« 「日本の歴史家を支持する声明」 | トップページ | 坂元温泉と芦の水門(鹿屋市浜田町) »

旧国鉄大隅線(3)

 旧鹿屋駅から古江駅までをたどってみる。

 旧鹿屋駅は昭和13年(1938)に元鹿屋駅から300mほど南に移転し、現在の鹿屋市役所の建物のところに設置された。Cimg4122 この写真は『目で見る鹿屋・大隅・肝属郡の百年』(平成17年 郷土出版社)からのものだが、昭和62年(1987)の廃線後、左上に見える鹿屋駅の二つのプラットホームの位置に今の市役所が建てられた(平成3年竣工)。Cimg4120 現在の市役所庁舎を上の写真とは反対方向から見ると、たしかに線路が右手前方面へ曲がっていた様子が道路の曲りでそのまま残っている(反対側から見るのだから曲がり方は当然左方向になっている)。Cimg4056 昭和13年当時の写真を写した方角から見た市役所(旧鹿屋駅ホーム)。この道は廃線前の軌道そのもので、プラットホームからこちらへ右曲がりになって来ているのが分かる。Cimg4057 軌道の進行方向を見ると、この交差点を過ぎてからは、向こうの丘陵に向かって大きく左カーブをして行く。現在は一般道路になっている。

 要するに旧鹿屋駅は元鹿屋駅がスイッチバック式(折り返し式)で不便であったため、本来の中心地から300mも南に移転させたうえで、今度は線路をループ式にしてスイッチバックをしないでもいいように変更したのである。

 これだけでも大改変だが、もっと興味深いのが「改軌(かいき)」である。

 改軌とは軌道の幅(線路の幅)を変えることで、それまでの大隅線(当時は古江西線)は線路幅が762ミリの軽便鉄道仕様であった。ところが同じ13年に志布志方面から延びて来た「古江東線」が串良まで狭軌道(1067ミリ)でやって来ており、その幅に統一するために762ミリを1067ミリに広げる(改軌)を、突貫工事で進め、13年の10月10日に完了したというのである。その完了直後の写真が一番最初の古い写真である。

 平成13年10月に晴れて古江西線が古江東線と合体し、ここに志布志駅と古江駅とを結ぶ「国鉄古江線(47.8キロ)」が誕生した。この年以降は廃止まで、同じ1067ミリの狭軌線路を走り続けることになる。Cimg4065 最近装いを新たにしてウォーキング者などのための休憩所となった旧野里駅。ここは昭和20年3月19日の米軍空襲の直撃を受けて駅舎が壊滅し、死者・行方不明者80名を出した。この駅から鹿屋海軍航空基地への引き込み線があったため狙われたのだという。一般市民を巻き込んだ戦時国際法違反の攻撃であった。Cimg4068 次の駅は「大隅高須駅」。駅跡は残されず、町民会館が建つ。Cimg4069 町民会館の裏手は駅構内を偲ばせる広さの空き地になっており、はるか向こうに丘を刳り抜いたトンネルが見える。最初の路線はこの丘を迂回する形で左手へと走っていたが、海岸部へ移設されトンネルが掘られたという。Cimg4067 鹿屋方面へは海岸部の高須海水浴場のすぐ脇を走り、海岸部から内陸に入ろうとするところで並行して走る国道269号線(旧道。佐多街道)を左へ跨ぐ高架が今でも残され、そこはウォーキング道路となっている。年配者の話では、昔は鉄道を利用し、子供連れで高須海水浴場へ通ったそうである(古き佳き時代なり)。

 実はこの高須こそが、大正4年(1915年)、大隅半島で最初に創設された軽便鉄道の出発地であった(高須・鹿屋間9.3キロ)。最初は南隅軽便鉄道。その後すぐ大隅鉄道となったが、本社はここにあった。

 その後、大正9年(1920)には鹿屋から高山まで延び(10.2キロ)、同10年(1921)にはさらに串良まで延びている(4.7キロ)。そして高須から南へ6.8キロの古江まで延びたのは大正12年(1923)であった。つまり、大正4年に創設された軽便鉄道はわずか8年の間に古江から串良までの31.0キロをカバーしたことになる。Cimg4071 古江までの途中には旧荒平駅がある。ここは最近すっかり改装され休憩するのにもってこいの場所になった。海岸の先にある「荒平天神」と、海のかなたに霞む薩摩半島の開聞岳の姿は昔と変わらぬ絶景である。Cimg4074 昭和10年(1935)に国有化され、同13年に線路幅1067ミリに改軌されて志布志から串良までの「古江東線」(16.8キロ)と、この古江から串良までの「古江西線」(31.0キロ)は一本化し、新たに「国鉄古江線」が生まれた。

 この古江鉄道記念公園に残る駅舎は廃止当時(昭和62年=1987年)の物に手を加えられて綺麗になっているが、大きさ・位置は当時のままだ。Cimg4079 駅舎の裏にはプラットホームと線路の一部・動輪・転てつ器が残されている。

 旧古江駅は古江港のすぐ近くで、ここからは鹿児島市方面の汽船が出ていたので戦前はたいそう賑わった。戦後も古江で捕れた魚が女性行商人たちの脚で、鹿屋をはじめ各地の駅を経由して売りさばかれていた。

 旧古江駅から線路は錦江湾に沿って北上し、垂水の「海潟温泉駅」までの17キロが延びたのは昭和36年(1961)のことであった。

※このブログで、ちょうど1000回となった。2006年(平成18年)の10月10日に最初のを書いてから8年と8か月。我ながらよく続いたなと感心している。

 

 一年に100ブログを目標に10年は頑張ろうと書き綴って来たが、予定より早く1000回に達したことになる。

 

 前半はホームページ(鴨着く島おおすみ)の作成上、大隅半島の津々浦々を取り上げて駆け巡った感があるが、後半はひと段落ついたこともあっておおむね自分の住んでいる鹿屋市周辺を中心に取り上げ、また身辺雑記や国内外の時事問題のような記事が多くなった。

 

 齢も歳だし、致し方ない面もあるかと自認している。今風に言えば加齢現象!かつ時事(=爺)問題への関心アップ! でも、大隅地域の歴史的な話題についてはこれからもできるだけ取り上げて行くつもりでいますので、よかったら見てやってください。

















|

« 「日本の歴史家を支持する声明」 | トップページ | 坂元温泉と芦の水門(鹿屋市浜田町) »

おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「日本の歴史家を支持する声明」 | トップページ | 坂元温泉と芦の水門(鹿屋市浜田町) »