あれから50年(中学校編)
赤羽駅から本蓮沼行のバスで通過する大通りに面した校門は位置も造りも変わっていないが、左手の校舎とフェンスが当時は無かった。奥に見える左右に長い校舎は元のままだ。
ここに在籍したのは昭和37年4月から40年3月まで。卒業からまさに50年である。それまで自由だった服装が学生服に変わり、型にはめられたような気がした。部活には入っていなかったが、1年のころからハイキングに行き始めた。2年からは友人を誘って行くことが多くなった。 校門から覗いた校庭。
当時とそんなに変わっていないようだ。校舎はおそらく阪神淡路大震災を契機に進められた耐震化工事のためだろう、まるで建て替えられているかのように見えるが、実は来年度から本当の建て替え工事が始まるという。
中学校で初めて男性教諭の担任を経験したのが印象に残っている。なにしろ小学校の6年間と中学校の1年、3年は女性教諭が担任だったのだから。
1年の時の担任は英語の女先生で、教科別の先生による担任が物珍しく、まだ30歳くらいの若い先生だったが、大きな黒縁の眼鏡をかけていたので「トンボ」がニックネームだった。
英語では生徒を指名して単語の発音を繰り返させるが、中には悪がいて「ブラザー」(兄弟)の時に指名されて「ブラジャー」と発音してよく女先生を困らせたものだった。ある時は先生が泣いてしまい、それ以来悪ふざけは無くなったように思う。こんなことも今となっては懐かしい思い出だ。
あの先生はどうしているだろう・・・。また、あの悪は今頃どうしているだろうか・・・。
卒業アルバムが家にあったので当時の校舎が分かる。 本校舎に関しては当時も今もほとんど違いはない。
ただ、たぶん生徒数に大きな違いがあるはずだ。在籍当時、中学校でも小学校同様やはり一クラスは50名。10組まであったから一学年が500名。三学年では1500名を数えた。この数はおそらく今日では有り得ない数だろう。
中3だった昭和39年が東京オリンピックだったので、荒川の戸田橋ボートレース場で行われたボートの競技を見に行った。教育的配慮から見物の無料券が配られたのだと思うが、いい体験だった。
当時の中学校の向かい側は武器弾薬庫が林立する旧陸軍の施設であり、敗戦と同時に米軍に接収されてそのままになっていたが、返還後に弾薬庫群は取り壊された。その時の工事の様子で面白かったのが、巨大なクレーン車に取り付けられた大きな鉄の玉が倉庫の壁にぶち当てられて破壊されて行く様だった。映画のワンシーンを見ているようだった。
現在の稲中の周りには国立のトレーニングセンターやサッカー場が造られており、これらを見る限りではまさに「今浦島」の感がある。 国立スポーツトレーニングセンター(朝日を浴びている建物)
右手には国立西が丘サッカー場がある。武器弾薬倉庫群が立ち並んでいたところだ。競技場のスポンサーは味の素株式会社である。
稲中の前の通りには「2020トレセン通り」という名が付けられ、5年後のオリンピックまでにはさらに整備が進むらしい。 学校正門前の通り。
これに2020トレセン通りという名が付けられた。右手は当時これほど大きくはなかった体育館。フェンス沿いにはヒマラヤスギらしきものが、小学校同様、やはり植えられている。
※2年の時に同じクラスだった友人は親友と呼べる人物で、帰郷の時は必ず会うようにしている。彼を含めていろいろな同級生を誘ってハイキングをよくしたが、今でも当時の記憶で鮮明なのがいくつか残っている。5年前には一緒に富士山にも登ったが、悪天候のため本8合目までで断念することになった。だが、それも佳き思い出の一つになった。
※登山そのものの思い出ではないが、強烈な記憶がある。
それは中学2年の1963年11月23日のことであった。この日ハイキングに行こうと早目に家を出て上で触れた赤羽駅に近い親友の家の前で待っていると、別の友人がやって来るなり、「マッチャン(我が略称)、ケネディ大統領が暗殺されたんだってさ」と言うではないか。「えっ!本当かよ」と言い返すのが精一杯だった。
この日、つまり1963年11月23日は「日米間初のテレビ宇宙中継が成功した日」なのであった。その中継の第一報がかのケネディ暗殺だったとは劇的以外の何物でもなかった。
アポロ号の月面着陸も驚いたが、今現在のリアルタイムで向うで起こったことが茶の間のテレビに映し出されるというのは、ほぼカルチャーショックであったし、内容も同じようにショックだったのである。
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