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旧国鉄大隅線(4)

 今回は旧古江駅から垂水の旧海潟温泉駅までをたどった。

 午前中はもつだろうとの予測は裏切られたが、分かりやすい線路跡だったので雨はさほど苦にはならなかった。Cimg4194 左手の白い車が駐車している曲線道路が線路跡で、その先の窓が二つある茶系の切妻が旧古江駅。そこからこちら側(垂水方向)へ100mほどの海辺に旧古江港があった。右手の「ふるさと市場」あたりに鹿児島航路の待合室があり、ずいぶん賑わっていたという(昭和62年の大隅線廃止以後もしばらく航路は稼動していた。)Cimg4195 線路は古江港のある海岸べりを進行し、200mほどで国道を高架で跨ぎ、道路の右手、つまり山側を走るようになる。写真の「西隅寺(真言宗大谷派)」と書かれた看板の向こうの二階建ての商店(瀬戸口商店)は長方形ではなく、手前の後ろ角を高架を支えるコンクリート支柱列によって切られている。

 「切られている」というと物騒だが、実は商店の後ろ側を高架用の支柱列が走っていたため、後から商店を新築した際に長方形に建てられず、角を落として建てたものだろう。商店の右手の平屋住宅は庭の一角を支柱列が通ったものか、いまだにコンクリート高架がそのままなのには威圧感を感じているに違いない。どこかの番組で「珍風景」というのをやっているが、それに応募したら取り上げられるかもしれない。

 古江から次の新城駅までの距離は7キロもある。7キロは旧大隅線で駅間距離としては最長である(大隅線は33駅で98キロであるから駅間距離の平均は3キロ。最短は串良・東串良間の0,6キロ)。古江は鹿屋市内、新城は垂水市内にあり、両市の境は海まで迫るシラス台地なので人家は無い。トンネルが2つもあってようやく境を抜ける。Cimg4197 国道269号線の海崖の切り立った「まさかり」(と云う地名)を抜け、「新城麓」信号を右折して200m、「麓自治公民館」という建物を左折すればそれが線路跡だ。(写真のむこうに向かって真っ直ぐに伸びている。)Cimg4199 500mも行くとトンネルがある。旧大隅線には相当数のトンネルがあるが、当時のまま残され、かつ車で通れるのはここだけだ。Cimg4202 トンネルを抜けて200m余りで旧新城駅。公園になっており、中には疑似ホームと線路が若干残されている。

 この裏手の山麓には新城島津家の後裔で「末川一族の墓」がある。新城島津家は島津久章が始祖だが、この人は江戸初期にゆえあって殺害された。墓は鹿児島市内七ツ島脇の清泉寺跡にある。江戸期島津藩藩主の主流は戦国武将・島津義弘の系統だが、兄の義久には男子がなく娘の「新城さま」の生んだ久信・久章父子はともに抹殺されたことから、跡目をめぐる陰湿な争いがあったと言われている。Cimg4204 旧新城駅から旧垂水駅までの距離はほぼ10キロ。その間に「諏訪」「柊原」「浜平」の3駅があったが跡は分からなくなっている。その代り線路跡はどこまでも立派な舗装道路になっている。途中、「柊原(くぬぎばる)遺跡」を通過するが、ここは平成7年に本格調査された貝塚の跡だが、発掘された大量の黒曜石の産地分析から、3500~4000年前の柊原縄文人は九州一円の黒曜石を手に入れていたことが分かり、調査した明治大学の考古学教授は、海路による九州一円の交易ルートがあったことは間違いない―そうである。大変な発見だ。Cimg4210 浜平あたりを過ぎたら、閉鎖されたトンネルで行き止まりになるので、海側を走る国道に下り、本城川に架る「本城橋」を通過したらもとの線路跡に戻るが、しかし垂水市内の線路跡はきれいなタイル舗装をした遊歩道になっている。Cimg4212 再び国道に下り、市の中心部を抜けようかという所にある「幹部派出所」という信号を右折。50mも行くか行かないかで右手に旧垂水駅がある。今は鉄道記念公園になっている。Cimg4213 公園の一角には往時をしのばせる疑似ホームと線路が若干残されている。Cimg4214 旧垂水駅からは国道の「荒崎パーキング」の手前までは道路化した線路跡が2キロ近く続き、そこから再び国道に下りて1.5キロほどで旧協和中学校の手前の手押し信号機。その路地を右手に入って150mほどで一直線道路に行き当たる。そこが旧「海潟温泉駅」のあった場所だ。(写真左手の草むら一帯が駅跡)

 指標になるものが一切ないので、近くに来ていた農家の人に聞いて分かったが、ここまで古江駅から17キロちょうど。

 旧国鉄古江線(古江・志布志間47.8キロ)が全線開通したのが昭和13年(1938年)。それから戦争を挟んで23年後の昭和36年(1961年)に、ようやくここまで鉄道の恩恵に浴することになったのである(志布志駅からここまで64.8キロ)。

 ―閑話休題―

 駅跡から100mくらい西に内田菓子店という店舗があったので買い物がてら女主人に駅の話を聞くと、昭和47年に国分まで延びて大隅線が全線開通したのだが、その同じ年に長男が生まれたそうである。

 子どもが小さかった頃、子供会主催の行事で主人(旦那)たちが子供を連れてここ海潟温泉駅から列車で志布志に行き、そこに停泊していた沖縄航路のフェリー「サンフラワー」を見学し、さらに志布志駅から志布志線を使って都城経由で鹿児島まで行って帰って来た―という。

 何ともうらやましい話ではないか。子供たちがどれだけ胸をわくわくさせたろうか。ワクワク感は連れて行った大人のほうにもあったに違いない。わずか一日とはいえ、親(大人)と子供が、他人様のたくさんいる社会の中で同じことを共有できる経験は多ければ多いほどいい。

 昭和62年(1987年)に大隅線が廃止になって早くも28年。大隅の子供たちにとって、このような体験が不可能になってしまったのは残念だ(志布志線も同じ62年に廃止になっている。大隅半島から鉄道が消えた)。























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