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出水・薩摩川内歴史探訪

 毎月第3日曜日に開催している「おおすみ歴史講座」の研修で、出水市と薩摩川内市を訪れた。

 予定コースは、出水市の武家屋敷群と歴史資料館、薩摩川内市の新田神社(可愛山陵)、泰平寺、薩摩国分寺跡、歴史資料館などである。

 鹿屋の北田公園に7時に集合した7名が、車二台に分乗して出発。

 鹿屋バイパスにつながった東九州自動車道の笠野原ICから入り、一路出水市を目指した。栗野・湧水ICで九州自動車道を降り、菱刈町、大口市(両方は合併して今は伊佐市)経由で米ノ津川上流から出水市内に到着。9時20分であった。

 Cimg2910_2 出水郷(外城)の武家屋敷群は非常に整っていて、さすがは藩政時代随一の出水兵児の麓集落である。Cimg2904 竹添家の敷地で当主の説明を聞く。竹添家は人吉藩からの移住武士の家系だそうだ。Cimg2905 屋敷の内部。明治期の改築であるが、どっしりとした太い梁には年月を感じる。Cimg2906 表門の内側で。この飛び石のある通路で、鹿児島が最初の舞台となったNHK大河ドラマ「篤姫」の幼少期のワンシーンが撮影されたそうだ。Cimg2920 次に訪れた税所家。税所家は加世田からの移住武士で、出水郷では代々噯(あつかい)家(組頭)で、地頭代のもとで郷の政務を執って来た家柄である。

 ここは藩政期当時のままの内部が残っている。上級郷士の家の造りが表れていて、10畳敷きの部屋が3部屋ぶち抜かれ、一番奥の十畳間には濡れ縁が巡り、そとは美しい庭になっている。Cimg2921 刈り込みはすべて丸く仕上げてあるのが特徴の庭園。左の最大の丸刈りはモミジである。Cimg2918 上座敷と向こうの中座敷の壁はすべて薄紅色。洒落た雰囲気が漂う。Cimg2923 上座敷の濡れ縁の前で。Cimg2908 門構えの古めかしい出水小学校。藩政期、ここには地頭仮屋が置かれ、出水郷の政務を取り仕切った。

 出水郷は北の肥後と接する地域であるゆえ、江戸時代が始まるとすぐに薩摩藩内外の精鋭が集められ、外城(という名の軍事的郷組織)が形成された。薩摩藩独特といわれる「外城制度」の最初のモデルケースとされている。

 外城藩士は郷士と呼ばれ、一種の「屯田兵(武士)」であり、最大で2800戸あったという郷士たちは「門割百姓」を支配しつつ、質実剛健の日々を送ったという。

 次に向かったのが、島津氏初代忠久から5代の貞久までの墓塔のある「野田感応禅寺」。

 出水歴史資料館の前の道を本町で右折、ここからほぼ一直線の県道で野田郷に入る。中心部にある肥薩おれんじ鉄道の駅の名が野田駅ではなく「野田郷駅」というのに歴史を感じる。Cimg2928 感応寺の左手奥に石垣の柵がしてあるのが墓塔群のある「五廟所」だ。幅6~7m、奥行きが5mほどの大きさである。Cimg2930 向かって左側の石柵越しに見た五墓塔。説明書きによると、手前から初代忠久、二代忠時、三代久経、四代忠宗、五代貞久と並ぶ。

 忠久と忠時は鎌倉に墓があり、当地で死んだわけではないので供養墓でしかない。また久経は元寇の時に博多方面で死んだというから、当地での本物の墓は忠宗と貞久親子のだけらしい。

 事実、四代忠宗の子からは嫡子貞久はじめ、和泉氏祖忠氏、佐多氏祖忠光、新納氏祖時久、樺山氏祖資久、北郷氏祖資忠、石坂氏祖久泰と多くの薩摩大隅土着氏族が生まれているので確かだろう。

 また、五代貞久は木牟礼城(後述)に入ったのち、薩摩川内の碇山城、鹿児島の東福寺城と、のちの鹿児島島津氏の基礎を築いている。Cimg2931 野田感応寺から北3キロ弱にある「木牟礼城址」。ここは初代忠久が頼朝から三州の総地頭を補任された時に、重臣の本田貞親が先遣隊として薩摩に入って築いた最初の城として有名だ。

 国道3号線からは100mほど北側の平野部に小高く盛られたような岡があるが、法面に大きく「木牟礼城址」と書いてあるのですぐにわかる。

 説明板まで比高が2m、さらに20段くらいの階段の上には大きな変形御影石で木牟礼城址と彫り込まれている(揮毫は島津氏30代の忠義による)。Cimg2932 比高で8m位の城址というのもおかしいが、周囲が田や畑なので見晴らしは素晴らしく良い。この頂上部が本丸に該当するのか、以前はもっと高く広壮だったのが削られ尽くしてこうなったのか、よく分からない。

 いずれにしても島津一族の「三州(薩摩・大隅・日向)統一の最初の橋頭保だった場所」ということだけは言えるだろう。

 国道3号線をそのまま阿久根まで行き、昼食。

 さらに南下して薩摩川内市の上川内へ。高城川を渡ってすぐの信号を右へ折れると、左手に緑濃い丘陵が続く。これが手前から「端陵」「中之陵」そしてかなり高くなって「可愛(えの)山陵」。

 最後の可愛山陵には新田神社が鎮座する。Cimg2934 車で数百メートル登り、駐車場からは長い石段を歩いて上がる。長い年月で磨り減った石段が滑りにくくなっていたのはありがたい。Cimg2935 ようやく神社社殿が見えて来た。右手の巨大な楠は樹齢800年ほどのようだが、根元は空洞になっており、それ以上の樹齢を思わせる。Cimg2941 神社の裏側にある「可愛山陵」。祭神ニニギノミコトの墓ということになっている。Cimg2938 鳥居の向こうに「墳墓」があるらしいが、特にマウンド状になっているわけではない(宮内庁書陵部 桃山陵墓監区 可愛部事務所が管轄している)。

 新田神社から下りて、向かいの中越パルプ工場群を巻くようにして走ると、10分ほどで泰平寺に到着。Cimg2947_2 泰平寺は天正15年(1587)に秀吉自ら島津氏を征伐に来た時に、時の当主島津義久(龍伯公)が剃髪したうえで和睦を申し出た会見場として著名である。

 秀吉軍は小西行長や九鬼嘉隆などの軍事参謀を連れて来ていたが、当時はここを本陣として使用していた。Cimg2943 寺務所の前に繋がれていた柴犬(?)の犬小屋を見ると「鹿児島犬警 ・・・」と書かれている。警察犬にしてはおとなし過ぎる雌犬だったのが余計に笑わせてくれる。Cimg2949 最後に訪れたのは「薩摩国分寺跡」で、泰平寺からは5分とかからない。すぐ近くを新幹線の高架が走っている。写真は寺跡の真南から望んだところで、正面の遺構は「金堂跡」。手前には中門と南大門の跡がある。Cimg2950 右手に見える「七重塔」を囲む回廊の支柱跡が腰掛けのようになっている。Cimg2951 七重塔の礎石。国分寺は正式名が「金光明四天王護国寺」で、聖武天皇の天平13年(741)に創建の詔が発令されて、日本全土60余州に建立された。

 ここ薩摩国分寺は規模が小さいと言えども、一辺が100m余りある境内は相当広く感じる。完成した時の民衆の驚きはいかばかりであったろうか。Cimg2973 川内歴史資料館のパンフレットから国分寺跡の全景を載せてみた。左下の道路によって東南の部分が分断されているのが分かる。

 この南側に国分寺と並んで国府(国衙群)があったのだが、住宅地に浸食されて、発掘調査はままならないようである。

 久々に皆と出掛けてみたが、天気も良く収穫は大きかった。








 






























 


















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