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漢語・漢文支配の開始

 昨夜のNHK特集『シリーズ アジア巨大遺跡 第3集 地下に眠る行程の野望~中国始皇帝陵と兵馬俑~』で、Cimg6782(画像は同番組テレビ画面から。以下同じ)

 秦の始皇帝が郡県支配制度を大陸のほぼ全域に推し進め、中央集権的皇帝独裁を確立したというのはよく知られているが、その大きな手段が「木簡」による官僚体制であったらしい。Cimg6724 これは各郡或いは各県に送付した木簡文書の「控え」だそうだが、ここには発令者名・送付年月日・標題(文書の種類)などが書かれており、下部組織(ようするに人民)に確かに届いたかどうかその責任の所在が分かるようになっていたという。Cimg6726これは相当進んだ制度で、愛媛大学の教授のコメントによるとCimg6729電子メール(送付文書)に対する「送受信記録」があった―というに等しいようだ。

 また始皇帝は郡県支配確立後も全国を巡行して回り各地で「封禅」(ホウゼン=神を祀る)したが、その一環なのか斉国(山東半島一帯にある国)では、ある海を望む場所の地中に玉壁と玉圭とが一緒に埋められているのが見つかった。Cimg6748 これを日本の学者はCimg6757 始皇帝一行がかっては敵国であった斉にやって来て「斉の神を祀った」ので、斉の人々は始皇帝を受け入れた―という風に解釈しているが、同じ現場を訪れた中国人学者は、Cimg6749 玉壁と玉圭とを組み合わせて祀るのは、西方のもので斉では見られないやり方である―とする。

 この故宮博物館の女性学者は、この組み合わせで祀られたということは、たしかに始皇帝の勢力圏に入った(始皇帝の権力がここまで及んだ)証拠と見ている。その事は正しいだろう。

 ところが「斉では見られない祀り方」をしているのだから、斉に始皇帝の祀り方、すなわち始皇帝の神(始皇帝そのものが神なのかもしれない)を押し付けた―ということになる。

 そう考えると、日本人学者の言う「斉の神を祀った」というのはおかしい。斉の神を祀るのであれば「斉のやり方」(そのやり方は具体的には判らないが)で祀るのが筋ではないか。

 最後に番組の案内役である杏のコメントが紹介されていた。Cimg6772 本来墓などは人目に晒すべきものではないが―と前置きして、現実に残されている事実があり、そのことはCimg6773歴史の検証に大変役に立つ―ということで締めくくっていたが、なんとも歯切れの悪いコメントであった。

 人民を奴隷的支配下に置いて我が身のためだけにこんな巨大な墓など造らせた「極悪非道」な独裁皇帝など、「共産党支配の中華人民共和国」にとって真っ先に抹殺すべきものであろうに、世界に冠たる巨大陵であり、金を落としてくれる観光客の絶えることのない史跡であるために、撤去するどころか堂々と開放している(人目に晒し、誇示している)。

 始皇帝様有難うとさえ言っているように見える共産党政府は人民の味方なのかどっちなのか―と思わざるを得ない。

 そのうちに例の「極悪非道の日本軍国主義者たち」による南京人民30万虐殺を展示する施設も観光客で溢れかえり、「金を落としてくれる有り難い観光名所」に昇格し、日本軍国主義者様有難うという時代が来るのかね。

 それはそれとして、今回括目したのは「木簡文書」による支配体制である。

 というのは、中国の漢語・漢文体制が確立したのは文字通り「漢の時代」からと思っていたからだ。

 この漢語・漢文支配体制というのは我が用語だが、「中国大陸に於いて現在のような中文(漢文が基礎)が一般庶民にまで普及した体制」ということで、少なくとも孔子の時代(紀元前6世紀)は、まだ長江域より南および西、そして斉国などのあった山東半島を含む東部では漢文体制ではなかった。

 漢語・漢文体制が支配者層から採り入れられて、大陸の一般庶民までそうなったのは漢の時代、その後期(後漢)くらいからだろうと漠然と思っていたのだが、秦の時代から官僚体制で採用されたというのであれば、少なくとも官僚をはじめとする支配層の言語は漢語・漢文になったに違いない。

 漢語は<主語+動詞>を基本とする言語で、中世以降の西欧言語と同じ語順である。

 この手の言語は話し手の意図(是非)を即座に表明するにはもって来いの言語で、特に力を発揮するのが「命令」を下す場合だ。

 「わかりました」を「了解!」、「止まりなさい」を「停止!」、やってはいけません」を「禁止!」・・・というように漢語に直すとその「命令調」が際立つ。運動会の練習風景を思い出すと「集合!」「整列!」「進行!」など漢語でやった方がピシッと行き渡る。

 中国語はこんなやり方で2000年を統治してきたわけで、今でも共産党政府の報道官などの「木で鼻をくくったような」コメントに表れているようだ。

 この点で不思議なのが、朝鮮と日本で、あれだけ中国の文物を取り入れながら、語順のまったく違う「膠着語」(主語+目的語(て・に・を・は)・・・最後に動詞)を漢語と置き換えることがなかったことである。

 

 共に支配者層は儒教の信奉者であり、漢語・漢文に習熟していたのだが、これが共通語になることはなかった。

 なぜそうなったのか―このことを掘り下げると歴史の新しい局面が見えてくるような気がする。






















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