横瀬古墳をめぐるシンポジウム
第30回国文祭が鹿児島で開かれ、15日までの半月、県内各地で様々な文化イベントが行われるが、今日は曽於郡大崎町の「横瀬古墳」についての講演会があったので行って来た。
ただし、午前中は仕事が入って行けず、午後から急いで出かけた。場所は大崎町総合体育館。道の駅おおさきの奥にある。 シンポジウムのタイトルは「横瀬古墳とヤマト王権のつながり」で、1時半に着いて会場に入ったところ「基調報告・その3」の柳澤一男宮崎大学名誉教授による「南九州古墳文化の展開」という講演だった。
この先生が西都原古墳群の研究で明らかにしたことで最大のものは「西都原台地東側辺縁に築かれた前方後円墳は3世紀中期にまで遡る」というもので、以前から先生からじかに聞きたかった内容である。
その中で高山の塚崎古墳群についても言及があり、「塚崎11号墳は大隅半島で最古であり250年頃の築造だろう」という。西都原古墳最古の81号墳と同じ頃だという。度肝を抜く見解である。
その西都原古墳群は首長墓系列からは七系統に分類され、各系統ごとに多く築造されるのだが、400年代初頭のメサホ塚、オサホ塚という両巨大前方古墳が築かれると、そのあとはぷっつりと前方後円墳が造られなくなる―という。西都原で前方後円墳が造られなくなるのと入れ替わるように、大隅半島の唐仁大塚古墳群と横瀬古墳が造られる。
そして横瀬古墳で興味深いのは、二重周濠を持つこととそれを含めて設計が大阪の古市古墳群中最大の「誉田御廟山古墳」(いわゆる応神陵)とうり二つだということである。同じ造墓集団が造った可能性があるらしい。
もう一つ言えるのは、横瀬古墳の被葬者は畿内王権と縁の深い人物ではなかったか、ということだ。誰だろうか、興味が湧く。 二時からは基調報告を受けてのシンポジウム。
コーディネータ-は前鹿児島県文化財センター次長・池畑耕一氏。パネリストは4名。 左から俳優で考古学協会会員の苅谷俊介氏。大崎町教育委員会の内村憲和氏。鹿児島国際大学の大西智和氏。そして考古学者・柳澤一男氏。
発言する苅谷俊介氏。この人は午前中に基調講演を行っているが、それは聴くことができなかった。
大分県日出町出身の俳優だが、地元で発掘作業を手伝う機会があり、それから考古学にのめり込むようになったという。
基調講演の内容は小冊子になっているのでこれを参考にするが、この中で「箸墓古墳は築造に二段階の時間差があり、最初のは240年頃で、円墳に若干の前方部の付いた様式。その後20年ほど経て今度は前方部が大きく加えられて今日の形になったという。
初耳である。そもそも箸墓古墳は20年くらい前は「4世紀後半以降」という学説だった。それが「卑弥呼の墓」ではないかとされてから、どんどん年代が遡り、4C前半→4C初頭→3C末→3C後半、と変遷し、ついに最近では250年頃となり、根拠もなくどんどん年代をあげ、ついに「卑弥呼の墓」とされるようになった。
苅谷俊介もこの手の人のようである。築造に二段階あって最初は「円墳にわずかな前方部」というのであるから、最初のは卑弥呼の墓が「径100余歩」の円墳だったらしいという倭人伝の記事に合わせて考え出した珍妙案でしか過ぎない。
邪馬台国は九州島を離れてはいない、というのが正解である。したがって卑弥呼の墓が畿内大和にあるはずはないのだ。
まあ、それにしても俳優業の傍らよく長く続けているものだと感心する。
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