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あれから50年(小学校篇)

 望郷の旅―というとなかなかのものだが、むしろやるせない旅だ。

 昭和26年に生まれて昭和58年に32歳の若さで世を去った弟のちょうど今年が33度目の回忌に当たり、法事を兼ねて東京を見て回った。

 訪れたところは、小学校、中学校、高等学校、それに高校通学のための最寄りの駅界隈。

 もちろん多くの親類や学友にも再会したが、一部の写真を除いてここでは紹介を省く。

 《小学校》Cimg7018_1 北区立第三岩淵小学校
 昭和31年4月入学、37年3月卒業。道路からの正門の位置は変わっていないが、あの頃はもちろん木造校舎で、二階建てだった。各学年4クラスずつでクラスに50名の児童がいたから、全校では1200名規模。このくらいの大きさの学校が東京では普通だった時代。

 実家に今も住む兄の話では、同じ中学校校区に属する隣りの清水小学校が今年度で廃され、この第三岩淵小学校と合併し、「西が丘小学校」という名の新しい小学校に生まれ変わるらしい。どっちの学校名も今年限りということである。

 「三岩」(さんいわ)が略称だったが、「んわ」の部分が発音しにくいので大概「さいわ」と言っていた。何年生の時だったか忘れたが、学芸会で「三岩」に因んだ三つの岩を作って舞台に置いたことを覚えている。けれども劇の内容などはすっかり忘れてしまった。Cimg7015_1 正門の右手を回った細い通りからは校庭を前面に校舎の主要部分が見える。校庭がアスファルト製なのは昔と変わらないが、実は校舎の位置が真反対になっている。最初に鉄筋に建て替えられたのはもう50年ほど前らしいが、我々が学んだ60年近く前の昔の校舎の写真が赤羽の図書館にあった。Cimg7045 この写真は上の写真とは真反対から写している。右手の1階部分に台形の庇を付けて大きく口を開けた部分が、正門から校庭に抜けることのできる今風に言えば「1階ロビー」であった。

 校庭とそのロビーのある2階建て校舎の間には、排水路(通称・どぶ)があって、一年生で入りたての自分がそこに小便を垂れていて上級生から大いに笑われた記憶がある。野性児だったのである。

 この頃は東京も結構寒くて、冬になると手にひびやあかぎれを作り、ズボン下(ももひき)をはくのが普通だった。押しくらまんじゅうや鬼畜水雷ごっこなどが定番の遊びだった。なにしろ狭い校庭なので道具やボールなどを使った遊びはほとんど不可能で、それでもみんなキーキー・キャーキャーよく遊んだものだ。Cimg7033 これは運動会の写真だろう。ただし、何日か前の練習風景と思われる。なぜなら滝のように斜めに垂れ下がるはずの「万国旗」がはためいていないからだ。中央の国旗掲揚ポールの前には演壇があり、月曜日の朝は必ずそこに校長先生が立った。校舎の前にはどんな理由からか、たいていの学校にヒマラヤスギが植えられていた。Cimg7021 三岩小学校の売りは、正門に向かって左側(東側)の道路にある「桜並木」であった。今も校舎を取り巻くように残っているが、鉄筋の校舎に威圧され、のびのびとしていた豊かな枝振りが消えかかっているのは残念だ。

 我が家から小学校まで3分ほど。いつも手前の坂からこの交差点を右折して正門に入ったが、当時は信号はなかった。まだ車社会の到来にはほど遠く、6年間通ったが、この界隈で事故があったという記憶はない。Cimg7019 正門前から上の交差点方向を見る。正門前にはよく利用した文房具屋があり、その隣りはたまに利用した床屋、その向こうが郵便局だったがこれだけは現在も営業していた。そして信号のある角が駄菓子屋で、ここもかなりの常連だった。籤引きの付いた甘納豆が楽しみだった。Cimg7025 通学路だった坂道の上から遠方を見るといくつかの団地式高層住宅が見えるが、あれは赤羽台団地である。高度成長期のシンボル的な団地で、昭和30年代に入ってすぐに建設が始まり、昭和39年の東京オリンピックの頃までにはすべて完成した。大正から昭和一桁生まれの夫婦がどんどん入居して小中学校も造られた。

 散歩に行ってみたが、当時の5階建ては姿を消しつつあり、高層化と公園化が進んで緑の多い団地になっていた。














 

 

 

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