からgooブログに場所を変えて継続しています。
ブログのタイトルは同じ「鴨着く島」です。

投稿: kamodoku | 2020年4月 9日 (木) 14時05分

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