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弥生時代中期から後期にかけての天変地異

 約2000年前に南海トラフ大地震があってその津波は高知・徳島・和歌山・大分の各地海岸部を襲ったらしいことは、高知大学の地質学教室の岡村眞教授を中心とする研究グループで解明されているが、今度は地震や津波ではなく、降水量の研究者によって2世紀前半に日本列島で大洪水が発生して壊滅的被害をもたらしたことが浮き彫りにされた。Cimg5982 総合地球環境学研究所の中塚武教授は、これまでの2000年の降水量が約400年の周期で極度に多くなって大洪水を引き起こし、コメなどの生産に大打撃を与えた―と考えている(画像はNHK特集「巨大災害」から。以下同じ)。Cimg5968 樹木の年輪の層中に残る酸素同位体の量を測ることにより、当時の降水量が一年単位で分かるらしい。Cimg5979 約1900年前の紀元後127年の降水量は平年を3倍を上回っており、大洪水が発生したであろうとしている。Cimg5987 弥生遺跡の代表として教科書にも取り上げられる静岡県の登呂遺跡でも、2世紀前半には突然消滅したらしいことが分かっているという。(この画像はその原因となった登呂遺跡を襲う大洪水の想像CG。)

 中塚教授の作成した降水量の折れ線グラフによると、127年からわずか5,6年後には逆に極度の渇水状態になっており、この前後10年ほどは気候の大変動があったと読み取れるという。

 洪水、渇水のどちらも米作りにとって最悪の事態を引き起こしたであろう。そしてこのことによって『魏志倭人伝』に記されている「桓・霊の間、倭人乱れ、歴年攻伐せり」という記事がクローズアップされてくる。

 すなわち後漢の桓帝(在位146年~167年)と霊帝(在位167年~180年)の治世西暦146年から180年の間に倭人国家群の間で規模の大きな争乱があったとしているわけだが、その原因の大きなものはこれらの気候大変動による大災害ではなかったか。

 また南海トラフ基因の大地震とそれに伴う大津波もその頃に発生している。おそらく南九州はそのどちらからも著しい痛手を受けたはずで、さらに加えて例年やって来る台風や桜島・霧島等の火山災害は南九州人をして「移住」を考えさせる以外の何物でもなかったろう。

 その移住こそが『山城国風土記逸文』に記載の南九州投馬国の「曽の峰」に天下ったカモタケツヌミの大和葛城への移動であり、記紀に記載の南九州投馬国からの「神武東征」の真相であったと思われる。「東征」とは厳めしいが、真実はそのような移民であり避難民であったとすれば、「神武東征」は史実であったとしてよい(これは古事記の「神武東征」。大和入りまで16年以上かかっている)。

 このあと約100年後の3世紀後半には糸島半島の「五十(イソ)王国」(伊都国ではない)王・崇神の大和への移動があるが、こちらはわずか3年で大和の中枢部・纏向に入っている(これが日本書紀の「神武東征」。崇神の外来性は皇女のヌナキイリヒメが大和国魂、すなわち大和固有の土地神を祀ろうとしてできなかったことで分かる)。

 前者の南九州投馬国からの「神武東征」では、安芸の国(広島)に7年、吉備の国(岡山)に8年も滞在したが、東征軍にしては滞在期間が長すぎ、それよりも移住先として安芸や吉備にもとめた結果と考えた方が合理性がある。もちろん最終的な目的地は南九州の先人であるカモタケツヌミが到達していた畿内大和であったが・・・。

 その後約100年して九州北部の五十王国を核とした崇神・垂仁王権が大和入りをするわけだが、先に大和を統治していた南九州からの王権はタケハニヤス・アタヒメの代に崇神王権(大倭王権)によって撃ち破られてしまうのである。

 ・・・やや、勇み足的なことまで書いてしまったが、要は気候大変動による異常気象、大地震による大津波、火山噴火等の大災害に見舞われることの多い南九州は、弥生時代的な「米作り=国造り」という等式が統治理念に採用されてから、ひどく不安定な状況に置かれ、それによって時には移住・移民を余儀なくされたのであろう。そのもっとも規模の大きい移住・移民こそが「神武東征」であったとみて間違いないだろう―ということである。








 

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