秋色深き道隆寺跡(肝付町高山)
今月の大隅史談会の月例会にF氏が肝付町高山本城にあった「道隆寺」の話をすることになっているが、道隆寺跡の現状をスライドで説明をするというので、基になる写真を撮って来た。 柏尾山道隆寺は肝付町高山の中心部旧高山(現・肝付町)役場前の道路を道なりに南下し、前田地区から国見地区に入り、二番目の信号(道路案内看板には「国見トンネル」方面とある)を左折。ここまで約4キロ。
信号を左折すると長い下り坂で、高山川が流れる低地に下りきると「本城橋」を渡り(上の写真。橋から眺めた道隆寺の所在地)、あと200㍍ほどで、右手に「道隆寺跡」という看板が見える。 この橋は「新村橋」で、この橋で高山川の支流・本城川を渡り、100㍍余り行くと右手前方にこんもりとした森が見える。そこが道隆寺跡である。
説明看板の後ろ側に森(寺跡)へと続く参道がある。
史跡案内の立柱の後ろにあるのは二体の仁王像だが、明治初期の廃仏の嵐の中でへし折られたままの姿をさらしている。道隆寺も同じ運命をたどり、跡形もなく毀損された。
入り口の傍のツワの花。「入口」と書いた標識の石組はかっての寺の石垣の一部である。
切通しの階段を上って行くと「門柱跡」とある。ここに当時の「山門」があったのだろう。おそらく「葷酒不許入山門」などという看板が脇に立っていたであろう。
切通しの山門を抜けると意外に広い境内に出る。正面の説明板には三国名勝図会に掲載された道隆寺の絵を掲げてある。
『三国名勝図会』の説明によると・・・
「柏尾山道隆寺 新留村にあり、志布志臨済宗大慈寺の末にて、開山・蘭渓道隆大覚禅師なり、本尊十一面観音、是を当邑五仏の一、南方の尊像と称す。
禅師は宋国西蜀の人にして、霊地を巡り、此の地に来り、寛元四年(1246年)当寺を建立し、自作の観世音を安置し、その後相州鎌倉に至り、北条時頼の請によりて巨福山建長寺を創建せり。・・・」
とあり、鎌倉五山第一の建長寺の開基となった名僧・蘭渓道隆が中国(宋)の蜀からはるばる日本へやって来て最初に開いた由緒のある寺がこの道隆寺であった。 この寺跡の所有者だったF氏は役場勤めのかたわら寺跡の埋められた石塔などの発掘に汗を流し、上や下の写真のように多くの石塔・五輪塔・住職はじめ修行僧たちの墓塔などを掘り出しては復元し、整備に努めてきた。
その数一体いくつあるのか、おそらく200や300は下らないだろう。
それらを立て並べたあとにモミジや紫陽花、そしてツワの花などを植栽し、かつ観音像や東屋などを造立した。 観音菩薩像。
東屋と桜・モミジ。向うに見える黒御影の石碑はつい最近建てられた歌碑である。
四名の方の歌と真ん中は高名な俳人の作品。右手に建つ「絆」という碑は、この歌碑の建立趣意書である。
山門の切通しを内側から見たところ。手前の五輪灯篭の隣りには、琉球からの修行僧の墓が立つ。
明治初年の廃仏毀釈では多くの仏閣が失われた。ここ道隆寺も例外ではなく、約百年もの間忘れ去られ顧みられることがなかったが、F氏という人を得て甦った。
道隆寺跡は肝付町の文化財であるというが、それ以上に、これからは人々の癒しの場所として活かされてくると思われる。
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