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五月晴れと蓮華草(鹿屋市古前城町)

 5月に入って二度目の五月晴れ。

 4月29日の役員会が終わってから、会長兼事務局の仕事で今もっとも忙しいのが、大隅史談会刊の『史論集 大隅58号』の発送。

 ここ三日ばかりは、国会図書館はじめ県内のめぼしい図書館、報道関係機関などへの寄贈分を大型封筒に入れて宛名を書いたり、去年購入してくれた人たちへの購読案内文書を作成したりと、なかなか大変だ。

 そんな中、一昨日、メールで知人が入院したと来た。さほど親しいというわけではないが、後輩でもあるし、仕事を半分すませて入院先の病院を見舞うことになった。

 鹿屋市の中心部からやや北寄りにある病院は県立であるうえ、平成18年に造られ、まだ真新しい。

 病棟を訪れると、「夜中に咳き込んで呼吸困難になり救急搬送された。応急措置の結果いったん家に戻ったが、地元の病院で胸のCTスキャンを撮ったところ、激しい咳と結び付くような病変は見当たらないが、内視鏡の検査は地元の医院ではできないので、再びここへ入院して詳しい検査をすることになった。ただし、連休明けです」とのこと。

 話を聞いている際も咳が出て、薄い痰らしきものも出ている。それ以外は至って元気だが、やや顔色は血の気が無いように見えた。

 検査の結果は即日に分かるというから、またメールで知らせて欲しいと、10分ほどで退室。良い結果を期待したい。

 帰り道に鹿屋市営の墓苑「緑山墓地」を通って、古前城町に下りてみた。Cimg3322 実はここからの眺めが素晴らしいのだ。ひな壇式の墓塔群の向こうに大隅最高峰の高隈山。真ん中のピークは「御岳」で1182m。

 下に広がる町は「打馬町」(うつまちょう)といい、珍名の一つ。ただし自分の説は「うつま」は「宇都間」であり、「宇都」(うつ)は美しい「うつ」、「夢うつつ」の「うつ」と同じで、「現実味がある」「揃っている」。「間」は場所の意味だから、「宇都間」とは、「現実に(必要なものが)揃っている場所」であろう。

 この打馬町は、高隈山から流れ下って来た肝属川(写真の真ん中より右手に見える川)が開析して生まれた開析平野だが、手前や向こうに左右に広がる樹林でそれと分かる「シラス台地」だった所をえぐってできた一種の盆地であり、水田とシラス崖の下から豊富に湧き出る水とで生活しやすい所だった。Cimg3323 同じ場所からカメラをやや左へ向ける。真ん中に見える鉄筋の建物群は鹿屋小学校である。この小学校の創立は明治2年。今年で146周年は県内でも最古か二番目くらいに古い学校だ。

 小学校の手前に田んぼが見えるが、あれは鹿屋農業高校の実験田で、普通作のはずだから今月下旬の頃か6月初旬が田植えのはずである。生徒たち全員が、昔ながらの手植えで行うのが恒例になっている。

 よく見ると、何やら田んぼが赤っぽい色をしている。「おや、まさかレンゲか!珍しい!」

 そうと決まったら、墓地の中の道を下りて見に行くことにする。Cimg3324 やはりレンゲ(蓮華)だった。今時ほとんど見なくなったが、6月に植え付ける普通作の場合、前年の刈り取り後に蒔いておいたレンゲがこんなふうに花を咲かせ、それはそれで初夏の風物詩だった。

 このレンゲを田に鋤き込んでやると、マメ科のレンゲは結構な窒素肥料となってくれるのである。Cimg3330 高隈山を背景にレンゲ田を撮影しようとしたら、右手前に流れている用水路沿いの細い道があったので、それをたどると、とある一軒の家に上がる小さな橋の横にビワの木が植えてあって、たわわに実っているのに遭遇。まだ青さがあるから食せるのはもうすこし先だろう。でもきれいなビワだ。Cimg3331 細道を挟んで、ビワの木の向かいにはミカンの木が数本。こっちは3月一杯くらいで収穫を終えたのだろう。新しく出た葉の新緑がまぶしい。

 レンゲ田はもうすぐそこだ。Cimg3329 観賞用の花ではないが、こうして群生したところは見応えがある。レンゲの蜜をめがけてミツバチなんかがブンブン飛び回っていそうだが、見当たらなかった。

 あと2週間もすると、さっきの用水路に水が滔々と流れ、ここや3~4キロほど下流に広がる川東地区の普通作の準備が急ピッチで進められることだろう。
















 

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コメント

最近、大隅半島の歴史や文化に興味を持っています。
4年程前に和歌山県で見つかった史料の中に中世の大隅半島中南部に「まり山」なる山と、「鹿村」・「高栖村」なる村名があったと書かれていました。「高栖村」については現在の鹿屋市高須長町にかつてあった集落と判明したのですが、前2つについてはよくわかっていません。
もしお教えいただけることがありましたら、お教えください。

投稿: あゆ | 2015年5月14日 (木) 12時51分

あゆさんへ。
 「高栖村」は現在の高須町に間違いありませんが、「鹿村」は「鹿屋村」のことでしょう。
 「鹿屋」をその時代に現在のような「かのや」と読んでいたか「かや」と読んでいたかは判明しませんが、『倭名類聚抄』(源順著。930年代成立)の中の「郡郷一覧」に、「大隅国・姶羅郡」の一郷として「鹿屋郷」が出てきます。
 もっと古くさかのぼると『古事記』の景行天皇時代のこととして南九州熊襲の頭領に「厚鹿文」(あつかや)「迮鹿文」(さかや)という兄弟がいたとあり、この「鹿文(かあや→かや)」が「鹿屋」のことのようで、こちらからは古事記編纂の奈良時代初期(712年)にはすでに「鹿屋」という名称があったことになります。
 もう一つの「まり山」ですが、「まり」に当たる漢字が不明なので解答は保留したいところですが、「摩利」なら、「摩利支天」が考えられ、これは現在の高隈連山の中の「御岳」ではないかと思われます。漢字を教えてくれませんか?

投稿: kamodoku | 2015年5月16日 (土) 12時12分

鴨着く島さま
お忙しいところ、いきなりの質問にも関わらず、丁寧にご返答いただき、ありがとうございました。
この6月以降に東京の出版社から熊野御師に関係する史料集を出版する予定なのですが、できれば現地状況に詳しい方から情報をいただきたいと思い、お訊ねした次第です。
「鹿村」については確かに「鹿屋村」である可能性がありますね。
「まり山」の「まり」はひらがな表記です。御岳に「摩利支天」が祀られているのでしょうか。興味を覚えました。山伏(修験)との関係や、その典拠などをお教えいただければ嬉しいです。
関連する部分を上げますと、「鹿村御先立ハ賢良御引旦那、ひき先達光明院、まり山の(ひき先達)せうなうこんとの、きもつき恵光房」(「大隅国之旦那」より)と書かれています。
どうかよろしくお願い致します。

投稿: あゆ | 2015年5月17日 (日) 13時20分

あゆさんへ。
 和歌山県の史料ということで、もし大隅に関係ありとすれば熊野修験かな―と推量して返事をしましたが、当たらずと言えども遠からずでした。
 鹿屋村にある修験道場といえば高隈山で、ここは古来「高隈三所権現」が祀られ、別当寺を高嶽山宝精院五代寺といいます(史料は『三国名勝図会』大隅国肝属郡高隈郷・鹿屋郷です=青潮社本の第4巻)。
 しかしながら、勘違いしていたのが「摩利支天」で、高隈三所権現(権現嶽・中嶽・近戸宮)のうち「権現嶽」を摩利支天と言っていたと思ったのでしたが、調べたら「立蔵権現」で、摩利支天はありませんでした(中嶽は蔵王権現。近戸宮は両権現の里宮で、祭神は木造の三座であり、永享2年=1430に慶賢法印が造らせたと割注されています)。訂正します。
 たまたま手元に発行者から頂いた『本山修験 飯隈山蓮光院史料』(首藤善樹編・至言社刊・発行者・救仁郷建 H20)がありますが、これの索引によっても「まり山」は不明です。
 序でながら、昨日のコメント中の「ひき先達光明院」というのは高須町にある波之上三所権現の座主となっている「蓬莱山阿弥陀寺光明院」のことでしょうか。この寺は、正平初期の頃(1346~)紀州熊野から下向した「法印権少僧都・昌光」が開山とあり、波之上権現は正平3年(1348)に昌光が勧請した―と上記『三国名勝図会』の同じ個所にあります。

投稿: kamodoku | 2015年5月17日 (日) 21時28分

鴨着く島様

重ね重ね、ありがとうございました。
「まり山」については本当に残念でしたが、今後とも追跡調査していきたいと思います。

なお、色々な事実を小出しにして申し訳ないのですが、この「鹿村の御先立・・・・、ひき先達光明院、まり山の・・・・、きもつき恵光房」」という文章の3つ前に「下大隅郡鷹栖村住先達・・・・」という文章が出てきます。
「鷹栖村」(高須村)は波之上神社の所在地ですので、「鷹栖村」と「鹿村」の間に、「ひき先達光明院」=先達「蓬莱山阿弥陀寺光明院」という可能性を想定できるかもしれません。
しかし今のところ確実なことは何もいえませんが・・・・。

いずれにしても、本史料集が出された段階で新しい展開を期待したいと思います。
今後ともよろしくお願い致します。

投稿: あゆ | 2015年5月18日 (月) 01時33分

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