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障子貼り

 去年はせっかく新しい障子紙を買って来ておいたのに、時間が無くて貼らずじまいだった和室の障子を貼り替えることにした。

 昨日のうちに紙を剥がして水洗いしてあった4枚の障子(うち2枚はタタミと同じ大きさ、あとの2枚はその半分強の大きさ)を和室に持ち込んで紙を貼った。Cimg1760 畳の半分の方の2枚はそれぞれ15分足らずで完成したが、タタミ大の物はそうは行かない。

 今回は初めて糊を水に溶かない<スティックのり>でやってみた。準備するのは障子紙、60㎝の定規、カッターそしてスティックのり。Cimg1764 スティックのりを木の枠に1.5センチほどの幅で塗って行く。水に溶く糊だと新聞紙を下に敷かないと、水状の糊がポタポタ垂れてタタミを汚してしまうが、今度のはその心配がない。(それなのに敷いてあるのは木の枠がタタミをこすってイグサの逆向けができるのを防ぐため。)Cimg1765 枠と桟のすべてに糊を付けたら、上のほうから障子紙を貼って行く。今時の障子紙は障子の幅(約90㎝)の大きさがあるので上から(下からでもよい)やや抑え気味に下まで巻紙を伸ばし広げるだけでよいから便利である。Cimg1766 もう少しで下まで貼れる。
Cimg1768_2 一番下までカバーしたところ。丸まっている部分が手を離しても丸まって元に戻って行かないのは、当然ながら糊が付いているからだ。

 昔、家の障子の貼り替えをよくさせられたが、あの頃は障子紙と言えば江戸時代以前の手紙などをしたためる巻紙と同じ幅(30㎝位)のもので、縦ではなく、横に5~6段で貼って行ったものである。Cimg1769 枠の部分に貼られた障子紙は貼り幅より多めに付いているのでカッターで切り取って行く。その際に定規が必要だが、短い定規よりは長い定規の方が下まで真っ直ぐに切るうえでは都合がよい。しかも能率的である。

 スティックのりは水っぽくないので貼ってから5分もすればカッターで切り下ろして行ってもすうっと切れる。(昔の水糊の場合は紙に水分が滲んでいて、ある程度乾燥させてからでないとカットする際に紙が水で滑って切れ損ない、紙がしわになったりしたものだ。)Cimg1773 引手ほぞの部分も障子紙が覆ってしまうのでカッターで切り取ると、姿を現す。Cimg1775 どうやら完成。40分ほどの時間がかかっている。もう一枚も終えると始めてからちょうど2時間が経っていた。Cimg1774 最近の障子は下の部分にコロが付いているので、すべりが格段に良くなっている。Cimg1776 西側の窓に建て付けて終了。

 これだけで正月がぐんと近づいたような気分になる。





 

















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『昭和天皇実録』の完成

 今日の報道番組「報道の日2014~日本の岐路~」(TBS)は、今年の重大ニュースを取り上げ、それをさらに掘り下げるという興味ある番組だったが、中でも『昭和天皇実録』が宮内庁職員の手で完成された―というのが一番だった。

『昭和天皇実録』は昭和天皇が亡くなった翌年から着手され、16年の予定が24年かかってようやく完成にこぎつけたもので、和綴じ本では60巻(他に索引1巻)という膨大なものだそうだ。Cimg1730 それが、落札によってある出版社が通常本にして発行するというものの、それでも18巻(索引が別に1巻)にもなるという代物である。今後、昭和史をまとめて行く上では第一級の参考文献になることは間違いない。(写真は「報道の日2014」からのもの。以下同じ)

 「報道の日2014」では、戦後70年を迎える来年を踏まえて、太平洋戦争と天皇の立場について、特に取り上げ、これまで公開されてこなかった<戦争に関する天皇の肉声>を取り上げた。

 それは、天皇が1975年にアメリカの雑誌「ニューズウィーク」の東京支局長の質問に答えられたものである。Cimg1722 太平洋戦争の開戦は「やむなく(遂行の)決定に関わったのか?」というクリッシャー記者の質問に陛下はこう答えられた。Cimg1723 終戦の決定は軍部の「続行すべし」という意見には反対の意見を述べたが、Cimg1724 開戦の時は総理大臣がアメリカからの通牒「ハルノート」に対しての御前会議において、決断を下し切れなかったので、Cimg1725_2意見をもとめられた。そこで(開戦の)意見を言ったのであるー、

 こう回顧された。

 アメリカの記者はこれで理解できただろうか? おそらく「何だ、やはり反対はしなかったんだ」と、昭和天皇の戦争責任の一端を頭の中に思い浮かべたかもしれない。

 しかし、天皇はすでに終戦後に乗り込んできたGHQ最高司令官のマッカーサーに呼ばれて本部を訪れた際に、マッカーサーに対して、「戦争の責任はすべて私にある。私はどうなってもいいからとにかく今疲弊している国民を助けて欲しい」と懇願し、天皇自身の命乞いをするのだろうと思っていたマッカーサーを驚愕させているのである。

 のちにマッカーサーは朝鮮動乱の時に「原爆を使うべきだ」と主張して総司令官職を解任されてアメリカに帰ったのだが、上院外交委員会における聴聞の際に、「日本が米英に対して戦いを挑んだのは自衛のためだった」と太平洋戦争の本質を衝いた意見を述べている。

 だが、自分としてこれに加えて欲しいのは、日本の挑戦は単に自国が置かれた欧米による差別を解消するためではなく、欧米による有色人種への植民地支配という根本的な差別を無くするためのものだった―ということである。

 1919年に第一次世界大戦後の「パリ講和条約」に、日本全権公使・西園寺公望の副公使として同行した牧野伸顕(まきののぶあき=大久保利通の二男で牧野家へ養子に行った)は、本会議の中で「もう人種差別はやめにしよう」と提案して賛成多数を獲得したのだが、議長をしていたアメリカ大統領ウィルソンに却下されている。

 黒人を奴隷の身分からは解放したものの、まだまだ黒人への差別が強固だったアメリカの現状を変えられてたまるか―という心理がウィルソンをして多数決を無視させたのである。

( アメリカの黒人差別はその後50年も続き、1970年代になってようやく「ホワイトオンリー」という表示は無くなったに過ぎない。現大統領のオバマの父がアフリカのケニヤから留学生でやって来た時もまだ差別の真っただ中にあった―とは、オバマの大統領就任式の演説で聞かされた通りである。

 しかも今またアメリカでは黒人差別を象徴するように警官が黒人少年を銃殺したりする事件が起こっている。)

 日本という白色人種ではない民族がのさばってくるのを見過ごせない、また日本と朝鮮・中国が手を結んだら大変なことになる―との思惑が欧米側には根強くあったことも見逃せない。

 それやこれやで日米は開戦したのだが、結果はご覧の通り。

 日本は確かに敗北したが、欧米の有色人種国家群への植民地支配が音を立てて崩れて行ったのもご覧の通り。

 最後まで残ったアパルトヘイトの南アフリカも約10年前には現地黒人に解放された。

 植民地解放と人種差別のない世界の恒久平和を願って戦陣に散った日本兵も泉下で喜んでいるに違いない。

 それにしても太平洋戦争末期のアメリカによる日本本土への空襲は狂気というべきすさまじさであった。戦時国際法も何もあったものではなく、無力の赤ん坊から年寄りまで無差別殺戮の限りを尽くしたのである。

 最近、中国のブログで、「あんなにアメリカにやられまくって、日本はなぜ復讐しないのか」というようなものがあると知ったが、その「やり返してやる、今に見ておれ」という復讐心が湧くのを見越したかのようなのが、昭和天皇の終戦時の「玉音放送」の次の一節だろう。

「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世に泰平を開かんと欲す」

 世界中が万世にわたって泰平になるのはいつのことだろうか。




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幻だったSTAP細胞

 今年の1月に理研の研究員である小保方晴子氏が公開発表した「STAP細胞」の存在をめぐってその是非を問われた検討結果は、小保方氏の再現実験不能という事態によりまずは理研自身のスタップ細胞否定会見があり、昨日は第三者調査委員会の最終的な結論が発表された。Cimg1680 桂勲調査委員長は検証の結果「スタップ細胞の存在そのものは、ほぼ無かった」として構わないという。

 4月に例の論文に不備・捏造があると指摘された小保方氏は「スタップ細胞はあります。私自身200回以上確認しました」というように胸を張っていたが、7月から開始された再現実験の結果、緑色のスタップ細胞らしきものがいくつかは現れたものの、<万能性を示すまでには至らなかった>ようで、結局涙をのんだ。Cimg1677 小保方氏がスタップ細胞としていたものは、実は理研内部に冷凍保存してあったES細胞(胚幹性万能細胞)であったことが判明した。Cimg1679_2 蛍光緑色のこのマウスはES細胞の混入によって分化発生したーということらしい。Cimg1681 最後に、混入経路については謎が残っている―としたが、誰かが入れたのは間違いない。小保方氏本人は「絶対に入れていません」としている。

 本当に故意に混入したのであれば、「犯人」は小保方氏の論文をネーチャー誌に掲載することによって「利益を得る」(利得ではなく、名誉・名声)立場にあった人ということになろう。もちろん小保方氏本人が最初に疑われるが・・・。

 STAP細胞には期待をかけていたのだが、後味の悪い幕引きになってしまったのは残念だ。

 













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野方の照日神社(曽於郡大崎町)

 今日は定例の大隅史談会理事会があった。

 3年前から年二回の理事会と役員会を、理事会は12月23日(祝)、役員会は4月29日と固定して開催するようになった。こうすることで招集する側は大変楽になった。理事のほうで日程を開けてくれるようになったのである。

 12月23日の理事会は別名「編集会議」。来年の4月に発行する『ー史論集―大隅』の58号に寄せられた原稿を整理して、原稿をどの部分に入れるか、また総ページはどのくらいになるかを検討した。Cimg1607 会議は昼食を挟んで2時間ほどで終了。1月末から原稿のパソコン(ワード)への取り込み、執筆者校正を開始し、3月初旬までには終えることを確認して散会。

 このあと自分は、21日の歴史講座(三国名勝図会研究)において疑問だった大崎町の「二石岡(ふたいしのおか)」を調査するべく、東串良経由で大崎町野方方面に向かった。Cimg1611 東串良町の池之原信号を左折して県道「黒石・串良線」に入り、北上して6キロほどで工事中の東九州自動車道の高架を見る。Cimg1625 高架をくぐって約3キロで道路右側に養鶏のジャパンファーム農場を見ると、その向かい側が「二石岡」で、振り返ると鳥居が見えた。この上らしい。Cimg1623 鳥居をくぐって後ろには農場の白っぽい鶏舎が立ち並んでいるのが見える。Cimg1619 途中で廃墟になった貯水施設を見ながら、孟宗竹林の竹の葉の積もった道を登ること200メートルほどで頂上部に着く。Cimg1617 頂上部は、地均ししたかと思われるほど平らで、直径15,6mの真円に近い円形である。

 だが、『三国名勝図会』の説明にある「二つの大きな石」と「大崎郷内が一望される」のどちらもない。

 二つの大きな石がどのような状態で置かれているのかが最も知りたいことだったのに、存在しなかった。代わりに国土地理院の三角点かと思われる角柱が埋められており、真ん中には石の祠があるだけ。Cimg1615 明治10年3月にここに設置されたことは分かったが、どんな神様が祀られているのかは皆目わからない。

 それでも、祠があるということは何らかの宗教的な場所であることを示してはいる。それが何であるかは想像だが、「二石」は実は「蓋石」であり、埋葬施設つまり「古墳」かもしれない。

 何しろ山頂部は平らで真円に近く、しかも今は山頂部以外はタブなどの自然林で埋め尽くされているので眺望はほぼゼロだが、『三国名勝図会』の説くように雑木が無ければまさに眺望絶景のきれいなピラミッド型の小丘なのである。

 さて、そんな思いを残して小丘を下ったが、調査は余りにあっけなく終わったので、この先5キロのところにある荒佐野の「照日神社」まで足を伸ばして行くことにした。Cimg1649 先の道を北上すること5キロ、「荒佐」交差点に行き当たる。この向こうが照日神社だ。左右を走る道路は国道269号線。左へ行けば鹿屋方面、右は曽於市方面である。Cimg1644 社殿に上がる階段は5~60段はあり、登りきると右手にさらに10段で拝殿がある。Cimg1630 瓦葺の小ざっぱりとした社殿で、境内も広くチリひとつ落ちていない清潔感のある社域だ。Cimg1631 社務所横の壁に貼ってある照日神社の創建由来。

 これによると、そもそもこの荒佐野地区は江戸時代の元禄元年(1688年)に大阪方面から移住してきた人たちが開拓した所で、先導者の出原氏が伊勢神宮を勧請し、ここに伊勢神社として祭ったそうである。明治初期に火災にあって再建された折りに、有明郷(隣村)の平野に鎮座していた「照日神社」を合祀し、名称を伊勢神社から照日神社に改めた―という。

 祭神は伊勢の天照大神はじめ八幡神・春日神・住吉神・熊野神と、日本の大神と言われる神々を祭っている。(ただし出雲の国つ神オオクニヌシ系はない。)

 照日神社の元の祭神が何であったかは書かれていないが、「照日」からして「天照」を連想させるから、アマテラス系(天つ神)だったに違いない。

 また、『三国名勝図会』によると、入植してきた人々は和泉・摂津・土佐からの24戸(51人)だったそうで、一説では徳川氏に敗れた豊臣方の家臣たちであったという。

 参拝を済ませ、社殿の向かい側にでんと構える「貯水タンク」の上に上がってみた。このタンクこそが照日神社のランドマークで、いつもこの神社の傍を通るたびに「おもしろい貯水タンクだ」と感心しつつも今日初めて登ってみることになった。Cimg1640 タンクの側面にこのように祭事の時の人々の様子がレリーフで描かれているのである。この写真はタンクを取り巻く通路から写したので大きくはっきり分かるが、下の国道からはもっと小ぶりにしか見えない。

 右手には神職が笛・太鼓で演奏している姿、左手の三人は男装と女装に分かれて踊っている。Cimg1641 後ろはひょっとこ、前はおたふくで、鈴と杓子のような物を手にして踊る姿は色鮮やかだ。

 この貯水タンクは昭和34年に完成しており、今年が55年目ということになる。おそらく神社の社域に造るにあたっては喧々諤々の論議が起こったに違いなく、反対者を説得するためにこのような祭りの様子を再現するレリーフを施そうというアイデアが生まれたのだろう。当時としては思い切った粋な計らいである。Cimg1634 しかもタンクの屋上には展望所があって登れるようになっているのだから、畏れ入る。Cimg1636 屋上から見下ろした国道沿いの家々は瓦屋根のしっかりとした家が多く、320年前に上方から入植した人々の末裔がまだ多いに違いない。

 荒佐野は「荒れ地」を連想させるが、今は肥沃な土地柄となっている。




















 



















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ファンタジーナイト(かのやばら園)

 去年から始まったかのやばら園のイルミネーションショー「ファンタジーナイトインかのやばら園」が今日の夜から始まった。Cimg1565 7時少し前に行くと、入り口では素晴らしいイルミネーションが出迎える。Cimg1566 グリーンのツリーの前にはベンチが置いてあり、親子連れやカップルが写真を撮っていた。Cimg1567Cimg1568 大きな光のトンネル。Cimg1572 このあたりは名花「プリンセスかのや」を植栽してある場所だが、すっかり光のプールになっていた。Cimg1574 ノーベル物理学賞に輝いた日本人科学者発明の青色発光ダイオードがイルミネーションショーの主役。Cimg1577 光の海の一角に舞台が設けられ、今夜は「リトルチェリーズ」の公演が行われていた。Cimg1581 リトルチェリーズは小学生のジャズ楽団で、鹿児島県はもとより日本各地や海外まで公演を行うこともあり、その名はよく知られている。

 指導者は大西隆氏で、30年前に小学校の教師として赴任した南大隅町(旧根占町)の神山小学校で小学生のバンドを結成して指導に当たったのを皮切りに、転勤先でも継続して音楽活動を続け、数々のコンクールで高い評価を受けて来たそうである。

 (詳しくはリトルチェリーズのホームページで。)

 ところが演奏中にイルミネーションが突然消えるというハプニングが発生した。Cimg1585 しかし演奏は途切れることなく続けられ、慌てず騒がずーを地で行くような場面に、見物客から手拍子が沸き起こった。大したものである。

 本日2回目の舞台だったが、イルミネーションの明かりは回復せず、サーチライトに照らされながら二曲を演奏し切った。Cimg1587 入り口の管理棟に近い部分は暗がりの中よく光っていた。下の広場とは配線が違うのだろうか。

 


 

















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中国・韓国とどう向き合うか

 最近立て続けに3冊の本を読んだ。Cimg1454 シリーズもので、著者は三名、いずれも日本に帰化した黄文雄(こう・ぶんゆう)・呉善花(お・そんふぁ)・石平(せき・へい)の三氏である。

 向かって右から発行順に並べた(いずれも初版本である)。

 右端の本は発行が2013年(去年)の4月30日で発行元は李白社(東京・新宿区。ホームページ有り)、発売元は徳間書店。

 真ん中は発行が2013年(去年)の12月31日(発行元、発売元同じ)。この本にだけ著者の顔写真入りの帯を付けておいた。右から「石平(1962年生)」「黄文雄(1938年生)」「呉善花(女性=1956年生)」で、あとでも出てくるが、それぞれ故国は中国、台湾、韓国である。

 左端は発行が2014年(今年)の1月31日(発行元・発売元同じ)。

 それぞれの本は三者対談で、一冊ごとに聞く側と話す側とを変えてあるが、読んでみると聞き手が随分と自己のことを語っているので、それは形式上のものに過ぎない。

 さて本の紹介だが、結論としては「タイトルが簡明率直に表現している」ということになる。

 最後の本のタイトルは「中韓とは絶交を辞さない覚悟で」と、やや過激だが、内容的には「現在の中国は太平洋に進出しアメリカと肩を並べたがっており、領海等の問題ではいちいち彼らの恫喝や舌鋒に付き合っていないで柳に風と相手にせず、国防を充実させるのが一番である」というものだ。

 それでは、対談の内容で記憶しておくべきことや心に残ったことを本の発行順に中から若干の抜書きをしておく。抜書きは「」で、自分のコメントはーを付けて書くことにする。

① 日本人は中国人・韓国人と根本的に違う』

石平「中国の論議というのは敵が最初からすべて悪いという前提に立ってやるものなんです。日本のテレビでもよく出てきますが、あの中国外務省のスポークスマンの喋り方、ああいう喋り方が典型的な批判文章のスタイルです。・・・威圧的な言葉で圧倒して言い負かそうとする。そうやって自分の立場がいかに正当なものかを強調する。我々が教育されたあの頃の作文も、まったくこれと同じものです。」(41ページ)

 ―石平氏の言う「あの頃」とは文化大革命により毛沢東思想が喧伝された時代。前代のものすべて批判した毛沢東の文章が模範とされた。石平氏は大学教授の父一家とともに地方に左遷(下放)され、酷い目に遭っている。その後、1989年の天安門事件の政府の対応に失望し、故国を捨てた、という。

石平「小泉政権時代の5年間、日本は靖国問題で中国とも韓国とも喧嘩を徹底的にやりましたね。その結果、中国側も韓国側も、いわゆる歴史カードが有効なものではないことを多少は悟ったのではないかと思います。 中国と韓国がメチャクチャな歴史観で日本を叩くというああいう時代がちょっと変わって来たんですね。 ですから、日本は堂々というべきことを中国、韓国に言っていかなくてはならないんです。これをしなければ、また元に戻ってしまいますよ。」(52ページ)

黄文雄「・・・それからだんだんわかってきたことは、日本のマスメディアは反日を歓迎しているんだということです。反日の言論があればすぐそれに飛びつく。まるで条件反射のように飛びつく。それが日本のマスメディアの大きな特徴じゃないかと思います。ようするに自虐的なんですよ。 日本の反日の砦は、どうやら大学とマスメディアのようだということが80年代から徐々に見えるようになってきて、90年代からはさらにはっきり感じられるようになりました。」(202ページ)

 ―黄文雄氏は1964年に来日したそうで、1972年に日中国交回復してからの日本のマスコミは台湾を見限り、共産党の主導する「統一中国」支持へとシフトして行った。これ以降、黄氏は日本のマスコミへの違和感を感じ始めたという。 氏は日本が台湾を統治していた最後の日本的教育制度の受益者で、多少の日本語の読み書き・会話が可能であった。また日本の敗戦後に台湾に入って来た国民党軍の恐怖政治を身をもって体験した一人でもある。

呉善花「私は1983年の来日ですが、最初はやはり皆さんと同じに、マスメディアが政権批判を公然とするのを見てものすごく驚きました。と同時に、韓国で「日本人というのは心から反省しない民族だ」とばかり言われていたんですが、日本のマスコミは反省ばかりしているわけです。これには本当に信じられない思いがしました。最初は気分がよかったんですが、日本統治の歴史の実際をいろいろな書物から知って行くうちに、反省ばかりのマスメディアの姿勢に、しだいに疑問を持つようになりました。」(202~203ページ)

 ー呉善花氏は4年間の軍隊(徴兵)経験のあと、日本の大学に留学。大学院の時に書いた韓国人ホステスを巡る『スカートの風』がベストセラーになった。『攘夷の韓国・開国の日本』では山本七平賞を受賞している。

 『日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の「心の闇」

呉善花「日本は国交正常化後、韓国と中国に多大な経済・技術・人的支援を行ってきました。韓国の高度経済成長も、中国の近代的な産業基盤の整備も、日本の援助なくしては達成できなかったものです。

 韓国が日本の援助資金で推進したものは、産業基盤のインフラ整備・重化学工業化・農業近代化・中小企業育成・産業団地・地下鉄・多目的ダム・下水処理場なども建設、医療・教育の充実などあらゆる分野にわたっています。韓国が世界に誇る浦項製鉄所や地下鉄一号線をはじめ、日本の資金援助と技術協力によって完成したものは枚挙にいとまがありません。

 日本は中国に対しては、総額7兆円を超えるという、まさしく空前絶後の規模のODA資金を投入しています。北京空港、北京の地下鉄をじはじめ、日本のODAによって建設された近代的な産業基盤のインフラは、これまた枚挙にいとまがありません。

 日本は隣国の韓国と中国を格別に重要視して、惜しみない援助を続けてきました。しかし今から20年前の1993年、韓国に金泳三政権が、中国に江沢民政権が成立しますと、両国は手のヒラを返したように強硬な反日政策をとるようになってきました。以後、両国の反日姿勢は強くなる一方で、今年になってからはついに、両国が提携して日本との対立を深めていくまでに至り、日中韓関係は歴史的に最悪といえるまでの状態に陥ってしまいました。

 恩を仇で返すとはまさにこのことです。」(2~3ページ)

 ―以上はこの本の呉善花氏の前書きの部分だが、ここに述べられていることこそが、上で紹介したように、日本留学によって呉氏が調査研究して得た真実だろう。よくぞ言ってくれたものだ。 このようなことは日本人自身がマスメディアを通じて知るべきなのだが、マスコミは情報を小出しにするか「戦後賠償の一環」的な報道しかしないので一般日本人の認識から落ちてしまっている。情けない話ではないか。

呉善花「・・・朝鮮半島の諸国はずっと、無人の小さな岩礁島の竹島なんかまるで眼中になかったんです。韓国があれだけ執拗にこだわるのは、竹島は「韓国が実力で日本から奪還した領土だ」と意義付け、反日のシンボルにしているからです。

 北朝鮮は<対日武力戦争によって独立を戦い取った>と誇っていますが、韓国の独立は日本から戦い取ったものでないことが、韓国には悔しくて仕方がない。そこで一方的に李承晩ラインを引いて竹島を軍事的支配下に置くことで<日本から領土を戦い取った>実績をつくったわけです。…韓国の場合は中国と違って、海洋への関心から竹島の領有にこだわっているのではないんですね。」(124ページ)

石平「80年代の中国における日本観は、90年代のそれとは全く違うものでした。80年代は全般的に、親日とまではいかなくても、中国国民が日本にかなりの親近感を持った時代です。 日本に親近感を持った背景にはいくつかの理由があります。一番大きな理由は、鄧小平の時代から改革開放の路線を推進したことです。…改革開放以前の中国は世界有数の貧困国でした。その経済立て直しのために鄧小平が考えた方策の一つが、外国から資金と技術を導入して経済成長の起爆剤にするというものでした。

 …ということで目を付けたのがお隣りの日本です。…当時の中国からすれば、日本は何段階も上の技術大国です。そういう日本に目を付けて技術を導入しようというのですから、当然、反日などもってのほかです。政府主導で日中友好をアピールしていきました。」(164~5ページ)

 ―この部分が、前書きの呉善花氏の説明につながってくるわけである。当時の日本は余程の「黄金の夢の国」に見えたらしく、「カラスの鳴かぬ日はあっても、中国難民船の着かない日は無かった」といわれるくらい、日本への一攫千金の密航船が多発したのは記憶に新しい。(今はサンゴの密漁だが・・・)

 また、石平氏はインターネットでもホームページ「石平のチャイナウォッチ」を開設しているが、9月18日に次のものをアップしている。

「私が今まで見た中国流ブラックユーモアの絶品中の絶品だが、(中国)政府当局がなぜデタラメな日本批判を行っているかに関し、ネット上で次のような指摘があった。

<1940年代、毛沢東は日本軍を利用して国民党政権を潰した。80年代、鄧小平は日本の経済援助を利用して経済成長に成功した。そして90年代、江沢民は日本を利用してナショナリズムをあおり立てて政権を維持した。今の政権も同じことをやろうとしているのではないか>と。

 なるほど、近代から現代に至るまでの日中関係史は、まさにこの書き込みの一つによって完璧に総括された気がする。」

 上の指摘のように、中国は「反日」を旗頭にして国内統治のタガにしているわけだから、反日キャンペーンに日本側が敏感に対応する必要はない。

③ 『日本人は中韓との「絶交の覚悟」を持ちなさい』

呉善花「<戦争放棄>や<侵略戦争禁止>を掲げた国が、いずれも正規の軍隊を持ち、軍隊の海外派遣を禁止していないのは、戦争放棄と言ってもそれは<一切の戦争放棄>ではなく、自衛権の行使、つまり自衛のための戦争、防衛戦争を認めているからですね。そしてそれらの国では、自衛権は国境を越えても行使しうるものと考えられている。だから軍隊の海外派遣をするんです。そこが日本の考えと決定的に異なるところです。」

黄文雄「そうですね。戦争放棄の条文解釈では日本だけが違うわけです。そもそも国際社会は1928年の<不戦条約>第一条で、次のようにはっきりと戦争放棄を宣言しています。 《締約国は、国際紛争解決のため戦争に訴ふることを非とし、かつ其の相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各国人民の名において厳粛に宣言す。》 ですから、戦争放棄の条項は日本国憲法だけに特有なものではなく、すでに1928年の時点で、世界の主要諸国が国際法上共通に受け入れるものとなっていたんです。日本、イタリア、フィリピンの憲法はいずれもこの不戦条約の精神に連なるものです。・・・(さらに現国連憲章第2条4項の「国際関係上の武力行使の否定」を挙げ)ところが、ここまで規定してもなお戦争が無くなることがないわけです。ですから私が言いたいのは、平和憲法があるから戦争にならないとか、平和憲法が無ければ戦争になるとかいうのは、まったくの幻想だということです。」

石平「中国みたいに、自分たちがやる戦争は正義の戦争なのだから、これは禁止の対象はにならないといって戦争をしてしまう国がある。戦争が無くならないわけです。」(36~38ページ)

 ―安倍首相が読んでいたら、我が意を得たりと喜びそうな観点である。この本の35ページの一覧表によると、日本の憲法だけが「不戦平和主義」を唱えているわけではなく、少なくともイタリア・フィリピン・ハンガリー・アゼルバイジャン・エクアドルなどは紛争解決手段としての戦争を放棄し、コスタリカとパナマは自衛隊以外の軍隊を持っていない。

 だが、最後の発言者・石平氏によると、中国は相変わらず自国の政策上、他地域への侵略戦争を起こしているので、日本はやはり自衛隊以上の国防能力を高めておかなければなるまい。

 (これを書き始める1時間ほど前に国分太一がキャスターを務める「いっぷく」というニュース番組を見ていた。その中で名古屋在住のあの長寿の銀さんの娘「長寿三姉妹(三女96歳・四女93歳・五女91歳。ただし以前は四姉妹だった…)」が世相を斬るというコーナーがあった。三姉妹は例の中国船のサンゴ密漁事件を見ていてこうコメントしていた。<あんなの山賊と一緒でしょ。なんで自衛隊が出てってドカンとやらないのかねー>と。いきなり軍隊である自衛隊は出せないが、せめて領海内に入った密漁船を海上保安庁の船で放水し、沈没させるような手段を取ればよかったのに、と思った国民は少なくあるまい。だ捕しても調書だけで資材・密漁物を押収もしないのは実に歯がゆい。中国にますます舐められるだけではないか)

黄文雄「トルコから北アジア一帯の言語は、だいたいアルタイ語系統の言語です。それに対して中国語は全く別系統の言語です。・・・日本と韓国は言語系統は同じでもものの見方や考え方が大きく違っています。・・・なぜそうなのかを考えてみると、やはり中国の儒教思想の影響が大きいんでしょうね。同じ朝鮮半島の文化でも、高麗時代と李氏朝鮮時代ではかなり大きな違いがあります。高麗時代は仏教思想の意影響が強いし、李朝時代は圧倒的に儒教の影響が強いです。」(74ページ)

呉善花「1392年に李氏朝鮮王朝が成立しますが、この年は日本では南北朝合一の年にあたり、室町幕府の成立期に相当します。中国では1368年に明が建国されて間もなくのころです。この時代が現在に至る日韓文化の基本的な違いを形づくる分岐点だったと私は思っています。」{75ページ)

呉善花「李氏朝鮮の政治は、徹底的に規格化された制度と画一的な手段を用いての政治でした。…ようするに朱子学に則った中国式の中央集権制を、あの狭い朝鮮半島で、本家の中国以上に徹底させたために、世界に類を見ないほど硬直した官僚国家体制ができあがり、その維持に狂奔することが政治そのものとなってしまったのです。」(77ページ)

 ―ここでいう「官僚国家体制」を文班と武班からなる「両班(ヤンパン)体制」ということが多い。中国の専制的中央国家体制のコピーだが、本場中国より儒教的官僚体質は徹底していた。これがいわゆる「小中華」朝鮮であり、開国までのほぼ500年間という長期間続いていた。王朝がなくなり、日本の統合から離脱した戦後の民主化でもやはり屋台骨の儒教的官僚支配の体質は残る。今日の午後のTBSテレビでは例の大韓航空機の「ナッツリターン事件」の特集で、韓国の財閥体質を報道していたが、韓国ではわずか10社の財閥企業が国民総生産の76パーセントを支配しているそうである。しかもそれら大企業はほとんど「一族支配」というから、民主主義も何もあったものではない。

石平「今の中国の延長には未来はありません。ただ、そのことから引き起こされるさまざまな出来事が他の国々を巻き込んでしまうということ、日本はそこを考えなければいけません。日本が逃げずに中国の脅威と向き合い、深刻な迷惑を受けることがないだけの国家戦略と国際戦略を構築して行き、中国の脅威からしっかり国を防いでいくことです。これはそのまま、アジアの未来を切り開くことにつながって行きます。それをやれる一番の可能性のあるのが日本なんです。」(203~4ページ)

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2014衆院選挙結果

 突然強行された感のある解散と衆議院議員選挙。12月14日の投票結果は低調であった。Cimg1453(画像はNHKニュース9より) 今回の投票率は52.66パーセントで戦後最低を記録した。「争点は一体何なのか」という焦点の無いおかしな選挙で、これでは投票率は低かろうという危惧は当たった。

 52.66パーセントは全国平均だから、おそらくもともと投票率の低い大都市圏では軒並み40パーセント台前半であったはずだ。投票率50パーセントにはるかに満たない選挙が果たして民意を表しているといえるのか?

 それとは別に、今回も弁護士たちが一票の格差が2倍を超えているので選挙は無効だと訴えていた。

 だが、彼らが持ち出してくる一議員あたりの有権者の多い選挙区はほとんどが大都市圏の選挙区で、それに対して少ないのが地方の選挙区である。その2者を比較して後者は前者の半分以下の有権者しかいないので、「一票の格差が憲法に違反するほど歴然としているから無効だ」という論理だが、しかし肝心の大都市圏の投票率の低さについては論及していないのは片手落ちだ。

 大都市圏ではほとんどの国政選挙で50パーセントに達していないのが現状で、それにこそ「こんな選挙は無効だ」と声を上げて欲しいものだ。Cimg1443 与党が改選前の議員数は確保したので、ニュースのキャスターは「安倍政権の信任投票であった」というニュアンスで解説していた。当たり障りのない表現ではある。Cimg1438 ニュースでは選挙の争点を4つ挙げていた。

 この中で最後の「普天間基地移設計画」は沖縄では完全否定された。Cimg1452 なにしろ沖縄の4つの小選挙区すべてで自民党は惨敗したのだ。

 11月の沖縄県知事選でも辺野古への移設に反対する翁長氏が当選し、辺野古のある名護市長も強硬な反対派である。

 この結果を踏まえるなら沖縄における基地問題について根本から考え直さなければなるまい。

 唯一の地上戦により米軍の砲火で県民の30パーセントが命を落とした沖縄から、一刻も早く米軍基地を激減させ、安全と安心に満ちた沖縄にするのが、沖縄県民に対する償いではなかろうか。

 沖縄にはすでにいくつかの「特区」があると思うが、これに加えて「永世中立特区」を設けたらどうだろうか。安倍首相が前の仲井真知事と合意したという「3000億を提供するから、辺野古への米軍基地移設を認めて欲しい」は、米軍のために金で沖縄を買収したも同然だが、「永世中立特区」になったら、その辺野古基地は自衛隊の駐屯地となろう。(3000億円は長年の米軍駐留に耐え忍んだ沖縄への賠償と思い、ガッツリと受け取ってしまえばよい。)

 来年は太平洋戦争終結70周年。いろいろな記念行事や「過去を振り返る論説」が盛んになるはずだが、もう米軍との過去を清算し、新しい国家関係を構築しなければなるまい。

 「戦争が終わってぼくらは生まれた」世代が、あらゆる社会のリーダーになっている現状である。過去は直視するが、戦争に負けたからといっていたずらに「日本悪者説」を踏襲するのはやめにしたいものだ。










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翔んでる美智子皇后

 ベルギーのファビオラ王妃が86歳で亡くなり、皇室と親しかった関係で美智子皇后が単独でベルギーを弔問されたが、その日程を見て驚いたのは自分だけではあるまい。Cimg1422 画像は8時の国分太一の「いっぷく」より(以下同じ)。Cimg1423なにしろ、昨日11日の午前に羽田を立ち、同日ベルギー着。同地で一泊して王妃の葬儀に参列し、その日のうちに再度機上の人となるそうである。

 自分は行ったことがないが、おそらく片道20数時間の長旅であるからかなりの強行軍に違いない。Cimg1418 向こうの王室関係者だろうか、皇后を迎えにタラップの上まで行ってエスコートしているように見える。美智子皇后はすでに喪服に着替えられておられるが、コートは羽織っていない。北海道のような気候の地域のはずだが気になるお姿である。

 今年の10月20日に満80歳になられたばかり、特にいま持病を持っておられるとは聞かないが、大丈夫なのだろうか。天皇のご名代として親しかった王室への弔問とはいえ大変なことである。Cimg1416 ボードワン国王と王妃。若き日の皇太子ご夫妻と清子さまが王宮を訪問されている。Cimg1417 皇后と王妃のツーショット。

 皇后が国際児童年に児童図書・絵本の行事がスイスであった時に初めて単独で行かれたわけだが、その際の会見らしい。美智子皇后は絵本を出版されているし、ファビオラ王妃も故国スペイン時代に文学者であったので話が合い、会話が弾んだようである。

 

 ベルギー王室はまだ歴史的には日が浅く、現国王(夫君ボードワン国王の甥)で6代目。すぐそばに位置するデンマーク国が少なくとも1000年を数えるのとは対照的だ。

 ウィキペディアによると、世界には27か国に王室があり、ヨーロッパだけで10か国、アジアに14か国、そしてアフリカに3か国が現存するという。つい昨日行われたノーベル賞の授与式では物理学賞に日本人研究者3名が受賞したので各テレビ局で何度も同じ場面が放映されたが、会場のストックホルムのあるスウェーデンも王国であり、授与者はグスタフ国王であったのが印象に残る。

 現スウェーデン王室はベルナドッテ家で、血統的には7代程度、それでも1500年代の初期に確立したスウェーデン王国を継承している。つまり、初期王朝の主家のみならず分家からも王位者が立ったということで、日本の「万世一系男系でなければ天皇家とは言えない」というのとは大きく違う。世界に冠たる大英帝国の王家でも同じようなもので、1700年前後にオランダから入ったオレンジ公の血筋が今に続くエリザベス女王である。

 日本の天皇家についての「万世一系男系」が、いかに硬直した捉え方であるかが分かるだろう。日本の場合、天武天皇からは万世一系と言っても良いが、それ以前の天皇家は今のヨーロッパ王室と同じように主家のみならず分家からも立ったであろうし、王朝が並立していたことが何度もあった。そう考えないと解けないのが古代以前の日本(倭人)の歴史である。

 しかし天武天皇(在位673年~686年)からとしても現在に至る1340年は「万世一系」なのであるから、実に古い。しかも天武時代には今日とそう変わらない天皇家の行事(祭祀)が形成され、連綿と継承されてきたわけで、そのことまで考慮に入れると、天皇家は今や世界で最も古く、かつ最も忠実に国家の安泰を中心とする祭事を司って来た有難い(得難い)王室ということになる。世界文化遺産ものだが、現在もたゆまずに行われていることからすれば「遺産」ではない。

( 強いて言えば、いま話題のノーベル賞の「平和賞」に該当しようが、そんなレベルのものではないので対象にはならないのだろう。仮に天皇家のために特に「スーパー平和賞」のような物が設けられても、天皇はお受け取りにならないだろう。)

 古い王室といえば、昔は「エチオピア王家だけは天皇家より古い」と言われたが、1974年に王制は廃止となり、ハイレセラシエ皇帝が最後の国王となってしまった。東京オリンピックの時(1964年)に、マラソンで優勝したアベベ選手は前回のローマオリンピックから二連覇ということで帰国後はハイレセラシエ皇帝から直々に賞誉された―という報道が当時あったので、その名は記憶に残っている。

 美智子皇后が無事にお帰りになるよう祈りたい。

 

 

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初霜と初氷(鹿屋市池園町)

 一昨日、高隈山に初冠雪があったが、地上でも冬の訪れが急ピッチだ。今朝は6時半の時点で周囲の畑にびっしりと霜が降りていた。初霜である。

 今日は7時から年末の集落一斉清掃があり、班の役員をしている関係で6時半に草刈りを行う道路に行き、7時からは班のメンバー総出で400mほどある長い集落道の法面(崖面)を刈って行った。

 自分は草刈り機を持たないので刈られた草を集めて法面の上の方に投げ上げる作業をしていったが、軍手をしていても指先がしびれるような冷たさを感じた。

 一時間くらいで終了し家に帰ったのが8時過ぎ。帰る頃には周辺の畑から霜は消えていたが、家の庭にはまだ名残りの霜と霜柱があった。Cimg1360 ハコベにびっしりと霜が着いていた。ちょっとエーデルワイスの白い花を思わせる。Cimg1357 畑の地面には霜柱。わずか5ミリほどだが、これも初。Cimg1361 近所にあるネギ用のビニールハウス群の間の通路を見ると、轍に溜まった水に氷が張っていた。Cimg1362 厚さは5ミリもないくらいの薄氷だが、10センチほどの角に割って持ち上げることができた。初氷である。

 昼のニュースで鹿児島市内でも初霜と初氷を観測したことが報じられたが、鹿児島は最低気温2.5℃だったそうで、普通なら霜も氷も有り得ない温度である。

 しかし今朝は無風でよく晴れたため放射冷却による「過冷却」現象でそうなったのだろう。

 鹿児島で2.5℃だと鹿屋では0.5℃位だったろうか、鹿児島で最も寒い伊佐市大口では-2.6℃まで下がっている。

 庭の花々もだいぶ少なくなったが、それでも夏から咲いているセロシアが霜にもめげずあでやかな赤をまだ燃え立たせている。Cimg1365 真夏より濃厚な色合いの驚くべきセロシア。Cimg1368 菊たちももう1ヶ月半くらい次々に咲き続けているが、今年のニューフェイスが現れた。

 これは藤色のやや大輪の分化ノジギクだが、同じ枝なのにごく一般的な平らな花びらに交じって管状の花弁が生まれている。真ん中の四輪のうち、上から2番目の花には特に強く表れている。

 最初のノジギク系の藤色の小輪から始まって今年で11年目。いろいろな分化花が現れて来たが、花弁の管状は初めてである。新しいステージに入ったのかもしれない。
















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高隈山初冠雪

 昨日の昼のニュースで「桜島が初冠雪した」とあったので高隈山もおそらく冠雪しただろうが、肝心の山頂部分が一日中雲に覆われていて視ることができなかった。だが、今日の夕方ようやく山容が全体を現した。Cimg1345_2 我が家の南側にあるイモ畑から見ると、たしかに向かって右手のピークが白い。Cimg1344 デジカメでは最大限に近い望遠を利かせると、だいぶ傾いた夕日が時折り雲間から光を放つごとに白々と写る。だが、心もとない白さだ。Cimg1352 強い西風にもかかわらず、あいにく西空は雲が厚いので日はたまにしか差さないし、手前の電線が被写体の邪魔になる。

 そこで我が家の西に300メートルほど行った所にある、遮る物なく高隈山の全部が望まれる茶畑に行ってみた。Cimg1353 するとほどなくして、高隈山の御岳(1182m)の山頂付近を日が照らし始めた。Cimg1356 目いっぱい望遠を利かせて撮り、パソコンに取り込んで編集の際、かなりコントラストを強くしたらはっきりとしてきた。なかなかの雄姿である。この山は標高800mくらいから上は岩峰なので少ない積雪でも白が映える。

 御岳の左手のピラミッドは妻岳(1145m)で、この山にも積雪はあるのだろうが、こっちは姿に似ず山頂付近まで目いっぱい叢生があるため白くは浮き出ないのだと思う。

 昨日の桜島の初冠雪は平年より10日早く、昨年よりは7日遅かったという。去年の初冬の寒さはちょっと異常だったが、今年も寒さがきつそうだ。

 インフルエンザに罹らぬよう、先手先手の手洗い・うがい・マスクの着用!!
















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大川内神社(鹿屋市吾平町神野)

 大川内神社(おおかわちじんじゃ)は鹿屋市吾平町を流れる姶良川の源流に近い神野地区(吾平町中心部から約8キロ)に鎮座する。Cimg1339 神野でも最奥に近い「永野牧」という集落を訪ねると、その少し手前からは美しい山村風景が広がる。左手に秀麗な「吾平富士」と呼ばれる中岳が聳え、その右手山麓の突端が大川内神社のある森である。Cimg1338 永野牧バス停から右折して橋を渡り、200㍍ほど行くと左側に鳥居が見える。ここから石段を上がると神社の前に出る。Cimg1331 6年前に来た時はこんなに整備されていなかった。Cimg1335 拝殿はもとより本殿も一新され、常の大隅の古社に似ない落ち着いた渋い色合いの外観だ。以前は朱塗りだった。Cimg1333 脇看板によると旧村社で、祭神はヒコホホデミ・ヒコナギサタケウガヤフキアエズ・タマヨリヒメ(后)・カムヤマトイワレヒコ・アヒラヒメ(后)の五神となっている。

 また、「古くは地王権現と称していた」とあり、慶安四年(1651年)の棟札があることから江戸時代の初め頃には社殿があったことが分かるという。

 さらに「主神吾平津媛(アヒラツヒメ)は、神武東征に御子手研耳命(タギシミミ)を随伴させ、みずからは吾平の地にとどまり、ひたすら夫の君やわが子の御東遷・武運長久を御祈りになったという。」と書かれている。

 この由緒書きでは問題になる箇所がある。

 それは祭神では神武天皇の皇后を「アヒラヒメ」(漢字では阿比良毘売)としながら、あとの説明では「吾平津媛」としていることだ。

 というのも、「阿比良毘売」という書き方は『古事記』からのもので、「吾平津媛」は『日本書紀』の書き方なのである。

 何だ、「ツ」があるかないかの違いじゃないの―と思われそうだが、実は古事記の方には阿比良毘売に手研耳(タギシミミ)のほかにもう一人の息子・岐須耳(キスミミ)がいたのである。

 だから祭神に阿比良毘売を挙げるのならば、東征に参加せずに現地に残った岐須耳(キスミミ)も祭神の一柱に加えなければ収まらない。

 母・アヒラヒメはここに残って東征に出た主人イワレヒコと息子タギシミミの無事を祈って没したのであるが、もう一人ここに残ったキスミミはその後どうしたのであろうか?

 古事記は杳として語らない。また、日本書紀はそもそもキスミミについての記載がないのだが、そのわけは何だろうか?

 以上の二点は謎のままである。

 帰り道、吾平山陵に立ち寄った。Cimg1329 永野牧からの姶良川もここまで来るとかなりの水量となる。Cimg1325 山陵入口の駐車場にある観光案内所(物産展示館)付近の紅葉はまだ落ち切っていなかった。Cimg1327 すっかり色付いたのとまだ緑色のが渾然一体。これはこれで見応えがある。Cimg1330 びっしりと生えた苔も見事だ。心あらば一首か一句を詠みたいところである。








 











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第3回道隆寺跡ミニコンサート(肝付町本城公民館)

 肝付町の大隅史談会理事で本城の道隆寺跡を発掘整備した福谷平氏が主催する「道隆寺跡ミニコンサート」は今年で3回目を数え、晩秋の風物詩になって来た感がある。

 トップバッターは大正琴のグループであったが、こちらの準備に追われて撮影を失念した。 Cimg1252 二番目は鹿屋オーケストラ・アンサンブルの皆さんによる歌曲から童謡・歌謡曲まで幅広い演奏。聴衆をぐっと惹き込んだ。Cimg1246 若い人もいるが多くはリタイヤ組だ。右から二番目の女性は何と御年90歳と言うから恐れ入る。今年夏に文化会館で行われた定期演奏会にも出演していた人である。Cimg1254 今年はハワイアン・フラダンスが登場。花を添えた。(後ろの広いガラス越しに広場の大銀杏が見えるが、逆光でカメラではよく撮れていない。)Cimg1256 詩吟。今年の人数はやや少ない。Cimg1259 去年も出演したギタリスト。自作の曲を弾き語る。Cimg1261 主催者の福谷氏によるハーモニカ演奏は「浜千鳥」。

 自分は去年に続き琉球三線で自作曲2曲を含め7曲を演奏し、うち2曲は参加者とともに唄った。まずまずの出来であった。

 (『おおすみ慕情』ほか二曲を動画にしてここに載せました。)

Cimg1265 ミニコンサートの締めは「ふるさと」と「今日の日はさようなら」をみんなで唄った。

 1時半から始まり終わったのは4時半近かった。

 また来年の出会いを楽しみに!!













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