野方の照日神社(曽於郡大崎町)
今日は定例の大隅史談会理事会があった。
3年前から年二回の理事会と役員会を、理事会は12月23日(祝)、役員会は4月29日と固定して開催するようになった。こうすることで招集する側は大変楽になった。理事のほうで日程を開けてくれるようになったのである。
12月23日の理事会は別名「編集会議」。来年の4月に発行する『ー史論集―大隅』の58号に寄せられた原稿を整理して、原稿をどの部分に入れるか、また総ページはどのくらいになるかを検討した。 会議は昼食を挟んで2時間ほどで終了。1月末から原稿のパソコン(ワード)への取り込み、執筆者校正を開始し、3月初旬までには終えることを確認して散会。
このあと自分は、21日の歴史講座(三国名勝図会研究)において疑問だった大崎町の「二石岡(ふたいしのおか)」を調査するべく、東串良経由で大崎町野方方面に向かった。 東串良町の池之原信号を左折して県道「黒石・串良線」に入り、北上して6キロほどで工事中の東九州自動車道の高架を見る。
高架をくぐって約3キロで道路右側に養鶏のジャパンファーム農場を見ると、その向かい側が「二石岡」で、振り返ると鳥居が見えた。この上らしい。
鳥居をくぐって後ろには農場の白っぽい鶏舎が立ち並んでいるのが見える。
途中で廃墟になった貯水施設を見ながら、孟宗竹林の竹の葉の積もった道を登ること200メートルほどで頂上部に着く。
頂上部は、地均ししたかと思われるほど平らで、直径15,6mの真円に近い円形である。
だが、『三国名勝図会』の説明にある「二つの大きな石」と「大崎郷内が一望される」のどちらもない。
二つの大きな石がどのような状態で置かれているのかが最も知りたいことだったのに、存在しなかった。代わりに国土地理院の三角点かと思われる角柱が埋められており、真ん中には石の祠があるだけ。 明治10年3月にここに設置されたことは分かったが、どんな神様が祀られているのかは皆目わからない。
それでも、祠があるということは何らかの宗教的な場所であることを示してはいる。それが何であるかは想像だが、「二石」は実は「蓋石」であり、埋葬施設つまり「古墳」かもしれない。
何しろ山頂部は平らで真円に近く、しかも今は山頂部以外はタブなどの自然林で埋め尽くされているので眺望はほぼゼロだが、『三国名勝図会』の説くように雑木が無ければまさに眺望絶景のきれいなピラミッド型の小丘なのである。
さて、そんな思いを残して小丘を下ったが、調査は余りにあっけなく終わったので、この先5キロのところにある荒佐野の「照日神社」まで足を伸ばして行くことにした。 先の道を北上すること5キロ、「荒佐」交差点に行き当たる。この向こうが照日神社だ。左右を走る道路は国道269号線。左へ行けば鹿屋方面、右は曽於市方面である。
社殿に上がる階段は5~60段はあり、登りきると右手にさらに10段で拝殿がある。
瓦葺の小ざっぱりとした社殿で、境内も広くチリひとつ落ちていない清潔感のある社域だ。
社務所横の壁に貼ってある照日神社の創建由来。
これによると、そもそもこの荒佐野地区は江戸時代の元禄元年(1688年)に大阪方面から移住してきた人たちが開拓した所で、先導者の出原氏が伊勢神宮を勧請し、ここに伊勢神社として祭ったそうである。明治初期に火災にあって再建された折りに、有明郷(隣村)の平野に鎮座していた「照日神社」を合祀し、名称を伊勢神社から照日神社に改めた―という。
祭神は伊勢の天照大神はじめ八幡神・春日神・住吉神・熊野神と、日本の大神と言われる神々を祭っている。(ただし出雲の国つ神オオクニヌシ系はない。)
照日神社の元の祭神が何であったかは書かれていないが、「照日」からして「天照」を連想させるから、アマテラス系(天つ神)だったに違いない。
また、『三国名勝図会』によると、入植してきた人々は和泉・摂津・土佐からの24戸(51人)だったそうで、一説では徳川氏に敗れた豊臣方の家臣たちであったという。
参拝を済ませ、社殿の向かい側にでんと構える「貯水タンク」の上に上がってみた。このタンクこそが照日神社のランドマークで、いつもこの神社の傍を通るたびに「おもしろい貯水タンクだ」と感心しつつも今日初めて登ってみることになった。 タンクの側面にこのように祭事の時の人々の様子がレリーフで描かれているのである。この写真はタンクを取り巻く通路から写したので大きくはっきり分かるが、下の国道からはもっと小ぶりにしか見えない。
右手には神職が笛・太鼓で演奏している姿、左手の三人は男装と女装に分かれて踊っている。 後ろはひょっとこ、前はおたふくで、鈴と杓子のような物を手にして踊る姿は色鮮やかだ。
この貯水タンクは昭和34年に完成しており、今年が55年目ということになる。おそらく神社の社域に造るにあたっては喧々諤々の論議が起こったに違いなく、反対者を説得するためにこのような祭りの様子を再現するレリーフを施そうというアイデアが生まれたのだろう。当時としては思い切った粋な計らいである。 しかもタンクの屋上には展望所があって登れるようになっているのだから、畏れ入る。
屋上から見下ろした国道沿いの家々は瓦屋根のしっかりとした家が多く、320年前に上方から入植した人々の末裔がまだ多いに違いない。
荒佐野は「荒れ地」を連想させるが、今は肥沃な土地柄となっている。
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