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沖縄全戦没者追悼式

 沖縄戦が終了した1945年6月23日を記念して開催されている沖縄県主催の戦没者追悼式も、戦後70年を迎えることになった。Cimg4468 会場となった糸満市摩文仁の平和祈念館前の広場。(画像はNHKテレビニュースから。以下同じ)
Cimg4500 今日23日の正午に始まった追悼式で沖縄県知事が「平和宣言」を読み上げた。Cimg4504 翁長県知事は政府首脳の列席する前で、平和への誓いと共に辺野古基地の建設は反対である旨の発言を行った。

 このあとに地元の青少年代表が「平和の詩」を発表するのが恒例になっており、今回は高校3年生であった。Cimg4508 与勝高校という珍しい校名の高校の3年生、知念捷君(ちねん・はやおと読むのか?)で、大伯母さんが22歳の時に沖縄戦で夫を亡くし、戦後再婚せず過ごし、今は認知症が現れているという。

 タイトルは琉球方言で 『みるくゆが やゆら』。訳せば<今は平和ですか>。「みるくゆ」とは「弥勒の世」という意味で、仏陀が亡くなったあと、この世を救ってくれるという弥勒菩薩が出現する世の中になっているだろうか、そう願いたいものだ―ということである。

 大伯母が認知症になった今でも歌うという亡き夫を偲ぶ唄を聞きながら、この大伯母にはもう弥勒の世が来ているのだろうか、そう思いたい。そして世界全体もそうであればいいのに―と知念君は訴えていた。会場では涙をぬぐう人の姿もちらほら見えており、すばらしい詩の朗読であった。
Cimg4440 今朝7時のニュースでは気の毒な犠牲者の遺族の姿をとらえていた。Cimg4426 男性は喜屋武(きゃん)さんといい、70年前の沖縄戦の最中、米軍の攻撃に追われて母と4人の兄弟で逃げ惑う途中、あるガマを見つけて入ろうとしたが、兵隊に「幼児は駄目だ、泣き叫ぶので敵に見つけられてしまう」と言われ、上の二人の兄弟は何とかガマに入れたものの、幼い二人は容れられず、母が連れて逃げたが、どこかで砲撃に遭って死んだらしい―という。

 母(喜屋武亀)と下の弟(幸雄)と妹(洋子)の遺体はおろか遺骨も見つかっていないそうである。戦後70年の今でも戦闘地域では土の中から多くの遺骨が見つかっており、喜屋武さんはすべての遺骨をDNA検査にかけてもらえれば判るかもしれないと、生きている限り遺骨を探し出し、供養したいと願っている。Cimg4490 摩文仁の丘の海側は「喜屋武岬」で、ここに追い詰められた県民の多くが、断崖から飛び降りて亡くなったたという場所だ。この周辺では1万人が命を落としたという。

 放送の中では、10人家族で朝食を摂っている最中に砲弾が落ちて来て7人が即死したという女性もインタビューに応じていたが、悲惨極まりない沖縄戦であった。

 県民の4人に1人が亡くなった沖縄。約3ヶ月の戦闘という長期戦だったがゆえに米軍にも損害が多く、日本本土上陸作戦(オリンピック作戦・ダウンフォール作戦)に移るのに暇取り、結果としては本土上陸を防いだ沖縄。

 こんな沖縄県民に対して、海軍沖縄根拠地隊司令官だった大田實中将は自決の直前、海軍次官あてにこう打電した。

 「沖縄県民かく戦へり、後世、特別の御高配を賜らんことを」

 沖縄から米軍基地がなくなり、本当の「みるくゆ」(弥勒の世)が来るのはいつのことであろうか。泉下で大田中将が泣いていはせぬか。「まだ沖縄県民の言うことが聞けぬのか」「沖縄から米軍基地を撤去し、代わって自衛隊(日本軍)が沖縄を守るのだ」と歯ぎしりしておられるに違いない。

 業を煮やした人々による沖縄独立論というのがあるが、独立は無理にしても、「永世中立県」「永世中立特区」(ただし自衛のための武装はする)を勝手に(いや、県民の支持で)宣言してしまえばいい。

 沖縄が戦時に日本の礎(いしじ)になって平和の尊さを内外に知らしめたように、今度は「みるくゆ」の礎(いしじ)になることを内外に示して欲しいものである。








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