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大隅湖のアジサイ

 待ち遠しかった梅雨の中休み。

 昨日の夕方から空に晴れ間が見え始め、今朝起きてみるとすっかり晴れ上がっていた。

 6月2日に梅雨入りしてから雨の降らない日はわずか3日ほどで、きれいに晴れ上がったのは今日だけである。何という異常気象。

 例年、梅雨入り宣言をした途端にどういうわけか晴れの日が続くというパターンが多かったが、今年はきっちりと梅雨だった。

 晴れると気になるのが、アジサイの咲き具合だ。頃もよし、大隅湖に行ってみることにした。

 鹿屋の中心部から国道504号(通称・空港道路)を北上、途中で今度の梅雨豪雨で一躍有名になった雨量観測地点の「吉ケ別府」の傍を通るので立ち寄った。Cimg4612 鹿屋の中心部から8キロほどの所にある吉ケ別府バス停。ここから50m先の商店の向かい側を左折して行く。Cimg4615 150mほど行った右手に「吉ケ別府観音」がある。薄暗い木立の中に古い御堂が見え、手前に石の観音坐像が据えられている。馬頭観音だそうだ。向うの明るい一角には牛舎がある。Cimg4614 牛舎の前を流れる肝属川。幅は3㍍ほどでほぼ源流に近い。意外だったのは川面が低く、水が澄んでいたこと。何しろここ吉ケ別府は梅雨入り以降、1600ミリという平年の3倍の雨量を観測し、全国ニュースに何度も取り上げられていたのだ。全く平常の流れに戻っているではないか。Cimg4613 牛舎で仕事をしていたおじさんに「雨量の観測所はどこにあるんですか?」と聞くと、すぐそこの畑のむこうにある―と指をさした。

 急傾斜渓流の危険個所という看板のずっと向こうに見えるゴミステーションのような金網の籠がそれだという。Cimg4619 畑と田んぼの真ん中の畦を行くとあった。「吉ケ別府地域雨量観測所 鹿児島地方気象台」という看板が張り付けてある。その傍にはなぜかネコが一匹。番人(猫)ではあるまい。Cimg4621 ケージの中を覗くと、たいして大きなものではない。円状の金属製の保護板の中にある直径20センチ弱の筒が雨を集める仕掛けなのだろう。どう計測するのか不明だが、これで時間雨量がわかり、24時間雨量も測れるのだろう。

 さっきのおじさんにこのあたりに被害はなかったかと訊くと、まったく無いようであったのは幸いだ。Cimg4648 吉ケ別府からさらに8キロほど走ると「高隈ダム」のサイトに着く。比高40mのダムサイトの堤防上を行き、ダムによってできた「大隅湖」の湖岸道路に入る。Cimg4645 ダムサイトから2キロ余りで貸しボート(今は閉鎖中)と東屋やトイレのある湖岸公園に着く。アジサイはこの辺りに集中して植えられている。Cimg4637 やや少ない花の付き具合だが、アジサイは水辺によく映える。Cimg4631 遊歩道がすっかりカラー化されていたのには驚いた。二年前には仕事柄よく来たが、まだこうなってはいなかった。Cimg4634 遊歩道の中ほどに石碑が立っていた。近寄ってみると「太陽国体記念碑」というのだった。太陽国体は昭和47年(1972年)に鹿児島県で開催され、ここ大隅湖では漕艇競技(ボート・カヌー)が行われた。Cimg4636 カラー歩道を挟んで石碑の反対側のうっそうと茂るモミジの木の下に、二つの記念碑があるのに気付いた。

 左側の大きな碑は太陽国体のカヌー競技をモデルにレリーフされている。下のプレートに刻まれた文字は大隅湖の概要で、昭和42年に完成したこと、ここにあった三つの集落200戸余りがダムの底に沈んだこと、面積は93ヘクタールだということ、などが書かれている。

 右手の小さな方は昭和57年に開催された高校総体の漕艇競技を記念したものだ。

 そうか、ダムおよび大隅湖が完成して5年後の47年に国体競技の舞台となったのだ。もともと笠野原シラス台地6000ヘクタールへの潅漑用に開設されたダム湖がそのような使われ方をするとは、ダム湖もさぞ面映ゆかったに違いない。

 その後もいくつかの国内・国際大会に利用されたようだが、ここ10年くらいはほとんど聞いたことがない。でも二巡目の国体がたしか4年後に控えているから、また日の目を見ることだろう。













 


















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旧国鉄大隅線⑤

 天気の良い日に行こうと待っていたが、週間天気予報を見ても晴れ間は望めず、今朝もぐずついた天気だったが思い切って国分までの大隅線の跡を訪ねることにした。Cimg4518 旧海潟温泉駅まで大隅線が延びたのが昭和36年。その後国分まで延伸されたのが昭和47年。この時晴れて志布志―国分間98,3キロが開通し、県都鹿児島市と大隅半島が鉄路で結ばれた。

 海潟温泉駅からはトンネルをくぐって牛根麓へ。「大隅麓駅」は上の辺りか、向こうにこんもりと繁るのは「居世神社」。この珍妙な名前の神社、大隅史談会の初代会長の永井彦熊先生は「伊勢神社」のことで、ここに落ち延びた安徳天皇がひそかに祀ったのだろうする。線路は神社の裏手を真っ直ぐに伸びていた。Cimg4521 麓駅から辺田駅までの間は線路跡をたどれるが、途中で左手に「道の駅たるみず」が見える。Cimg4523 旧辺田駅の少し先の鉄橋跡。ここを過ぎて右手に登って行くと小高い所に「宇喜多秀家公潜居跡」がある。以前に来たことがあるのでパス。Cimg4526 辺田で国道に下り、二川を過ぎて、牛根境へ。この町は焼酎「森伊蔵」で有名になった。

 境小学校への案内看板を右折し、小学校を過ぎて100㍍ほど上がると突き当りが旧大隅境駅だ。Cimg4528 鉄道公園になっている所は駅前駐車場(ロータリー?)で、線路と駅舎は3、4m上にあった。昭和47年に海潟温泉駅から国分駅まで延びて9つの駅が新設されたが、国分市内にあった「銅田駅」「金剛寺駅」の二駅以外はすべてこんな感じの駅ばかりであった。Cimg4530 小奇麗に維持されている旧大隅境駅跡。Cimg4532 駅舎跡から桜島方面を望む。あいにくの天気で、海と空の境さえ分からないが、天気が良ければ桜島が悠然と煙を吐いて見えただろう。

 道路の先に見える3階建ての建物が境小学校。今年、創立142周年と入り口に書いてあったが、だとすると明治6年の創立ということになる。明治5年の学制改革(発布)とほぼ時を同じくするわけだ。すごいなァ。

 ところで、ここ牛根境あたりのトンネル工事の際に、落盤事故があり6名が亡くなったそうである。昭和47年開通の国分延伸線にはトンネルが18か19あったというから、事故があって不思議ではないが、そんなにまでして延伸開通させた大隅線はこの区間でたいそうな難儀をしながら、その後わずか15年で幕を閉じてしまった。死者が浮かばれまいに・・・。Cimg4538 大廻(おおめぐり)駅を過ぎて次の駅は「大隅福山」。ここの場所が分からず地元の人に聞いたところ、「小廻駅のことネ」と言われ戸惑ったが、小廻というバス停の上の方(山手)にあるそうで、なるほど地元では大字の「小廻」のほうが通用しているのだ。

 その小廻バス停は旧福山町の3キロはありそうな長い海岸沿いの市街地の一番北寄りに位置していた。そこを右折して200㍍余り坂を上がった眺めの良い場所に駅跡はあった。Cimg4535 駅舎跡のすぐ下に広がる「福山(甕壺)酢の天日場」。ぎっしり並べられた甕壺酢は半年以上こうして寝かされて熟成させる。Cimg4533 記念公園には車両が二セット置かれている。この看板の裏には大隅線のうちの国分延伸線の建設経緯が書いてあるが、それによると、47年完成の8年前の昭和39年に着工されたとあった。古江から海潟温泉駅までの延伸完成が36年だったから、そのころすでに計画が始まっていたことになる。

 また延伸線の工期8年のうちおそらく半分かそれ以上の時間を、トンネル工事が占めていたのではないだろうか。というのは、旧志布志線だが、この線路も大隅線と同じ62年3月に廃止になったのだが、志布志―西都城間約40キロが開通したのは大正年間であるにもかかわらず、40キロをあしかけ4年(大正11年から14年)で完成させているのだ。

 国分延伸線の長さは約34キロで、大正年間に建設された志布志線より短いので、志布志線程度のトンネルしか無ければ、当然当時よりはるかに早く完成を見ることになる。せいぜい3年あれば足りただろう。

 それが8年もかかったということは、18,9もあるトンネル工事が工期を大きく延ばした最大の要因ということになる。8年を費やしてようやくできた路線がたった15年で終わろうとは「お釈迦様でも知りますめい」。Cimg4541 (敷根を過ぎて東回り自動車道の下をくぐり、そのまま国分に向かって真っすぐの道路。国分側から写す)

 大隅福山から列車は亀割峠の下をトンネルで潜り抜け、次は敷根駅だが、この駅はまったく原形をとどめず、現地の人に聞くと旧敷根小学校グラウンドの南300mほどのところにあったというのだが、パス。

 敷根を抜け、敷根小が統合されたという国分南小学校の脇を一路国分市街地へ向けて走ると、「国分南公園前」という信号のある交差点の一角に「銅田駅跡」があった。Cimg4540 銅田駅跡の鉄道記念公園。可愛らしい公園に似合う小さな「車掌車」がぽつっと置いてある。この駅は平地のど真ん中、おそらく田んぼ地帯の一角だったろう。Cimg4542 国分南小学校の脇からまっすぐのびる県道をなおも行くと、急に道がネックとなり、クランク状に県道の続きを走る。写真の辺りが国分駅の一つ手前の旧金剛寺駅があったと思しき場所。Cimg4544 なおも同じ道を行くと国分シビックセンターのある官庁街を抜け、やはりクランク状に道を取り国分駅前へ。駅前ロータリーがそれなりの駅舎風景を醸し出している。

 ※今日で旧国鉄大隅線をたどる行程は終了となるが、一応おさらいの意味で若干の歴史を箇条書きにしておきたい。

 <大隅線開業と延伸の歴史>

① 高須駅―鹿屋駅9.3キロ開通(大正4年=1915年)

② 鹿屋駅―高山駅10.2キロ開通(大正9年=1920年)

③ 高山駅―串良駅4.7キロ開通(大正10年=1921年)

④ 高須駅―古江駅6.8キロ開通(大正12年=1923年)

⑤ 志布志駅―串良駅16.8キロ(昭和10年=1935年)

⑥ ①~④は軽便鉄道仕様の線路幅762ミリ、⑤は狭軌1067ミリであったので、国有化したうえで昭和13年に1067ミリに統一し、古江から志布志まで全線開通し、大隅半島横断鉄道である「国鉄古江線」となった。

⑦ 古江駅―海潟温泉駅17.0キロ開通(昭和36年=1961年)

⑧ 海潟温泉駅―国分駅33.5キロ開通(昭和47年=1972年)

⑨ 国鉄分割民営化政策で不採算路線として認定され、昭和62年(1987年)3月13日をもって廃線となる。

 

※昭和13年に開通した大隅半島横断鉄道「古江線」だけでも残しておいたらと思うのは私だけではあるまい。

































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沖縄全戦没者追悼式

 沖縄戦が終了した1945年6月23日を記念して開催されている沖縄県主催の戦没者追悼式も、戦後70年を迎えることになった。Cimg4468 会場となった糸満市摩文仁の平和祈念館前の広場。(画像はNHKテレビニュースから。以下同じ)
Cimg4500 今日23日の正午に始まった追悼式で沖縄県知事が「平和宣言」を読み上げた。Cimg4504 翁長県知事は政府首脳の列席する前で、平和への誓いと共に辺野古基地の建設は反対である旨の発言を行った。

 このあとに地元の青少年代表が「平和の詩」を発表するのが恒例になっており、今回は高校3年生であった。Cimg4508 与勝高校という珍しい校名の高校の3年生、知念捷君(ちねん・はやおと読むのか?)で、大伯母さんが22歳の時に沖縄戦で夫を亡くし、戦後再婚せず過ごし、今は認知症が現れているという。

 タイトルは琉球方言で 『みるくゆが やゆら』。訳せば<今は平和ですか>。「みるくゆ」とは「弥勒の世」という意味で、仏陀が亡くなったあと、この世を救ってくれるという弥勒菩薩が出現する世の中になっているだろうか、そう願いたいものだ―ということである。

 大伯母が認知症になった今でも歌うという亡き夫を偲ぶ唄を聞きながら、この大伯母にはもう弥勒の世が来ているのだろうか、そう思いたい。そして世界全体もそうであればいいのに―と知念君は訴えていた。会場では涙をぬぐう人の姿もちらほら見えており、すばらしい詩の朗読であった。
Cimg4440 今朝7時のニュースでは気の毒な犠牲者の遺族の姿をとらえていた。Cimg4426 男性は喜屋武(きゃん)さんといい、70年前の沖縄戦の最中、米軍の攻撃に追われて母と4人の兄弟で逃げ惑う途中、あるガマを見つけて入ろうとしたが、兵隊に「幼児は駄目だ、泣き叫ぶので敵に見つけられてしまう」と言われ、上の二人の兄弟は何とかガマに入れたものの、幼い二人は容れられず、母が連れて逃げたが、どこかで砲撃に遭って死んだらしい―という。

 母(喜屋武亀)と下の弟(幸雄)と妹(洋子)の遺体はおろか遺骨も見つかっていないそうである。戦後70年の今でも戦闘地域では土の中から多くの遺骨が見つかっており、喜屋武さんはすべての遺骨をDNA検査にかけてもらえれば判るかもしれないと、生きている限り遺骨を探し出し、供養したいと願っている。Cimg4490 摩文仁の丘の海側は「喜屋武岬」で、ここに追い詰められた県民の多くが、断崖から飛び降りて亡くなったたという場所だ。この周辺では1万人が命を落としたという。

 放送の中では、10人家族で朝食を摂っている最中に砲弾が落ちて来て7人が即死したという女性もインタビューに応じていたが、悲惨極まりない沖縄戦であった。

 県民の4人に1人が亡くなった沖縄。約3ヶ月の戦闘という長期戦だったがゆえに米軍にも損害が多く、日本本土上陸作戦(オリンピック作戦・ダウンフォール作戦)に移るのに暇取り、結果としては本土上陸を防いだ沖縄。

 こんな沖縄県民に対して、海軍沖縄根拠地隊司令官だった大田實中将は自決の直前、海軍次官あてにこう打電した。

 「沖縄県民かく戦へり、後世、特別の御高配を賜らんことを」

 沖縄から米軍基地がなくなり、本当の「みるくゆ」(弥勒の世)が来るのはいつのことであろうか。泉下で大田中将が泣いていはせぬか。「まだ沖縄県民の言うことが聞けぬのか」「沖縄から米軍基地を撤去し、代わって自衛隊(日本軍)が沖縄を守るのだ」と歯ぎしりしておられるに違いない。

 業を煮やした人々による沖縄独立論というのがあるが、独立は無理にしても、「永世中立県」「永世中立特区」(ただし自衛のための武装はする)を勝手に(いや、県民の支持で)宣言してしまえばいい。

 沖縄が戦時に日本の礎(いしじ)になって平和の尊さを内外に知らしめたように、今度は「みるくゆ」の礎(いしじ)になることを内外に示して欲しいものである。








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梅雨の雨間に田植え(鹿屋市大姶良地区)

 大姶良川沿いの池園・田淵・獅子目あたりでは、今が普通作の田植えの最盛期だ。Cimg4320 大姶良川の土手のすぐ下の田では、4~5条植えの田植え機が稼働している。見ている間に端から端まで行く。動きはかなり早い。Cimg4323 隣りの広い田んぼでは夫婦で補植の最中。Cimg4324 植えたばかりの田んぼにしては水が少ないと思い、おばさんにきいてみた。

「タニシが出て来て、苗を食い荒らすので少なくしている。こうしておくと1週間くらいで出て来なくなるから・・・」

 タニシとはジャンボタニシのことで、ずいぶん前に食用として導入され、転作田を中心に流行ったことがあった。食用として成功したという話は聞かないから、今では自然繁殖して各地の田んぼで害虫化している。

 稲が幼苗だと全滅することもあり、かといって食の安全のためには殺虫剤も使えず厄介な代物となってしまった。<特定外来生物の撲滅>というような国策で何とかならないものだろうか。Cimg4326 大姶良川を渡り、獅子目地区の田んぼに行く。正面の丘の上には南北朝期から戦国時代まで獅子目城があり、藤原姓富山氏の一族・獅子目氏の居城だった(後裔は志々目氏)。Cimg4329 獅子目城跡の下の田ではいま代掻きをしている。Cimg4331 どの田を見ても、今は機械植えのために短冊状に真っ直ぐに整備されている。奈良時代に律令制が開始しされ条里制が施行されたが、その頃こんな田だったら国や郡も租税単位として把握しやすかったろうが、あいにく1300年もかかったうえ、今は自由作の時代だ。

 ここでも老夫婦が補植の最中。

―あら、おとうさんここで会ったねえ。

―じゃっどが。はら、おみゃ、腰が痛くなかや?
















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陛下!南の満州・盤山にもお出で下さい!

 今日夕方のニュースで、天皇皇后両陛下が宮城県・山形県を訪問され、特に「北のパラオ」として有名になった宮城県蔵王町の「北原尾」地区に開拓者を訪ねられたという。

 北原尾は元パラオ移民が引き上げた開拓地で、何年か前にパラオの大統領が訪日した時に、「北パラオ」という地名の縁で交流を持ったのだそうである。

 そのことが陛下の耳に入り、今回特別のご訪問となった。24戸130人ほどの入植者たちにとって全く思いがけないプレゼントだったに違いない。Cimg4274 入植記念碑の前で両陛下に説明する工藤氏(酪農協組合長でパラオで生まれている人物)。(画像は鹿児島読売テレビから)Cimg4277 まだガラスもない住宅ではずいぶん寒かったでしょうね―とねぎらわれる陛下。Cimg4280 感激の工藤氏。Cimg4279 太平洋戦争の激化で、やむなく南の楽園パラオから本土に引き上げて来た佐崎さん。苦労も吹っ飛んだに違いない。

 北原尾は宮城県内でも有数の酪農地帯として頑張っているが、その転機は冷害だそうである。あらゆる畑作物がやられる中で牧草だけが青々と育っていたのを見て酪農一本に賭けて来たという。そして今、それが実を結んだ。引き上げ後も苦労に苛まされ続けた入植開拓者の成功事例なのだろう。

 鹿児島県にとてもよく似た事例がある。それは肝属郡旧田代町の大原地区にある「盤山」である。

 盤山(ばんざん)は満州へ移民した(分村した)与論島出身者の開拓集落で、こちらは「国策」によって満州への入植が奨められ、応じて行った与論島開拓団が入植した「満州国錦州県盤山」に由来する地名である。

 北原尾の人たちと同じように、終戦後に引き上げて来たのだが、こちらは悲惨だった。例のヤクザなソ連軍の侵攻に遭い、総勢630名くらいの引揚者のうち200名が命を落としている(自決した人も多いが、その悲惨さは筆舌に尽くしがたい)。もちろん田畑も財産も持って来れず、ほぼ着の身着のままで・・・。

 昭和21年に田代に入植(54戸・165名)し、飢餓線上にありながら一心に開墾し、色々な作物を作った。だが北原尾のような冷害ではなく、こちらは巨大台風に翻弄されたあげく、台風下でも青々と耐えている「茶の木」を目の当りにして、茶の栽培に本格的に取り組んで今がある集落なのである。

 標高300mから500mにかけて展開する旧田代町大原地区の茶は、寒暖の差が大きく朝霧も多いことから美味い茶ができるところとして有名だ。

 北に「北原尾」あり。南に「盤山」あり。

 両陛下には是非とも「盤山」を訪問され、開拓者へのねぎらいのお言葉をかけていただきたく、衷心よりお願い申し上げる次第です。

 肝属郡旧田代町盤山については拙ブログ「あじさいロード」にやや詳しいので参照のほどを。




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桜島に第三の観測坑道

 活動が活発化している桜島に、三番目の「観測坑道」が掘られるそうだが、その起工式が行われたというニュースが夕方の民放で報じられた。Cimg4267 来年3月には完成するそうだが、鹿児島ではインフラ関係事業の起工式では常に神式で行っている(画像はМBC南日本放送6時のニュースから)。Cimg4257 鹿児島市桜島町高免に作られる坑道の長さは235㍍で、地震計・傾斜計・伸縮計などが設置され、桜島内部の動きが分かる仕組みになっている。Cimg4259 桜島の噴火口は南岳と昭和火口だが、南岳の動きについては「ハルタ山」に坑道があって現在稼働中。また今盛んに噴いている昭和火口の動きは「有村坑道」で観測している。

 今度の第三の坑道は、桜島の北にある姶良カルデラの火口部から供給されるマグマの通り道の直上に掘られるという。前の2地点より一層正確にマグマの動きが前もって分かるらしい。

 Cimg4255 桜島を長年研究して来ている京都大学火山活動研究センターの井口教授は、目的を「早期警戒・防災準備」としている。

 また、このところ活発化して来ている全国の火山はたくさんあるが、桜島は桁違いの活動をしており、もし大規模な噴火が起きるとすれば桜島を置いて他にはない―ともいう。

 つい最近、長野県の浅間山が噴火警戒レベルで2に引き上げられた。たしかに去年から今年にかけて要注意火山が増え続けている。そのうちの火山ならいつ噴き出してもおかしくはないが、さきがけが桜島とあっては油断がならない。

 








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旧国鉄大隅線(4)

 今回は旧古江駅から垂水の旧海潟温泉駅までをたどった。

 午前中はもつだろうとの予測は裏切られたが、分かりやすい線路跡だったので雨はさほど苦にはならなかった。Cimg4194 左手の白い車が駐車している曲線道路が線路跡で、その先の窓が二つある茶系の切妻が旧古江駅。そこからこちら側(垂水方向)へ100mほどの海辺に旧古江港があった。右手の「ふるさと市場」あたりに鹿児島航路の待合室があり、ずいぶん賑わっていたという(昭和62年の大隅線廃止以後もしばらく航路は稼動していた。)Cimg4195 線路は古江港のある海岸べりを進行し、200mほどで国道を高架で跨ぎ、道路の右手、つまり山側を走るようになる。写真の「西隅寺(真言宗大谷派)」と書かれた看板の向こうの二階建ての商店(瀬戸口商店)は長方形ではなく、手前の後ろ角を高架を支えるコンクリート支柱列によって切られている。

 「切られている」というと物騒だが、実は商店の後ろ側を高架用の支柱列が走っていたため、後から商店を新築した際に長方形に建てられず、角を落として建てたものだろう。商店の右手の平屋住宅は庭の一角を支柱列が通ったものか、いまだにコンクリート高架がそのままなのには威圧感を感じているに違いない。どこかの番組で「珍風景」というのをやっているが、それに応募したら取り上げられるかもしれない。

 古江から次の新城駅までの距離は7キロもある。7キロは旧大隅線で駅間距離としては最長である(大隅線は33駅で98キロであるから駅間距離の平均は3キロ。最短は串良・東串良間の0,6キロ)。古江は鹿屋市内、新城は垂水市内にあり、両市の境は海まで迫るシラス台地なので人家は無い。トンネルが2つもあってようやく境を抜ける。Cimg4197 国道269号線の海崖の切り立った「まさかり」(と云う地名)を抜け、「新城麓」信号を右折して200m、「麓自治公民館」という建物を左折すればそれが線路跡だ。(写真のむこうに向かって真っ直ぐに伸びている。)Cimg4199 500mも行くとトンネルがある。旧大隅線には相当数のトンネルがあるが、当時のまま残され、かつ車で通れるのはここだけだ。Cimg4202 トンネルを抜けて200m余りで旧新城駅。公園になっており、中には疑似ホームと線路が若干残されている。

 この裏手の山麓には新城島津家の後裔で「末川一族の墓」がある。新城島津家は島津久章が始祖だが、この人は江戸初期にゆえあって殺害された。墓は鹿児島市内七ツ島脇の清泉寺跡にある。江戸期島津藩藩主の主流は戦国武将・島津義弘の系統だが、兄の義久には男子がなく娘の「新城さま」の生んだ久信・久章父子はともに抹殺されたことから、跡目をめぐる陰湿な争いがあったと言われている。Cimg4204 旧新城駅から旧垂水駅までの距離はほぼ10キロ。その間に「諏訪」「柊原」「浜平」の3駅があったが跡は分からなくなっている。その代り線路跡はどこまでも立派な舗装道路になっている。途中、「柊原(くぬぎばる)遺跡」を通過するが、ここは平成7年に本格調査された貝塚の跡だが、発掘された大量の黒曜石の産地分析から、3500~4000年前の柊原縄文人は九州一円の黒曜石を手に入れていたことが分かり、調査した明治大学の考古学教授は、海路による九州一円の交易ルートがあったことは間違いない―そうである。大変な発見だ。Cimg4210 浜平あたりを過ぎたら、閉鎖されたトンネルで行き止まりになるので、海側を走る国道に下り、本城川に架る「本城橋」を通過したらもとの線路跡に戻るが、しかし垂水市内の線路跡はきれいなタイル舗装をした遊歩道になっている。Cimg4212 再び国道に下り、市の中心部を抜けようかという所にある「幹部派出所」という信号を右折。50mも行くか行かないかで右手に旧垂水駅がある。今は鉄道記念公園になっている。Cimg4213 公園の一角には往時をしのばせる疑似ホームと線路が若干残されている。Cimg4214 旧垂水駅からは国道の「荒崎パーキング」の手前までは道路化した線路跡が2キロ近く続き、そこから再び国道に下りて1.5キロほどで旧協和中学校の手前の手押し信号機。その路地を右手に入って150mほどで一直線道路に行き当たる。そこが旧「海潟温泉駅」のあった場所だ。(写真左手の草むら一帯が駅跡)

 指標になるものが一切ないので、近くに来ていた農家の人に聞いて分かったが、ここまで古江駅から17キロちょうど。

 旧国鉄古江線(古江・志布志間47.8キロ)が全線開通したのが昭和13年(1938年)。それから戦争を挟んで23年後の昭和36年(1961年)に、ようやくここまで鉄道の恩恵に浴することになったのである(志布志駅からここまで64.8キロ)。

 ―閑話休題―

 駅跡から100mくらい西に内田菓子店という店舗があったので買い物がてら女主人に駅の話を聞くと、昭和47年に国分まで延びて大隅線が全線開通したのだが、その同じ年に長男が生まれたそうである。

 子どもが小さかった頃、子供会主催の行事で主人(旦那)たちが子供を連れてここ海潟温泉駅から列車で志布志に行き、そこに停泊していた沖縄航路のフェリー「サンフラワー」を見学し、さらに志布志駅から志布志線を使って都城経由で鹿児島まで行って帰って来た―という。

 何ともうらやましい話ではないか。子供たちがどれだけ胸をわくわくさせたろうか。ワクワク感は連れて行った大人のほうにもあったに違いない。わずか一日とはいえ、親(大人)と子供が、他人様のたくさんいる社会の中で同じことを共有できる経験は多ければ多いほどいい。

 昭和62年(1987年)に大隅線が廃止になって早くも28年。大隅の子供たちにとって、このような体験が不可能になってしまったのは残念だ(志布志線も同じ62年に廃止になっている。大隅半島から鉄道が消えた)。























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大雨警報が出た大隅地方

 7日の日曜日の夜から降り出した梅雨の雨。降るは降るは三日半、大雨警報が出たが、今日11日の午前10時頃にやっと上がった。

 頃合を見計らって鹿屋郵便局へ発送物を届け、その足で三日半で約400ミリの雨を記録したという肝属川の流れを見に行く。Cimg4188 場所は打馬町と王子町の境の橋「山中橋」。王子町で行われている「棒踊り」のレリーフが施された小奇麗な橋である。Cimg4181 橋の中央から上流を眺める。ここからはるか先、約10キロ上流の「吉ケ別府」というところに雨量計が設置されており、大雨となると必ず引き合いに出される地名である。今は小降りになって時間が経っているのであふれんばかりの増水は無い。Cimg4179 橋の反対側、下流を見ると川が二手に分かれている。右のが本流の肝属川、左が分水路だ。この分水路は昭和45年頃の大洪水を経て考案着工された。本流の下流は鹿屋市の中心部で、鹿屋小学校から今のリナシティあたりまでが川のネックになっていたのでかなりの洪水被害を受け、その結果分水路が設けられたのである。Cimg4189 約3キロの分水路の下流出口は新川町で、出口の上の高台には「新川稲荷神社」がある。Cimg4192 新川田崎大橋から見る合流地点。右手が分水路、左手が肝属川本流。これを見る限りではやや増水した川らしい川の流れに思える。Cimg4191 しかし下流を見ると増水して水辺の植物・葦がすっかり下流に向かって寝てしまっているので、現在の水位より2mは増水し激しく流れていたことが分かる。(川の先に見える2階建ての建物は田崎中学校。)

 これを書いている午後7時半、急に強い雨とおまけに雷が鳴り出したので、これにて終了。今年の梅雨は只者ではない!











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坂元温泉と芦の水門(鹿屋市浜田町)

 梅雨入り後一週間。雨が続いている。こんなに梅雨入りと同時に降り続くのは近年では珍しい。

 鬱陶しいので昼前に浜田町にある坂元温泉に行った。Cimg4160 大姶良町方面から来ると、瀬筒峠からの長い坂を下り、ほぼ下り切ったところで道路は右へ大きく曲がるが、そこを左手に入ると目指す温泉だ。「アビルランド」という別名の看板がある。Cimg4162 大きな溜め池が目印で、池に沿って山手に向かい、200mほどで着く。Cimg4161 浜田の海岸からは直線距離で1キロくらいな場所にあるのだが、丘陵の谷間にあるのでまるで山のいで湯という雰囲気だ。10時に始まるので午前中は空いているだろうと思って来たのだが、なかなかの人出だった。

 ここは正確には鉱泉で、この山の奥から湧き出て来るのを引き込んで沸かしている。泉質は鉄分の多い俗に言う「赤湯」で、それなりの効能はあるらしい。一見した感じは旧根占町の根占港横にある「ネッピー館」の源泉によく似ている。ただし、ここのは塩分はほとんど無い。

 正味40分ほどで帰途に就くが、昼までは少し時間があるので、今年から閉校になった浜田小学校を見て帰ろうと回り道をした。Cimg4165_2 正門から旧校舎を覗くと、二階の窓に「105周年 ありがとう」と大きな模造紙に書いた物をでかでかと張り付けてあった。Cimg4167 校門横のガラス付きの掲示ボックスにも「105年の歴史に誇りと感謝」「ありがとう浜田小学校」と思い出の写真と共に飾り付けられている。

 105周年ということであれば、浜田小学校の開校は1910年、明治43年。こんな小さな学校でも明治・大正・昭和・平成と4つの時代を経て来たのだ。そして今年度から大姶良小学校に統合され、10名足らずの児童は向こうへ移籍し、幕を閉じた。Cimg4166 向こうの端に25メートルプールのある広々とした校庭。10名足らずの児童には広すぎたかもしれない。雨に濡れて寂しげに見える。

 鹿屋ではここ4,5年で小中学校の統合がかなり多く、平成23年3月に輝北町で5つの小学校が1校に、2つの中学校が1校にまとめられた。2年後の25年3月には古江小・菅原小・鶴羽小が閉校して花岡中学校と合体して「花岡小中学校」として発足した。

 そして今年の3月に、この浜田小学校が閉校、浜田小学校の卒業生も通っていた高須中学校も閉校。22年度から26年度までの丸4年で、28あった小学校が20校になり、15あった中学校が12校に減少した。(ただし、花岡小中学校が新設された。)

 過疎と少子化のダブルパンチによる児童生徒数の激減、経費の削減などの時代の流れでどうしようもないのだろう。しかしそれにしても子供が減った。

 手元の資料では、現鹿屋市の領域(旧鹿屋市・串良町・輝北町・吾平町)の昭和37年度の児童生徒の数は約26000名。ほぼ50年後の平成23年度での数は約9500名。半分どころか40パーセントしかないのだ。今後も微減して行くことはあっても、増える見込みは皆無とのことである(!)。
Cimg4169 浜田小学校の校庭の地続きに「浜田運動公園」があり、綺麗な芝生の広場になっている。ソフトボールくらいは出来そうだ。その一角に「慰霊碑」が建っていた。大東亜戦争戦死者のだが、昭和32年に当時の市長(元衆議院議員)永田良吉揮毫の字が彫り込まれている。

 左手の鉄筋の建物は公民館・消防会館だが、さらに左手奥の赤い建物は「浜田海水浴場」の管理棟である。この二つの建物の間を小さな川が流れて赤い管理棟の裏手にある海へそそぐが、この川はCimg4171 運動公園の南側の一角から眺められる浜田地区の水田地帯からの排水路でもあるのだが、実はこの水田地帯は弥生時代から相当長い間、海だったのである。正確に言えば「入り江」で、さっきの写真で説明した小さな川は当時の入り江と海(錦江湾)とをつなぐ「運河」のような働きをしていたわけである。 Cimg4172上の写真をアップすると、「入り江」のはるか向こうの丘陵地帯の谷間に白っぽい屋根が見えるが、あれが坂元温泉だ。

 伝承でこの入り江をさして「芦の水門(あしのみなと)」と言ったそうだが、芦とは単に植物の芦(葦)を指していうのでなく、本来の意味は「味鴨(あじかも)」の「あじ」で大阪の淀川の下流部にある「安治川」の「あじ」と同じである。鴨(航海者)がたくさん集まる場所をそう名付けたわけで、そうなると「芦の水門」とは「鴨族(海人族)の水門」という意味になる。

 鹿児島の「鹿児」(かこ=梶子・水夫)は「かも=鴨」でもあり、鹿児島はとにかく「鴨族(海人族)」があちこちに蝟集する地域(島)だった。それを「鹿児(かこ)の島」「鴨着く島」と古代言い習わしてきたわけである。大隅半島もその例外ではなく、むしろ弥生期の水田立国時代は薩摩半島よりはるかに勢力を持っていたのだ。

 そんなすぐれた歴史を垣間見せてくれるのが浜田だが、人口減少・子供の減少は覆うべくもなく、忘却が地域を支配しつつあるのは残念である。
















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旧国鉄大隅線(3)

 旧鹿屋駅から古江駅までをたどってみる。

 旧鹿屋駅は昭和13年(1938)に元鹿屋駅から300mほど南に移転し、現在の鹿屋市役所の建物のところに設置された。Cimg4122 この写真は『目で見る鹿屋・大隅・肝属郡の百年』(平成17年 郷土出版社)からのものだが、昭和62年(1987)の廃線後、左上に見える鹿屋駅の二つのプラットホームの位置に今の市役所が建てられた(平成3年竣工)。Cimg4120 現在の市役所庁舎を上の写真とは反対方向から見ると、たしかに線路が右手前方面へ曲がっていた様子が道路の曲りでそのまま残っている(反対側から見るのだから曲がり方は当然左方向になっている)。Cimg4056 昭和13年当時の写真を写した方角から見た市役所(旧鹿屋駅ホーム)。この道は廃線前の軌道そのもので、プラットホームからこちらへ右曲がりになって来ているのが分かる。Cimg4057 軌道の進行方向を見ると、この交差点を過ぎてからは、向こうの丘陵に向かって大きく左カーブをして行く。現在は一般道路になっている。

 要するに旧鹿屋駅は元鹿屋駅がスイッチバック式(折り返し式)で不便であったため、本来の中心地から300mも南に移転させたうえで、今度は線路をループ式にしてスイッチバックをしないでもいいように変更したのである。

 これだけでも大改変だが、もっと興味深いのが「改軌(かいき)」である。

 改軌とは軌道の幅(線路の幅)を変えることで、それまでの大隅線(当時は古江西線)は線路幅が762ミリの軽便鉄道仕様であった。ところが同じ13年に志布志方面から延びて来た「古江東線」が串良まで狭軌道(1067ミリ)でやって来ており、その幅に統一するために762ミリを1067ミリに広げる(改軌)を、突貫工事で進め、13年の10月10日に完了したというのである。その完了直後の写真が一番最初の古い写真である。

 平成13年10月に晴れて古江西線が古江東線と合体し、ここに志布志駅と古江駅とを結ぶ「国鉄古江線(47.8キロ)」が誕生した。この年以降は廃止まで、同じ1067ミリの狭軌線路を走り続けることになる。Cimg4065 最近装いを新たにしてウォーキング者などのための休憩所となった旧野里駅。ここは昭和20年3月19日の米軍空襲の直撃を受けて駅舎が壊滅し、死者・行方不明者80名を出した。この駅から鹿屋海軍航空基地への引き込み線があったため狙われたのだという。一般市民を巻き込んだ戦時国際法違反の攻撃であった。Cimg4068 次の駅は「大隅高須駅」。駅跡は残されず、町民会館が建つ。Cimg4069 町民会館の裏手は駅構内を偲ばせる広さの空き地になっており、はるか向こうに丘を刳り抜いたトンネルが見える。最初の路線はこの丘を迂回する形で左手へと走っていたが、海岸部へ移設されトンネルが掘られたという。Cimg4067 鹿屋方面へは海岸部の高須海水浴場のすぐ脇を走り、海岸部から内陸に入ろうとするところで並行して走る国道269号線(旧道。佐多街道)を左へ跨ぐ高架が今でも残され、そこはウォーキング道路となっている。年配者の話では、昔は鉄道を利用し、子供連れで高須海水浴場へ通ったそうである(古き佳き時代なり)。

 実はこの高須こそが、大正4年(1915年)、大隅半島で最初に創設された軽便鉄道の出発地であった(高須・鹿屋間9.3キロ)。最初は南隅軽便鉄道。その後すぐ大隅鉄道となったが、本社はここにあった。

 その後、大正9年(1920)には鹿屋から高山まで延び(10.2キロ)、同10年(1921)にはさらに串良まで延びている(4.7キロ)。そして高須から南へ6.8キロの古江まで延びたのは大正12年(1923)であった。つまり、大正4年に創設された軽便鉄道はわずか8年の間に古江から串良までの31.0キロをカバーしたことになる。Cimg4071 古江までの途中には旧荒平駅がある。ここは最近すっかり改装され休憩するのにもってこいの場所になった。海岸の先にある「荒平天神」と、海のかなたに霞む薩摩半島の開聞岳の姿は昔と変わらぬ絶景である。Cimg4074 昭和10年(1935)に国有化され、同13年に線路幅1067ミリに改軌されて志布志から串良までの「古江東線」(16.8キロ)と、この古江から串良までの「古江西線」(31.0キロ)は一本化し、新たに「国鉄古江線」が生まれた。

 この古江鉄道記念公園に残る駅舎は廃止当時(昭和62年=1987年)の物に手を加えられて綺麗になっているが、大きさ・位置は当時のままだ。Cimg4079 駅舎の裏にはプラットホームと線路の一部・動輪・転てつ器が残されている。

 旧古江駅は古江港のすぐ近くで、ここからは鹿児島市方面の汽船が出ていたので戦前はたいそう賑わった。戦後も古江で捕れた魚が女性行商人たちの脚で、鹿屋をはじめ各地の駅を経由して売りさばかれていた。

 旧古江駅から線路は錦江湾に沿って北上し、垂水の「海潟温泉駅」までの17キロが延びたのは昭和36年(1961)のことであった。

※このブログで、ちょうど1000回となった。2006年(平成18年)の10月10日に最初のを書いてから8年と8か月。我ながらよく続いたなと感心している。

 

 一年に100ブログを目標に10年は頑張ろうと書き綴って来たが、予定より早く1000回に達したことになる。

 

 前半はホームページ(鴨着く島おおすみ)の作成上、大隅半島の津々浦々を取り上げて駆け巡った感があるが、後半はひと段落ついたこともあっておおむね自分の住んでいる鹿屋市周辺を中心に取り上げ、また身辺雑記や国内外の時事問題のような記事が多くなった。

 

 齢も歳だし、致し方ない面もあるかと自認している。今風に言えば加齢現象!かつ時事(=爺)問題への関心アップ! でも、大隅地域の歴史的な話題についてはこれからもできるだけ取り上げて行くつもりでいますので、よかったら見てやってください。

















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「日本の歴史家を支持する声明」

 一ヶ月前の5月4日にアメリカで出された「日本の歴史家を支持する声明」というのが話題になっている。Cimg4106 昨日(6月5日)の朝7時のNHKニュースで、アメリカの歴史研究者180名が連名で出した(次第に賛同者が増えて400名を越したそうだが)「日本の歴史家を支持する声明」が取り上げられた。Cimg4105 連名者の中に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書いた著名な歴史家エズラ・ボーゲルと『敗戦を抱きしめて』『容赦なき戦争』などを著したジョン・ダワーなどもいるそうだ。

 歴史認識と言えばお隣りの韓国や中国が執拗に「日本が戦前に起こした侵略に対し、謝罪せよ。それが歴史認識だ」という論調が一世を風靡している感がある。今度はアメリカからそう言われるのか―と危惧が生まれた。

 しかし、声明を読んでみると、むしろ逆の印象を受けた。以下は「毎日新聞インターネット版」から入手した声明文の中から要点を抜き書きする。

<日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第2次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対して、心からの賛意を表明するものであります。>

<戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察犬の節度ある運用と政治的な寛容さ、は日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行なってきたことと合わせ、すべてが世界の祝福に値するものであります。>

<しかし、・・・(中略)・・・歴史解釈の問題があり、その中でも争いごとの原因となっている最も深刻な問題の一つに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。>

 ここまで読んできて、ははあ、やはり慰安婦の問題に切り込んで来たな、と思った。しかし続けて、

<この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、余りにゆがめられてきました。>

<元「慰安婦」の被害者としての苦しみが、その国の民族主義的な目的のために利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。>

 とあるのを見ると、韓国や中国、特に韓国のアメリカでの「慰安婦像」の設置などにみる行き過ぎた民族主義的な愚行に対して、警鐘を鳴らしているのである。

 一方で、世界史的な認識と日本への提言もある。

<多くの国にとって、過去の不正義を認めることはいまだに難しいことです。(中略)アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制度廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに一世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に根深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた19、20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。>

<今年は日本政府が言葉と行動に於いて、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。四月のアメリカ議会演説に於いて、安倍首相は人権問題という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを称賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。>

 上の最初の見解は、まったくその通りだと思う。ただ、日本と欧米の植民地支配の構造が大きく違い、日本は諸民族の教育の普及・向上によりアジアの各民族の自決(大東亜共栄圏構想)を目標にしていたのに対し、欧米のアジア・アフリカ植民地支配は人種的蔑視に基づいた「民族の自治権は認めない」という属領支配だったのである。

 日本が欧米の圧力よる開国後の不平等条約(治外法権あり・関税自主権なし)を撤廃したいということで懸命に欧米の文化・文明を取り入れ、諸制度を充実させ、日清・日露戦争を経てようやく平等な関係を築いた。さらに、1919年のパリ講和会議(全権公使・西園寺公望)において「人種差別撤廃案」を提出し、議決にかけたら多数の支持を得たにもかかわらず議長の米大統領ウィルソンによって「全会一致でなければ認められない」と強引に葬られてしまった―こういう歴史事象に触れないのは片手落ちだろう。日本の意見が取り入れられていたら、もっと早く人種差別はなくなり、「民族自決」が実現していたに違いないのである。

 あと半分の提言では、安倍首相のアメリカ両院合同議員会における演説を高く評価している。しかし、その内容に応じた「大胆な行動を期待する」という意味をどうとらえたらよいのか、首をかしげる。安倍首相は慰安婦問題に対して過去の「村山談話」つまり謝罪を支持すると言っているわけで、これに加えて何か行動を起こせ―というのだろうか? どんな行動を期待しているのか、よく分からない。8月に出すという「戦後70年を迎えての首相談話」では、マスコミによると「謝罪はいれない」らしいが、そのことに対して釘を刺しているのだろうか?

 最後に再度「慰安婦問題」を取り上げ、しめくくっている。

<性暴力と人身売買の無い世界を彼ら(注:アメリカで歴史を学んでいる日中韓等の留学生のこと)が築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を促進するために、過去のあやまちについて可能な限り全体的で、できうる限り偏見なき清算を、この時代の成果として残そうではありませんか。>

 性暴力と人身売買は何も日本人だけの問題ではない。たしかに太平洋戦争の最中には日本軍人に対して「慰安所」が設けられ、それは日本軍人が利用する以上、日本軍の関与があったことは事実であるが、「強制連行」とか「拉致」はなった。ちゃんとした「公募」だったのである。むしろ彼女らの「高級」に目のくらんだ親・親族が募集業者に積極的に関与していた疑いの方が強い(韓国でも同じ。もっと凄まじかったかもしれない)。

 日本軍は「慰安所」を設けることで、占領地における日本軍人の現地民婦女子への性的暴行を可能な限り防いでいたことも見落としてはならない。しかも当時の日本では「赤線」と言われる性風俗地域が公認されていた(当時の世界はどこでも似たり寄ったりではなかったか)わけで、今からみればずいぶん非道なことと思われるだろうが、それが過去の現実であった。

 この最後の声明は、過去の現実は現実として認め、未来の現実に向かって一歩でも二歩でも進めよう―というメッセージを、過去に現実に「慰安所」という組織的な性暴力機関を設けてしまった日本がまずは過ちを認め、世界に対して積極的にこのようなことがあってはならないと表明して欲しいという期待感の表れとみたい。

 ※上記の深紅の太字で書いた中の「人種蔑視」に関して、最初のほうで紹介した歴史家ジョン・ダワーの『容赦なき戦争』の一節には、こう書いてある。

<フィリピンの征服…この戦闘(注:アメリカのフィリピンへの侵略戦争)でアメリカ人は、どのような特性を敵に与えただろうか。戦闘では、推定で二万人のフィリピン人「暴徒」が殺され、二十万人にのぼる市民が破壊に伴う上と病気から死んだとされる。フィリピン人は「卑しい裏切り、ぞっとする残忍行為」を平気で行う連中であると、陸軍長官は述べた。茂みの中に隠れている「ゴリラ」だと、ある将軍のレポートは記し、―「文明化した諸国では戦争の掟として知られることを常習的に破る野蛮人」と別の将軍は語った。(中略)ラドヤード・キップリングの有名な詩「白人の重荷」は、フィリピンでの戦争に応じて1899年に書かれたが、「取り乱した連中、乱暴で不機嫌な人々、半分は悪魔で半分は子供」という、西洋のフィリピン人及びアジア人に対する認識を不朽のものにした。>(同書197~8ページ)

 いかにアメリカ人や西洋人がアジア人を蔑視していたかが、また欧米の植民地支配の苛烈さがよくわかる。日本が「アジア民族の自立を!」と叫んでも、欧米人の目から見れば「チャンチャラおかしい、バカを言うな」ということだったのだ。これが太平洋戦争の遠因であった。

 




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旧国鉄大隅線(2)

 昭和62年に廃止された旧国鉄大隅線(志布志ー国分間、98キロ)の跡はそこそこ残っている。先日の志布志駅から東串良駅までの続きで、串良駅から鹿屋駅までをたどってみた。

 まずは、東串良駅から串良川を挟んでわずか0,6キロしかない串良駅跡。Cimg4029 旧串良駅は公園になっており、入り口に記念碑が建っている。「大隅線のあゆみ」というタイトルが振ってあるが、最後から3行目に、「廃止にあたり国から関連事業として交付金1億3千万円余りが交付されたため、関連事業道路を建設するとともに、永い鉄道の歴史を残すためここに鉄道記念公園を建設する。平成2年3月」とあり、当時の串良町長名も刻まれている。

 廃止したらこの駅だけで関連事業費として1億3千万が交付されたのか、串良町全体の駅廃止に伴う総額が1億3千万なのかは分からないが、ともかく国から「鉄道がなくなれば自動車交通に頼るしかないので頑張りなさい」と引導を渡され、かつ、何がしかの資金が交付されたことは判る。Cimg4031 串良駅からは右の串良ー高山道路に沿うように線路は走っていた(左手の高圧線鉄塔に向かって線路が敷かれていた)。Cimg4034 下小原駅を過ぎ、肝属川を渡ると肝付町(旧高山町)で、旧高山駅の前に出る。ここまで串良駅から4,7キロ。

 この旧高山駅では、旧大隅線で唯一当時のままの駅舎が残っている。廃止後28年も経つが、さほど古びていない。今でも列車が来れば乗客が乗り降りできそうだ。Cimg4035 だが、駅舎の裏側に回ると、線路はもちろんホームの跡形もない。わずかに線路際に立っていたと思われる信号灯が往時をしのばせるのみ。Cimg4036 駅前から振り返る高山町。撮影したのは5時近くで、28年前のこの時間帯であれば、串良や鹿屋市内の高校から帰宅する高校生たちや買い物帰りの主婦たちで賑わっていたであろうが、今はご覧の通り閑散としている。Cimg4037 旧高山駅から、論地駅という不思議な名称の駅(江戸の昔に境界争いがあったのでこんな地名になったそうである)を通過して次は「吾平駅」。旧構内の一角には吾平町鉄道資料館が建つ。今は週一回しか開館しないそうで、色々な鉄道資料が展示されている。ここまで高山駅から4,2キロ。Cimg4039 資料館の奥には鉄道記念公園がある。おそらく国から串良町と同じくらいの交付金が出されて建設されたのだろう。公園の向こうに駅ホームが再現され、かって走っていたジーゼル車などが展示されている。旧大隅線で列車の実物展示は、志布志駅、旧鹿屋駅とここだけである。Cimg4041 ジーゼル車の向こうには約50㍍にわたって当時のままの線路が残されている(これだけ長く残されているのはここだけ)。Cimg4042 旧吾平駅から永野田駅、大隅川西駅を通過して旧鹿屋駅。吾平駅からここまで6,3キロ。(志布志駅からは32キロ。)この建物はかっての構内の一角に建てられた「鹿屋市鉄道記念館」。

 旧鹿屋駅は大隅半島では志布志駅と並ぶ中心的旅客駅で、垂水を経由して鹿児島市内へ行くための起点であり、かなめであった。Cimg4043 左手の市役所の位置に旧鹿屋駅舎とやや高い位置に駅ホームがあったが、平成3年におそらくは鉄道廃止による国からの交付金の活用で、6階建てのりっぱな庁舎にでんと置き換えられた。そこに駅跡を偲ばせるものは全く残っていないが、その代わりに鉄道記念館が建てられた。

 Cimg4045 鉄道記念館の裏には廃止当時走っていた「キハ40型ジーゼルカー」と保線に使う作業車が置かれている。Cimg4046 裏手の駐車場には往時の駅名板がいくつも残されて立っている。

 鹿屋市鉄道記念館は毎週月曜日と年始年末以外は入館でき、当時の鉄道資料の数々が展示されている。またNゲージの鉄道模型があり、子どもたちでも楽しめる(開館時間は9時から4時半)。


 








 












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安全保障法制の国会論戦

 5月26日になって国会で新しい「安全法制整備」に関する論戦が始まった。Cimg3904 自由民主党の重鎮・高村氏(衆院特別委員会で。画像はNHKから)。

 質問はペーパーなど全く見ずに、質問というより首相に教示するかのような発言であったが、その中で<砂川事件>というものを例に挙げて、「あの時の最高裁裁判官たちは<個別的自衛権>は各国に固有のもので、第9条には抵触しない、とまでは言ったが、集団的自衛権については知らなかったのか、言及していないんです」と。

「集団的自衛権も各国、とくに友好国である他国に何かあった場合には国連憲章上認められている」―というふうにも高村氏は述べるのだが、しかし、そもそも国連憲章で認められる集団的自衛権とは<旧連合国(第2次大戦における連合国)が、再び枢軸国(日独伊及び他の数国)によって侵攻なり侵略なりがあったら、ただちに連合してやっつけられる>というもので、日本がいまだに第53条によりドイツなどとともに連合国の「敵国」である以上は、ないと言わざるを得ない。

 あるとすれば、現在も締結している<日米安全保障条約>によって、もし日本が有事の際、やたらにいろいろな国と連合して戦うわけには行かず、結局組む相手はアメリカしかない。旧敵国だが、安保を締結している以上、ほかに選択肢はない。

 憲法9条による自衛権を拡大解釈して出した

 <自衛の措置としての武力の行使の新三要件>

にはこう書いてある。

(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国との密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。

(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと。

(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。

 ずいぶんアバウトな文言が並ぶが、このうち(1)の<我が国と密接な関係にある他国>とはすなわち唯一アメリカのことだ。アメリカが安保条約と日米地位協定により日本に置いている基地をベースにして東アジアに睨みをきかせている状況下で、たとえば北朝鮮が日本海に展開している米軍艦船に向けてミサイルを発射したら、ただちに米軍を支援するわけである。

 また、米軍の偵察機や艦船が中国が軍事基地を作っている南沙諸島を監視に来て、仮に銃撃を受ければ、これもただちに出動して支援をするようになろう。

 「国内法は外交の高度な政治判断には勝てない」という不文律があるからだ。言い方を変えると、<首相が高度な外交上の施策を実施するにあたっては、国内法よりそちらを優先する>というのが普通であり、特に日本とアメリカの片務的な「日米安全保障条約」下にあればなおさらのことだろう。

 <新周辺事態>とは中国の軍事的突出を念頭に置いたもので、アメリカが自から進んで中国をなだめすかす役割を放棄しつつあり、その分日本自体の防衛力を高めるよう促しているに違いない。万が一の事態が発生したら、アメリカ艦隊とともに日本艦隊も出動し、矢面に立つ状況になるかもしれない。

 アメリカとしては、1978年に今の中国共産党政府を承認して共同コミュニケを出し、こともあろうにそれまで国連の安全保障理事会常任理事国であった台湾(中華民国)を国連から追放し(台湾の自脱という形で)、その後がまに民主的政党もなく国民の選挙権もない一党独裁の中国共産党政府を据えてしまったのである。

 もしかしたら当の中国政府自身が驚いたに違いないが、あれよという間に(分担金もほとんど払わずに)安全保障理事会の常任理事国の座に就いてしまったのである。

 結局のところ、そのころ破竹の勢いで経済発展を遂げている日本への当て馬だったのだろう。つまり敵国条項を適用されている日本に対する「反日」なら、共産党政府でもなんでもよかったわけである。そのころ日本と中国は結構親交を深めていて「政経分離」のスローガンで貿易(LT貿易)が軌道に乗りつつあったが、そのこともアメリカの危惧であった。「日中が手を結びはせぬか」と。

 その危惧がアメリカをして中国政府へ「反日・侮日」政策推進に走らせる大きな要因になったのではないか、と思われる。また、ちょうどそのころから尖閣諸島について「俺のものだ」と日本に対して高圧的になりはじめてもいる。

 そして軍事費をどんどん高め、その挙句に太平洋に何とか線という「防衛ライン」を想定し、アメリカとの対抗意識をむき出しにしつつあるのが現状である。

 アメリカが「竹のカーテン」をこじ開けて自由陣営に引っ張り出して40年、最初は「黒でも白でもネズミを捕まえるのが良い猫だ」(鄧小平)と子猫をかぶっていた中国がモンスター猫(明治のころは眠れる獅子と言われた)になってしまった。もうアメリカの言うことを聞かなくなったのは、先日訪中したケリー国務長官への王毅外相の横柄な態度でも分かる。

 こんな中国にしたのは上のような歴史的経緯からして、元はと言えばアメリカである。アメリカは「軍国主義だ、南京事件だ」と事あるごとに反日(日中離反)姿勢をとる有難い(正確に言えば有難かった)中国が、今や経済的にも軍事的にもモンスター猫になってしまったことに内心「しまった」と思っているに違いない。

 対米黒字が溜まりに溜まっている中国を南沙諸島問題で攻撃すれば、たちまちドルは下落するから、絶対に関わりたくない。その代りに日本を矢面に立たせようというのだ。日中が戦えば円・元ともに下落しドルは安泰となる。

 識者やマスコミは、かのイラク戦争でサマーワに展開したような形で後方支援に回った自衛隊が攻撃を受けたらどうするとか、ペルシャ湾口の魚雷掃海活動は軍事支援だから攻撃を受けるかもしれないじゃないか―などと細かい点に焦点を絞ろうとするが、それよりまず、日米安全保障条約という縛りのある「集団的自衛権」はアメリカのいいように利用される可能性が高いことを追求すべきだろう。Cimg3945 日本共産党の志位氏の質問。

 共産党は中国であれ日本であれ嫌いだが、志位氏の質問に歴史的にうがった観点があったのには大変驚いた。

 志位氏は安倍首相の進める安全保障法制について、その字句の云々だけではなく、アメリカ主導の戦争に引きずり込まれるに違いないとし、それらの戦争が果たして正当なものであるかどうかに疑問を持ち、具体的にベトナム戦争とイラク戦争について次のように指摘している。

 まず、ベトナム戦争。ベトナム戦争は中ソ共産党の支援する北ベトナムと、自由陣営と見られていた南ベトナムとの間の抗争にアメリカが割って入ったのだが、そのきっかけとなった「トンキン湾事件」(洋上の米艦船に対して北ベトナムが攻撃を仕掛けてきたとする)を合図に悪名高い「北爆」が開始され、その後地上戦にも部隊が投入されて本格的な戦争になったのだが、そのトンキン湾事件は実はアメリカの捏造だったという。

 次に、イラク戦争。サダム・フセインは大量破壊兵器を所有しているから廃絶させる―というのが戦争開始の理由だったのだが、これはイラク戦争後に当のアメリカ大統領ブッシュ(2世)が「大量破壊兵器は無かった。誤認だった」と認めているくらい馬鹿馬鹿しい戦争であった。

 連合国として戦ったイギリスでも首相が過ちを認めているのに、日本政府は何とも声明を発表していない。志位氏が「外交ルートでアメリカに遺憾の意を言ったか」との質問に、岸田外相は「していない。サダムフセインは国連の査察を受け入れなかったからと承知している」との見解。志位氏が「何でもアメリカ追認の姿勢だ。これではアメリカ主導の戦争に引っ張られるではないか」と突っ込むが、岸田外相はしどろもどろで逃げてしまった。

 こんな状況であるのに、なぜ安倍政権は先を急ごうとするのだろうか。もしかして「日本がアメリカの敵に対してともに戦い、血を流してくれたら、国連憲章の<敵国条項>を削除してやろう」などと言われているのだろうか?

 

 

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