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玉泉寺公園の桜(鹿屋市吾平町)

 先々週の土曜日に開花宣言のあった鹿児島。最初の開花があると約一週間後に満開を迎えると言われている。

 しかし開花宣言の後はしばらく寒い日が続き、つぼみのままの状態だったが、ここ二、三日の高温で開花は一気に早まり、今日行ってみた玉泉寺公園では満開かと思わせるほど花が開いていた。Cimg2666Cimg2667 だが、桜に近寄ってよく見ると、実は8分咲きというところである。Cimg2670 明日あたりが満開だろうか。しかし満開を迎えるとすぐに散り始めるのが桜の性で、今度の土日ではおそらく葉桜になりかかっているだろう。Cimg2669 玉泉寺はその名の通り泉が湧く地に建立された。今でも大きな池が美しく残っている。Cimg2676 この寺跡が公園になったのは1983年。国際児童年に因むという。Cimg2668 この桜は園内で一番大きく、樹形も見事で、多分1983年に記念樹として植栽されたものだろうが、30年でここまで育つとは手入れもいいのだろう。Cimg2682 そもそも玉泉寺とは、開山が越後出身という源翁(げんのう)和尚で、曹洞宗の寺であった。源翁(1329年~1400年)は曹洞宗総持寺で修行ののちおもに関東地方でいくつかの寺を建立し、最後は茨城県結城市の豪族・結城氏に招かれ、結城氏の菩提寺を建立しそこで亡くなっている。

 そんな源翁がなぜ遠きも遠しこの吾平の禅寺の開山になったのか、謎だが、もちろん当時の吾平地方の豪族の招きであったに違いない。南北朝末期の豪族といえば大隅では筆頭が肝付氏である。しかし肝付氏には道隆寺という立派な禅寺があった。推測で言えば、当時の吾平の豪族には平良宗(季基の弟)の後裔で「得丸氏」「末次氏」などがいて命脈を保っていたと思うから、彼らのうちの誰かであろう。Cimg2672 公園内の一番高い所には歴代の僧侶の墓がある。南北朝末期から廃仏毀釈の明治初年まで500年の歴史もここに眠っている。Cimg2683 小高い僧侶墓地の下には湧水がある。これが「玉泉」という名の由来である。Cimg2684 比高で20㍍はあるシラス崖の下から、清冽な水がこんこんと(というよりか、ざあざあと)流れ出てくる。

 掬って飲むとたしかに美味い。たまに水汲みに来る人を見かけるが、これでお茶を淹れたら文字通りの「玉露」になるにちがいない。


























 

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危うし、桜島!

 一日当たりの桜島の爆発回数がついに過去最多を記録した。Cimg2628 その数何と27回。(画像はМBCテレビ18時のニュースナウより)

 ところが今これを書いている23時半現在、鹿児島気象台発表の火山爆発速報ではちょうど30回となっている。恐るべし!Cimg2630 夕方5時半までに27回で昨日の26回を超えて最多記録となり、このあと3回爆発したことになる。そういえば昨日も今日も高隈連山が終日霞んで見えていた。Cimg2632 爆発回数の増加したのは「マグマの供給量の増加」と「爆発で飛び上がった火山灰や噴石などが再び火口に落ちて塞ぐので、その分爆発が増える」のが原因だという。Cimg2634 鹿児島気象台の防災担当職員は「心配なことは起きていない」と、県民に冷静を呼びかけている。

 なるほどそれはそうで、1回の爆発の際に巨大な噴石などが火口にまた落ちたらもう1回それを吐き出そうとして爆発(再爆発)しているだけだから心配には及ばないのかもしれない。

 しかしそもそも爆発回数が多いからこそ、それに比例して再爆発も増えて全体として過去最多を記録したのだから、ここはやはり注意を喚起しておいた方がいいように思う。

 気象台が「危ない」といえば住民がパニックを起こすだろうからなるべく控え目な広報を心がけるーという姿勢は分かるが、「一月以来、山体膨張が観測され、マグマの上昇が懸念される中で爆発回数が目に見えて増加しているので、近隣の住民の方々は十分な注視と、いざという時の避難への備えを考慮してください」くらいな広報があってしかるべきではないか。

 備えあれば憂いなし!

 


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桜の開花(鹿屋市南町)

 今朝のNHKテレビニュースで、鹿児島のソメイヨシノの開花宣言が出されたと知った。Cimg2599 鹿児島気象台の敷地内にある標本木のソメイヨシノが四輪の花を咲かせたという。

 10日ほど前の開花予報では、鹿児島の開花は3月26日だったから5日も早いことになる。その頃から冷え込みの強い日が続いて花芽の分化を促進し、昨日今日とぐっと気温が上がったせいだろう。

 天気予報は当たらないと困るが、ソメイヨシノの開花が前倒しになったからといって困る人はいないから、うれしいニュースである。

 それなら、というわけで、当地の桜前線はどんなものかと探りに行ってみた。サクラは開花前に冷え込みの強い場所ほど早く咲くので、南町の山間部にある運動公園を訪れた。Cimg2611Cimg2610

我が家からほぼ真南に3キロ余り、人家も途切れてすぐそこまで山が迫る場所にある「南町運動広場」。五反ほどの広さの芝生の植えられた公園のぐるりにソメイヨシノが植えられている。Cimg2600 しめた、もう開花どころか1分咲き程度のものが4,5本あるではないか!やはり日当たりの良い所のソメイヨシノよりかは咲くのが早い。原則通りだった。Cimg2605Cimg2603 これから咲こうかという蕾の淡いピンクが何とも言えない(ややピンボケだが・・・)。Cimg2607 道路の反対側を流れる小川も、さらさらと、唱歌の文句のよう。Cimg2608 と、小川の向こうの方の林の中に何やら白い花が、畳二枚ほどの広さの群落をなしている。Cimg2609 純白のミニトランペットのような形状の花が、横向きに打ち上げられた花火のように咲いている。何という花だろう。

 誰も知らないところで春の花が賑やかに咲いている。春を唱っている。






















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日本が国連の常任理事国になれない理由

 昨日の3月16日に東京渋谷区に本部が置かれている国連大学で「国連創設70周年記念シンポジウム」が開かれ、国連大学学長や潘基文国連事務総長などの講演の後に安倍首相が演説したが、その中で「国連安全保障理事会の常任理事国になる用意がある」と述べた。Cimg2565Cimg2566 安倍首相は「国連加盟して来年で60年になり、その間、世界の平和と安定のために多くの活動と資金供与をしてきた。その額は分担金で200億ドル、その他の援助額は3000億ドルを超える。そのような貢献を積み上げて来たので常任理事国になる資格がある」(要旨、詳しくは上記の演説全文を参照)と強調したが、このような演説はもう20年以上前から、ドイツなどとともに言って来たのであるが、国連総会では賛成されていない。

 いや、賛成国は圧倒的に多いのだが、現常任理事国である米英仏露中(共産党政府)の全会一致が無いためにいまだに採用されていない。

 実は常任理事国になるためにはまず、国連発足当時の連合国の定めた「敵国条項」(反連合国=枢軸国に対する取り決め)が削除されなければならないのだが、それすら採択されていない。

 どちらも露・中の反対で日の目を見ないのであるが、米英も内心は日本が常任理事国になることには反対しているはずである。そのため、積極的に露中の反対をなだめる側に立とうとしないのだ。

 

 そもそも現国連は反枢軸国声明である米英による「大西洋憲章」が下書きになって作られた「国連憲章」に基づいて創設されたわけであるから、いまだに「日独及びその他、反英米仏ソの枢軸国だった国々は国連(連合国)の敵であり、今度、また我々に刃向ったら只じゃ済まない。再び集団的自衛権を行使したやっつけてやる」という理念のもとにある機関である。

 (ここで「集団的自衛権」が出て来たが、これが本来の集団的自衛権なのだ。つまり連合国側のいずれかの国が旧枢軸国により戦争を仕掛けられたら今度もみんなでやっつけましょう―というのが国連憲章における「集団的自衛権」の概念なのである。)

 ところで、社会主義であるソ連やそのコミンテルン指令のもとに生まれた共産中国が安全保障理事国になっているのは、「反日」が根底にある。

 中国は本来、中華民国(のちの台湾)こそが対日戦の当時国であり、事実、国連創設時には常任理事国だったのだが、1971年に中国共産党政府の国連加盟が承認されるとたちまち中華民国は追放され国連を去った(去らざるを得なくなった)。

 共産中国は朝鮮戦争の時にはアメリカと戦っている、つまり反米国家であったにもかかわらず、忠実な対米従属国であった中華民国(台湾)は追放されてしまい、こともあろうに常任理事国の椅子まで手に入れたのである。

 この点では国連憲章もへったくれもなく、ただ共産中国の革命第一世代が日本へ歩み寄りを見せ始めた(LT貿易が典型)のに危機感を覚えたアメリカ側のいわゆる「頭越し外交」によって、いっきに日本と共産中国との間に楔を打ち込んだのである。その当時の国務長官(外務大臣に相当)キッシンジャーの策略であった。米中はお互いに認め合い、以後、中国は「反日」政策に方向転換することになった(おそらくキッシンジャーの献策であろう。ユダヤ人キッシンジャーは憎きヒットラーと手を結んだ日本を評価していないのである)。

 

 日本がいくら国連に貢献しようと、今の国連の安全保障理事会に中国共産党政府が拒否権を持つ常任理事国の地位にいる限り、中国は絶対に日本の常任理事国入りに反対するであろうから、どう訴えてもなれないのである。

 ロシアも反対の立場に立つであろうし、肝心のアメリカもおそらく積極的には賛成しないだろう。国連憲章の下書きである大西洋憲章を作った当時国だからだ。(中国の反日・侮日政策を後押ししたのも元はといえばアメリカなのだ。)

 分担金や何やらでおそらく世界一の貢献国でありながら、実質上の「敵国」状態。これが国連加盟59年を迎えた日本の現実である。

 一度、「敵国条項を削除しないなら、国連分担金は凍結する。条理に合わない」と大見得を切ったらどうか、安倍さん。

 いくら周辺事態法などによって海外出兵ができるようになったからといって、じゃあ日本を連合国扱いにしましょう―とは決してならないのが、今の国連であり、国連憲章なのである。中国共産党政府が崩壊するのを待つしかないのかもしれない。

 それでは日本はどうすればよいか。

 海外出兵ができるように憲法をいじるのなら反対だ。アメリカのご都合主義のイラク戦争などに巻き込まれるのはまっぴら御免蒙る。

 「専守防衛のための戦力は持つ」ことは前提としつつ、9条の2項をに次のように変えていくしかないのではないか。

【日本国憲法・第9条】(現在の条文)

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。

②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 

 

・変更後の②項の条文

②国の防衛のための戦力は、これを保持し(専守防衛)、前項の目的を達成するため、永世中立国となる。

※永世中立国となって現国連をおさらばしたいところだが、永世中立国で50年以上も国連に加盟していなかったスイスが10数年前に加盟しているので、それに見習って一応加盟は維持しておきたい。なお、スイスはかっては国民皆兵制度を採っていた。

 永世中立国化は、日本がこの70年間、国際的紛争を武力によって解決したことの、いまだかってない現状ならそう勝手に宣言してしまえばよい。世界が認めるだろう(一番いいのは天皇が世界に向かって宣言されることである)。

 ところが、海外出兵を行い、集団的自衛権の行使とやらで戦闘に参加してしまったら、果たして宣言が有効かどうか(世界に認められるかどうか)怪しくなるのだ。

 このあたりのことについては、おいおい学んで行きたい。

 

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小烏神社(鹿屋市野里町大津)

 小烏(こがらす)神社は鹿屋市の西南部、野里町にある。

 最初に神社案内で掲載された神社名をみて「小鳥(ことり)神社」と読んでしまい、珍しいが適当な神社名が他になかったのかなどと、苦笑したのだったが、よく見ると鳥ではなく烏なのであった。

 この神社は、見るからに野里地区の水田地帯である大津という集落の鎮守様のようなタイプの神社である。Cimg2547 大津集落自体が広大な野里田んぼの川に臨んだ微高地に展開しており、まるで高須川を天然の濠にしたかのように半分は川に囲まれている。Cimg2537 高須川に架る「大津橋」。川の左手一帯(川の流れから見れば右岸一帯)が大津集落である。(神社は左手に見える民家の向こうの丘の上にある。)
 このブログを書き始めて間もなくのころ、大隅半島の大小の河川を訪ねて「流域散策」というタイトルのものを掲載してきた中で、何番目かに探訪した「高須川流域散策」でも触れることは触れているが、さして歴史のある神社とは思わなかったのでほとんどパスしてしまった。Cimg2545 それが、去年の秋分の日に相撲大会があると知って見に行ってから、「いや待てよ、これは相当由緒のある神社だな」と直感したのである。というのは、参加していた子供たちは特にスポーツ少年団の相撲部というような小学生ではないのに、ちゃんとした回しを着けて相撲を取っていたのである。(写真=相撲大会の会場となっていた駐車場から)Cimg2552 高さ4メートルほどもある大きな鳥居(昭和41年の竣工)をくぐり、割と広い境内の先の階段を25段ばかり登ると社殿だ。参拝所には瓦葺の軒がかかり、その支柱の上に横に嵌め込まれた桁には唐草文様が描かれている。これも昭和41年に修築されたのだろう。Cimg2548 参拝を済ませ、拝殿から振り返ると鳥居の向こうに広がる野里田んぼが望まれる。Cimg2532 広大な野里の田んぼ地帯。小烏神社の拝殿から眺めた先がちょうどこのあたりである。

Cimg2543 さて、さっきの相撲大会が行われた鳥居の下まで戻り、道路を左手へ行くと高須川に出、そこには「大宮橋」が架かっている。(写真=橋から神社方面を振り返る。神社はすぐ後ろの丘にある)

 この大宮橋といい、集落に入るときに渡った大津橋といい、どちらもさほど人口は多くなかろうと思われる大津集落のためだけにこのような立派な橋が架けられたのではないだろう。やはり小烏神社というお宮が鎮座地していることが大きいのではなかろうか。

 そこで、小烏神社の由緒の話に戻るが、正式なまわしを着けた子供たちが相撲を取っていたことで連想したのが、京都の上賀茂神社(祭神ワケイカヅチ=下鴨神社祭神カモタケツヌミの孫神)で開催される「重陽の烏(からす)相撲神事」である。

 上賀茂神社では毎年重陽の節句(9月9日)に「烏相撲」が小学生の子供たちによって行われるのであるが、やはり正式なまわしを締めて執り行われる。この神事は全国ニュースで必ず流されるが、自分も、9月9日の夜のニュースか何かで見ていたので秋分の日に行われていた小烏神社の子供相撲にはっと結びついたのである。

 小烏神社の祭神は中島宮司によると「彦ホホデミ」で、京都の賀茂神社(上賀茂がワケイカヅチ、下鴨がカモタケツヌミ)とは違っている。鹿児島県神社庁に問い合わせても「ホホデミ」は変わらない。小烏神社が宗教法人取得を申請した時に「彦ホホデミ」として申請したのであるから当然と言えば当然だ。

 しかし、彦ホホデミと言えば、天孫降臨後二代目の皇孫で、鹿児島神宮の主祭神である。それならば、小烏神社は鹿児島神社とか野里八幡宮のような名称にならないとおかしい。奇妙な「コガラス」などという名を付けるはずがないだろう。

 そこでインターネットで調べてみると、小烏神社は福井県までの西日本各県で12社が確認できた。鹿児島県では一県だけで四社、福岡県に二社、その他の県ではそれぞれ一社という具合で、鹿児島が一番多い。さらに祭神では「カモタケツヌミ」「ヤタカラス」「カラス」の類が全体の40㌫を占めており、この祭神グループこそが「小烏神社」の祭る本来の神であるとして間違いないだろう。

(※下鴨神社のカモタケツヌミは神武東征の時に神武軍が熊の山中で道に迷った時にカラスに化身して神武軍を安全に導いたとされる(『山城国風土記(逸文)』ので、カモタケツヌミとカラスは同一範疇に入る。また、同記によるとカモタケツヌミは「曽の峰に降り、神武に先立って葛城山に遷り、最終的には現在の社地である京都北郊に遷ってそこに鎮まったのである。)

 野里の小烏神社では古来からの由緒が分からず、おそらく祭神も天孫降臨らしき神だろうから―というわけで、ホホデミにして登録したのではないか。ニニギでもよかったのかもしれないが、ニニギではここから5キロほど北西の花岡町に著名な「高千穂神社」(祭神ニニギノミコト)があって、それは出来なかったのだろう。

 そこで自分はこの小烏神社の祭神もカモタケツヌミと考えるのだが、もしかしたらこの野里大津こそが下鴨神社(主祭神カモタケツヌミ)のふるさとかも知れないと想像をふくらませてみたいのである。Cimg2539 大津橋から見る高須川とその左手、高須川に囲まれたような大津集落。川のはるか向こうには高隈連山が霞んで見える。高須川はその山中から流れて来る。

 高隈連山こそが『山城国風土記(逸文)』に云うカモタケツヌミの降臨した「曽の峰」ではないだろうか。

 




 

 

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垂水歴史散歩

 垂水市内に所用があり、土曜日の午後3時間ほど城址を中心に回ってみた。Cimg2425 垂水文行館という名の歴史資料施設に管理者のKさんを訪ね、まずは資料館内を案内してもらった。同行はH君である。

 文行館という名は垂水を治めていた垂水島津家(始祖は島津15代貴久の弟の忠将)が、1770年頃に創立した家臣のための学問所のことで、それを記念するために現代に復活命名した。豪商で御用商人であった川井田氏の旧店舗を改築して使っているとのことであった。Cimg2427 個人の倉などにあったものが展示されており、中には当地出身の画家・和田英作の作品などもある。垂水島津家15代・16代あたりは明治維新後にかなり困窮していたようで、御用商人の川井田氏の援助が大きく、そのため「質草」のような形で預かったりしたものも多いらしい。Cimg2421 珍しいものでは薩摩の日本画家では「みごったんげん(見事、探元)」と称賛された木村探元(狩野探信の弟子)の三対の吉祥掛け軸が無造作にぶら下げられていたり、Cimg2423 元帥東郷平八郎直筆の書もあったりする。

 右『宝祚これ永く、暉光日に新たなり』(日本の皇室は永遠にして、その光は日々新たである)。左『聖人は仁義礼智を以てその情中に○○せしむる也』。(左の最後から1,2番目の漢字は読めず)Cimg2429 色鮮やかな垂水人形もある。垂水人形は途絶えていたが、垂水史談会会長の中島信夫先生が復活させた。

 一通り説明を聞いた後で、Kさんにお願いして「元垂水城」と「高城」の城址を案内してもらった。Cimg2434 元垂水城入り口。元垂水城は三州バスバス停の「元垂水」から荒崎パーキングに向かって、国道のすぐ上のあるシラス台地の上にある。Cimg2432 入り口から100mほどか、途中右手に二の丸跡らしい畑を見て、さらに3,40m上がると本丸跡に着く。ここも畑に使われていて最近耕したらしく、雑草などは何にも生えていない。Cimg2431 一カ所見下ろせるところがあって覗くと、結構な高さである。さっきの元垂水バス停あたりからすると比高にして100mはあるのではないか。

 『三国名勝図会』の垂水郷の項によると、

< この城は垂水村市来(木)にある。保安4(1123)年、上総介舜清、下大隅に下向してこの城を居城とした。しかし同年蒲生・吉田の領主となり蒲生に移った。その後は伊地知氏の所領となるが、文禄4(1595)年、川田氏が地頭として垂水に赴任した。>

とある。上総介舜清という人は豊前宇佐神宮の社司であったようで、この垂水を宛がわれ、その後すぐに蒲生に所領替えになり、蒲生氏を名乗っている。Cimg2435 次に高城跡を訪ねる。ここは以前にも訪ねた「勝軍地蔵」のお堂のすぐ北側にあるシラス崖の上にある。Cimg2437 いきなり狭い「空堀」がずうっと続いている。ほぼ垂直で、上から掘り割ったのだという。比高は25~30mほど。Cimg2438 やや広い空間に出たあと、人ひとりがやっとの通路に行き当たる。Cimg2449 その隘路を反対側から見たところ。Cimg2445 掘った人夫がたわむれに描いたとされる人(子ども)の似顔絵(らしい)。3㍍くらいの高さに彫られている。

 この高城は肥後氏の居城とされている。肥後氏の出自は種子島氏(平家)だそうで、種子島氏の始祖信基の3代目分流信清から肥後氏を名乗っている。その何代目かが当地に入りこの城を築いたようである。時期は鎌倉後期とされる。

 この上はかなり狭く、居住用の城ではなかったと思われる。戦いで不利な時に逃げ込む「砦」のような機能をしたのではないだろうか。いずれにしてもトンデモナイ空堀であった。

 (最後に垂水家島津墓地にも行ったが、以前にも書いたことがあるので今回はパス)

※垂水は垂水島津家という戦国末期から江戸時代を一貫する島津一門家が存続したため、ただでさえ歴史的遺産が多いうえに、南北に町が長く、それぞれの地域での歴史も重なって奥の深い地域である。ただし古代以前に関しては「柊原貝塚」を例外として解明がやや遅れている。

















 








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岩ツツジが咲く(鹿屋市萩塚・池園町)

 このところぐずついた空模様が続く。桃の節句が過ぎたのに春が足踏みをしている。

 しかし晴れれば晴れたでスギ花粉の大乱舞となるから喜んでばかりはいられない。おまけに中国大陸のほうからは黄砂も飛んで来る。加えて大隅半島方面には桜島からの降灰もある。

 午前8時過ぎに吾平の温泉センター「湯遊ランド」に入りに行ったら、道々にもう岩ツツジが咲いている家があった。帰宅してからデジカメで撮影してきた。Cimg2407 萩塚町の民家入り口。高さが3㍍以上はあり、岩ツツジにしては大きい方だ。Cimg2409 上のアップ。太い幹ではなく細い幹がたくさん立ち上がっている。Cimg2410 道路沿いのよく目立つ岩ツツジ。Cimg2411 小奇麗に造られた庭園の中にある。中から見たら佳い風景だろう。Cimg2415 萩塚町は岩ツツジを植えている民家が多いが、ここは初めて目にする。常緑樹の木々に埋もれている。外からも見えにくいが、中からも見るのが難しそうだ。Cimg2414 伸び上がって写したらなかなかのもの。蓮華色が何とも清々しい。Cimg2418 池園町の田園地帯では菜の花があちこちに咲いている。Cimg2416 池園町の民家の間の路地の角にある「田の神(タノカンサ―)」は、節句の桃の花が飾られ、白と赤で化粧している。ミニミニひな壇もある。どうやら女神さまのようだ。Cimg2420 最後に回った道路際の民家の入り口では、クチナシの花が丸く仕立てられて良い香りを漂わせている。これぞ、おもてなしの心と見た。

  春寒や こころにかほる 花の家 (おそ松)

























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