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戌の日の宝満寺(志布志市)

 娘が妊娠五ヶ月を迎えたというので、戌の日の今日、代参した。我が家から東に35キロほどの志布志市内の前川河口近くにある宝満寺は安産祈願の寺として有名である。Cimg2753 前川に架かる「宝満橋」から宝満寺を望む。10時過ぎにはすでに相当な参拝客が来ていた。Cimg2742 寺といっても鹿児島では多くの古刹の例にもれず、伽藍は跡形も無くなっている。今見えているのは明治以降に再建された「観音堂」である。安産祈願だけではなく、無事にお産を済ませた家族もお参りに来ていた。Cimg2738 観音堂の中を見ると、これから祈祷を受けようという14,5組の祈願者が、観音像の安置された厨子のある一段高い場所に上がるところだった。Cimg2739 撮影禁止とは書いてなかったので、厨子の中に収められている「如意輪観音像」が写せぬかと思い、近寄ってみたが、厨子には格子状の扉があるため、隙間からそれと分かる輪郭しか写せなかった。

 なにしろこの如意輪観音像は『三国名勝図会』志布志郷の記述によると、「本尊 如意輪観音―割注に、坐像、長2尺8寸5分、運慶一生の逸作」だそうで、かの鎌倉時代の名工運慶の「一生の逸作」というのであるから、どんなにか素晴らしいものであろうか、想像を絶するほどのものに違いない。

 宝満寺の由緒は実に古く、これも『三国名勝図会』によるが、聖武天皇の時代に「皇国鎮護の為に創建したまひて、勅願寺とす」とある。聖武天皇といえば諸国に「国分寺」「国分尼寺」を建立しているが、大隅国には国分に国分寺があり、日向国は西都に国分寺があるのに、なぜここに勅願寺を建てたのか。

 それは大隅半島部(垂水・鹿屋・志布志)が持つ地理的な条件が特殊だったからだろう。大隅国府の国分(現・霧島市)からも日向国府の西都市からも隔絶した半島部は本来半島部だけで国が造られてもおかしくないほど独立的存在だったのである。当然、国分寺的な伽藍が必要で、それが宝満寺として創建されたわけである。

 しかし平安時代には廃れ、鎌倉時代になって頼朝が九州諸国に命じて再建させたという。運慶作の観音像が安置されたのもその時代であろう。また、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮が勧請され、この寺の鎮守とされた。Cimg2746 湧水を跨ぐ石橋の向こうに鳥居が見えるが、あの奥のがけ下に八幡宮が祀られ、その横には石の地蔵もある。Cimg2737 しばらく並んで寺務所受付で祈願内容と祈願者(本人)の名前を書いて支払いをすると、写真のようなものを手渡された。住職は左端の「祈 安産」と書いた木製の祈願札を受け取り、さっきの観音像を安置した厨子の前にずらりと並べて、祈祷をする。

 祈祷は戌の日の午前中にしかしないので、注意が必要である。

 安産祈願についても『三国名勝図会』にはこう記す(安産を平産としている)。

 《・・・殊に産婦の擁護著しきとて、平産の護符を出せり。》

Cimg2720 順番待ちの間、少し時間があったので境内の崖の上にあるという「歴代住職の墓」「運慶作如意輪観音を当地に運んできた某の墓」(看板の説明)を訪ねてみた。Cimg2724 ほとんどが五輪塔で、年代の分かるものでは江戸時代中期以降のものが多かった。Cimg2727 向かって右やその反対側に立つ五輪塔の大きさは相当なもので、丸い部分(水輪)だけでも優に100㌔はあろうか。一番下の立方体の地輪などはもっと重いに違いないが、重機の無い時代に、下からここまで(比高で10m、距離で100mほど)、よく持ち上げたものである。Cimg2749 観音堂を取り巻く比高15㍍ほどの崖の下からは水が湧いていて広い池になっているのが、安らぎを与えてくれる。相当な昔はこの辺りまでが海岸で、海岸段丘の崖下から湧き出る真水は海の民にとって願ってもないアイテムだった。

 おそらく崖の途中に穿たれた半洞窟などでは、祭祀のようなことが行われていたはずである。Cimg2747 池畔には、戦前の昭和5年10月に志布志を訪れた漂泊の俳人・種田山頭火が、ここで詠んだという「家をもたない 秋が ふかうなった」の句碑が建つ。

 志布志は鹿児島県で山頭火が唯一足跡を残した町であるということで、町中に山頭火の碑が10幾つもあるそうだ。
























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