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モグラ火山の噴出(鹿屋市池園町)

 昨日ウメと散歩に行ったとき、いつもの芝畑に点々と土の噴出が見られたので、今朝はデジカメを持ちウメを連れて出た。

 昨日まではたしか三つくらいだったのだが、今朝は何と倍になっている。Cimg1266 手前側に三つだったのが、畑のサイドに沿って南方向にどんどん噴出が伸びて行っている。Cimg1268 反対側から見ると、一番手前のは畑の法面に近く、そこを猪ではないと思う(たぶんいつも夕方ここに3頭のダックスフンド犬を連れてくるおばさんの犬だと思う)が、鼻面と足掻きでほじくり返した跡があった。

 その向こう側に点々と、桜島のような姿かたちの小山があるが、ちょうど1m位の間隔だから実に面白い。

 いま日本列島では小笠原諸島西ノ島のような遥かかなたの島嶼部を含め、桜島を筆頭に御嶽山・阿蘇山・口ノ永良部島・新燃岳・硫黄山(霧島)とやたらに火山活動が盛んだが、こんな火山は可愛らしい。

 可愛らしいと言ってもこれはモグラの地下活動(捕食か巣作りか)が盛んな証拠で、農地では基本的に嫌われる所行である。芝の場合はどうなんだろうか。

 直接的には芝自体への影響は微細だろうが、施肥や芝刈りで機械を入れた時に、張り巡らされたモグラトンネルによって陥没があっては困るだろう。

 そのことを知ってか知らずか、モグラはわざわざ畑の隅っこを選んでせっせとトンネルを掘りつづけたのだ。しかもこれまで見たことのないような一直線で・・・。

 モグラ頑張れと言いたいところだが、最後の噴出孔に犬の鼻面を突っ込まれたので、モグラの南下作戦もこのあたりで頓挫だろう。

 デジカメで何枚かを撮ったところで、撮影のために脱いだ手袋にウメが飛びついてきた。Cimg1274 ウメのジャンプ力は大したもので、体長の2倍は飛び上がる。Cimg1283 夏の間、散歩に出た折りには首に掛けたタオルが飛びつき対象だったが、寒くなってからはいつも滑り止め付きの黒い軍手がお目当てで、脱糞したあとにこの畑に来ると必ずこうして喰い付く。Cimg1286 まるでカミツキガメだな。口から離してもまた喰い付いてくるので、わざと手袋を肩の高さに持ってぐるぐる回りをするとウメも喰らい付こうとジャンプをして回る。

 これが結構いい運動で、はっ、はっと息をつきながら喜んで(?)飛び回る。そこを写そうと思ったが無理だった。第一、こっちの目が回ったから・・・。







 




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国分の三社と上野原縄文の森(霧島市探訪②)

 横綱の白鵬歓迎セレモニーを見たあと日当山温泉に入り、帰り道の途中、国分の隼人関係の三社を訪れた。

 国分で隼人関係の古社というと清水の止上神社が挙げられるが、あそこは南九州人が隼人と名付けられる前からの信仰(山神)に基づいたものが基層になっており、その里宮が隼人たちの霊を慰める「放生会」を斎行する神社として建立されたと聞く。ここは以前にも訪れている。近くに隼人塚もあった。

 それに比べると27日に訪れた三社は「隼人の乱で敗れ、切り刻まれた首領を埋めたところ」とされいて、より具体的で生々しい場所だそうである。

 その三社とは「枝宮神社」「小烏神社」「鎮守神社」である。

 日当山温泉から再び市街地方面に戻り、府中の向花から道を南へソニー国分工場の脇を通って行くと県道<日当山ー敷根線>に出、野口信号を南へ下って行く。この道は市役所の観光課の人が「用水路道」と言っていたが、たしかに用水路に沿っていて、少し行くと左手は広々とした田んぼ地帯が続くようになる。

 用水路のカーブに合わせて走ること300mくらいで右手に5階建てくらいのマンションが建ち、さらに保育園(名前を失念)が見えるのでその間を右折するとすぐに左手が「枝宮神社」だ。Cimg1205 枝宮神社入り口。境内の中に一般車両が止まっており、向こう側には何かの事業所がある。Cimg1203 枝宮神社(枝宮大明神)の社殿は朱塗りである。由来書きの看板はおおむね『三国名勝図会』の「枝之宮」に準じているが、名勝図会では「祭神不詳。昔、上小川の拍子橋でヤマトタケルが討ち取った大隅隼人の四肢をここに埋め祭ったので枝之宮と称した・・・」とあるが、この説明では討ち取った隼人を「大人弥五郎」としてある。

 大人・弥五郎といえば、大隅岩川八幡神社の祭礼に登場する。祭りの名称も「弥五郎どん祭り」として有名である。(弥五郎どんについては諸説があり、自分としては南九州の大首長のことであり、可能性としては「武内宿祢」を考えている。)

 名勝図会の説明でおかしいのはヤマトタケル時代にはまだ「大隅隼人」なる名称はなく、熊襲(熊曽)であろう。この「くまそ」が当時の南九州人の自称かどうか今は置くとして、ここに出てくる大人弥五郎が国分を中心に生活していた南九州人の首長を指していることに変わりはない。この弥五郎を熊襲「川上タケル」に置き換えれば、ヤマトタケル伝承に合致してくるのだが・・・。

 だが、史実としては720年(養老6年)に大規模な「隼人の反乱」があり、この史実を遡及させてヤマトタケル伝承と結び付けたことも考えられる。そうなると上述の止上神社の建立由来(隼人の慰霊)と同じということになるが、隼人の反乱は1年4ヶ月ほども続いたので、戦闘はあちこちで行われ、戦死者も広範囲に散らばって埋葬されたのかもしれない。

 枝宮神社を出てもとの用水路に戻り、さらに南下すること500mほどで右手に神社が見える。神社を挟んで道路の反対側の旧道には用水路が流れている。Cimg1207 右手の新道から神社の裏側を見る。(左手が旧道で、ガードレールの横を用水が流れている) ちょっとした古墳のたたずまいを感じながら、表側に回る。Cimg1209 この神社には由緒書き看板がなかったので、鹿児島県神社庁のホームページに書いてあることを載せておく。

「小烏神社。こがらすじんじゃ。霧島市国分松木1295.例祭日・旧11月第二酉の日。旧社格・村社。御祭神・木花咲耶姫命。由緒・創建年月不明。昭和63年12月改築。古来より鎮座まします御社にして、御祭神は大山津美神の御小女、天津日高彦穂ニニギ尊の御嫡后である。」

 小烏神社に隼人の四肢云々の伝承はなかったようである。こっちの勘違いか。

 しかしこの説明の御祭神には疑問が湧く。天孫降臨神話の上で、ニニギ尊が娶ったコノハナサクヤヒメとは「阿多の長屋」(加世田)で出会い、そこに宮を構えたはずである。また父はオオヤマツミであるから小烏神社の近くに父神が祀られるか、結構な高さの山があってもよさそうなのに、この神社は平野のど真ん中にあるのだ。

 小烏神社は鹿屋野里町にもあるが、祭神はヒコホホデミ。また福岡にもあり、そちらはカモタケツヌミを祀っている。その他西日本には10か所くらいの小烏神社があって、祭神が神武天皇もあれば海神(わたつみ)、八咫カラス・・・と同じものはないくらい渾然としている。

 私見では京都の下鴨神社と同じ「カモタケツヌミ」ではないかと考えている(『山城国風土記逸文』による)。

 真実探求はもう少し時間がかかるが、どの祭神も南九州由来という所が共通していると見て取れるではないか。そこがヒントになりそうだ。Cimg1206 神社の左手(東)は広大な国分平野で、快晴だったので北東に市街地を通して霧島連山がくっきりと姿を見せていた。こうしてみると地肌のままの火山の崇高なさまがよくわかる。人工の極致と天然自然の対比の妙であろう。Cimg1211 三社の最後は鎮守神社。国分西小学校のすぐ北にあり、思いのほか明るく立派な社地である。

 Cimg1212 当地では福島という在所名を頭に付けている。ここの由緒書きでは「川上タケルがヤマトタケルに討ち取られ、屍骸の一部に弓矢を副葬した場所」となっている。神話的には筋が通っている。また、名勝図会に記載の「八龍権現社」こそが鎮守神社の元宮ではないか―ともしてある。

 以上の三社のある「野口」「松木」「福島」はそれぞれ集落をなしており、広大な国分田んぼの西のヘリに連続して点在している。Cimg1231 これは明治35年測量、37年発行の五万分の一地図だが、左隅に沿って北から野口、松木、やや東南に福島、そして上小川とあたかも国分中心部を取り巻くかのように集落がある。用水路は野口の北の府中(向花)地区から流れ下っており、各集落があるのがおそらく天降川と手籠川の両河川が造り出した砂州地帯の微高地に違いない。

 元々の天降川も手籠川も共に今のような西ではなく、現国分中心市街地とこれら微高地に点在する集落の間を流れていたようである。

 したがって隼人時代と言われる7世紀後半以前、これら隼人遺称地は海浜に面した場所であったと思われる。上小川のさらに東には国分平野に突き出た半島のような「久満埼」があり、そこには久満埼神社があるが、まさに海に突き出た岬ではなかっただろうか。

 海の民・隼人にとって、隼人叛乱の最後の砦だったように思われる。

 Cimg1222 海の民・隼人と言う前は海の民・熊襲(鴨族)だったろうというのが私見で、その鴨族たちの海への軌跡が、上野原縄文の森展示館の中に大きなパネルで紹介されている。

 南九州からは直線距離にして1000㌔を超える交流・交易が縄文の昔からなされていたのである。Cimg1221 ここからはまた別のテーマとなり、長大な説明をしなければならなくなるのでこのブログはここで終わることにするが、とにかく中央集権的律令制国家となった奈良時代の初期(720年)に南九州人はそれに反発し叛乱を起こして敗れた。その時こそが「海の民・隼人の死」であった。

















 

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横綱・白鵬と日当山温泉(霧島市)

 昨日の夕方のNHKローカルニュースで、「横綱の白鵬が明日、霧島市を訪れ市民の歓迎を受ける」旨の報道があったので、今朝になって市役所に問い合わせたところ午前10時から市民広場で歓迎のセレモニーが行われる―とのことであった。

 ちょうど霧島市の史跡で見ておきたい所があったのと、ついでに「上野原縄文の森」も寄ってみたいと思い、8時過ぎに出かけた。

 霧島市まで我が家からは約60㌔、鹿屋市街地内を抜けて高隈まで上がると天気も良く快適なドライブとなった。途中二か所で国道がショートカットされて道幅も広くなり、予定より10分以上早く着いた。

 市庁舎の前の広場で待つこと20分、10時ちょうどに白鵬を乗せた中型バスが到着した。Cimg1180 市役所関係者がまず出迎え、花束を受け取ったあと居並ぶ市民の間をセレモニーの舞台へと向かう。Cimg1182 歓迎の列。1m90㎝はやはり大きい。Cimg1190 壇上では市長が白鵬を歓迎する理由を説明した。それによると白鵬は霧島市の親善大使に任命されており、九州場所のあとは必ず霧島市を表敬訪問することになっている。今度は特に白鵬が優勝回数32回を数え、師匠である大鵬親方に並んだことで、企画したのだそうである。Cimg1191 市長が興奮気味に長々と解説したあと、優勝32回達成を祝して万歳を三唱。Cimg1193 市長から振られてマイクを握る白鵬(隣りは霧島市白鵬後援会長)。

 九州場所を振り返り、また師匠への恩返しが間もなくできることへの喜びを吶々とした言葉で語った。

 セレモニーが終わらないうちに、市庁舎内にある図書館に行き、訪ねたい史跡の場所を聞いたが、詳しい地図がないとのことで観光課に行って地図を貰った。(史跡を訪れたことは②で書くことにする。)

 時間はたっぷりある。そこで、せっかく温泉都市霧島に来たのだからと日当山の温泉に向かった。Cimg1202 ずいぶん昔から来ている「しゅじゅどん温泉」。こじんまりとした銭湯だが、実は元来は地区民の共同風呂つまり組合員による運営だそうである。今日初めて知った。もちろん昔から一般人の入浴を拒むことはなかった。Cimg1201 10時半頃に入ったのだが、誰もおらず、貸切りであった。Cimg1197 鉄筋コンクリート造りの外観イメージよりかはすこぶる明るい湯殿内。Cimg1198 湯船は三つあって、手前の湯船には熱い温泉が滔々と流れ込んでおり、真ん中の湯船で少し温度が下がり、一番向うの浅い湯船(寝湯)で自分には程よい熱さになる。

 泉種はアルカリ泉で無色無臭、石鹸の泡立ちがよく、肌がすべすべするようになる。Cimg1199 真ん中の湯船の壁に貼られている「入浴心得」の、前書き「天地自然の憩の泉」が利いている。

 最後まで読んでみると後書きがまたふるっている。

「人体の構造は皆さんおんなじです。入浴心得のイロハを守り、皆さんに愛される侏儒どん湯にしましょう。」

 「人体の構造は皆さんおんなじです」とは面白い。不潔な箇所は皆同じということだろうか、思わず笑ってしまった。

























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総選挙、もう一つの焦点

 どの番組を見ても昨日(21日)の衆議院解散・総選挙の話題ばかり、解散権を行使した安倍首相の「解散の理由」をめぐって喧々諤々である。Cimg1136 (画像はTBSひるおび!から)

 総理自身は「消費税を10%にするのは予定であった来年10月よりも1年半あとの29年4月に延期したいので、これについての信を問う」というものだが、それはわざわざ解散してまで国民の是非を知りたい政策課題だろうか?

 そんなことは「世論調査」すればたちどころに分かろう。おそらく半数を超える人たちが「来年10月の10%上げに反対!」というに違いない。国民の多くは景気の良さ(収入のアップ)を実感していないからだ。

 総理はそれを見越して「反対が過半数に違いないから、消費税上げを延期すれば支持は確実に得られるので、自民党は圧勝だ」というような腹積もりなのかもしれない。

 自分としてはすぐにでも10%に上げて社会保障の一定の水準の維持を望むのだが、年金など関係ない世代にとっては消費税など低い方がいいに決まっている。

 改善した雇用環境と相俟って、若い世代の支持を期待しているようだが、投票率が下がっては元も子もない。たぶん低いだろうと思う。

 

 今日の「ウェ-クアップ!」では、そのことよりも沖縄県知事選で予想を大きく上回る得票を得て当選した翁長新知事を登場させていた。Cimg1154 翁長新知事の「沖縄県知事も那覇市長も名護市長も、すべて沖縄は、辺野古地区の海上基地建設を反対する民意を示している。」と意気軒高であった。Cimg1152 Cimg1153 しかしもし沖縄県が埋め立ての取り消しを決定しても、「政府が代執行をする」という手立てが控えている。

 裁判に持ち込んでも、「アメリカとの基地協定は外交懸案であり、地方自治体は最終的には政府側の意思を越えることはできない」との判断が下されるのがオチだ。Cimg1149 その根拠が「沖縄の米軍は対中国抑止力になっている」とはコメンテーターとして出演した3年前までアメリカ国務省で日本部長をやっていたというケビンという人物(画面向かって左)。

 これに対して翁長新知事は「抑止力と言ったって、中国が本気でミサイルを発射したら、数分で沖縄に到達する。米軍がそれほど抑止力になっているとは思えない」

 と、論理明解である。

 アメリカが軍事的には中国を仮想敵国としているのは確かだが、それなら尖閣諸島近辺をなぜ米海軍が巡回しないのか、それこそが目に見える抑止力ではないか。

 日本に対する中国共産党政府からの威圧的領海侵犯をたしなめようとしない米軍は、本当のところ対中国貿易のうまみ(別の見方からすれば弱み)の前で、中国を刺激することができないのだろう。

 そういえば先のAPEC(北京で開催)に出席したアメリカのケリー国務長官は「中国がアメリカにとって最も重要な二国間関係だ」と持ち上げていた。それこそが本音だ。

 なにしろ米中間の貿易額は日米間の3倍だそうである。

 だから仮想敵国とは言っても、とてもじゃないがアメリカは中国が何をしても手なんか出せるわけがない。口先では「尖閣諸島は日本の領土だということを支持する」と言っても、もし仮に中国が尖閣諸島のいずれかに上陸しても、「日本が対応すればいい」と突き放すに違いない。

 現に南沙諸島で中国が勝手に埋め立てて滑走路を作っているが、アメリカは友好国のフィリピンに何の加勢もしておらず、中国のするがままに任せているのを見ても分かる。

 そもそも1979年に中国が共産党政府であるにもかかわらず国交を樹立し、あまつさえ国連加盟後は台湾政府を追放し、国連の安全保障常任理事国に据えたのが間違いの基だったのである。

 アメリカは当時もっとも敵視していたソ連とこの中国との対立があることをいいことにして二国間の乖離を図り、国交を樹立したが、実は日中間の間にも割って入ることに成功した。それも大きな目的だったのである。

 当時の毛沢東を筆頭とする共産党執行部(革命第一世代)は国内の敵「国民党政府」と戦って蒋介石軍の戦力を削いでくれた日本に対しては、恩を感じこそすれ、決して昨今の中国のようにやれ「日本軍国主義の侵略」だの「南京大虐殺30万」だの、何かにつけて難癖をつけ貶めるようなことはしなかった。

 そう言い始めたのは革命第二世代の江沢民からである。おそらく対中国国交樹立の最大の立役者と言われるキッシンジャー国務長官(当時)あたりの入れ智恵だろう。

 その当時、日中間で行われていたLT貿易が発展して政府間協定でも樹立されたら、つまり日中が手を携えたらエライことになるからである。そのためにもアメリカは先手を打って国交樹立を急ぐ必要があった。

 中国共産党政府が生まれたのが1949年で今年は65周年だったが、前半の30年は革命第一世代の時代で、後半の30年が革命第二世代の時代だが、これから先の30年、どのような日中間・米中間になるのか、予断は許されない。

 今度の総選挙でこれを占うにはあまりに問題が大き過ぎるが、考えておく分には構わないだろう。

 投票日は12月14日。「赤穂浪士討ち入り選挙」にならなければよいが・・・。
 









 

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沖縄県知事選は辺野古への移設反対派が勝利

 沖縄県知事選は有名な「花~すべての人の心に花を~」を作曲した前参議院議員の喜納昌吉氏を含む4名が立候補して争われたが、前那覇市長で普天間基地の名護市辺野古への移設反対派の翁長雄志氏が前知事仲井真氏を破って当選した。Cimg1112 次点の仲井真氏に10万票もの大差をつけての当選で、総投票数の53パーセントを獲得している。(画像は今朝7時のNHKニュースから)

 仲井真前知事が安倍首相に直接会って、今後10年間は毎年3000億とかの振興資金を沖縄に貰う約束をしたにもかかわらず、沖縄県民は「金よりも基地負担の大幅な軽減」を選んだ-ということだろう。Cimg1117 新知事・翁長氏が言っているように「いったいいつまで沖縄にたくさんの米軍基地を置いておくのか、もう我慢ならん」というのが沖縄県民の声だろう。

 自民党政府は「普天間基地を辺野古に移設するのは前知事との確約で、覆すわけには行かない。粛々と事業を進めて行く。」という考えだが、現実に反対の新知事が生まれ、辺野古のある名護市の市長も反対なのである。

 これを強行突破するわけには行くまい。

 ところがもう一つ、政府側の見解で必ず出るのが日米同盟、つまり安全保障の面で辺野古に新しい基地が必要-という認識である。

 しかし辺野古に基地を作ったからといって格別に米軍が日本をより強力にサポートしましょうというわけではない。

 アメリカにとっては普天間基地を削る代わりに辺野古を確保するだけであり、要するに代替案に過ぎない。沖縄にとっても日本中の米軍基地の74パーセントが沖縄に集中して置かれている状況が変わらない以上、辺野古どころか他の沖縄県内のどこにも移設して欲しくないと考えるのは当然である。Cimg1134 翁長新知事の手腕で、米軍基地を一つでも沖縄から減らしてもらいたいものだ。

 太平洋戦争末期に日本領土内で唯一米軍が上陸して来て戦闘となり、多くの県民が犠牲になったのが沖縄である。

( 「沖縄県民かく戦えり、後世に特別の御高配有らんことを!」と、沖縄方面軍の司令官であった牛島満陸軍中将はそう本土の総司令部に打電したあと自決し、6月23日に沖縄戦は終了した。

 その献身的な戦時協力と犠牲への「特別な配慮」が大量の米軍基地設置だったことを知った牛島中将は、泉下で号泣しているに違いない。)

 ーお詫びー

 上記のカッコ内には誤謬がありました。

 まず、「沖縄県民・・・」を打電したのは、当時の海軍中将で沖縄根拠地軍司令官の大田實でした。また、打電した先は総司令部ではなく海軍省の次官あてでした。

 大田實海軍中将は牛島満陸軍中将の自決に先んじ、6月6日に短銃で自決をしているそうです。

 最後に書いた「牛島中将は」の部分は、「大田中将は」と変えるべきでしょうが、両将ともに同じ思いを共有していると考え、「大田中将はもとより陸軍司令官であった牛島中将も」とします。

          11月18日 ブログ「鴨着く島」管理人



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1300年の祭祀に参列

 鹿屋市永野田町の永田家は衆議院議員で最後は鹿屋市長となり初の名誉市民になった永田良吉(1886年生~1971年没)の生家であるが、この永田家では特異な祭祀が1300年続いていると言われている。

 今日、11月14日は、例年斎行すると決められた「11月の中の丑の日」ということで本日午前祭祀が行われた。今年の1月の大隅史談会主催の歴史探訪で訪れた時に、祭主である現当主の永田良文氏からそう聞いており、10日ほど前に再度確認して参列させていただいた。Cimg1056 永田家から西に200㍍ほどのところにある「国司塚」。ここが祭祀の行われる場所である。舗装道路からの高低差はなく、拍子抜けするほどオープンな広場が展開している。左右からのコサン竹の群生が特徴的な空間だ。Cimg1054 10時少し前に到着すると、広場の奥の一叢の竹の群生の前で、祭主の永田さんと神主の田島さんが祭礼の準備に余念がなかった。

 田島宮司が担当するようになった30年ほど前までは、夜中に行う祭祀で、永田家から松明をともして御幣などを持参したらしい。その間始終無言で行うのが取り決めであったそうだ。Cimg1060 10時に祭式が始まった。神主の前の紙の御幣群は人の霊魂の依り代で、田島宮司が以前話してくれたところによると、金幣を18本、日本幣を36本立てるという。

 金幣は被祭者の名が分かっている場合で、日本(ひのもと)幣は被祭者の名が定かでない場合の依り代で、道路わきの教育委員会が立てた説明看板にあるような「大隅国初代国司・陽侯史麻呂が大隅隼人に襲撃されてここまで逃げて死んだゆえ国司塚と言い、祭祀で立てる幣のうち18本は騎馬武者云々・・・」というのとは違っている。

 『鹿屋市史・上巻』(昭和42年発行)にはそういう説明はない。初代国史が隼人に襲われて死んだ720年より前にここで「国守」が死んだように書いてある。したがって鹿屋市史説を採用すれば、ここに祭られているのは初代陽侯史麻呂ではない。

 では、ここに祭られている「国司」とは誰か。

 今日行われた祭祀のタイトルでは「国守祭」としてあることから推理すると、この「国司塚」に祭られているのは「国守」で、大隅国が無理やり当時の政府から独立させられた時に「我こそは国守(国主)である」として抵抗した人物ではないかと思う。

 したがって当時の大隅に確実に存在した豪族「肝衝難波(きもつきなにわ)」と考えるのが順当だろう。永田家は明治以降の新平民ということであるが、王政復古の大号令により律令制の確立した大和王朝の古例に復活したにもかかわらず平民のままでいるのは反逆者の子孫だからではないか。(西郷さんが明治政府確立の最大の功労者であるにもかかわらず、死して靖国神社には祀られていない。それは西南戦争により明治政府に弓を引いたからであるが、そのことと似ている。)Cimg1064 祭文を詠み上げる田島宮司。

 18本プラス36本で54本の依り代幣は1300年前に亡くなった「国守」以降の代々の霊位、つまり先祖代々を祀るものだろう。1300年で54代というのは、一代平均が23、3年となり、これは理にかなった数字である。

 54本の幣の上に高々と一本だけ背の高い幣があるが、あれは昭和46年に亡くなった永田良吉の功績をたたえて特別にあのように祀っているという。これも理に適っている。良吉は功績も経歴も明々白々に知られているのだから。Cimg1065 参列者が玉ぐしを捧げたあと、お供えのお神酒で簡単な直会。Cimg1066 最後に幕末の勤王家某(名前を失念)の歌を唱えて式は終了した。40分ほどの祭礼であった。Cimg1062 昔からここは「女人禁制」とかで、祭式の間、家族と言えども女性は参列できないらしい。永田家の家族・親類の女性が4,5人、広場の外で見守っていた。



















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秋色深き道隆寺跡(肝付町高山)

 今月の大隅史談会の月例会にF氏が肝付町高山本城にあった「道隆寺」の話をすることになっているが、道隆寺跡の現状をスライドで説明をするというので、基になる写真を撮って来た。Cimg1048 柏尾山道隆寺は肝付町高山の中心部旧高山(現・肝付町)役場前の道路を道なりに南下し、前田地区から国見地区に入り、二番目の信号(道路案内看板には「国見トンネル」方面とある)を左折。ここまで約4キロ。

 信号を左折すると長い下り坂で、高山川が流れる低地に下りきると「本城橋」を渡り(上の写真。橋から眺めた道隆寺の所在地)、あと200㍍ほどで、右手に「道隆寺跡」という看板が見える。Cimg1014 この橋は「新村橋」で、この橋で高山川の支流・本城川を渡り、100㍍余り行くと右手前方にこんもりとした森が見える。そこが道隆寺跡である。Cimg1017 説明看板の後ろ側に森(寺跡)へと続く参道がある。Cimg1020 史跡案内の立柱の後ろにあるのは二体の仁王像だが、明治初期の廃仏の嵐の中でへし折られたままの姿をさらしている。道隆寺も同じ運命をたどり、跡形もなく毀損された。Cimg1023 入り口の傍のツワの花。「入口」と書いた標識の石組はかっての寺の石垣の一部である。Cimg1025 切通しの階段を上って行くと「門柱跡」とある。ここに当時の「山門」があったのだろう。おそらく「葷酒不許入山門」などという看板が脇に立っていたであろう。Cimg1045 切通しの山門を抜けると意外に広い境内に出る。正面の説明板には三国名勝図会に掲載された道隆寺の絵を掲げてある。

 『三国名勝図会』の説明によると・・・

 「柏尾山道隆寺 新留村にあり、志布志臨済宗大慈寺の末にて、開山・蘭渓道隆大覚禅師なり、本尊十一面観音、是を当邑五仏の一、南方の尊像と称す。

 禅師は宋国西蜀の人にして、霊地を巡り、此の地に来り、寛元四年(1246年)当寺を建立し、自作の観世音を安置し、その後相州鎌倉に至り、北条時頼の請によりて巨福山建長寺を創建せり。・・・」

 とあり、鎌倉五山第一の建長寺の開基となった名僧・蘭渓道隆が中国(宋)の蜀からはるばる日本へやって来て最初に開いた由緒のある寺がこの道隆寺であった。Cimg1034 この寺跡の所有者だったF氏は役場勤めのかたわら寺跡の埋められた石塔などの発掘に汗を流し、上や下の写真のように多くの石塔・五輪塔・住職はじめ修行僧たちの墓塔などを掘り出しては復元し、整備に努めてきた。Cimg1042 その数一体いくつあるのか、おそらく200や300は下らないだろう。

 それらを立て並べたあとにモミジや紫陽花、そしてツワの花などを植栽し、かつ観音像や東屋などを造立した。Cimg1037 観音菩薩像。Cimg1041 東屋と桜・モミジ。向うに見える黒御影の石碑はつい最近建てられた歌碑である。Cimg1039 四名の方の歌と真ん中は高名な俳人の作品。右手に建つ「絆」という碑は、この歌碑の建立趣意書である。Cimg1044 山門の切通しを内側から見たところ。手前の五輪灯篭の隣りには、琉球からの修行僧の墓が立つ。

 明治初年の廃仏毀釈では多くの仏閣が失われた。ここ道隆寺も例外ではなく、約百年もの間忘れ去られ顧みられることがなかったが、F氏という人を得て甦った。

 道隆寺跡は肝付町の文化財であるというが、それ以上に、これからは人々の癒しの場所として活かされてくると思われる。














 

















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2年半ぶりの日中首脳会談

 中国の習近平がようやく安倍首相と会談を行った。

 Cimg0961 これまで安倍首相が「対話への窓は常にオープンしている」と述べてきたにもかかわらず、隣国のパク・クネ大統領やアメリカのオバマ大統領とは何度も対話をしているのに、一向にしなかったのだが、アジア・太平洋地域の国々21ヶ国が一堂に会する会議を北京で開く議長国となった手前、アジア地域の(パク・クネ以外の)指導者に非常に親しまれている日本を無視してはまずい-と考え、会談に応じたのだろう。Cimg0970 階段に応ずる前に、その地ならしとして外務官僚同士の摺合せや元首相の福田康夫氏を呼んでの、言わば「リハーサル」を仕組んだ上での今回の対談であった。

 「戦略的互恵関係」とはもう20年も前から言われてきたキーワードだが、江沢民が指導者だった時の「反日・侮日教育」により、常に反古にされてきた。

 日本が「仲良くしましょう」と言っても、向こうが「侵略したのに謝罪しない」とか「侵略戦争の戦犯を祀っている靖国神社に首相が参拝した」と言っては駄々っ子のように「責任は日本側にある」として頑として応じなかった。それでいて日本からのODAなどは相当な額で受け取っていた(つい最近さすがに無償援助はなくなったようだが・・・)。

 日本は共産党軍を相手に戦ったのではなく、蒋介石率いる国民党軍と戦ったのであり、その中華民国政府との間では戦時の被害にかかわる賠償問題などの話し合いは済んでおり、今さら蒸し返そうとする現共産党政府の態度は国際法上おかしい。

 Cimg0963 APECの総会で画面のテロップの様なことを演説したそうだが、フィリピン、ベトナム、モンゴルなどの国々は苦々しい思いだろう。大多数の日本人も同じ思いに違いない。(以上の画像はNHK夜9時放映のニュースウォッチから)

 尖閣諸島の領有権については、それまでの中国の教科書では「沖縄県の管轄する島々である」と表現しておきながら、この海域に海底石油の埋蔵が見つかった直後の1972年の鄧小平との会談で「尖閣諸島の領有権については棚上げする」と一方的に宣言し、以降の学校教科書などの地図から、日本の当地領域である赤線を消し去ってしまった。

 ご都合主義・自己中心主義の象徴的な事案なのである。

 また最近では以下のような自己中心主義的行動が行われている。この画像も同じニュースウォッチからのものだが、小笠原近海での赤サンゴの密漁事案がそれである。Cimg0984 キャスター自らが飛行機に乗って小笠原近海の上空を飛んだら、やはりあちこちに密漁船が見えていた。Cimg1009 海上保安庁では10月30日に密漁船を検挙したが、Cimg1011 2年ほど前に検挙した密漁船が再び拿捕されたそうだが、担保金の支払い約束をしたら船も漁具も返している。

 呆れて物が言えないとはこのことだろう。「また密漁にお出でなさいな」と言っているようなものではないか。なぜもっと厳罰を与えないのだろうか。旧ソ連がよく北方領土近海で日本漁船をだ捕して拘留し、法外な罰金を科していたようにどうしてできないのだろうか。Cimg0998 小笠原の母島漁協所属のサンゴ漁船は東京都から4隻だけ許可を得て操業しているそうだが、以前は到る所にあったサンゴが、ほとんど姿を消したらしい。

 実害ここに極まれる-という事態なのに、「海上保安庁のたった5隻の巡視船では広い海のことですから対応に苦慮している状況です」などとキャスターは言っていたが、5隻でも、とにかくどんどん違法操業を検挙して行けばいいではないか。

 こんな弱腰日本の対応を見くびり、やりたい放題をやっている中国がますます増長して「自己チュー(中)国」になって行くのではないかと気掛かりである。













 

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荒瀬ダムを見学(肝付町)

 10月半ばから我が家の前を通る県道550号線の一部に「灌漑用導水管」を埋める工事が行われている。

 畑地灌漑用の導水路で、起点は肝付町を流れる荒瀬川の中腹に造られつつある「荒瀬ダム」である。

 荒瀬川からここまでの距離はざっと20キロ。そんな遠くのダムからここまで水を引こうというのだから、大変な工事だ。というわけで、荒瀬ダム工事の進捗状況はどうなっているのか知りたくて、波見にある工事事務所を訪ねた。Cimg0877_1 肝付町の中心部から約6キロ、肝属川も河口近くになってくると、右手から川が合わさって来る。それが荒瀬川である。荒瀬橋から上流を望むと、源流と思しき山々が屏風のように立ち並んでいる。ダムはこの上流3~4キロのところに建設されつつある。
Cimg0852_1 工事事務所の広い駐車場を入って行くと、「荒瀬ダム・インフォメーション館」という案内表示のある建物があったので入ってみた。

 しかし部屋の中は暗くガランとしており、周囲の壁やボードになにがしかダムに関するポスターのようなものがべたべたと張られているだけだった。。

 何だ、こんなものか-と出ようとして続きの部屋があるのに気付き入って行くと、向こうのドアから女性事務員が現れたので、ダムの情報が得られないかと聞いてみた。

 すると二人の男性従業員が来て、ボードを見ながら少しずつ説明をしてくれた。Cimg0854 これは工事現場のダムサイトに立てられた説明板だが、右上のダム本体の説明では、荒瀬川を御椀状に切り開き、そこに紫色で示されたダムが嵌め込まれるのだが、そのダムの堰堤の断面図(下)に興味をそそられた。

 断面はちょうど富士山のような形だが4層になっていて、まず中心部には水を通さない粘土状の物を立ち上げ、その外側に荒い素材を被せ、さらにその外側にはやや細かい花崗岩、そして最も外側の仕上げの層には5、60センチもある大きな花崗岩の石を張り付けて完成だそうである。珍しいデザインの堰堤だ。

-ダムを見に行ってもいいんですか?

と問うと、

「じゃあ、案内しますよ」

と二つ返事で帰って来たのには驚いたが、厚意に遠慮せずに連れて行ってもらうことにした。

 ランドクルーザーのようなタイプの車に揺られて15分。車はダムサイトの見晴らしの良い駐車場に到着。Cimg0853_1 正式な工事名は「国営肝属中部農業水利事業・荒瀬ダム工事」と言うらしい。

 水利事業のあらましを書いた大きな看板によると、ダムの高さは70mほどで、貯水量は218万立米。笠野原台地の鹿屋市南部、肝付町の1600ヘクタールを潅漑できる規模ということである。

 同じ笠野原台地の中央から北部にかけて潅漑する高隈ダム(大隅湖)の潅漑面積が約6000ヘクタールであるから四分の一の規模ということになる。Cimg0855 堰堤部と堰堤天頂部。大小さまざまな硬い花崗岩がびっしりと貼られている。この石はダムの上流部にあった小山を崩して採取したそうである。Cimg0856 堰堤上から上流部を見ると、はるかダムの底の方でいくつもの大型重機が動いていた。茶色の底土の部分を削り取り、滑らかな底になるよう仕上げているそうだ。

 Cimg0858 案内をしてくれたМ建設のIさん。

 荒瀬ダムの工事が始まるときからもう7年もこちらに赴任しているという。前任地は沖縄で5年いたとか。

 去年の3月までは家族で肝属に来ていたが、子どもの進学の関係で母子は郷里の愛知へ帰ったので今は単身赴任中。

 完成はーと聞くと、平成28年の3月だという。これまで大きな事故もなく順調に推移しているそうである。

 完成まであと1年半。「無事の竣工を祈りますよ」と言って工事事務所を後にした。

 Cimg0879_1 波見から帰るみちすがらにあった景観植物を植えた田んぼ。コスモスはどこでも見るが、向こうのミニヒマワリは珍しい。

 はるか遠方に見える高隈連山との組み合わせは、まるで一幅の絵のようだ。





















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かのやばら園2014秋祭り

 10月25日から11月16日まで「かのやばら園」の秋の祭りが開催されている。

 今日は閉園直前の4時過ぎに見物に行ってみた。Cimg0834 残念!

 バラはパラパラっと咲いているだけだった。Cimg0835 入ってすぐの花壇にはレッドローズがあるが、今のところこんな具合である。Cimg0849 つるバラもご覧の通り。

 いつもなら通路を見事なアーチで飾るのだが・・・。Cimg0848_2 それでもよく咲いているバラもある。野バラに近い品種だろうか。

 近くを歩いていた職員風の人に話を聞くと、今年は夏から秋にかけて雨や曇りの日が多く、日照不足に陥って葉の生育が不良となり、結果として花付きが悪くなったのだという。Cimg0839 気を取り直してずうっと奥まで行ったが、なかなか「満開!」というような群落には会えなかった。これなどややましな方である。Cimg0847 当地ブランドの<プリンセスかのや>は5,6輪咲いていた。Cimg0850 珍しいブルーのバラが葉陰にひっそりとー。
Cimg0846 本日の一押しはこのバラ。

 係の人によると、かのやばら園では秋祭り期間中の入場料を半額の310円にして皆さんのお越しを待っているそうです。

 どうぞ秋晴れの一日を選んでお出であれ。


















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中高一貫教育校「楠隼」が建設中(肝付町)

 鹿児島県立としては初の中高一貫校「楠隼(しょうしゅん)」がいま建設中で、来年度の開校を目指している。

 鹿児島ではすでに鹿児島市立玉龍高校が中高一貫校として先陣を切っているが、このたび鹿児島県でも中高一貫校を開設することになり、しかも大隅地区で開校するというので話題になっている。Cimg0823 県立高山高校を改組して中高一貫校にするもので、現在、旧高山高校の改修工事と寮の建築が行われている。(写真は学校への入り口。「バス停」という道路文字の先に白地に黒の字で「県立高山高等学校」の看板が立っている。そこを左折。手前が鹿屋、向こうが肝付町の中心部)

 Cimg0824 道路を左折すると、すぐに左手に簡易郵便局、右手にコインランドリーがあり、その間を約50㍍も行くと、左手に学校への登り道が見える。Cimg0826 右手を取ると広大な肝属川流域の田んぼ地帯で、学校の校庭からはよく見下ろせるはず。

 学校への登り道への左側の土手には建設中であることを示す工事業者の建てた看板(工事・発注者・建設業者の名称など)がずらりと並んでいる。Cimg0831_2 校門近くには工事用車両への「最徐行」の看板が。下に細かく書いてあることから、寄宿舎(寮)の建築中であるらしい。Cimg0828 校門まで来ると警備員が近寄ってきて制止される。当たり前だが、工事関係者、学校関係者でなければ入れない。

 その代り、工事の内容などを聞くことができた。

 現在の主な建設は寮で、今年は来年の4月に入学する中学一年生と高校一年生用の寮ができ、来年度は新しく入る中高の一年生用のが造られ、さらに翌年はまた同じものが造られ、都合3年かかって全生徒用のすべての寮が完成する―という。

 校舎そのものは旧高山高校のものを改修して転用するので、基本的には新築する必要が無いそうだ。Cimg0830 改修工事中の本校舎。
 聞き漏らしたが、生徒の減少に悩んだ高山高校はそう遠くない前に、「地元の生徒は地元の高校へ」というようなスローガンを掲げ、官民一体になって生徒の確保を図ったことがあり、その時に校舎も面目を一新しているから、結構広々としていて、造りもちょっとした短大くらいな雰囲気がある。

 全国から(優秀な)生徒を集め、全員が男子で全寮制というのは県立レベルでは初めてのシステムではないだろうか。

 明らかに、薩摩半島側にある私立ラ・サール中高を意識している。しかも勉学の環境は願ってもない田園地帯である。3年後にどんな進路を目指す生徒が現れるか、興味津々である。

 ここを卒業した生徒はまず地元には残らず(鹿児島県にもほとんど残るまい)、都市部へ行ってしまうだろうが、ここで学んだ体験と記憶は肝付町はじめ大隅地方のもつ良さと融合して何らかの動きをもたらすに違いない。

 新設の楠隼中高一貫校の公式ホームページはこちら






 

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