荒園遺跡(曽於郡大崎町仮宿)
「おおすみ歴史講座」の仲間5人と東回り九州自動車道に関わる大崎町の「荒園遺跡」に行って来た。 ここで発掘調査をしているN先生を訪ねたのである。この先生には2月の大隅史談会月例会で講話をしてもらうのだが、その時に使用する資料ができたというので貰いに行った。
しかしせっかくだからということで、講座生のメンバーを連れて遺跡を案内して頂くことにした。 この遺跡では、アカホヤ火山灰層の下から土器片が多く出ており、縄文早期(約8000年前)からの人の活動が示されている。
いまN先生が手に持っていいるのはV字型の濠の跡で、完全なVではなく片方はほぼ垂直に切られた「片薬研堀」だそうだ。
向こうでたくさんの作業員が発掘をしているが、その右手にこの「片薬研堀」が見つかったのだが、今はもう埋め戻されている。
N先生の話によると、濠の中の埋土中に、開聞火山由来の火山灰の層があり、その降灰年代は貞観年間(870年頃)と分かっているので、この濠は山城のための空堀ではなく、古代かそれ以前の濠の可能性があるという。
そんな時代にこのような「片薬研堀」が造られた前例はなく、今この濠の解釈に悩んでいるそうである。
資料を頂いてから辞し、時間があるので地元大崎町の講座生Tさんにいくつか史跡を案内してもらった。「山下家の六地蔵」(宝暦4年=1754年建立)
六地蔵と言えばふつうは六角の灯篭状の石塔を建て、六角の側面にそれぞれ地蔵像をレリーフするのだが、ここのは単体で六つ造立されている。極めて珍しいという。
六地蔵は「六道輪廻」のそれぞれの守護仏のことで、人間が餓鬼畜生から天界の住人に輪廻するまで見守る地蔵さんである。何千年もかかるらしい・・・。「都万神社」
参拝を兼ねて訪れる。説明看板が更新され、立派になっていた。Tさんは大崎町の文化財審議員、さすがに説明は慣れたもの。
都万神社は旧日向国内に5か所あるといい、ここは南限の都万神社という。祭神は木花咲耶姫(ニニギにミコトの妻)と立述主命とあるが、前者は天文9年(1540)に、原田地区の元宮からここへ遷座になったという。
後者の「立述主命」は「トコシロヌシ」と読むが、この神の来歴が不明で、おそらく「コトシロヌシ」(事代主)の誤認と思われる。
神社名は木花咲耶姫が天孫ニニギの「妻」だったから、「ツマ(都万)」と言うようになったものだが、後者が配された理由が分からない。
そこで、むしろ「コトシロヌシ」を祭神とした社がかなりの昔からあったところへ、天文9年に木花咲耶姫が合祀され、木花咲耶姫の神格の方が高いがために、「都万神社」名が称揚されるようになった―と考えた方がよいかもしれない。
同じく志布志湾に近い串良町にも、台地の上に「事代主神社」があることを考えると、ここもかってはコトシロヌシ神社だったとしてよいのではないか。
夜になって以上のようなブログの構想を練っているときに、テレビで衝撃的なニュースが報じられた。それもここに載せておく。
NHK午後7時のニュース(9時にも同じニュースを流したので、画像は9時の物を使った)で、宮崎県えびの市にある「島内地下式横穴墓群」の一つから、大量の副葬品と人骨がほぼ無傷のままそっくり発見されたという。 発掘現場は白いテントで覆われている。島内地下式横穴墓群は、JRえびの駅から西に4キロほど行った先にある。やや広い舌状台地の上である。
甲冑はじめ鉄刀・鏃・矢など400点の副葬品および人骨2体分。
発掘を担当した鹿児島大学の考古学者・橋本達也准教授も興奮気味だ。
このような豪華な副葬品が出土するとたいてい「畿内から伝わって来た」というような説明がなされるのがこれまでの常だったが、橋本准教授は南九州文化の独自性を強調し、対等とまでは言わないがかなり「相互に独立した関係」にあったというふうに考えているようだ。
何しろ、畿内から「地下式横穴墓」というものが伝来したわけではないことだけははっきりしているのだから・・・。
島内地下式横穴墓群は以前から豪華な副葬品が発掘されており、平成23年にそれらの大部分が国の重要文化財に指定されている。その内容はこちらで確認できる。
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