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祭りの後のバラ園

 かのやばら園は23日で秋のばら祭りが終わったが、今日はウォーキングを兼ねて行ってみた。Cimg6972 浦和レッズの代表花として認定されているらしい赤バラが満開。赤の小ぶりのものがほとんど無いことを受けて著名なバラ作出家が育成したそうだ。Cimg6941 園内を見渡すと、祭り期間中と花の着きはほぼ変わっていない。Cimg6945 秋バラは色が鮮やかだという。Cimg6942  また一つの花が長く咲くともいう。Cimg6964 バラの草体自体の枝の張りが春より小さくなっている(だいぶ切り詰めてある)ので、まばらに咲いているように見えるが、どうしてなかなか・・・。Cimg6965 佳いものはよい。Cimg6966 味がある。Cimg6960 貴婦人。Cimg6970 ・・・。Cimg6952 バラ園の一番奥にはイングリッシュローズガーデンというのがあり、イギリス人が来て庭園をリニューアルしたが、その人が2013年に作出したのが「桜島」というやや小ぶりのバラ。Cimg6951 まさに芯から火炎が渦巻いて上がるような咲きっぷりだ。

 桜島と言えば、このところ鳴りを潜めている。

 なにしろ最後に噴火爆発したのが9月28日。それ以来、今日でちょうど60日間、音沙汰なし。

 8年前にそれまでの南岳火口に代わって噴煙を上げ始め、今年の6,7月頃は年間最多の噴火爆発回数を記録するのではと思われ、あまつさえ8月には「火山性地震」が急激に発生し、すわ大噴火か――と誰もが思った(噴火警戒レベルが3から4に引き上げられた)。

 しかし9月に入ってから次第に鎮静化し、28日の噴火を最後に文字通りピタリと止んだ。それから60日間一度も灰を撒き散らす噴火はない。

 去年は9月末頃から北西の風になると鹿屋市方面にまで飛んで来たし、11月の空っ風シーズンになると毎日のように降灰情報が出されたのだが、それも今年は嘘のようにない。

 どうしたのか、桜島。余りにも押し黙ったままでいると逆に不安になるじゃないか。手ぐすねを引いてマグマをせっせとため込んでいるんじゃないだろうナ。そのうちドッカーンなんて止めてくれよ。

 10月から11月にかけての高温も気かかりだ。

 10月の半ばに最低気温が9℃という日があって、ああ、これは当たり前に寒くなって行くのだろうなと期待したのだが、あに図らんや、その後は相変わらず夏日が続き、11月に入っても今日までで一回だけ10℃を下回って8℃というのがあったが、その後は最低気温ほぼ14~5℃をキープしている。

 何という高温。去年は11月20日頃には氷点下を記録したというのに・・・。鹿屋は意外に気温が低くて、11月に0℃から5℃位の朝が3,4回はあり、12月には氷点下が2,3回というのが普通だが、これもゴジラ・エルニーニョの影響なのか。

 桜島の噴火が収まったと思ったら、このところ九州南部や近海で地震がよく起こるようになった気がする。こっちはエルニーニョのせいではあるまい。いずれにせよ、南海トラフなど巨大地震への関心は持続しておくに越したことはない。































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二都物語へ一歩

 今日22日に行われた大阪府知事・市長のダブル選挙で、大阪維新の会候補が圧勝した。Cimg6899 (画像は10時のNHKニュースから)

 マスコミでは控え目にしか報道されなかったが、どっこい「大阪都構想」は生きている。Cimg6888 まだ10時の時点では開票率が、府知事選で17.5パーセント、市長選ではわずかに3パーセントだが、出口調査でほとんどが判明してしまう。

 府知事選への各党支持者の投票行動を見ると、自民党の支持者で大阪維新の会候補に入れたのが驚くほど多いことが注目される。半分近くが対立する維新候補へ入れている。Cimg6889 市長選では維新候補への投票は府知事選ほど多くはないが、それでも自民党支持者の30パーセントが維新の若い候補に投票している。

 これは珍しい現象だ。その背景はやはり「大阪都」を支持する人が多いということだろう。もちろん「二重行政の解消」が本丸だが、これに加えて大阪人の反東京意識が強く出たのだろう。できたら東京に並んで「二都」を形成し、一極集中をなくして行こうと思っているのではないか。Cimg6894 半年前の5月17日に行われた大阪都を目指すかどうかの住民投票では、わずか1万票の差、投票総数に対してわずか0、7パーセント及ばずして敗れ、その結果代表の橋下府知事があっさり「大阪都構想は目指さない」と述べ、さらに12月の任期で辞任する―と発言していた。

 しかし、維新以外のすべての政党が反対する中(自共までが呉越同舟した)でここまで拮抗したのなら勝利と言ってもよく、なぜ性急にやめてしまうのか―というブログを書いたが、今度の勝利で再び大阪都構想を復活させるようである。大変良いことだ。

 東京の一極集中の弊害を是正するのは大阪が中心になるしかない。かっては「多極的国土の形成」などと地方大都市を軸に分散を図ると言い、今は「地方創生、地方こそが主役」などと口当たりの良いスローガンを掲げているが、所詮は東京の中央官僚が出した机上論である。

 その点大阪は中央の机上論に太刀打ちできるだけのパワーと伝統がある。大阪独自のものが横溢しているので東京に丸め込まれることはない。大阪都を軸にしてまずは中央官庁の分散受入れを具体的な日程に乗せることが求められる。

 二都が実現したら、そのあとは「還都」だ。明治天皇が江戸城に乗り込んだのは江戸武家政権時代を完全に終わらせるためのシンボルだったが、もうその必要はなくなった。天皇が武家の象徴である城に居住するのは不似合いで、早く京都御所に還っていただく。これが「還都」である。

 そうなると、東京・大阪・京都の「三都」になるが、それはそれで日本の政治、経済、文化の象徴的な街となって行くだろう。








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器量が落ちた横綱

 大相撲九州場所10日目の横綱白鳳―栃煌山戦で、白鵬が立ち上がりざま「猫だまし」を使い、栃煌山を翻弄して結果は寄り切りで勝利したが、まったく情けない手を使ったものである。

 それに関して今朝のテレビ朝日「モーニング」で<猫だましは問題あり、なし?>とのテーマで論議していたが、Cimg6880 ニュースキャスターを含めて5人の出演者のうち3人が「問題なし」、2人が「問題あり」だった。Cimg6881 面白いのは「問題なし」としたのは男性、「問題あり」としたのは女性―とはっきり分かれたことだ。Cimg6882 テレビ朝日では今月27日まで、これに関してのアンケートを集計中らしいが、今のところ「問題あり」が「問題なし」を上回っているが、かなり拮抗している。Cimg6884 「問題あり」とした理由としては、大相撲協会的な見解に近い理由で ①相撲の神事性 ②横綱相撲 の二点が挙げられていた。Cimg6885 「問題なし」とした理由としては ①競技なんだから問題ない ②猫だましはルールにあり、戦術的に問題はない―― の二点。

 自分の見解は「問題あり」とほぼ同じだ。

 相撲の起源は、『日本書紀』垂仁天皇紀に見える当麻蹴速(タイマノケハヤ)と出雲の野見宿祢(ノミノスクネ)の格闘(一騎打ち)が起源だとする説と、天武天皇紀11年(682年)に大隅隼人と阿多隼人が天皇の前で相撲を取ったのが最初とする説と二説あるが、多人数による「天覧相撲」を大相撲の起源とすれば後者だろう。

 その後貴族の時代になって「相撲の節会」が恒常的に行われるようになり、今日の「国技館大相撲」へとつながるのだが、いずれにしても相撲は重要な「神事」の側面を持つ。…これが理由の一つ。

 もう一つの理由、「横綱らしい品位のある相撲」も避けて通れない。決まり手にあるのだから何でもして構わないのなら、肩透かし、バンバン張り手を繰り出して怯んだところを首根っこを押さえて転がす、そして猫だまし――これらをみんながやるようになったら大相撲は崩壊する。単なる「喧嘩に近い格闘技」になってしまい、誰も見に来ないだろう。(正確には、こういうのこそ見たい、溜飲が下がる――と思う下卑た観客は集まるだろう、少しは)

 思うに、昔(自分ら団塊世代が少年時代にテレビで観戦できるようになった頃)の大相撲は立ち合いに派手な突っ張り合いはあっても必ず組み手になり、くんずほぐれつの技の掛け合いが多く、実に見応えがあった。

 それが次第に「体力勝負」「重量勝負」のように変化して行った。嚆矢は高見山や小錦、曙などの巨体力士の登場で、大した技もなく面白くなくなって行った。そうでなくても、野球やサッカーなどの人気によって陰りが見えて来た大相撲人気が一層つまらなくなった(ただし、若貴が出て盛り返しかけたが…)。

 総じて体力に劣る日本人力士が委縮して来た頃に相撲界に登場したのが、モンゴル相撲の後継者たちだった。彼らの活躍で大相撲人気は若貴時代以上に盛り上がって来たのが現在の大相撲の状況である。

 三人の横綱すべてがモンゴル出身というのは大相撲の歴史始まって以来の珍事で、日本人ファンとして興醒めではあるが、彼らは彼らなりに相撲の稽古に励み努力の結果今があるのだから、その状況には文句のつけようがない。

 特に白鵬は一人横綱を数年も張って来た功労者であり、人柄もそれなりの人物である。しかしだからと言ってあの「猫だまし」はいけない。魔が差したとしか思えない。「日本人力士が余りに弱いのでおちょくりたくなった」というのでは尚いけない。

 やはり横綱は正々堂々、相手をまともに受けて立つ――という相撲をとらないといけないのだ。もうそんな「器量」も衰えた――というのであれば、横綱を返上すべきだろう。ここまで最高位をほしいままにしてきたのだから未練はあるまい。(むしろここでやめたら後世に残る大横綱になるに違いない。引き際も肝心だ。)

 父親はモンゴル相撲の最高位を何度も獲得している人らしいが、モンゴル相撲は組み手から(四つから)始められるので、「猫だまし」も「立ち合いの引き技」もない。これでは父親からも文句が出るだろう。

 今の大相撲を見ていて感じるのは「引き技」「力技」(頭を押さえて強引に倒す技)が多すぎるということだ。

 これからますます異国人力士が多くなり、力に物言わせる取り口が増えるだろうし、それに対抗して引き技も増え、ますます「勝ち負けこそすべて」という大相撲になって行くだろう。

 ここらで、組織替えを断行し、伝統的神事相撲を重んじる「日本大相撲協会」と、新しくスポーツ的な「国際大相撲協会」に二分し、後者は「まわしは無し」「体重別」とすればよい。

 さらに後者は今の「国際柔道」のように各大陸で競技を持ち回り、最終的なグランプリ大会は日本で開き、総合優勝者には天皇賜盃に準ずる優勝カップを授けるようにすれば、大相撲発祥の地日本の栄誉にもなるだろう。

 格闘技出身の馳文部科学大臣ならやってくれるかもしれない。

 (追記  2015.11.20)

 日本相撲協会理事長 元横綱 北の湖 が今日の夕方急逝した。死因は直腸がんによる多臓器不全だったという。享年62歳。

 「憎たらしいほど強い横綱」として輪島などと大相撲人気を支えた。今の白鵬は別にして、大鵬と並ぶ偉大な横綱だった。

 奇しくも、北の湖理事長はこのブログのテーマである「白鵬の猫だまし」について、「前代未聞。横綱が取る相撲じゃない」と強く批判していた。

 まったく同感である。大相撲への遺言とも取れるこの一言。白鵬は如何に聞いたかや。大いに反省すべし。反省しないなら辞めるべし。

 北の湖理事長のご冥福を祈る。











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ヨウ素剤と予防注射

 薩摩川内市の九州電力川内原子力発電所の2号機が1号機に続いていよいよ営業運転に入り、これで川内原発はフル稼働態勢になった。Cimg6873 時を合わせて、県が原発周辺3キロ以内に住む住民に対し「ヨウ素剤配布会」を開いた。Cimg6876_2Cimg6874_2190人が受け取り、この人数は5月の配布会の時の3倍だったそうである。Cimg6875 ところがここへ来てまだ原発から半径3キロ以内に住む住民の1000人余りが受け取りに来ていないらしい。

 原発推進派からすれば「万が一放射能汚染があっても、甲状腺に蓄積するのを(甲状腺腫瘍・癌を)防ぐヨウ素剤を無料でくれるというのに」と思うかもしれないが、反対派は「そんなの貰っても、いざ原発事故があったら焼け石に水」と考えているのか、もしくは、そもそも国が原発を推進するのに反対の立場だから無視する―ということだろう。

 後者の場合「敵に塩を送られてもそんなの受け取るか」という気持ちかもしれない。(国から見れば、「敵(反対派)にも塩だけは送ってやらねばならぬ」ということになる。)

 2011年の東北大震災により、事故を起こした福島はじめ全国のすべての原発は停止した。

 ところがその夏になると企業側は、「原発を動かさなければ夏の電力需要に間に合わず、大変なことになる」と大合唱し、マスコミも「電力供給ひっ迫をどうするか、安全な原発から稼働して行くべきだ」というような論調だったが、いざふたを開けてみると、猛暑にもかかわらず電力供給に支障はなかった。

 その後も何とこの4年半もの間、どの夏も冬も供給が需要を下回ったことはないのだ。

 このことで私は原発の不要性をはっきり認識した。

 そして原発の危険性だが、今度のヨウ素剤配布は、考えてみれば原発の危険性を国も明確に認識しているということの表明に他ならない。

 いまインフルエンザの予防注射のシーズンだが、この注射による予防はインフルエンザウィルスという目に見える(顕微鏡で確認できる)悪役に対する防御なので、誰もが納得できる対策である。しかも大都市だろうが過疎地だろうが全国どこに住む人間に対しても平等に罹患し、共通の治癒方法が存在する。

 ところが原発は、たしかに「電力を生み人間の役に立つ」のだが、ヨウ素剤を配布しなければならないように危険性を備えており、しかもその危険性への晒され方が大都市と原発立地の過疎地では雲泥の差だ。

 昔、(今も斯界の書を出版しているが)広瀬隆という人が、「電力需要のもっとも大きい東京にこそ原発を作れ。それが最も効率的だ」という本を書いたが、今もなおそのセオリーは有効だと思う。

 危険性があるからこそ大都市を離れた過疎地に金をばらまいて建設し、廃炉になればなったで廃炉作業に多額の金を落とす。その廃炉作業も何十年もかかり、しかも作業中の危険性にも翻弄される。

 それ以上に厄介なのが、放射性廃棄物だ。地中数千メートルに埋めてしまうというのだが、地震と活火山の巣である日本列島、そこで地震や溶岩流が発生したら終わりである。

 日本の原発はアメリカの原発会社をモデルに発展してきたが、アメリカのような日本に比べればはるかに地層の安定した広い国土を持つ国ならばいざ知らず、馬鹿な真似をしたものだと思う。全廃炉を決意したドイツに学ぶべきだ。

 昨日のニュースで、東芝が子会社化したアメリカの原発会社ウェスティングハウス社が巨大な損失を出していたのに計上しなかった―とあったが、このウェスティングハウス社などが日本の原発の推進役だったはずだが、本家本元では原発は「今や流行らなくなっている」証拠で、そんな会社を引き受けてしまった東芝も愚かな選択をしたものだ。

 もっともこれには裏取引があったのかも知れない。いわば体裁の良い「オンボロ原発会社の損失押しつけ」だったのかも知れない・・・。

 いずれにしても川内原発の3キロ圏の住民でも、原発推進の国策に不満と不信と不安を持つ人たちが多いということを如実に示した「ヨウ素剤配布会」であった。

 (追記)

 おそらくこの3キロ圏内で、子産み・子育てをしようなんて家族は一軒もあるまい。原発は危険性が大きいため過疎地域に反対派を封じ込めるためにも金が落ちるように建設されてきたわけだが、もう多少の金より子育てへのストレスのない場所に移住した方がよい――そう考える適齢期若者が多いはずだ。過疎地が一層過疎になって行くだろう。

 








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薩摩西方沖地震

 けさ早く震度3の地震で起こされた。Cimg6817 5時20分頃、トイレに起きてから再びベッドに入ってうつらうつらしていた時に、コトコトと揺れ始め目を開けるとさらに揺れが大きくなり、天井から吊るされた和風丸型蛍光灯が結構大きく揺れるのが目に入った。

―これは震度2かな、いや3かな、久しぶりに揺れらしい揺れだ。震源は日向灘だろうか?

 日向灘が震源ならこれまで震度4くらいの相当な揺れを何度か経験しているので、大したことはなかろう――とテレビの速報を見ずに6時ちょうどに起きてすぐウメの散歩に行き、帰ってから餌をやり、ラジオ体操などしてから7時のNHKニュースを見て、意外な場所で意外にも規模の大きい地震だったことに驚いた。Cimg6818 震源は薩摩半島西方沖で深さは10キロ、マグニチュードは何と7.0という。これまで大隅半島で感じた大きな地震はほぼ日向灘沖にある地震の巣が震源で、震度4を何回か経験したが、それでもマグニチュード6程度ではなかったか。Cimg6832 それが、7となるとかなりのエネルギーを持った地震である(以上の画像は朝7時のNHKニュースから)。

 2011年2月11日の東日本大震災(М9.0)の直前にМ6.5とかМ6.8くらいのが2度続いてからあの巨大地震が発生している。

 実はこの前震地震二つが速報に出た時に、「日本ではМ6.5クラスの地震は速報には出るが何の被害もないし、人の関心も呼ばない」とある感慨を持ったことがある。

 というのは、その前年だったか、ニュージーランドで同じ程度のМ6台の地震が発生して何かの学校が崩壊して死者が出ていたのだ。これと比較してそう思ったのだが、その数日後にМ9.0が起きた。

 今度のМ7.0地震が何かの前触れかというわけではないが、もう少し大きなのが来てもおかしくはない。ただ、この海域は地震の巣があるわけではなく、気象庁のサイトで「薩摩西方沖地震」を検索して記録のある2009年からの年間回数を見ると、2009年8回、2010年8回、2011年5回、2012年8回、2013年8回、2014年4回と年間で4回から8回くらいしか起きていない。

 そのうち最大だったのは2012年10月16日のМ4.9で、ほとんどがМ4前後でしかなかったのだが、ここへ来てのМ7.0は突出している。しかも今日一日で余震が(これを書いている20時半現在)すでに6回も起こっており、マグニチュードも5.1を筆頭に4.3から4.6と今までの地震レベルからすれば大き目のばかりが続いている。

 上のNHKニュース画面の背景は薩摩川内原子力発電所だが、2011年の大震災後全部止まっていた原発の中で最初に稼働をはじめたいわくつきの原発である。

 真っ先にその画像が背景に現れたところを見ると、NHKもまずはそれが心配と情報を求めたのだろう。しかし「地震にもめげず通常運転している」とのこと。

 安心していいのか、心配した方がいいのか、予断は許さない。




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アウンサン・スーチーの立ち位置

 ミャンマーでアウンサウン・スーチーが率いる国民民主同盟(NLD)が今度の選挙で単独過半数を獲得する情勢となり、マスコミで大きく取り上げられている。Cimg6801 選挙後の得票数確定に1~2週間かかると言われているので、この時点であと6票上積みすれば単独過半数となり、国民民主同盟の政権掌握は確実だろう。(画像は今日のTBS『ひるおび』から。以下同じ)Cimg6802 ミャンマーは昔はビルマ連邦であり、イギリス植民地から独立を果たした国として学校で習ったが、面積は日本の1.8倍、人口は現在約5000万の発展途上国としては規模の大きな国である。

 実はこのイギリスからの独立に日本とスーチー女史の父親アウンサンとが深くかかわっている。

 Cimg6810 対英米戦争に突入した日本は、アウンサンはじめ英国からの独立を目指す「志士」30名を日本に送り込み軍事訓練を施し、反英独立の闘士に仕立て上げた。そして故国に帰ってから2年ほどは日本軍とともに英国軍と戦ったのだが、日本が次第に劣勢になると、アウンサンたちは「反日」に寝返ったのである。

 つまり必ず負けるであろう日本軍とこのまま反英戦争を続けていたら、日本軍が敗れ去った暁には自分も「英国への反逆者」として抹殺されるのを見越し、1944年には「対日宣戦布告」をして日本軍の敵になったのである。

 裏切り者・卑怯者―と言わなければならないが、「日本軍が敗れ去ってしまっては元も子もなくなる。将来の独立も出来なくなる。だからやむを得ず日本に反旗を翻し、一応は英国軍の指揮下に入って、すなわち〈勝利者側〉の一員になっておかなくてはならない」―そう考えたのは無理もないかもしれない。

 英国はいつものダブルスタンダードで、アウンサウン率いるビルマ軍を味方につけて置きたいがために、「日本との勝利後は独立を認めるぞよ」との言質を与えたのだが、戦争終結後には何知らぬ顔になったそうだ。

 それに対してアウンサンは激しく抗議し、粘り強く交渉して何とか独立を認めさせた。だが、独立1年前の1947年、同じビルマ人の政治家によりアウンサンを含む6名の高官が暗殺されてしまう。

 このことについて、英国側が武器を用意していたとする見方が強く、要するに戦時中に日本軍に付いて英国軍に刃向った人物はたとえ寝返ったとしても、やはり本質的には英国の敵(反英独立主義者)であり、生かしておくわけには行かない―というのが英国流の恐ろしさである。

 さてスーチー女史だが、彼女は現在70歳(1945年生まれ)でアウンサンの末娘だそうであるが、彼女は子供のころから英国流の教育を施され、いわゆるビルマ(のちのミャンマー)の現状をほとんど見ずに成人した人である。(※この英国でのスーチーの成長は悲劇の主人公アウンサンの遺児としてビルマ国民から「神聖視」され、ビルマ人の反英国感情がいたずらに高まらないよう英国がわざわざスーチーをビルマから引き離した―とも言われている。当然ありそうなことだ。)

 このやり方は英国流そのもので、植民地支配をしている国(独立していないから、国らしきもの)の支配階級の子女を英国に留学させ、西欧流に仕立て上げた上で故国に返すというものだ。何のことはない「洗脳」(という言葉が悪ければ洗練)して英国びいきにしてから統治させるのである。

 言うならば、上層部から英国のイエスマン(ジェントルマンではない)に仕立てて統治させ、英国の操縦下に置こうというやり方に他ならない。

 いまどきこんなやり方が通用するのか興味しんしんだ。昨日あたりのテレビで単独過半数近くなり、政権奪取が目前になって来たとかで、スーチーがテレビに映ることがこれまで以上に多くなっているが、

「外国籍を持つ親族がいると大統領にはなれないという憲法の規定がありますが、どう思いますか?」という記者の質問に、

「私は大統領以上の存在だから(大統領にならなくても大統領になったNLDの人物をコントロール下に置くわ)」と自信満々に言っていたが、まさにその言や危うし(カッコ内は引用者の注記である)。

 これではさっきの「英国仕込みのイエスマン的才覚があるから、これからの采配に心配するな」と言っているようなもので、はなはだ心配だ。実際に議会が始まったとき、「スーチー独裁反対!」と野次られたり、マスコミから叩かれなければよいが・・・。

 さらに要らぬ心配かもしれないが、これからの経済発展に関して、今度「宗主国」だった英国が中国の巨額の借款と資本を受け入れたように、ミャンマーも、いや、スーチーも右へ倣えで中国の資金力に目が眩まなければよいが―と切に思う。

 英国仕込みの「ダブルスタンダード的言辞」には要注意である。

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旧国鉄大隅線(補遺②)

 以前に回った旧国鉄大隅線跡。このブログでは(1)から(5)に分けて取り上げたのだが、そのうちの(1)の志布志・菱田・大崎・三文字・東串良各駅では菱田・大崎・三文字の三駅が未確認だったので、「旧国鉄大隅線(補遺)」で改めて確認した場所を公開した。

 ところが未確認の駅跡は(5)にまだ4駅あり、今回改めて確認に行った。

 (5)には麓・辺田・二川・境・大廻・福山・敷根・銅田・金剛寺・国分の10駅があるのだが、二川・大廻・敷根・金剛寺の四つの駅が未確認だったのである。

 まず二川駅跡。Cimg6687 垂水方面からだと国道220号の二川地区に入る直前、牛根校前という表示のあるバス停の向かい側を右折。100㍍ほどで線路跡と思しき道路にぶつかる。左手に旧牛根中学校の校庭のフェンスが見える。その真ん前がホームだったようだ。今は新しい家が建ち、駐車スペースになっている。Cimg6686 線路跡を北(国分方面)へ100mほどで松崎川に出る。右手の橋が旧鉄橋かと思ったが、これは人道橋(自転車は通れる)で、鉄橋は今写している所に架かり、牛根小学校の体育館のすぐ後ろ側が線路だった。

次いで大廻駅跡。Cimg6685 大廻郵便局を右折すると上り坂が200㍍ほど続き、福山病院に突き当たる。ケヤキ並木が線路跡だ(向こうが国分方面になる)。Cimg6683 駅舎は軽自動車の右手辺りにあった。病院の看護婦さんが言うには、線路部分はもっとかなり低かったらしい。それにしてもこの病院は駅のすぐ後ろだったわけで、通院者にとっては便利この上なかったろう。

 次は敷根駅跡。Cimg6681 この駅の確認には大分手間取った。写真の中のカーブしている道が線路跡で、向こうの小さな川を渡って敷根の住宅地に入って行く(手前は福山から来て抜けるトンネルの出口)。Cimg6677 国道220号が敷根地区に下りて行くと間もなく右手に線路跡を拡張した「敷根バイパス」があるから右折し、約500mくらい行くと右手に赤い屋根の大きな二階家があり、それに並んで「日進工業」という看板を掲げたプレハブ二階建てがある。この建物の真向いに旧敷根駅舎があった(写真は来た方を振り返って写している)。

 この建物の前の道路端にはCimg6676国分ふれあいバスの停留所があり、その名が「大王」といかめしい。

 旧駅舎跡は道路反対側に立つ二階建てとその右側の平屋建てが立ち並んでいる。その二軒の家の前にも同じ停留所があるのだが、どういうわけか、「大王」という停留所名が無かった。

 最後に金剛寺駅跡。Cimg6654 敷根駅跡から国分(現在は霧島)市街地に入り、銅田駅跡の傍を通り京セラ国分工場前を抜けて行くと、右手に城山公園山頂の展望台が見えてくる。向うに小さく信号が見えるが、ここを右折すれば城山公園に上がる。

 駅舎跡は左右どちらか確認できなかったが、おそらく山手側ではなく市街地により近い道路左手一帯かと思われる。Cimg6657 金剛寺と駅名が付いた由来は、さっきの信号を右折して城山公園へ向かうと150㍍ほどで「史跡・金剛寺跡」にぶつかる。その金剛寺から採った名である。(写真は信号から右折した先を望んでいる。突き当りに金剛寺跡がある。)Cimg6660 金剛寺は薩摩の戦国大名島津家の第16代で国分に居住した義久の菩提寺で、巨大な墓塔が建てられている。しかし藩政時代になって島津氏の居城が鹿児島鶴丸城となってから、遺骨は鹿児島の島津家菩提寺である福昌寺へ移され、ここには遺髪だけが納められているという。

 鹿児島を席捲した廃仏毀釈の嵐のすさまじさの前には、由緒あるこの金剛寺も例外たりえず、伽藍などは跡形もなく消え失せ、ただ石造物のみ往時のよすがとなるばかりである。

 石庭と言ったらいいのか、匠が制作したかのような巧妙な自然石が処々に残ったさまは情趣ある勝れた風景だ。Cimg6669 さっきの信号に戻り、道を国分駅方向へ行くと、国分市民プールや第一工大(都築学園)のキャンパスの間を通り抜けたあたりで右手から線路が迫ってくる。それは現役のJR日豊本線だが、その線路に並行しながら旧大隅線は国分駅に到着した。(写真では道路のように左にカーブせず、そのまま真っ直ぐに線路が走っていたことになる。)














 










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漢語・漢文支配の開始

 昨夜のNHK特集『シリーズ アジア巨大遺跡 第3集 地下に眠る行程の野望~中国始皇帝陵と兵馬俑~』で、Cimg6782(画像は同番組テレビ画面から。以下同じ)

 秦の始皇帝が郡県支配制度を大陸のほぼ全域に推し進め、中央集権的皇帝独裁を確立したというのはよく知られているが、その大きな手段が「木簡」による官僚体制であったらしい。Cimg6724 これは各郡或いは各県に送付した木簡文書の「控え」だそうだが、ここには発令者名・送付年月日・標題(文書の種類)などが書かれており、下部組織(ようするに人民)に確かに届いたかどうかその責任の所在が分かるようになっていたという。Cimg6726これは相当進んだ制度で、愛媛大学の教授のコメントによるとCimg6729電子メール(送付文書)に対する「送受信記録」があった―というに等しいようだ。

 また始皇帝は郡県支配確立後も全国を巡行して回り各地で「封禅」(ホウゼン=神を祀る)したが、その一環なのか斉国(山東半島一帯にある国)では、ある海を望む場所の地中に玉壁と玉圭とが一緒に埋められているのが見つかった。Cimg6748 これを日本の学者はCimg6757 始皇帝一行がかっては敵国であった斉にやって来て「斉の神を祀った」ので、斉の人々は始皇帝を受け入れた―という風に解釈しているが、同じ現場を訪れた中国人学者は、Cimg6749 玉壁と玉圭とを組み合わせて祀るのは、西方のもので斉では見られないやり方である―とする。

 この故宮博物館の女性学者は、この組み合わせで祀られたということは、たしかに始皇帝の勢力圏に入った(始皇帝の権力がここまで及んだ)証拠と見ている。その事は正しいだろう。

 ところが「斉では見られない祀り方」をしているのだから、斉に始皇帝の祀り方、すなわち始皇帝の神(始皇帝そのものが神なのかもしれない)を押し付けた―ということになる。

 そう考えると、日本人学者の言う「斉の神を祀った」というのはおかしい。斉の神を祀るのであれば「斉のやり方」(そのやり方は具体的には判らないが)で祀るのが筋ではないか。

 最後に番組の案内役である杏のコメントが紹介されていた。Cimg6772 本来墓などは人目に晒すべきものではないが―と前置きして、現実に残されている事実があり、そのことはCimg6773歴史の検証に大変役に立つ―ということで締めくくっていたが、なんとも歯切れの悪いコメントであった。

 人民を奴隷的支配下に置いて我が身のためだけにこんな巨大な墓など造らせた「極悪非道」な独裁皇帝など、「共産党支配の中華人民共和国」にとって真っ先に抹殺すべきものであろうに、世界に冠たる巨大陵であり、金を落としてくれる観光客の絶えることのない史跡であるために、撤去するどころか堂々と開放している(人目に晒し、誇示している)。

 始皇帝様有難うとさえ言っているように見える共産党政府は人民の味方なのかどっちなのか―と思わざるを得ない。

 そのうちに例の「極悪非道の日本軍国主義者たち」による南京人民30万虐殺を展示する施設も観光客で溢れかえり、「金を落としてくれる有り難い観光名所」に昇格し、日本軍国主義者様有難うという時代が来るのかね。

 それはそれとして、今回括目したのは「木簡文書」による支配体制である。

 というのは、中国の漢語・漢文体制が確立したのは文字通り「漢の時代」からと思っていたからだ。

 この漢語・漢文支配体制というのは我が用語だが、「中国大陸に於いて現在のような中文(漢文が基礎)が一般庶民にまで普及した体制」ということで、少なくとも孔子の時代(紀元前6世紀)は、まだ長江域より南および西、そして斉国などのあった山東半島を含む東部では漢文体制ではなかった。

 漢語・漢文体制が支配者層から採り入れられて、大陸の一般庶民までそうなったのは漢の時代、その後期(後漢)くらいからだろうと漠然と思っていたのだが、秦の時代から官僚体制で採用されたというのであれば、少なくとも官僚をはじめとする支配層の言語は漢語・漢文になったに違いない。

 漢語は<主語+動詞>を基本とする言語で、中世以降の西欧言語と同じ語順である。

 この手の言語は話し手の意図(是非)を即座に表明するにはもって来いの言語で、特に力を発揮するのが「命令」を下す場合だ。

 「わかりました」を「了解!」、「止まりなさい」を「停止!」、やってはいけません」を「禁止!」・・・というように漢語に直すとその「命令調」が際立つ。運動会の練習風景を思い出すと「集合!」「整列!」「進行!」など漢語でやった方がピシッと行き渡る。

 中国語はこんなやり方で2000年を統治してきたわけで、今でも共産党政府の報道官などの「木で鼻をくくったような」コメントに表れているようだ。

 この点で不思議なのが、朝鮮と日本で、あれだけ中国の文物を取り入れながら、語順のまったく違う「膠着語」(主語+目的語(て・に・を・は)・・・最後に動詞)を漢語と置き換えることがなかったことである。

 

 共に支配者層は儒教の信奉者であり、漢語・漢文に習熟していたのだが、これが共通語になることはなかった。

 なぜそうなったのか―このことを掘り下げると歴史の新しい局面が見えてくるような気がする。






















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かのやばら祭り2015秋

 かのやばら祭りが開催されている。

 午後行ってみたが、まだ満開にはほど遠いようだ。Cimg6688 秋のバラは色彩が明瞭だというが、葉が春よりはるかにくすんでいるので相対的にそう見えるのかも知れない。Cimg6693 咲いている種類は多いものの株当りの数が少ない。Cimg6694 それでもプリンセスかのやは大ぶりの花を咲かせている。Cimg6692 探せば色合いの良いのもある。Cimg6699 これなんかも・・・Cimg6704 それなんかも・・・(造花ではない!)Cimg6700 濃赤茶色、ビロードの風趣・・・Cimg6710 温室のロビーには「ブルー」何とかという希少な青色のバラが飾られていた。酒類でおなじみのサントリーが5年くらい前に開発した物―という。Cimg6709 やや紫がかってはいるが紛れもなくブルーだ。たしかスイートピーなんかではとっくにこんな色がある。バラでは初めての快挙!だそうで、開発費に20億円かかったそうです、と係員が言う。

 この切り花一本で3000円はしますよ、とも。要らないよ、3000円の酒なら買うかもしれないがなァ、と返答。

 Cimg6712 若干物足りない思いでばら園を出て噴水広場の方に行くと、すごいことになっていた。Cimg6713 コスモスが満開だ。

 何でも、国文祭の一環で今年だけこんなイベントをしてみたそうだ。国(県もか)からそんな予算が付いたのだろう。

 係員がそう言っていた通りの見応え。これなら毎年やればいいのに。コスモスの種代くらい高が知れているじゃないかね。

  《かのやばら園2015秋祭り》

  ~11月23日(月)まで

  入園料 大人600円

  詳しくはばら園のホームページ


























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岩川八幡神社で講演会

 11月4日午前10時に曽於市岩川の八幡神社で「弥五郎どんの謎」をめぐる講演会があった。

 去年の暮れに開通した東九州自動車道を笠野原から乗り、約25キロで弥五郎インター。そこから岩川までは3キロ足らず。我が家からほぼ40キロ、45分くらいで到着した。Cimg6652 昨日は弥五郎どん祭りがあって、弥五郎どんがこの鳥居をくぐって街に繰り出したのだが、後の祭りということで今はひっそりとしている。Cimg6641 早く着き過ぎて鳥居を上がったところで時間を潰していると、近くの保育園だろうか子どもたちを連れて階段を上がって行ったので一緒に上がる。Cimg6646 岩川八幡神社拝殿。子どもたちは右手の方に向かって行った。Cimg6645 昨日一日中街中を練り歩いた弥五郎どんがそこにいたのだった。記念撮影中。身の丈4.85mもある弥五郎どんはいったい何者なのか、なぜこんなに大きいのか―今日の講演のテーマでもある。Cimg6647 講演は拝殿の中で行われた。宮参りで拝殿に上がり神主の祈祷など受けたことはあるが、講演を聞くというのは初めてだ。10時前には3~40名の人たちが集まった。Cimg6648 講師は勝目興郎氏。宮司さんの紹介によると、曽於市(大隅町)文化財センターの文化財係長など歴任し、退職後に「南峰文化研究会」という歴史研究団体を立ち上げた人物である。

 1時間半程度の講演だったが、よく整理された話しぶりは好感が持てた。

 <弥五郎は「大人弥五郎」と「大人」を付けて呼ばれるのが習わしで、では「大人」とは簡単に言えば「先祖や鬼」という意味で、祖霊の事。そして「弥五郎(やごろう)」。「弥」は「いよいよ、ますます」との意味で「永遠に、数多く」のニュアンスがあり、「五郎」は「御霊(ごりょう)」だろうとする。

 つまり「大人弥五郎」とは、「偉大な祖霊で、永遠なる御霊(御魂)」を表現したもので、隼人が西暦720年にヤマト王府軍が征伐した際に宇佐八幡宮の八幡神の力を借りて勝利を全うしたが、その後に隼人の霊を鎮めて祟りの無いように祭った。

 その祭りを「放生会」というが、宇佐神宮のはあくまでも勝利者側の祭りであって、敗者の隼人側はこの弥五郎どんに自分たちの先祖を重ね合わせ、「大人」として敬愛の念をささげ、一般の祭りのように祭る人たちの安全・健康などを念願して人形を巨大化した。>

 途中の数々の歴史的、民俗学的、考古的視点は省いたが、結論としては以上のようであった。

 <まさにこの地方独自の祭りと言ってよいが、地元の隼人にとっては精神的なバックボーンとなり、また地方に住む老若男女の人たちを束ねる重要な行事として続けられている。

 このような歴史ある(巨大化した弥五郎人形の有る無しは別にして、江戸初期の延享2年=1674年に行われたという記録がある)行事はますます継承発展して行きたいものだ。>

 というような内容で講演は〆られた。

 これからも弥五郎どんの謎解きは続くだろうが、大隅町の伝統行事として異彩と光彩を放って行ってほしいものである。













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さつまいもの収穫風景

 我が家の敷地の南東にあったプレハブ倉庫を撤去したので、南側に広がる畑地帯がすべて見通せるようになった。Cimg6631 倉庫の裏側にある畑では昨日一日かかって耕運機に取り付けた「ツル切り」を操り、奥さんらしき人が黒マルチ(黒いビニールで畝を覆うこと=雑草除け)したサツマイモの畝を一条毎またいで伸び放題のツルを切って行った。(もう間もなく一番隅の畝まで終えるところ。)Cimg6630 こちら側の畝はすでに黒マルチを剥がしてあり、掘り取り機による収穫が始まっていた。それにしても日除けの寒冷紗が大き過ぎて不気味な姿だ。Cimg6635 今日午前中に仕事があり、帰ってみるともう広い畑の向こうまでほぼ掘り上げていた。この畑は南北が30mくらい、東西は50mはあるから1500㎡、農業用語では1反5畝ほどで、Cimg6637 左手奥に並んだ収穫袋は9つ。ひと袋が300から400キログラムとして約3000キロ(3トン)というところだろうか。

 今年は植え付け時期の低温と繁茂時期の長雨・日照不足でサツマイモの収穫量はかなり少ない。

 それでも10月は近年にない晴天続きに恵まれたので、小ぶりながらもデンプンの熟成度は高いのではないかと思う。

 そうは言っても、「契約値は決まっているから量が取れんことには・・・やっせんな(だめだな)」と嘆き声が聞こえそうだ。

 今朝は朝6時半過ぎで気温が8℃しかなく、この秋一番の冷え込みとなった。快晴だが、日中も20℃と日陰では少し肌寒い。

 文化の日の今日11月3日は天候上の「特異日」で、決まって晴天に恵まれる。昨日、一昨日と二日連続でややぐずついたのに、日没のころから雲が霧消して行き、快晴下の今朝の寒さにつながった。

 そろそろ近隣の山深い里では葉が色付き始める頃だ。










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横瀬古墳をめぐるシンポジウム

 第30回国文祭が鹿児島で開かれ、15日までの半月、県内各地で様々な文化イベントが行われるが、今日は曽於郡大崎町の「横瀬古墳」についての講演会があったので行って来た。

 ただし、午前中は仕事が入って行けず、午後から急いで出かけた。場所は大崎町総合体育館。道の駅おおさきの奥にある。Cimg6589_2 シンポジウムのタイトルは「横瀬古墳とヤマト王権のつながり」で、1時半に着いて会場に入ったところ「基調報告・その3」の柳澤一男宮崎大学名誉教授による「南九州古墳文化の展開」という講演だった。Cimg6595 この先生が西都原古墳群の研究で明らかにしたことで最大のものは「西都原台地東側辺縁に築かれた前方後円墳は3世紀中期にまで遡る」というもので、以前から先生からじかに聞きたかった内容である。Cimg6592 その中で高山の塚崎古墳群についても言及があり、「塚崎11号墳は大隅半島で最古であり250年頃の築造だろう」という。西都原古墳最古の81号墳と同じ頃だという。度肝を抜く見解である。Cimg6599
その西都原古墳群は首長墓系列からは七系統に分類され、各系統ごとに多く築造されるのだが、400年代初頭のメサホ塚、オサホ塚という両巨大前方古墳が築かれると、そのあとはぷっつりと前方後円墳が造られなくなる―という。Cimg6607西都原で前方後円墳が造られなくなるのと入れ替わるように、大隅半島の唐仁大塚古墳群と横瀬古墳が造られる。

 そして横瀬古墳で興味深いのは、二重周濠を持つこととそれを含めて設計が大阪の古市古墳群中最大の「誉田御廟山古墳」(いわゆる応神陵)とうり二つだということである。同じ造墓集団が造った可能性があるらしい。

 もう一つ言えるのは、横瀬古墳の被葬者は畿内王権と縁の深い人物ではなかったか、ということだ。誰だろうか、興味が湧く。Cimg6616 二時からは基調報告を受けてのシンポジウム。

 コーディネータ-は前鹿児島県文化財センター次長・池畑耕一氏。パネリストは4名。Cimg6617 左から俳優で考古学協会会員の苅谷俊介氏。大崎町教育委員会の内村憲和氏。鹿児島国際大学の大西智和氏。そして考古学者・柳澤一男氏。Cimg6620 発言する苅谷俊介氏。この人は午前中に基調講演を行っているが、それは聴くことができなかった。

 大分県日出町出身の俳優だが、地元で発掘作業を手伝う機会があり、それから考古学にのめり込むようになったという。

 基調講演の内容は小冊子になっているのでこれを参考にするが、この中で「箸墓古墳は築造に二段階の時間差があり、最初のは240年頃で、円墳に若干の前方部の付いた様式。その後20年ほど経て今度は前方部が大きく加えられて今日の形になったという。

 初耳である。そもそも箸墓古墳は20年くらい前は「4世紀後半以降」という学説だった。それが「卑弥呼の墓」ではないかとされてから、どんどん年代が遡り、4C前半→4C初頭→3C末→3C後半、と変遷し、ついに最近では250年頃となり、根拠もなくどんどん年代をあげ、ついに「卑弥呼の墓」とされるようになった。

 苅谷俊介もこの手の人のようである。築造に二段階あって最初は「円墳にわずかな前方部」というのであるから、最初のは卑弥呼の墓が「径100余歩」の円墳だったらしいという倭人伝の記事に合わせて考え出した珍妙案でしか過ぎない。

 邪馬台国は九州島を離れてはいない、というのが正解である。したがって卑弥呼の墓が畿内大和にあるはずはないのだ。 

まあ、それにしても俳優業の傍らよく長く続けているものだと感心する。

Cimg6626 会場の端の方では横瀬古墳出土の円筒型埴輪や神領10号墳出土の「盾持ち人埴輪」などが展示されていた。























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