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坂元温泉と芦の水門(鹿屋市浜田町)

 梅雨入り後一週間。雨が続いている。こんなに梅雨入りと同時に降り続くのは近年では珍しい。

 鬱陶しいので昼前に浜田町にある坂元温泉に行った。Cimg4160 大姶良町方面から来ると、瀬筒峠からの長い坂を下り、ほぼ下り切ったところで道路は右へ大きく曲がるが、そこを左手に入ると目指す温泉だ。「アビルランド」という別名の看板がある。Cimg4162 大きな溜め池が目印で、池に沿って山手に向かい、200mほどで着く。Cimg4161 浜田の海岸からは直線距離で1キロくらいな場所にあるのだが、丘陵の谷間にあるのでまるで山のいで湯という雰囲気だ。10時に始まるので午前中は空いているだろうと思って来たのだが、なかなかの人出だった。

 ここは正確には鉱泉で、この山の奥から湧き出て来るのを引き込んで沸かしている。泉質は鉄分の多い俗に言う「赤湯」で、それなりの効能はあるらしい。一見した感じは旧根占町の根占港横にある「ネッピー館」の源泉によく似ている。ただし、ここのは塩分はほとんど無い。

 正味40分ほどで帰途に就くが、昼までは少し時間があるので、今年から閉校になった浜田小学校を見て帰ろうと回り道をした。Cimg4165_2 正門から旧校舎を覗くと、二階の窓に「105周年 ありがとう」と大きな模造紙に書いた物をでかでかと張り付けてあった。Cimg4167 校門横のガラス付きの掲示ボックスにも「105年の歴史に誇りと感謝」「ありがとう浜田小学校」と思い出の写真と共に飾り付けられている。

 105周年ということであれば、浜田小学校の開校は1910年、明治43年。こんな小さな学校でも明治・大正・昭和・平成と4つの時代を経て来たのだ。そして今年度から大姶良小学校に統合され、10名足らずの児童は向こうへ移籍し、幕を閉じた。Cimg4166 向こうの端に25メートルプールのある広々とした校庭。10名足らずの児童には広すぎたかもしれない。雨に濡れて寂しげに見える。

 鹿屋ではここ4,5年で小中学校の統合がかなり多く、平成23年3月に輝北町で5つの小学校が1校に、2つの中学校が1校にまとめられた。2年後の25年3月には古江小・菅原小・鶴羽小が閉校して花岡中学校と合体して「花岡小中学校」として発足した。

 そして今年の3月に、この浜田小学校が閉校、浜田小学校の卒業生も通っていた高須中学校も閉校。22年度から26年度までの丸4年で、28あった小学校が20校になり、15あった中学校が12校に減少した。(ただし、花岡小中学校が新設された。)

 過疎と少子化のダブルパンチによる児童生徒数の激減、経費の削減などの時代の流れでどうしようもないのだろう。しかしそれにしても子供が減った。

 手元の資料では、現鹿屋市の領域(旧鹿屋市・串良町・輝北町・吾平町)の昭和37年度の児童生徒の数は約26000名。ほぼ50年後の平成23年度での数は約9500名。半分どころか40パーセントしかないのだ。今後も微減して行くことはあっても、増える見込みは皆無とのことである(!)。
Cimg4169 浜田小学校の校庭の地続きに「浜田運動公園」があり、綺麗な芝生の広場になっている。ソフトボールくらいは出来そうだ。その一角に「慰霊碑」が建っていた。大東亜戦争戦死者のだが、昭和32年に当時の市長(元衆議院議員)永田良吉揮毫の字が彫り込まれている。

 左手の鉄筋の建物は公民館・消防会館だが、さらに左手奥の赤い建物は「浜田海水浴場」の管理棟である。この二つの建物の間を小さな川が流れて赤い管理棟の裏手にある海へそそぐが、この川はCimg4171 運動公園の南側の一角から眺められる浜田地区の水田地帯からの排水路でもあるのだが、実はこの水田地帯は弥生時代から相当長い間、海だったのである。正確に言えば「入り江」で、さっきの写真で説明した小さな川は当時の入り江と海(錦江湾)とをつなぐ「運河」のような働きをしていたわけである。 Cimg4172上の写真をアップすると、「入り江」のはるか向こうの丘陵地帯の谷間に白っぽい屋根が見えるが、あれが坂元温泉だ。

 伝承でこの入り江をさして「芦の水門(あしのみなと)」と言ったそうだが、芦とは単に植物の芦(葦)を指していうのでなく、本来の意味は「味鴨(あじかも)」の「あじ」で大阪の淀川の下流部にある「安治川」の「あじ」と同じである。鴨(航海者)がたくさん集まる場所をそう名付けたわけで、そうなると「芦の水門」とは「鴨族(海人族)の水門」という意味になる。

 鹿児島の「鹿児」(かこ=梶子・水夫)は「かも=鴨」でもあり、鹿児島はとにかく「鴨族(海人族)」があちこちに蝟集する地域(島)だった。それを「鹿児(かこ)の島」「鴨着く島」と古代言い習わしてきたわけである。大隅半島もその例外ではなく、むしろ弥生期の水田立国時代は薩摩半島よりはるかに勢力を持っていたのだ。

 そんなすぐれた歴史を垣間見せてくれるのが浜田だが、人口減少・子供の減少は覆うべくもなく、忘却が地域を支配しつつあるのは残念である。
















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