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垂水歴史散歩

 垂水市内に所用があり、土曜日の午後3時間ほど城址を中心に回ってみた。Cimg2425 垂水文行館という名の歴史資料施設に管理者のKさんを訪ね、まずは資料館内を案内してもらった。同行はH君である。

 文行館という名は垂水を治めていた垂水島津家(始祖は島津15代貴久の弟の忠将)が、1770年頃に創立した家臣のための学問所のことで、それを記念するために現代に復活命名した。豪商で御用商人であった川井田氏の旧店舗を改築して使っているとのことであった。Cimg2427 個人の倉などにあったものが展示されており、中には当地出身の画家・和田英作の作品などもある。垂水島津家15代・16代あたりは明治維新後にかなり困窮していたようで、御用商人の川井田氏の援助が大きく、そのため「質草」のような形で預かったりしたものも多いらしい。Cimg2421 珍しいものでは薩摩の日本画家では「みごったんげん(見事、探元)」と称賛された木村探元(狩野探信の弟子)の三対の吉祥掛け軸が無造作にぶら下げられていたり、Cimg2423 元帥東郷平八郎直筆の書もあったりする。

 右『宝祚これ永く、暉光日に新たなり』(日本の皇室は永遠にして、その光は日々新たである)。左『聖人は仁義礼智を以てその情中に○○せしむる也』。(左の最後から1,2番目の漢字は読めず)Cimg2429 色鮮やかな垂水人形もある。垂水人形は途絶えていたが、垂水史談会会長の中島信夫先生が復活させた。

 一通り説明を聞いた後で、Kさんにお願いして「元垂水城」と「高城」の城址を案内してもらった。Cimg2434 元垂水城入り口。元垂水城は三州バスバス停の「元垂水」から荒崎パーキングに向かって、国道のすぐ上のあるシラス台地の上にある。Cimg2432 入り口から100mほどか、途中右手に二の丸跡らしい畑を見て、さらに3,40m上がると本丸跡に着く。ここも畑に使われていて最近耕したらしく、雑草などは何にも生えていない。Cimg2431 一カ所見下ろせるところがあって覗くと、結構な高さである。さっきの元垂水バス停あたりからすると比高にして100mはあるのではないか。

 『三国名勝図会』の垂水郷の項によると、

< この城は垂水村市来(木)にある。保安4(1123)年、上総介舜清、下大隅に下向してこの城を居城とした。しかし同年蒲生・吉田の領主となり蒲生に移った。その後は伊地知氏の所領となるが、文禄4(1595)年、川田氏が地頭として垂水に赴任した。>

とある。上総介舜清という人は豊前宇佐神宮の社司であったようで、この垂水を宛がわれ、その後すぐに蒲生に所領替えになり、蒲生氏を名乗っている。Cimg2435 次に高城跡を訪ねる。ここは以前にも訪ねた「勝軍地蔵」のお堂のすぐ北側にあるシラス崖の上にある。Cimg2437 いきなり狭い「空堀」がずうっと続いている。ほぼ垂直で、上から掘り割ったのだという。比高は25~30mほど。Cimg2438 やや広い空間に出たあと、人ひとりがやっとの通路に行き当たる。Cimg2449 その隘路を反対側から見たところ。Cimg2445 掘った人夫がたわむれに描いたとされる人(子ども)の似顔絵(らしい)。3㍍くらいの高さに彫られている。

 この高城は肥後氏の居城とされている。肥後氏の出自は種子島氏(平家)だそうで、種子島氏の始祖信基の3代目分流信清から肥後氏を名乗っている。その何代目かが当地に入りこの城を築いたようである。時期は鎌倉後期とされる。

 この上はかなり狭く、居住用の城ではなかったと思われる。戦いで不利な時に逃げ込む「砦」のような機能をしたのではないだろうか。いずれにしてもトンデモナイ空堀であった。

 (最後に垂水家島津墓地にも行ったが、以前にも書いたことがあるので今回はパス)

※垂水は垂水島津家という戦国末期から江戸時代を一貫する島津一門家が存続したため、ただでさえ歴史的遺産が多いうえに、南北に町が長く、それぞれの地域での歴史も重なって奥の深い地域である。ただし古代以前に関しては「柊原貝塚」を例外として解明がやや遅れている。

















 








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