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日本人のルーツを探る二つの遺跡

 12月27日のNHKテレビでは新たに発見分析された二遺跡出土の多量の人骨から日本人のルーツを探る――という番組が放送された。Cimg7537 司会は壇蜜と天野という珍妙な取り合わせだが、進行の仕方は面白い。Cimg7540 多量の人骨が出た二つの遺跡のうち旧石器時代(~15000年前)のものは、沖縄の石垣島「白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞窟遺跡」で、人類学者によると当時の人骨は同じ沖縄県と静岡県の二カ所でしか発見されておらず、しかも数はわずかなものだが、今度のは大量だという。

 ただこの旧石器の人骨については詳細な分析結果は出ていない。ともかく日本列島に15000以前前から人が住んでいたことと、なぜここにそのような大量の人骨が残ったか(――それは人骨群がサンゴ由来のアルカリ性土壌に含まれていたため骨が溶けてしまわずに残った)ということの説明をするためであった。Cimg7553 その一方で富山県の富山市呉羽町で北陸新幹線工事にかかる遺跡「小竹(おだけ)遺跡」では、縄文時代前期(6500年前~5500年)の人骨が何と91体分発見されている。Cimg7575 それら人骨中のミトコンドリア遺伝子を分類した結果、Cimg7581 91体分の人骨のうち13体からミトコンドリアDNAが抽出され、それらは5つのタイプに分類されたという。Cimg7582 A、G、N9b、М7a、М9の五つで、それらの多い地域をプロットするとCimg7589_2 北からバイカル湖周辺、沿海州奥地、沿海州海岸寄り、中国大陸中部、ミャンマー周辺というように、小竹遺跡に眠っていた縄文前期人のルーツは大陸北部から東南アジアまでの広い地域にまたがるという。

 ミトコンドリアDNAは母親由来なので、その型の多い地域はそこからさほど動いていないということが言え、アフリカから伸張してきた人類のその地における小進化(小変異)なので、富山の小竹遺跡にはそれぞれの地域から何らかの動きによって集まって来たと言えるそうだ。

 要するに小竹遺跡の前期縄文人の母方のルーツはアジアのそうとう広い範囲だということになる。もちろん、母方のルーツのその又ルーツを突き詰めて行くと「アフリカ」なのだが……。
Cimg7603_2 出演者5名(司会の壇蜜・天野、ゲストの森公実子・クリス・阿部リポーター)のミトコンドリア遺伝子はすべて「D4」という型で、小竹遺跡の縄文人とは重ならないことが分かった。

 だがその中でも森・天野・阿部は縄文時代に日本列島にやって来た子孫で、クリスと壇蜜は弥生時代にやって来た子孫だそうである。このあたりの分析の仕方がいまいちよく分からなかったが、これまでの分類でいえば前者は縄文人の直系、後者は弥生人の直系ということになるのだろう。(ただし、あくまでも母方のルーツということである。)Cimg7595 日本人のミトコンドリアDNAは約20種のタイプに分けられ、その中でも「D4」型は33パーセントを占めており、他のが最大でも「B4」の9パーセントであるから、断トツの占有率である。

 この「D4」型のミトコンドリア遺伝子の由来はどこなのか、はっきり示されなかったように思うが、日本列島と考えてよいのではないだろうか。

 権力欲と支配力の駆け引きが錯綜する歴史を考える上で、遺伝子情報は実はさほどの意味はない。こういった情報に意味ありとすれば歴史よりも人類学や個人においてだろう。

 ただし個人史の場合は「我が家のルーツ」が他を圧倒して興味の対象であり、その際遺伝子はほとんど用をなさないが、これからの国際化時代の中ではむしろミトコンドリアDNAが大きな意味を持ってくるかもしれない。






















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噴きも噴いたり8火山!

 午後9時のNHKニュースナインで報じていたが、今年は列島の各地で火山噴火が相次いだ。(画像は同ニュースから)Cimg7521 5月に突然噴火して、住民が全島避難となった鹿児島県の口の永良部島。(※今日の報道によると、避難が解除されて帰島できることになったようだ。)Cimg7530 6月は箱根の大涌谷で水蒸気の噴出が多量となり、観光に打撃を与えた。Cimg7524 8月には桜島で火山性地震が多発して警戒レベルが4に上がった。Cimg7525 9月に入ると阿蘇山が久しぶりのマグマ噴火を起こした。これも観光に損害を与えた。Cimg7526 同じ9月に鹿児島のトカラ列島にある諏訪瀬島がこれまたマグマ噴火を観測。

 その他、鹿児島周辺では霧島火山の一角にある硫黄山で硫黄ガスの噴気が強まったりしている。Cimg7522 また、関東の浅間山や小笠原列島の西ノ島、硫黄島などが活発化した。

 ところが、9月を境にいずれの火山も鳴りを潜めてしまった。箱根では大涌谷の噴気が収まり、観光も通常に戻りつつあるし、注目を集めていた西ノ島新島湧出もストップがかかった状態である。

 揃いもそろって今年前半では活発に活動していた火山たちがすっかりおとなしくなってしまった。それが逆に無気味に感じるのは自分だけか・・・。

 9月と言えば、国内政治の大転換があった月だ。そう、あの新安保につながる「周辺事態法」が参議院を通過して国是として確定した月である。

 アメリカとの軍事同盟である日米安保がありながら、さらに集団的自衛権を設定するという安倍政権のおかしさ。これではいよいよ日本はアメリカへの軍事協力へと進むことになる。

 これまでは国外で武力を行使することは憲法上(そして日米安保がある以上、武力行使はアメリカが肩代わりしてくれるから)不可能だったのが、アメリカの要請があればいつでもどこでも武力を行使できるようになったわけだ。

 要するにこれまで日本は「アメリカの愛玩犬」だったのが、「アメリカの警察犬」一歩進めば「アメリカの軍用犬」になったことになる。

 アメリカの黒人が公民権も与えられなかった状態から正当なアメリカ市民になるために、「正式なアメリカ人になりたければ、我々と一緒に血を流せ」とばかり対日・対北朝鮮(中共)・対ベトナム戦争に駆り出されたように、日本も「旧敵国条項適用国から正当な国連の一員になりたければ、我々と一緒に血を流せ」と軍用犬よろしくアメリカに従って「テロとの戦い」とやらに引っ張り出されることになるのだろう。悲しいことではないか。

 こんな日本らしくない不条理な国際関係に引きずり込もうとする安倍政権に呆れ果てた平和を願う地霊(地球の魂)の匙を投げた姿が、9月以来の「無気味な静穏」の意味ではないだろうか?

 しかし道理(条理)は必ず貫徹するから、いずれ道理の巻き返しにあうに違いない。それがどんな形をとるかは「神のみぞ知る」だが、おそらく今年活発化した8つの火山活動の集合体のような大きな波乱――テロとの戦いなどで無用な武力行使をする前にもっとやることがあるだろう!――というような波乱が待ち受けていよう。




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今上陛下82歳の誕生日

 平成天皇が82歳の誕生日を迎えられた。Cimg7424 一般参賀に訪れた人たちに手を振る両陛下。(この画像はNHK午後7時のニュースから)

 師走の恒例行事となった一般参賀。昭和天皇の時代、昭和48年から始まった行事というから40年以上続いている。戦後の全国行脚の一環として国民に親しまれる「開かれた皇室」という観点から始められたものだが、戦前とは雲泥の差である。Cimg7506 午後10時からのテレビ朝日では平成天皇の「慰霊の旅」に焦点を当て、特に沖縄への両陛下の思い入れの深さを取り上げていた(以下同じ)。Cimg7471 1984年(昭和59年)の誕生日に沖縄からやって来た高校生から花束を受け取られてお礼を言う昭和天皇。

 昭和天皇は沖縄訪問を強く願ったのだが、沖縄県民の間に「天皇のために死ねと言われ、戦場や防空壕で多くの県民が命を落とした」とのわだかまりが強く、とても訪問どころではない―という政府の判断で見送った経緯がある。Cimg7490 今上陛下は皇太子時代の1975年(昭和50年)、言わば昭和天皇の名代として沖縄を訪問され、戦跡のひめゆりの塔では火炎瓶を投げつけられたりしたのだが、少しも動じることなく坦々と巡礼をされた。Cimg7494 その時の沖縄県民へのメッセージ(1975年7月17日)では、「沖縄に心を寄せ続けて行く」と述べられている。

 鹿児島県民としても、もし沖縄で米軍の攻撃に対して沖縄県民が3カ月近く戦ってくれなかったら、米軍の「ダウンファール作戦」(日本上陸作戦)の一環である南九州上陸(オリンピック)作戦が開始され、薩摩半島の吹上浜および大隅半島の志布志湾への米軍侵攻によって相当な悲劇を生んだはずであり、やはり沖縄には心を寄せる必要がある。Cimg7483 昭和天皇の心残りであった全国巡礼行脚の沖縄版は平成天皇に受け継がれ、今後も絶えることなく続けられていくだろう。












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初氷(鹿屋市池園町)

 今朝は今年初めての氷点下を記録した。

 昨日は晴れ時々曇りで北西の風がとても強く――たぶん木枯し1号だろうと思われたが、夜には風がやみ快晴となったようで、今朝の最低気温は-2℃と冷え込んだ。(鹿屋の公式な数字では-3℃だったらしいが、早朝に仕事があって自分の家のは5時半頃の数字である。)

 早朝の仕事から帰って9時過ぎにウメを散歩に連れ出したら、まだそこここに霜の名残りが見えていた。ハウスの間を覗くといつもできている水溜りにまだ氷が張っている。Cimg7349 近くで大規模に栽培されている小ネギのハウスの何棟か立ち並ぶ間なのだが、どういうわけか常に窪地になって水が溜まっており、ここが我が家界隈での初氷の「標本池」になっている。もちろん勝手にそう決めているのであるが・・・。Cimg7348 そばに行って割ってみるとわずか数ミリの薄いものだった。もう10時近い時間なので大分溶けて来ているのだろうが、それにしても公式発表の-3℃なら簡単には割れない1センチ位のが張ってもよさそうだ。

 まあ、いずれにしても初氷である。霜よりも冬の到来を確実に感じさせてくれるのはやはり氷だ。Cimg7350 道端の日陰では「霜の花」が咲いていた。霜でもぴんぴんしている種類の代表がアブラナ科の植物だが、これもそうなのだろう。Cimg7353 我が家の庭では霜柱というほどではないが、シャーベット状の氷がまだ残っている。Cimg7351 池の方には昨日の夕方、ホースで水を一杯に満たしておいたので氷は全く張らなかった。右手奥の水中に沈めたボール状の植木鉢に睡蓮を植えてあるので凍らないようにしておいた。浮かんでいるホテイアオイも水温が高かったため霜枯れしないで青々している。

 だが、こんな寒波があと3回来れば無残に茶色く枯れてしまうだろう。Cimg7359 その一方で何の霜対策もしなかったハイビスカスの鉢植えの花が萎れてしまった。昨日まではピンとしていたのだが、しかし、よくもまあ露地で12月半ばまで咲いてくれたものだ。去年は11月の20日頃には家の中に入れたのだが、いかに今年の晩秋・初冬の気温が高かったかが分かる。

 桜島の噴火活動が9月下旬以来まったくないのと関係があるのかないのか――。けれども、お蔭でこの秋以降は降灰の影響もなく、例年になく過ごしやすい正月になりそうだ。
















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あれから50年(番外編)

 久し振りに行った序でに東京見物など――

 スカイツリーCimg7132 いやはや高いな。とんでもないのが建ってしまった、が第一印象。

 東京タワーだと今見上げている位置は鉄骨の下で、こんなふうに頂上は見えないだろう。本当にこれほど支柱のカバーする面積がコンパクトでいいのか、しかも三本柱だ。大した技術力である。Cimg7141 350mからの展望。3時過ぎだったがあいにくの曇り空で、東京タワーは見えたが、その右手の方に見えるはずの富士山は雲の中だった。

 静岡県掛川市から来たという小学生の一群が大はしゃぎだった。修学旅行だろうか、昔は東京タワーだったろうに・・・。Cimg7144 下りてから今度は「三囲神社」(みめぐりじんじゃ)に行く途中、一緒に行った中学校時代の友人を前景として見たスカイツリー。
 三囲(みめぐり)神社Cimg7146 墨田区向島の業平小学校の隣りにある三井(みつい)家ゆかりの神社。

 創建は行基の時代だというから奈良時代の中頃ということになるが、近江商人だった三井家が伊勢松坂に移り、さらに江戸開府後にこちらに移って来た時に呉服店(越後屋=三越)を開いたのが成功の始まりで、この神社の存在を知り「三井」の井が囲まれている「三囲神社」を三井家の守り神としたことで有名になった。祭神はウカノミタマで稲を代表とする穀霊である。

 三井家は近江商人だった頃、「三井(みい)寺」との関係があり、三井寺はまた京都の下鴨神社とのつながりが強いので、自分としてはとても興味のある存在だったので、是非とも来たかった。

 友人のF君は怪訝に思ったらしいが、娘の婿が三井住友生命に勤務しているらしく、それなら大いに参るべしと得心してもらった。Cimg7150 二の鳥居も花崗岩製の立派なものである。向うにライオン石像が見えるが、あれは三越にあったビアホール「ライオン」の飾りだったのを閉店を機にここへ奉納したものだ。Cimg7151 境内の一角には三井家の祖先を祭る「顕名(あきな)霊社」という小社も建立されている。Cimg7156 三囲神社から隅田川の対岸に渡ると、「待乳山聖天(まっちやましょうてん)」という観音様の霊場があるがその一角に何と鬼平犯科帳の作家・池波正太郎の生家跡の石碑があった。これは収穫だった。

 ここから南へ数百メートル歩いて着いたのが浅草寺だ。Cimg7157_1 5時近かったので、本堂も五重塔もすべてライトアップされていた。見応え十分だった。Cimg7161 仁王門と五重塔。

 ここから左手へは「仲見世通り」で、観光客、とりわけ外国人が目立った。

 六義園

 Cimg7177 翌々日の午後、高校A組クラス会参加の前に行った「六義園(りくぎえん)」。

 母校(小石川高校)から不忍通りを渡って5,6分のところにある名園である。幕府の側用人だった柳沢吉保の屋敷跡で、明治になってから富豪として知られる岩崎弥太郎が周囲の何軒かの大名屋敷を購入して拡大し大衆に開放したという。

 土曜日だったからか大変な人出で、お目当ては紅葉らしい。Cimg7182 庭の中心部を相当な面積で占める池があるため、ほとんど起伏を感じない庭園だが水分を好むモミジの名所になっているようだ。Cimg7187 観光客があちこちでシャッターを切っていた。Cimg7199 一周回ってきたら「江戸伝統芸能の何とか組」の3人の一座が「傘回し」の見世物を開陳していたのには驚いた(というよりはラッキーだった)。

 高校生の時に1回は来ているが、季節が違っていたのだろう、こんなに人出のあるところではなかったと記憶する。もう50年近い昔のことだ。



























 

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あれから50年(高校編)

 今度の東京行きでは二つの高校同窓会(同期会)に参加した。

 一つは12月4日に部活の同窓と、もう一つは翌5日のクラス会だ。

 高校に行くようになって電車通学になった。家が赤羽西だったので国電赤羽線の赤羽駅から池袋駅に行き、そこで山手線に乗り換えて巣鴨駅で降車し歩いて通った。

 まずは赤羽駅の変貌から―Cimg7031 赤羽駅西口(昭和30年代)

 赤羽駅へは我が家からほとんど歩いて通ったが、たまに遅刻しそうだと、西口まで国際興業のバスで行くことがあり、その時はここから(普段は南口から)電車に乗ったが、入り口横の売店と改札口を入ってすぐの跨線階段だけは覚えている。Cimg7030 別の角度から写した西口風景。駅舎正面の向こうに赤羽線・高崎線・京浜東北線の各ホームに行くための跨線階段(もちろん屋根付きだ)が高く見える。

 さらにその向こうに階段が見えるが、あれは人道跨線橋で、並行している踏切を渡らずに東口方面へ行ける橋である。小学校の低学年の頃まであの橋の上から電車や列車の往来をよく眺めに来たものだ。Cimg7032 当時走っていた国電赤羽線の車両。十条駅のホームから撮ったものらしい。こげ茶色の車体で戦前からの生き残りのような、外面にぽつぽつと鋲留の鋲の頭が露出している代物であった。せいぜい7両か8両くらいなものだったと思うが、そのうちにグリーンだったかイエローだったかの新しい車体にとって代わられた。

 Cimg7044 あれから50年の赤羽駅。12月とあってイルミネーションが飾られている。西口の駅前ロータリーにはひっきりなしに循環・池袋行き・王子行き・浮間行きなどのバスが発着。どれも車体がグリーンなので以前と同じ国際興業バスである。

 駅舎は二階建てで完全に駅ビル化しており、改札口などはすべて線路の向きに対して直交していた。この駅ビルの上にさらに埼京線と東北など各新幹線の線路が「二階建て」で上乗せされているが、下からはよく分からない。Cimg7041 そこで中学時代の親友F君の好意で、F君の今の実家から撮らせてもらったのが地上30㍍ほどからの赤羽駅の俯瞰図だ。

 実はF君の実家は西口から100mほど南へ「岩槻街道」を下った商店街の一角にあったのだが、駅前再開発のため移転廃業を余儀なくされ、駅前の総合ビル「ビビオ」の15,6階建ての住宅部分のうちの12階に住んでいるのである。お邪魔をして撮らせてもらった。

 夜写した場所からそのまま30㍍上がった所から見た赤羽駅の現況で、これではここはどこの駅だ?と問われたら、自分は無論だが地元の人間でも言い当てることは難しいかもしれない。

 ちょうど今三階に当たる部分の線路を上りの新幹線が通過しているが、その真下が埼京線、さらに向うの線路の露出して見えている部分に高崎線・宇都宮線・東北線・京浜東北線などのホームがある。すべて高架ホームになり、開かずの踏切と言われた西口と東口とを結ぶ踏切は無くなり、商店や飲食店の建ち並ぶ歩車道に変貌した。

 通学生だった50年前の赤羽は東口の方がビルも多く、道も広くて「近代的」だったが、今は逆転してしまった。Cimg7043 同じくF君の実家から「岩槻街道」を見下ろす。再開発で最初に建設されたのが左手のビル「アピレ」で、右手のイトーヨーカドーが建っているすぐ向こう並びにF君の「東屋ふとん店」があった。

 もともと赤羽駅は乗客用ではなく、軍事物資用の貨物駅だったというのも今度調べてみて分かったが、その東口には軍服用の製麻会社と染色会社があり、終戦後の跡地が東口駅前広場などに転用されたり、商業化されたそうである。

 また赤羽台団地や稲付中学校辺りまで陸軍の砲兵隊などの軍事基地(兵器処と呼んでいた)があり、物資や兵員輸送用の鉄道が引き込まれて、現在の赤羽駅の北数百メートルに設置された貨物駅につながっていたのだという。

 そうしてみると赤羽はいわゆる「軍都」だったのである。敗戦後は米軍に接収され、同じ引き込み線は米軍が撤収するまでは使われており、小学校のごく低学年の頃まではジープなどに乗るアメリカ兵を見た記憶がある。

 次は山手線巣鴨駅―Cimg7168 巣鴨はとげぬき地蔵の縁日で有名だが、今は「おばあちゃんの原宿」として活況を呈しているようだ。JR巣鴨駅の西口(池袋寄り)から本郷通りに出て、手前方面がそのお地蔵さん、高校へは向こうに歩いて10分ほどの駕篭町と云う所にあったが、地名が変わり「千石」何丁目かになった。

 駅の構えは高校の時とは大きく変わっているが、駅入り口などの位置自体は変わっていないので、赤羽よりは「今浦島」感は少ない。

 そしてもう一つ駅の近辺で忘れられないのが「福々まんじゅう」だ。これは部活(バドミントン部)の帰りに小腹がへってよく立ち寄って食べて帰った。駅の北側の商店街の一角にあったが、今度訪ねてみたらまだやっていた。Cimg7167 相変わらずの福々まんじゅう店舗。店名が「駿河屋」だったとは今度初めて気がついた。あの頃は腹を満たすことに精一杯だったんだなア(それが青春ってもんだ)。

 昼の日中だが結構買いに来ていたのは、おばあちゃんの原宿からの流れ客だろうか・・・。

 《高校》Cimg7172 東京都立小石川高校

 高いフェンスのある向こうが正面入り口で、4階建ての校舎が二棟見える。その向こうの高い建物は旧理化学研究所跡地に建てられた「文京グリーンコート」とかいう住宅団地とオフィ―ス・文化施設がコンパクトにまとめられた街区に変貌している。校庭が正門の右手に広がっているが、当時は左手の理研側にあった。Cimg7174 理研近くの通用門から駕篭町都電電停方面を眺める。

 駕篭町は北郷方面へ都電が通り、学校まで歩いて行くとたいてい二つ三つの都電に追い越されたが、あの走る時のゴーゴーガタンガタンという音がいまだに耳に残っている(乗ったことはほとんどないが)。

 小石川高校は現在「小石川中等学校」になり、中高一貫の学校になった。科学教育推進校に指定されて毎年行われる高校生の科学オリンピックなどに出場しているらしいが、将来ノーベル賞候補者が出るのだろうか楽しみである。Cimg7218 旧小石川高校の正門から見た校舎(卒業アルバムから)。

 校門を入るとロータリーがあり、その中心に棕櫚の木が数本植えられていたが、下校時の待ち合わせなどでよく目印に使われ、そこを「ハワイ」になぞらえて「ハワイで待ってる」などと言ったものである。

 部活の帰りにハワイで待ち合わせ(部活だから着替えも一緒で待ち合わせる必要もたいていは無かったが)、巣鴨駅横の福々まんじゅうを食べて帰った仲間が――Cimg7165 これである。秋葉原の駅前で飲んだ後のとある喫茶店でのスナップ。遠方からは(最も顔の赤い)自分だけであとは首都圏に住んでいる連中だ。クラスはみんな違い、当たり前だがそれぞれの道を歩んだ。

 彼らとは5年前にも「還暦記念」と称して会っているから、見た目でそう変化はなかったが、そろそろ孫の話が出始めて来たのが大違いかも知れない。

 

 12月5日は昭和43年卒A組クラス会。Cimg7210 恩師のT先生を含めて12名が千代田区平河町のホテルのレストランに集まった。

 恩師曰く、「僕も後期高齢者になりましたよ」。といっても我々より10歳上なだけだ。当時の先生は若かった。年が余り離れていないのでこうしてまた会えるというわけだ。

 47年ぶりに再会する同級生ばかりだったが、当時の面影が髣髴としてくるから不思議だ。もっとも、小石川高校では一年のクラスがそのまま持ち上がって卒業まで一緒という制度を採っていたから余計に記憶を手繰り寄せるのに時間はかからない。

 学生服やセーラー服を着せたらそのまま高校生として通用するのではないか――と思われるような「老い止まり」の若々しい姿もあった。

 話に花が咲く――と言うほどではなかったが、半世紀近い離別が一気に縮められたクラス会であった。Cimg6976_2 昭和40年4月から43年3月まで一緒だったAクラス49名。このうち物故者は3名。

(追記)

 来年は鹿児島で開こうということになりましたので、みなさん元気にまた集まりましょう。

 

 
 

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平行に走る筋雲

 昨日の朝の写真だが、ウメの散歩に出ようとして東の空を見ると、ようやく曙光が届く頃の東の空に暁の明星(金星)とともに南北に平行に走る筋雲が見えたので、ウメをまたつなぎ直してデジカメを取りに戻った。Cimg7228 飛行機雲でないことは明らかで、細いのや幅の広いのや様々だが一様に南から北に向かって走っている。Cimg7227 真南の空を見るとどうやら高さ500㍍ほどの稜線の向こうから発しているようだ。Cimg7230 20分くらいして帰って来たが、まだ平行線は明確だ。Cimg7231 この平行する筋雲は今年になってよく見るようになった。別に今年になって急に観測を始めるようになったわけではなく、自然と目に付くようになったのである。

 しかもその平行線は圧倒的に南北を向いていることが多い。

 この場合は東の山並みの向こう側、つまり太平洋の海の上に浮かんでいるのだと思う。

 「観天望気」という言葉があるが、雲が整然と並ぶのは何か電磁気的な作用によるらしいから、いわゆる「気の流れ」を表象しているのかも知れない。現代人は自然を遮断したような暮らしをしているので、そう言われてもなかなかストンとは腑に落ちないだろう。

 もっとも「あかつき」が5年の時を経て再噴射に成功し金星の周回軌道に乗ったと言われても、同じように腑に落ちないのだから仕方がない。

 「はやぶさ」にしろ「あかつき」にしろ、忘れた頃に再挑戦してやってくれたが、大地震を頂点とする天災も忘れた頃にやって来る。

 春から夏にかけてあんなに活発だった桜島は9月28日に最後の噴火をして以来、もう2ヶ月余り鳴りを潜めている。うんともすんとも言わないのが、かえって無気味だ。

 気の遠くなるような遠い宇宙のことが計算できるのに、なぜ足元の地震や火山噴火がいつ起こるかの計算ができないのか、思えばコミカルなことである。

 それでも自己流ではここ5年以内に大きな天災が身近に発生するような気がしている。可能な限り「観天望気」に心がけたいと思っている。








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あれから50年(中学校編)

 《中学校》Cimg7001_1北区立稲付中学校

 赤羽駅から本蓮沼行のバスで通過する大通りに面した校門は位置も造りも変わっていないが、左手の校舎とフェンスが当時は無かった。奥に見える左右に長い校舎は元のままだ。

 ここに在籍したのは昭和37年4月から40年3月まで。卒業からまさに50年である。それまで自由だった服装が学生服に変わり、型にはめられたような気がした。部活には入っていなかったが、1年のころからハイキングに行き始めた。2年からは友人を誘って行くことが多くなった。Cimg7005 校門から覗いた校庭。

 当時とそんなに変わっていないようだ。校舎はおそらく阪神淡路大震災を契機に進められた耐震化工事のためだろう、まるで建て替えられているかのように見えるが、実は来年度から本当の建て替え工事が始まるという。

 中学校で初めて男性教諭の担任を経験したのが印象に残っている。なにしろ小学校の6年間と中学校の1年、3年は女性教諭が担任だったのだから。

 1年の時の担任は英語の女先生で、教科別の先生による担任が物珍しく、まだ30歳くらいの若い先生だったが、大きな黒縁の眼鏡をかけていたので「トンボ」がニックネームだった。

 英語では生徒を指名して単語の発音を繰り返させるが、中には悪がいて「ブラザー」(兄弟)の時に指名されて「ブラジャー」と発音してよく女先生を困らせたものだった。ある時は先生が泣いてしまい、それ以来悪ふざけは無くなったように思う。こんなことも今となっては懐かしい思い出だ。

 あの先生はどうしているだろう・・・。また、あの悪は今頃どうしているだろうか・・・。

 卒業アルバムが家にあったので当時の校舎が分かる。Cimg7219 本校舎に関しては当時も今もほとんど違いはない。

 ただ、たぶん生徒数に大きな違いがあるはずだ。在籍当時、中学校でも小学校同様やはり一クラスは50名。10組まであったから一学年が500名。三学年では1500名を数えた。この数はおそらく今日では有り得ない数だろう。

 中3だった昭和39年が東京オリンピックだったので、荒川の戸田橋ボートレース場で行われたボートの競技を見に行った。教育的配慮から見物の無料券が配られたのだと思うが、いい体験だった。

 当時の中学校の向かい側は武器弾薬庫が林立する旧陸軍の施設であり、敗戦と同時に米軍に接収されてそのままになっていたが、返還後に弾薬庫群は取り壊された。その時の工事の様子で面白かったのが、巨大なクレーン車に取り付けられた大きな鉄の玉が倉庫の壁にぶち当てられて破壊されて行く様だった。映画のワンシーンを見ているようだった。

 現在の稲中の周りには国立のトレーニングセンターやサッカー場が造られており、これらを見る限りではまさに「今浦島」の感がある。Cimg7008 国立スポーツトレーニングセンター(朝日を浴びている建物)

 右手には国立西が丘サッカー場がある。武器弾薬倉庫群が立ち並んでいたところだ。競技場のスポンサーは味の素株式会社である。

 稲中の前の通りには「2020トレセン通り」という名が付けられ、5年後のオリンピックまでにはさらに整備が進むらしい。Cimg7006 学校正門前の通り。

 これに2020トレセン通りという名が付けられた。右手は当時これほど大きくはなかった体育館。フェンス沿いにはヒマラヤスギらしきものが、小学校同様、やはり植えられている。

※2年の時に同じクラスだった友人は親友と呼べる人物で、帰郷の時は必ず会うようにしている。彼を含めていろいろな同級生を誘ってハイキングをよくしたが、今でも当時の記憶で鮮明なのがいくつか残っている。5年前には一緒に富士山にも登ったが、悪天候のため本8合目までで断念することになった。だが、それも佳き思い出の一つになった。

※登山そのものの思い出ではないが、強烈な記憶がある。

 それは中学2年の1963年11月23日のことであった。この日ハイキングに行こうと早目に家を出て上で触れた赤羽駅に近い親友の家の前で待っていると、別の友人がやって来るなり、「マッチャン(我が略称)、ケネディ大統領が暗殺されたんだってさ」と言うではないか。「えっ!本当かよ」と言い返すのが精一杯だった。

 この日、つまり1963年11月23日は「日米間初のテレビ宇宙中継が成功した日」なのであった。その中継の第一報がかのケネディ暗殺だったとは劇的以外の何物でもなかった。

 アポロ号の月面着陸も驚いたが、今現在のリアルタイムで向うで起こったことが茶の間のテレビに映し出されるというのは、ほぼカルチャーショックであったし、内容も同じようにショックだったのである。


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あれから50年(小学校篇)

 望郷の旅―というとなかなかのものだが、むしろやるせない旅だ。

 昭和26年に生まれて昭和58年に32歳の若さで世を去った弟のちょうど今年が33度目の回忌に当たり、法事を兼ねて東京を見て回った。

 訪れたところは、小学校、中学校、高等学校、それに高校通学のための最寄りの駅界隈。

 もちろん多くの親類や学友にも再会したが、一部の写真を除いてここでは紹介を省く。

 《小学校》Cimg7018_1 北区立第三岩淵小学校
 昭和31年4月入学、37年3月卒業。道路からの正門の位置は変わっていないが、あの頃はもちろん木造校舎で、二階建てだった。各学年4クラスずつでクラスに50名の児童がいたから、全校では1200名規模。このくらいの大きさの学校が東京では普通だった時代。

 実家に今も住む兄の話では、同じ中学校校区に属する隣りの清水小学校が今年度で廃され、この第三岩淵小学校と合併し、「西が丘小学校」という名の新しい小学校に生まれ変わるらしい。どっちの学校名も今年限りということである。

 「三岩」(さんいわ)が略称だったが、「んわ」の部分が発音しにくいので大概「さいわ」と言っていた。何年生の時だったか忘れたが、学芸会で「三岩」に因んだ三つの岩を作って舞台に置いたことを覚えている。けれども劇の内容などはすっかり忘れてしまった。Cimg7015_1 正門の右手を回った細い通りからは校庭を前面に校舎の主要部分が見える。校庭がアスファルト製なのは昔と変わらないが、実は校舎の位置が真反対になっている。最初に鉄筋に建て替えられたのはもう50年ほど前らしいが、我々が学んだ60年近く前の昔の校舎の写真が赤羽の図書館にあった。Cimg7045 この写真は上の写真とは真反対から写している。右手の1階部分に台形の庇を付けて大きく口を開けた部分が、正門から校庭に抜けることのできる今風に言えば「1階ロビー」であった。

 校庭とそのロビーのある2階建て校舎の間には、排水路(通称・どぶ)があって、一年生で入りたての自分がそこに小便を垂れていて上級生から大いに笑われた記憶がある。野性児だったのである。

 この頃は東京も結構寒くて、冬になると手にひびやあかぎれを作り、ズボン下(ももひき)をはくのが普通だった。押しくらまんじゅうや鬼畜水雷ごっこなどが定番の遊びだった。なにしろ狭い校庭なので道具やボールなどを使った遊びはほとんど不可能で、それでもみんなキーキー・キャーキャーよく遊んだものだ。Cimg7033 これは運動会の写真だろう。ただし、何日か前の練習風景と思われる。なぜなら滝のように斜めに垂れ下がるはずの「万国旗」がはためいていないからだ。中央の国旗掲揚ポールの前には演壇があり、月曜日の朝は必ずそこに校長先生が立った。校舎の前にはどんな理由からか、たいていの学校にヒマラヤスギが植えられていた。Cimg7021 三岩小学校の売りは、正門に向かって左側(東側)の道路にある「桜並木」であった。今も校舎を取り巻くように残っているが、鉄筋の校舎に威圧され、のびのびとしていた豊かな枝振りが消えかかっているのは残念だ。

 我が家から小学校まで3分ほど。いつも手前の坂からこの交差点を右折して正門に入ったが、当時は信号はなかった。まだ車社会の到来にはほど遠く、6年間通ったが、この界隈で事故があったという記憶はない。Cimg7019 正門前から上の交差点方向を見る。正門前にはよく利用した文房具屋があり、その隣りはたまに利用した床屋、その向こうが郵便局だったがこれだけは現在も営業していた。そして信号のある角が駄菓子屋で、ここもかなりの常連だった。籤引きの付いた甘納豆が楽しみだった。Cimg7025 通学路だった坂道の上から遠方を見るといくつかの団地式高層住宅が見えるが、あれは赤羽台団地である。高度成長期のシンボル的な団地で、昭和30年代に入ってすぐに建設が始まり、昭和39年の東京オリンピックの頃までにはすべて完成した。大正から昭和一桁生まれの夫婦がどんどん入居して小中学校も造られた。

 散歩に行ってみたが、当時の5階建ては姿を消しつつあり、高層化と公園化が進んで緑の多い団地になっていた。














 

 

 

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