初詣(2016年)
7日はまだ松の内、今日やっと初詣に行って来た。
姶良川沿いの吾平町に鎮座する「鵜戸神社」「田中八幡社」そして鵜戸神社が元あった「吾平山陵」を廻る。 まずは我が家の東4キロにある鵜戸神社。祭神は神武天皇の父に当たるウガヤフキアエズ命と后のタマヨリヒメ。
境内と社殿。社殿の向こうは旧吾平町の役場(現在は鹿屋市吾平総合支所)。老健施設のグループが参拝に来ていた。
このお宮の元あった場所は後で訪れる吾平山陵(正確には山上陵だが、いつも山陵で通じている。地元でも山陵が普通)にあったのだが、明治4(1871)年に彼の地では不便であるということで、ここにあった「若宮八幡社」を中福良地区に移築し、新たに鵜戸神社を建立した。 鵜戸神社から南へ1キロ余り、その若宮八幡社がこれで、ここ中福良に移転したあとは「田中八幡神社」と呼ばれようになった。ところが江戸時代の末に近い天保14年(1843年)に上梓された薩摩藩の地歴書『三国名勝図会』によると、宮の名は「正若宮八幡宮」とすこぶる格式の高い名が付いている。
それもそのはずで大隅国一宮と言われる鹿児島神宮(当時の名は大隅正八幡宮)の四大分社の一つに数えられているからだ。建立した人物は都城に「島津御荘」を開いた平季基の弟・平判官良宗(たいらのほうがんよしむね)であるという。
平良宗は兄と袂を分かって吾平に移住し、『建久図田帳』によると50町余を開拓して大隅正八幡へ寄進し、荘官を兼ねて当地で勢力を張った。その年代(長久4年=1043年)を示す「古鏡」を社宝としたという棟札があったことが分かっているが、残念ながらその鏡の行方は分かっていない。 田中八幡神社からさらに南へ姶良川が山中に入り、いよいよ清流になろうかという場所に吾平山陵がある。昼過ぎだったがもう7日ともなると参拝客もまばらだ。10軒ほどの出店も手持無沙汰のよう。
清流に架かる橋を三つ渡って進んで行くと、清浄な広場に到る。
右手には宮内庁書陵部桃山管轄区という看板を掲げた小さな事務所があり、その先から広場が始まっている。
進んで行くと伊勢神宮の五十鈴川に模したい清流の向こうに崖が迫り、その真下に鳥居が見える。
その鳥居の下に「山陵」という名の「洞窟」があるが、この川を渡ることは禁じられている。『三国名勝図会』では洞窟のある崖全体を「鵜戸山」、洞窟は「陵窟」としてあるが、陵窟の広さは四畝(400㎡)、中には高さ4尺余、周囲3丈9尺(12㍍弱)の「墳墓」があり、人力では動かしがたい「盤石」を斜めに載せてある――などと記述している。
これがすなわち陵墓であるという。
何らかの墳墓であることは間違いないようだが、果たしてウガヤフキアエズのものかどうかは何人も解明し得ないだろう。
なお古典に言う「日向三山陵」とはここと、溝辺町の高屋山上陵(彦ホホデミ)、薩摩川内市の可愛山陵(新田神社の奥津城)で、『延喜式』によると、皇室にとってはあまりに遠方なため、京都の宇治田原に「東西一町、南北一町」の規模で「田村御陵」を設けて祭祀場所としてきた。 広場の左手、清流とは反対側の植林地の真ん中に三段くらいの石積みが残っている。あれが明治4年まであったという鵜戸神社の元宮の跡だろう。
『三国名勝図会』では「鵜戸六所権現廟」として挿絵を載せているが、本殿のほかに舞殿、拝殿のある立派なものだった。その権現廟に祭られていたのは、ウガヤ・タマヨリヒメ・五瀬命・稲飯命・三毛入野命・神武天皇(トヨミケヌ命)の六神である。
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