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小烏神社(鹿屋市野里町大津)

 小烏(こがらす)神社は鹿屋市の西南部、野里町にある。

 最初に神社案内で掲載された神社名をみて「小鳥(ことり)神社」と読んでしまい、珍しいが適当な神社名が他になかったのかなどと、苦笑したのだったが、よく見ると鳥ではなく烏なのであった。

 この神社は、見るからに野里地区の水田地帯である大津という集落の鎮守様のようなタイプの神社である。Cimg2547 大津集落自体が広大な野里田んぼの川に臨んだ微高地に展開しており、まるで高須川を天然の濠にしたかのように半分は川に囲まれている。Cimg2537 高須川に架る「大津橋」。川の左手一帯(川の流れから見れば右岸一帯)が大津集落である。(神社は左手に見える民家の向こうの丘の上にある。)
 このブログを書き始めて間もなくのころ、大隅半島の大小の河川を訪ねて「流域散策」というタイトルのものを掲載してきた中で、何番目かに探訪した「高須川流域散策」でも触れることは触れているが、さして歴史のある神社とは思わなかったのでほとんどパスしてしまった。Cimg2545 それが、去年の秋分の日に相撲大会があると知って見に行ってから、「いや待てよ、これは相当由緒のある神社だな」と直感したのである。というのは、参加していた子供たちは特にスポーツ少年団の相撲部というような小学生ではないのに、ちゃんとした回しを着けて相撲を取っていたのである。(写真=相撲大会の会場となっていた駐車場から)Cimg2552 高さ4メートルほどもある大きな鳥居(昭和41年の竣工)をくぐり、割と広い境内の先の階段を25段ばかり登ると社殿だ。参拝所には瓦葺の軒がかかり、その支柱の上に横に嵌め込まれた桁には唐草文様が描かれている。これも昭和41年に修築されたのだろう。Cimg2548 参拝を済ませ、拝殿から振り返ると鳥居の向こうに広がる野里田んぼが望まれる。Cimg2532 広大な野里の田んぼ地帯。小烏神社の拝殿から眺めた先がちょうどこのあたりである。

Cimg2543 さて、さっきの相撲大会が行われた鳥居の下まで戻り、道路を左手へ行くと高須川に出、そこには「大宮橋」が架かっている。(写真=橋から神社方面を振り返る。神社はすぐ後ろの丘にある)

 この大宮橋といい、集落に入るときに渡った大津橋といい、どちらもさほど人口は多くなかろうと思われる大津集落のためだけにこのような立派な橋が架けられたのではないだろう。やはり小烏神社というお宮が鎮座地していることが大きいのではなかろうか。

 そこで、小烏神社の由緒の話に戻るが、正式なまわしを着けた子供たちが相撲を取っていたことで連想したのが、京都の上賀茂神社(祭神ワケイカヅチ=下鴨神社祭神カモタケツヌミの孫神)で開催される「重陽の烏(からす)相撲神事」である。

 上賀茂神社では毎年重陽の節句(9月9日)に「烏相撲」が小学生の子供たちによって行われるのであるが、やはり正式なまわしを締めて執り行われる。この神事は全国ニュースで必ず流されるが、自分も、9月9日の夜のニュースか何かで見ていたので秋分の日に行われていた小烏神社の子供相撲にはっと結びついたのである。

 小烏神社の祭神は中島宮司によると「彦ホホデミ」で、京都の賀茂神社(上賀茂がワケイカヅチ、下鴨がカモタケツヌミ)とは違っている。鹿児島県神社庁に問い合わせても「ホホデミ」は変わらない。小烏神社が宗教法人取得を申請した時に「彦ホホデミ」として申請したのであるから当然と言えば当然だ。

 しかし、彦ホホデミと言えば、天孫降臨後二代目の皇孫で、鹿児島神宮の主祭神である。それならば、小烏神社は鹿児島神社とか野里八幡宮のような名称にならないとおかしい。奇妙な「コガラス」などという名を付けるはずがないだろう。

 そこでインターネットで調べてみると、小烏神社は福井県までの西日本各県で12社が確認できた。鹿児島県では一県だけで四社、福岡県に二社、その他の県ではそれぞれ一社という具合で、鹿児島が一番多い。さらに祭神では「カモタケツヌミ」「ヤタカラス」「カラス」の類が全体の40㌫を占めており、この祭神グループこそが「小烏神社」の祭る本来の神であるとして間違いないだろう。

(※下鴨神社のカモタケツヌミは神武東征の時に神武軍が熊の山中で道に迷った時にカラスに化身して神武軍を安全に導いたとされる(『山城国風土記(逸文)』ので、カモタケツヌミとカラスは同一範疇に入る。また、同記によるとカモタケツヌミは「曽の峰に降り、神武に先立って葛城山に遷り、最終的には現在の社地である京都北郊に遷ってそこに鎮まったのである。)

 野里の小烏神社では古来からの由緒が分からず、おそらく祭神も天孫降臨らしき神だろうから―というわけで、ホホデミにして登録したのではないか。ニニギでもよかったのかもしれないが、ニニギではここから5キロほど北西の花岡町に著名な「高千穂神社」(祭神ニニギノミコト)があって、それは出来なかったのだろう。

 そこで自分はこの小烏神社の祭神もカモタケツヌミと考えるのだが、もしかしたらこの野里大津こそが下鴨神社(主祭神カモタケツヌミ)のふるさとかも知れないと想像をふくらませてみたいのである。Cimg2539 大津橋から見る高須川とその左手、高須川に囲まれたような大津集落。川のはるか向こうには高隈連山が霞んで見える。高須川はその山中から流れて来る。

 高隈連山こそが『山城国風土記(逸文)』に云うカモタケツヌミの降臨した「曽の峰」ではないだろうか。

 




 

 

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コメント

先祖代々「大津家の神社」として、お参りさせていただいております。
とは申し上げましても、私ども大津家がお守りしているわけでもありませんので、ただ機会あるごとにお参りさせていただいております。
昭和49年頃、叔父(子供がなく)より、承知しているだろうが家の神社(小烏神社)をお守りするように申されまして、以前より聞いてはおりますが、どんな言われがあるのか、当時、鹿屋市役所に、電話でご照会いたしましたら、神社仏閣には触れられませんが、歴史に詳しいお方がおられますので電話をお取り次ぎいただきました方が、今は触れられませんが、その神社は、「大津家の神社」に間違いありません。とお教えいただきました。
甚だ、詳しいことは解りませんが、ご縁のある神社と信じ、ご崇拝いたしております。
今後とも、ご指導の程、申し上げます。

投稿: 堀之内 三雄 | 2015年10月27日 (火) 12時59分

堀之内さん、ご教示有難うございます。
 この中で「大津家」という家名があるようですが、大津家の由緒が分かれば教えてください。

投稿: kamodoku | 2015年10月30日 (金) 00時01分

 ありがとうございます。
昔(子供のころ)から、神社のことは「言うな、触れるな」の雰囲気で育ちましたので、今更とは思いましたが、将来に向けて、子孫にどう取り次げば良いのか、悩む年齢になりましたので、友人にご相談し、先日、なんとなく「なるほど」の想定をいただきました。
 それによりますと、大津一族の系譜を鑑見ると禰寝家、島津家よりも古い系譜のようです。
「ヤマト政権や奈良時代における姓(かばね)の序列から判断して祁りごと、政治の補佐として天皇、朝廷に仕えて
いたことは間違いないようです。
当時、宿祢の姓は皇族に次ぐ位であり、有力豪族であったようです。そんな意味から考えて、小烏神社(大津神社)の建立は大津家代々陰陽師の系統であったことからも推察できます。」
 以上のような回答をいただきました。

神社庁の記録?では「重富島津継豊?」様が、祀られているとのことでしたので、重富島津24代故島津晴久さまは、お詣りいただき、考えられないとのご様子でした。
 重富島津25代孝久氏もお詣りいただきまして、驚いておられました。
 大正10年頃の「大津禎造(大津倉庫創立者)」のお手紙によれば、当時、神社守は神社下の「東さま」がなされておられるとのお手紙を読みました。
 今のように赤く塗られましたのは、10年ぐらい前の「台風」の直後であると思います。
 そのころ、お詣りに参りましたら、東さまのお若い方が、なにか事情をお話しになりたそうなご様子でございましたが、私も東京在住のため、ご挨拶だけで失礼いたしました。

 本当に、この年齢になりましての立場でございまして、なにも申し立てることなどございませんので、多少なりともお参りさせていただきます「意義」をお教えいただきますれば本望でございます。
 今後とも、よろしくご指導いただきたくお願い申し上げます。
       合  掌    仏教学士 堀之内 三雄


投稿: 堀之内 三雄 | 2015年10月30日 (金) 15時58分

堀之内さん、再度コメント有難うございます。

 小烏神社に祭られているのが「重富島津継豊」だという神社庁の見解があるとのことですが、自分の聞いたところでは「彦ホホデミ」(山幸彦)でした・・・。

 大津氏がこの神社の所在する野里町大津に由来しているとすれば、神社の祭神と深い繋がりがあるということで、仮に彦ホホデミとすれば皇孫の二代目ですから、島津氏(1190年頃)はもとより禰寝氏(鎌倉時代前期)などよりはるかに古い氏族と云うことになります。

 ただし自分の見解は彦ホホデミではなくカモタケツヌミ(京都下鴨神社の祭神)で、しかもこちらから瀬戸内海を経由して大和葛城鴨―奈良岡田鴨―京都(山城)鴨と移動した氏族だと考えますから、いわゆる神武東征の頃(2世紀)の事になり、島津氏や禰寝氏より1000年も前の話です。

 このような祭神を持つ小烏神社を参拝することは以上の悠遠な歴史を顧みることに他ならず、素晴らしいことだと思います。「御先祖様有難うございます」というお気持ちで詣でるのがベストではないでしょうか。

投稿: kamodoku | 2015年10月30日 (金) 22時31分

先生ありがとうございます。
31日、「大津神社(小烏神社)」に、東京組6人で参拝してまいりました。
心休まる気持ちで、ご先祖さま方に感謝申し上げました。

目的は、南大隅町の「ドラゴンレース」見学でございました。翌日は「鹿児島おはら祭」に参加いたしまして、存分に「ふるさと」を味わいました。
はじめての方は、「南国鹿児島の人柄の雰囲気」に、なんとなく「明治維新」を回顧なされたようでございました。

いろいろご指導いただきましてありがとうございます。

帰京いたしましたら、友人から「大津一族の由来は、統一新羅系の渡来人の陰陽師ではないかと推測され、大津連首(オオツノムラジオビト)後の大津宿禰大浦(オオツスクネオオウラ)に至るまで、代々陰陽師として宮廷につかえた大津氏の祖、721年(養老5年)陰陽頭兼皇后宮亮(730年)賀茂氏の系譜より古いと思われる。

とのお教えを居t抱きました。
今後とも、ご指導の程お願い申し上げます。

    合    掌       堀之内 三雄


投稿: 堀之内 三雄 | 2015年11月 5日 (木) 13時17分

先日の誤り(いただきました)をお詫びいたします。

友人よりのメールをお送り申し上げます。
お二人の先生のご見解(ご推測)を、参考にさせていただきまして、更なる歴史を発見できればと祈念申し上げます。

大津一族と小鳥神社について


 だいぶ私の推測が入りますが下記内容にてご報告いたします。


 ■大津一族の由来
   統一新羅系の渡来人の陰陽師ではないかと推察される。
   現在の日本人の約7割は渡来系としての弥生人の血が入っていると言われている。
   大津連首(オオツノムラジオビト) 後の大津宿禰大浦(オオツスクネオオウラ)に至るまで
   代々陰陽師として宮廷につかえた大津氏の祖
   721年(養老5年)陰陽頭兼皇后宮亮(730年)
   賀茂氏の系譜より古いと思われる。
 
   古代に日向国に国司として赴任していることから薩摩、大隅半島への関わりを持ったものと
   思われる。   


   ◆宮亮とは古代の皇后の家政機関で今の宮内庁みたいなところ


   賀茂保憲(917年ー977年)平安時代陰陽師、陰陽頭を務め安倍清明(映画によく出てくる
   陰陽師)の師でもある。
   

 ■姓の序列(かばね)
   天武天皇時代(684年)に八種の姓を設定し天皇が姓をあたえた。
   真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿祢(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)
   連(むらじ)、稲置(いなぎ)
   忌寸は渡来人、道師は技芸に優れた人、稲置は古代地方官
   真人、朝臣は皇族で宿祢は豪族に値する。


 ■上賀茂神社
   天武天皇(678年)創建 桓武天皇時代に京都に遷された。
   祭神は外祖父賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神武天皇東征に際し、八咫烏
   (やたがらす)となって先導された故事がある。
   重陽神事(9月9日)烏相撲
   九というΓ陽」が重なることからΓ重陽」と言われ古来宮中他で五節句の一つで重陽の節句
   として菊酒を飲み菊花に付いた朝露で肌を拭うなどして災厄を祓った(ウイッキペディア)。
   
 ■下鴨神社
   賀茂社として続日本書記に698年(文武2年)奈良時代以前に存在していたと記されている。
   主祭神 玉依姫、賀茂建角身命
   伊勢神宮同格とされており、賀茂県主一族が継承
   今では2社は同等に扱われている。


 ■小烏神社
   詳しい創建は不明
   祭神はホホデノミコト(山幸彦)神武天皇の祖父神で豊玉姫神の夫
   玉依姫と豊玉姫は姉妹
   ◆因みに佐多の御崎祭りは玉依姫が豊玉姫に新年の挨拶に行く1300年の行事である。
   このようなことから創建は700年代ではないでしょうか。

よろしくご指導の程、お願い申し上げます。


  合   掌      政策学修士  堀之内 三雄


   ここでも秋に正式にまわしを締めた児童相撲がおこなわれているとされている。


   以上のことから陰陽師である大津氏と賀茂氏の系譜と神武天皇東征に関する八咫烏先導の
   故事から小鳥神社と上賀茂神社の関連性が見て取れる。
   明確なことは言えませんが以上のような系譜から小烏神社の創建がされたのではないでしょうか。  
   
   

投稿: 堀之内 三雄 | 2015年11月 6日 (金) 15時58分

再信します。
 大津氏と小烏神社の所在する野里町大津とを関連付けておられますが、こちらでは「大津」を「うつ」と呼んでいます。
 もともとこの田んぼ地帯を「うつま」(うつは内・全と漢字化し、意味は「すべての物が整っている」。まは間で土地の意味)と言っていたのを「ウツ」と簡略化し、さらにこれに漢字を当てる段になって、鹿児島では「大」が「う」と読まれるので「大つ」、そして「つ」に「津」を当てたのだろうと思います
(うつは全国的に見れば普通は「宇都」と当てられます)。
 したがいまして、大津氏をここの「大津(うつ)」に引き当てるのは無理かと思います。
 賀茂氏も陰陽道、大津氏も陰陽道なので歴史的・人的な交流・関連はあるのは当然と思いますが、この小烏神社との関連までは言及出来ないと思います。もし大津氏の氏神であれば「大津(おおつ)神社」となったはずではないでしょうか。或いは野里村の村社格であるのですから大字名の「野里神社」(野里は『倭名抄』では姶羅郡「野裏」郷と出てくる古地名です)がふさわしいかもしれません。
 「小烏」という地名ではない珍しい名の付いた村社は、その神社の名の由来そのものから考えるていくのが筋道かと思います。
 

投稿: kamodoku | 2015年11月 8日 (日) 12時16分

追記
 小烏神社に関して、『史論集 大隅58号』に拙論を載せてありますので、よかったらお問い合わせの上、購入して下さると有り難いです。
 ホームページ『鴨着く島おおすみ』をご覧ください。

投稿: kamodoku | 2015年11月 8日 (日) 12時21分

先生ありがとうございます本当に勉強になります。
確かに、大正10年頃、大津禎造(大津倉庫創立者)のお手紙に「ウツ村」とか書いてありました。
その時に、神社守りは、東さま(神社下)がしておりますので、昔からの祭事に、ご一族様お見えいただきたいと書いてございました。

10年位前までは昔の状況で、大きな台風で破戒されまして、村社状況に、朱色に塗られたと聞いておりました。

40年ぐらい前に、小・中学生に、「大津神社(小烏神社)」のことについて、ご両親などから「ゆわれなど」を聞いてきていただきたいとご照会がありましたと聞いております。

残念ながら、私どもは、「神社のことを言うな・触れるな・お参りだけしろ」なんて環境で、この年まで参りました。
なにか難しいことがあるのかも知りませんが、お教えいただければ有難く存じます。

一族は、氏神様であると信じて、お詣りしております。

      
      合   掌         堀之内 三雄


投稿: 堀之内 三雄 | 2015年11月 9日 (月) 17時17分

堀之内さん、今日の午後、ご注文の『大隅58号』2冊を郵便局より送付申し上げました。有難うございました。
 中の拙論「小烏神社の謎」をお読みいただければ納得していただけるのでは、と思います。
 もし当方の説が正しければ、小烏神社の創建が持つ意味は「南九州からの神武東征に先立つ賀茂建角身(カモタケツヌミ)の東遷が史実であったことを裏付けるもの」でしょう。
 つまり大和葛城勢力は南九州勢力の扶植であり、その援助でのちの「神武東征」(南九州投馬国の東征)がスムースに行われた―という筋道が見えて来るのです。
 読後感を楽しみにしております。

投稿: kamodoku | 2015年11月14日 (土) 19時35分

松下先生ありがとうございました。
大隅第58号、立派なご本に驚きました。
史論集として、大隅史談会の先生方が会則第2条の目的にお取り組みなされておられますことに感動いたしました。

知識不足でありながら、なんとなく興味が湧いてまいりました。ご指導の程お願い申し上げます。

 
               堀之内 三雄

投稿: 堀之内 三雄 | 2015年11月17日 (火) 14時14分

はじめまして
私は現在大阪に住んでいますが祖父は旧姶良郡出身で、webで調べていたらこの記事に到着しました。
もう少しお尋ねしたいことがありますので勝手ながら私のブログのコメントとしてメールアドレスを教えていただけないでしょうか。コメントはデフォルトが非公開なので公開はいたしません。。
何か不都合がありましたらこのコメントのお返事として書いていただければありがたいです。
詳しくはメールでお知らせしますがとても重要なことなのでよろしくお願いします。

投稿: よし | 2017年8月20日 (日) 17時35分

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