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国分の三社と上野原縄文の森(霧島市探訪②)

 横綱の白鵬歓迎セレモニーを見たあと日当山温泉に入り、帰り道の途中、国分の隼人関係の三社を訪れた。

 国分で隼人関係の古社というと清水の止上神社が挙げられるが、あそこは南九州人が隼人と名付けられる前からの信仰(山神)に基づいたものが基層になっており、その里宮が隼人たちの霊を慰める「放生会」を斎行する神社として建立されたと聞く。ここは以前にも訪れている。近くに隼人塚もあった。

 それに比べると27日に訪れた三社は「隼人の乱で敗れ、切り刻まれた首領を埋めたところ」とされいて、より具体的で生々しい場所だそうである。

 その三社とは「枝宮神社」「小烏神社」「鎮守神社」である。

 日当山温泉から再び市街地方面に戻り、府中の向花から道を南へソニー国分工場の脇を通って行くと県道<日当山ー敷根線>に出、野口信号を南へ下って行く。この道は市役所の観光課の人が「用水路道」と言っていたが、たしかに用水路に沿っていて、少し行くと左手は広々とした田んぼ地帯が続くようになる。

 用水路のカーブに合わせて走ること300mくらいで右手に5階建てくらいのマンションが建ち、さらに保育園(名前を失念)が見えるのでその間を右折するとすぐに左手が「枝宮神社」だ。Cimg1205 枝宮神社入り口。境内の中に一般車両が止まっており、向こう側には何かの事業所がある。Cimg1203 枝宮神社(枝宮大明神)の社殿は朱塗りである。由来書きの看板はおおむね『三国名勝図会』の「枝之宮」に準じているが、名勝図会では「祭神不詳。昔、上小川の拍子橋でヤマトタケルが討ち取った大隅隼人の四肢をここに埋め祭ったので枝之宮と称した・・・」とあるが、この説明では討ち取った隼人を「大人弥五郎」としてある。

 大人・弥五郎といえば、大隅岩川八幡神社の祭礼に登場する。祭りの名称も「弥五郎どん祭り」として有名である。(弥五郎どんについては諸説があり、自分としては南九州の大首長のことであり、可能性としては「武内宿祢」を考えている。)

 名勝図会の説明でおかしいのはヤマトタケル時代にはまだ「大隅隼人」なる名称はなく、熊襲(熊曽)であろう。この「くまそ」が当時の南九州人の自称かどうか今は置くとして、ここに出てくる大人弥五郎が国分を中心に生活していた南九州人の首長を指していることに変わりはない。この弥五郎を熊襲「川上タケル」に置き換えれば、ヤマトタケル伝承に合致してくるのだが・・・。

 だが、史実としては720年(養老6年)に大規模な「隼人の反乱」があり、この史実を遡及させてヤマトタケル伝承と結び付けたことも考えられる。そうなると上述の止上神社の建立由来(隼人の慰霊)と同じということになるが、隼人の反乱は1年4ヶ月ほども続いたので、戦闘はあちこちで行われ、戦死者も広範囲に散らばって埋葬されたのかもしれない。

 枝宮神社を出てもとの用水路に戻り、さらに南下すること500mほどで右手に神社が見える。神社を挟んで道路の反対側の旧道には用水路が流れている。Cimg1207 右手の新道から神社の裏側を見る。(左手が旧道で、ガードレールの横を用水が流れている) ちょっとした古墳のたたずまいを感じながら、表側に回る。Cimg1209 この神社には由緒書き看板がなかったので、鹿児島県神社庁のホームページに書いてあることを載せておく。

「小烏神社。こがらすじんじゃ。霧島市国分松木1295.例祭日・旧11月第二酉の日。旧社格・村社。御祭神・木花咲耶姫命。由緒・創建年月不明。昭和63年12月改築。古来より鎮座まします御社にして、御祭神は大山津美神の御小女、天津日高彦穂ニニギ尊の御嫡后である。」

 小烏神社に隼人の四肢云々の伝承はなかったようである。こっちの勘違いか。

 しかしこの説明の御祭神には疑問が湧く。天孫降臨神話の上で、ニニギ尊が娶ったコノハナサクヤヒメとは「阿多の長屋」(加世田)で出会い、そこに宮を構えたはずである。また父はオオヤマツミであるから小烏神社の近くに父神が祀られるか、結構な高さの山があってもよさそうなのに、この神社は平野のど真ん中にあるのだ。

 小烏神社は鹿屋野里町にもあるが、祭神はヒコホホデミ。また福岡にもあり、そちらはカモタケツヌミを祀っている。その他西日本には10か所くらいの小烏神社があって、祭神が神武天皇もあれば海神(わたつみ)、八咫カラス・・・と同じものはないくらい渾然としている。

 私見では京都の下鴨神社と同じ「カモタケツヌミ」ではないかと考えている(『山城国風土記逸文』による)。

 真実探求はもう少し時間がかかるが、どの祭神も南九州由来という所が共通していると見て取れるではないか。そこがヒントになりそうだ。Cimg1206 神社の左手(東)は広大な国分平野で、快晴だったので北東に市街地を通して霧島連山がくっきりと姿を見せていた。こうしてみると地肌のままの火山の崇高なさまがよくわかる。人工の極致と天然自然の対比の妙であろう。Cimg1211 三社の最後は鎮守神社。国分西小学校のすぐ北にあり、思いのほか明るく立派な社地である。

 Cimg1212 当地では福島という在所名を頭に付けている。ここの由緒書きでは「川上タケルがヤマトタケルに討ち取られ、屍骸の一部に弓矢を副葬した場所」となっている。神話的には筋が通っている。また、名勝図会に記載の「八龍権現社」こそが鎮守神社の元宮ではないか―ともしてある。

 以上の三社のある「野口」「松木」「福島」はそれぞれ集落をなしており、広大な国分田んぼの西のヘリに連続して点在している。Cimg1231 これは明治35年測量、37年発行の五万分の一地図だが、左隅に沿って北から野口、松木、やや東南に福島、そして上小川とあたかも国分中心部を取り巻くかのように集落がある。用水路は野口の北の府中(向花)地区から流れ下っており、各集落があるのがおそらく天降川と手籠川の両河川が造り出した砂州地帯の微高地に違いない。

 元々の天降川も手籠川も共に今のような西ではなく、現国分中心市街地とこれら微高地に点在する集落の間を流れていたようである。

 したがって隼人時代と言われる7世紀後半以前、これら隼人遺称地は海浜に面した場所であったと思われる。上小川のさらに東には国分平野に突き出た半島のような「久満埼」があり、そこには久満埼神社があるが、まさに海に突き出た岬ではなかっただろうか。

 海の民・隼人にとって、隼人叛乱の最後の砦だったように思われる。

 Cimg1222 海の民・隼人と言う前は海の民・熊襲(鴨族)だったろうというのが私見で、その鴨族たちの海への軌跡が、上野原縄文の森展示館の中に大きなパネルで紹介されている。

 南九州からは直線距離にして1000㌔を超える交流・交易が縄文の昔からなされていたのである。Cimg1221 ここからはまた別のテーマとなり、長大な説明をしなければならなくなるのでこのブログはここで終わることにするが、とにかく中央集権的律令制国家となった奈良時代の初期(720年)に南九州人はそれに反発し叛乱を起こして敗れた。その時こそが「海の民・隼人の死」であった。

















 

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コメント

すっかり寒くなりました。今年も残りわずかですね。
止上神社は 以前、読み方が分からず、気になった神社です。近くに住む方から 昔は川の橋の所に鳥居があったという話や、下から山に向かって手を合わせた、という話を聞きました。

投稿: hanaori | 2014年12月22日 (月) 22時23分

hanaoriさん、コメントありがとう。
 『三国名勝図会』という薩摩藩編纂の名勝誌に、社殿(里宮)としての「とがみ」神社は隼人の叛乱による戦死者を祀り、その霊を鎮めるという役割になったとあり、それ以前の現地民(隼人)は後方の尾群山を御神体として信仰していた―という記述があります。
 古来の南九州(には限らないが)では、信仰の対象は山・岩・川・海というように自然物が対象だった。つまり「すべてが神の顕現である」ということです。中でも天に近い場所は神々との接点である」としてもっとも崇敬されたのが山ではなかったかと思います。
 活火山であり、地上の原初を思わせる霧島連山の崇高さは現代人でも感銘を受けるはずです。

投稿: kamodoku | 2014年12月23日 (火) 18時44分

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