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鴨着く島の御来光

 1月4日。昨日までの三が日は御来光に恵まれなかった。今日こそはと思っていたのだが、また空振りだった。

 いい加減にして欲しい。自分の記憶では正月三が日の御来光が全く見られなかったという記憶がない。

 元旦がだめでも二日、二日がだめでも三日目くらいは必ず肝属山系の稜線の上から徐々に日の光が強くなる光景が見られたのだが、今年はそれがない。

 天気の悪いのは大晦日からで、そこから数えると今日で5日も御来光が無かったことになる。ここに住んでから11年目だが、こんなことは初めてだ。日中も東の空には常に帯状の雲が稜線の上にわだかまって動こうとしない。

 天気予報では1月3日は快晴、今日の午前中までは晴れの予報だったのだが・・・。ひょっとして東の方角で何か重大事の前触れか?

 御来光に見離された感じに業を煮やし、7時過ぎに肝属川河口の波見港まで行ってみることにした。

 12月30日に今度開通した東九州自動車道の笠野原IC付近の道路上から日の出を写真に撮った時に、太陽の昇る位置がちょうど波見の権現山あたりだったのに気付いたからだ。Cimg1832 7時30分過ぎに肝属川河口に架かる「波見第二大橋」に到着。どうやら権現山の向こうから日が昇りそうだ。Cimg1840 ところが同じ場所から権現山の中腹を眺めていても一向に太陽は顔を出さない。Cimg1842 そこでもう少し北寄りにある「波見第一大橋」に行ってみると、まさにどんぴしゃり、権現山のもう一つ向こうの尾根筋から太陽が上がっていた。

 朝日を反射するこの水面は「汐入川」で、左手の家々は東串良町の柏原漁港である。Cimg1843 右手奥にはわずかに対岸の肝付町波見地区の一部が見える。Cimg1846 橋の反対側は汐入川の上流だが、ずうっと先のほうには高隈山系が霞んでいる。Cimg1847 早朝の清々しい風景に見入っていると急にどこかからか軍艦マーチの大きな音が流れて来た。振り向くとたくさんの消防車が勢揃いして次々に道路を右折して行く。

 軍艦マーチの合間にスピーカーから「今日は消防出初式です。皆さんの応援よろしく」とか何とか言っているのが聞き取れた。そうか、道理でさっき通って来た肝付町の道路にも消防団の車と法被を着た団員たちが集まっていたんだ、と納得。Cimg1851 ここでも山地の上空には黒い帯状の雲があるから、あと30分もすれば朝日は隠れてしまいそうだ。わずかな隙間とはいえ海面近くの晴れ間からようやく日の出を拝めた。わざわざ来た甲斐があったというものだ。

 この東串良町柏原と対岸の肝付町波見の間の肝属川河口一帯は絶好の船溜まりで、ここが「神武東征」の出発地である。

 「東征」というとおどろおどろしいが、結局は「移住」と言い換えられる。その理由はこの地方の経済的困難や自然災害、とくに桜島や開聞岳、硫黄島のような活火山による噴火がおおいに関係している。

 2011年の1月26日に霧島山系の「新燃岳」が突然大きな噴火を起こしたことは記憶に新しいが、あのとき強い西風によって都城市方面に多量の降灰があったのだが、三股町あたりでは一面に3~4センチも積もり、「今年は、田んぼは作れんなあ」などと言われていた。

 たった3,4センチでそう思わせるほど、火山灰は田んぼにとっては厄介な代物なのである。(現代は除灰に機械が使えるので、その年の米作りは可能だったが―。)

 これが10センチ、20センチだったら、現代でもお手上げだろう。まして米作りを開始したばかりの弥生時代に、そんな降灰があったら完全に米作り機能はマヒし、下手をすれば飢餓により集落が全滅の危機ともなろう。

 度重なる降灰・台風など南九州は災害の常襲地帯で、そういうものの無い土地への憧れは強かったはずで、それが南九州からの移住という「東征」を生んだのである。

 実際に出航したのは一回切りではないだろう。何派にも分かれて移住が行われたに違いない。

 特に大船団だったのが俗に言う「神武東征」で、これは大隅半島一帯からの人々を集め、日向灘を北上して豊後・豊前・筑前を経由して安芸(広島)や備中・備前(岡山)には7年前後という長期滞在をし、最終的に畿内大和地方に移住地を定め、「大和王朝を開いた」とされる。

 行ったのは吾平津媛(アイラツヒメ)の夫・神武と長男・タギシミミで、アイラツヒメと弟の岐須美美(キスミミ)は大隅に残った(2世紀)。

 ところが、この残ったキスミミのそれ以後のことは古事記には書かれていない。しかし漢字の「岐須美美」は、同じく漢字で肝属のことを「岐毛豆岐」と書くことから「岐」が共通であり、「岐」は「船戸」(ふなど=港)の意味であるから、キスミミはこの肝属川河口に定着したのではないかと考えられる。(岐毛は鴨と考えてキモツキを鴨着く島とするのが自分の説である。)

 後世に史書に登場する「肝衝難波(きもつきなにわ)」という大隅の豪族の祖先である―と自分としては考えている。河口近くにある国指定の塚崎古墳群(4~5世紀)や唐仁古墳群(5世紀)などに眠る王者たちもやはりキスミミ一族だろう。

 キスミミ一族は港を管轄し、海の交易に活躍した人々と考えると、大隅の歴史はダイナミックなものとなる。
 















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