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「笑点」が放送50周年

 日曜日の夕方5時半から放映されている「笑点」が50周年を迎えた。何と半世紀である。ギネスものだ。Cimg8017 司会者と回答者の落語家5名。この構成と舞台の設えは50年間ほとんど変わっていない。(画像はKYTより)

Cimg8013 現司会者の桂歌丸が50年を迎えた挨拶をする。

 この人は先代三遊亭圓楽の逝去を受けて司会者を継いだが、それまでは回答者の席にいた。洒脱な回答をする人であった。

 歴代の司会者は記憶違いが無ければ、立川談志―前田俊彦―三波伸介―三遊亭圓楽、そしてこの歌丸で5代目。

 歌丸は三遊亭圓楽とともに第1回からの出演者で、当時のメンバーで現存するのはこの人と林家こん平だけだ。今の大喜利メンバーである林家たい平の師匠のこん平は、脳こうそくになって5,6年前に降板したから、歌丸だけが唯一の現役レギュラーということになる。

 鶴のように痩せているが、その方が長生きするのかも知れない。頭脳も実に明晰だ。Cimg8019 時折りチャリティだかかくし芸だかで、仮装してこんな芸当もしていた。歌丸と2代目司会者の三波伸介のコンビ。

 三波伸介は次の司会者である前田武彦とともに落語家ではないが、「てんぷくトリオ」という三人組の漫才師だった。波乱のあるそれでいて憎めない面白い司会だったが、急死してしまった。

 何と言っても印象に残るのが、初代司会者の立川談志とこれも初代「座布団運び」の毒蝮三太夫の掛け合いだ。どちらも強烈な個性の持ち主で当意即妙の毒舌が何とも言えなかった。

 大喜利メンバーから3代目の司会者になった三遊亭圓楽はあの長い顔で、結構よく笑う人だった。座布団運びの山田隆夫に向かって「山田君、例の物を配って下さい」というところを、「山田君、例の物をくばっつぁーさい」と江戸っ子弁で喋るのがとても印象に残っている。

 お笑い番組だから続くのか、メンバー全員が落語家だから続くのか、何としても50年は長い。あと20年くらいはやって、今時無くなった「茶の間の団欒」風情を味わわせてもらいたいと思う。

 

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甘利大臣の辞任

 NHKの「しぶ5時」で甘利経済再生相の記者会見が生中継されていた。

 週刊誌にスクープされた建設会社からの金銭授受についての釈明会見で、40分にわたって話をしたあと辞任を表明した。Cimg7993 辞任の理由は本人自身が大臣室と後援会事務所で受け取った二度の50万円ではなく、秘書が建設会社から総額で500万円を受け取りながら、寄付金として計上した以外の300万を勝手に使っていたことと、それ以外にも数多くの接待を受けていたことに対する「監督不行き届き責任」であるという。Cimg7986_2 二回にわたっての50万円については政治資金収支報告書に記載があるので大臣自身の嫌疑は晴れたが、公設秘書2名の金まみれが足を引っ張った。Cimg7995 安倍内閣発足以来アベノミクスの推進を基軸とする経済運営に没頭して秘書の私生活などを顧みるいとまがなかった――というのは認めていい。

 しかしその秘書(公設秘書であればなおさら)の監督責任は確かに重い。三昔前まで、政治家がこのような嫌疑を受けるとたいてい「秘書が勝手にやったことでわしはあずかり知らぬこと」と知らぬ半兵衛を決め込む手合いが多かったが、さすがに時代は下って情報公開が進んだ。つまり国民本位になって来た。

 第一線で活躍中の大臣が公式の会見で堂々と真実を語り、「辞任に値するかどうか微妙な責任」を取って辞めると言ったのは潔いことだった。

 この会見を見聞きしていて、――おそらく中国でも放映されるだろうが、かの国の政治家(というより共産党幹部)たちがこれを見てどう思っただろうか――と思いを馳せてみた。

 たぶん「何であの程度のことで辞任しなければならないのか!?」と驚いたことだろう。他山の石として戦々恐々になるような「純情な」政治家(共産党幹部)はいないに違いない。

 彼らの金銭授受的腐敗は二桁も三桁も違うのだ。今の習近平主席になってから腐敗粛清運動とやらが始まり、多くの共産党幹部が摘発されているらしいが、中には一兆円もの不正蓄財をした者もいたというから呆れて物が言えない。

 共産党とは名ばかりで、国民の数パーセントの幹部が資本家まがいのことをして儲け、さらに許認可権限を握って人民の生み出す富をピンハネ(要するにワイロを要求)して私腹を肥やしているのが現状である。

 「人民共和国」とは似て非なる「人民による選挙の無い一党独裁体制」を続けているのが実情であり、それが腐敗を助長しているのが分からないのだろうか。

 例の日本のテレビでもおなじみの中国共産党スポークスマンが今度の辞任劇に対して何とコメントするか聞いてみたいものだ。





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両陛下のフィリピン訪問

 昨日、天皇皇后両陛下はフィリピンへ向かわれた。Cimg7950 空港に到着しアキノ大統領の出迎えを受ける天皇陛下。(画像は27日朝のテレビ朝日「モ-ニングバード」から。以下同じ)
 御訪問の表向きは「国交正常化60周年記念行事のため」ということだが、真の目的は太平洋戦争で戦没した日本人、フィリピン人双方の慰霊のためだという。Cimg7968 皇室取材記者として長い経歴を持つ神田秀一氏によると、「先の大戦で無辜の犠牲となった多くの人々を慰霊すること、これが昭和天皇の御遺志であり、今上陛下はそのことが常に念頭にある」というわけで、国内はもとより各国の激戦地を訪ねて無念の方々に思いを致す「慰霊の旅」を続けられている。Cimg7982 去年パラオを訪問されたことは記憶に新しい。Cimg7958 その両陛下の今度の訪問日程を見ると、まず初めに当地フィリピン人犠牲者の「無名戦士の墓」を訪問され、Cimg7962 明日(28日)は要人や在フィリピン日本人らと面会し、やっと明後日の帰国前日に「日本人戦没者慰霊碑」に花を手向けられるという。

 つまり、フィリピン人への慰霊の方を優先される行程を組まれたわけで、これはもちろん当地への配慮であり、敬意の表れでもある。Cimg7972 実は54年前の1962年、皇太子時代に美智子妃と訪問された時、まだ日本人慰霊碑など建てられるような時代ではなく、太平洋戦争で日本軍によって殺害されたフィリピン人の遺族感情はかなり反日的であったのである。

 しかし美智子妃の戦争孤児への同情と優しさや、1896年に当時の宗主国スペインによって刑死した建国の父と仰がれるホセ・リサールの記念碑に献花したことなどで、フィリピンの人々はたちまち融和に向かったという。Cimg7976 番組では「無名戦士の墓に供花」(右側の写真)となっているが、上には細かい字で「ホセ・リサール記念碑での供花」とある。画像の間違いだろう。

 ホセ・リサールという人はまだスペインがフィリピンを植民地としていた時代に活躍した文人であり医者だった。言語的にも天才と言われ、30か国語を理解したそうであるが、スペインからの独立を目指す革命家としてスペイン官憲からマークされてついに刑死させられた。

 その2年後の1898年に起きたスペインとの戦争に勝ったアメリカが、今度はスペインに代わって植民地支配をするようになり、それに反発したフィリピン人との交戦でアメリカは数十万規模のフィリピン人を殺害している。

 スペイン人による支配はちょうど日本にポルトガル人が渡来した1500年代の半ば(フランシスコザビエルは1549年に鹿児島上陸)から始まり、実に330年余り、その後アメリカによる支配が1946年までの約50年、合計でほぼ400年の西洋的植民地支配に晒されてきた。

 戦後は共和国の道を目指したが、アメリカとの絡み(癒着)の強いマルコス政権による独裁があったりして後進国の域を脱せなかったが、最近は次第に活気付いてきている。アメリカ軍駐留の太平洋地域では最大と言われたスービック基地も返還され、名実ともに自主独立のフィリピン共和国に生まれ変わりつつある。

 日本に花嫁として渡って来るフィリピン女性は総じて我慢強く評判が良いような気がするが、対中国投資でひどい目に遭ったり遭いそうな企業は東南アジアやインドにばかり目を向けずに、同じ島嶼国家であるフィリピンも新たな投資先とし、彼我の協調繁栄を目指してもいいのではないだろうか。










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初雪(2)

 朝の散歩は雪景色の中だった。

 ウメは昨日は初めての積雪に躊躇していたが、今朝6時半前に連れ出そうとしたらすんなりと小屋から出て来た。

 やはりマーキングした散歩道の臭いが消えているせいか、時折りこちらを振り返って怪訝な表情をする。それでも排尿やら排便やらしているうちに道路の冠雪も屁とも思わずにさっさと歩き出した。Cimg7925 帰ってから雪上で餌を食べるウメ。寒さもなんのその。折しも満月が西の空に落ちかかっていた。(正確に言うと昨夜が満月で、この月は満月の残りである。)Cimg7936 散歩道でもあるビニールハウス群。手前はサツマ芋の畑だったが、1ヶ月くらい前に犂で深く荒起こしがしてあって土くれででこぼこなのだが、10センチ以上の雪に覆われて平らに見える。Cimg7937 ビニールハウスと後方の横尾山系。山々はすっかり雪山の風情だ。

 手前のビニールハウスはボイラーが焚かれていて湯気を上げている。一昨日からほぼ終日こんな状態である。仕方あるまい、昨日は最高気温が0℃だったし、今朝の7時の気温は何とマイナス6℃。

 3日連続の氷点下も、これほどの降雪もこちらに来て13年で初めてである。Cimg7933 庭に置いてあるプラスチック製の丸テーブルの上は昨日の朝7時からずっと降り積もるままの雪を載せている。Cimg7942 テーブルの真ん中のあたりで何と積雪15センチ余。20年前に大隅半島南部では最も寒いと言われている錦江町田代で暮らしたことがあったが、その頃の大雪でこのくらい積もったのが一度はあったという記憶がある。それ以来だ。Cimg7932 8時過ぎにはすっかり晴れ上がり陽射しがまばゆい。それでも気温はまだマイナス5℃まで上がっていない。大寒とはよく言ったものだ。Cimg7934 今朝はこの借りた軽トラで指宿まで荷物を取りに行くつもりだったが、道路事情を考えて延期することにした(・・・雪に埋もれたからではない)。

 実は昨日、大隅史談会の1月例会の予定だったが、荒天のためこちらも延期になっている。その期日は1月30日(土)で、時間・場所は変わらず、午後1時半から4時半まで、鹿屋市東地区学習センターで。

 テーマは「邪馬台国時代の古日向」。講師は会長の松下。古日向とは薩摩国・大隅国・日向国の三国に分かれる前の日向のことで、最近話題になった「大隅国が邪馬台国である」という論考も取り上げる。

 松下の見解では「邪馬台国」は福岡県八女市郡域で、古日向は「投馬国」。そして「狗奴国」は熊本県域。

 投馬国を古日向(現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域)に比定したことから「神武東征」の史実性を引き出したことが一番のポイントであり、2番目のポイントは「伊都国」を糸島市(旧前原町・糸島町)としないことである。

 来て、見て、聞いての総合学習に来てみやんせ!

(訂正)

 鹿屋の今日の最低気温は気象台の公式発表ではマイナス8℃だった。明日の予報では最低気温がマイナス6℃だそうで、どっちにしても開いた口がふさがらない。

















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初雪(鹿屋市池園町)

 今朝6時半にウメを散歩に連れ出したところ、庭や畑地帯にうっすらと斑点模様に白いものが見えていた。

 最初、それを霜かと見て、これでこの冬は6回目だなと思いながら散歩を終えて家に帰ったが、ちょうどウメを小屋に繋いだころから小雪がはらはらと降り出した。

 玄関口の軒下の寒暖計を見たらジャスト0℃。寒いはずだ。そうこうしているうちにたちまち地面が白くなり出したのには驚いた。余程地表面が冷えていたのだろう。

 見る見るという感じで降り積もり、8時頃にはかなり激しく降って来た。Cimg7885 折しも見ていた関口宏のサンデーモーニングに鹿児島キー局のMBCから大雪情報が流された。

 それによると大隅地方はこれから山沿いで20センチ、平地で5センチの積雪があるだろう――ということであった。Cimg7908 ところが降り始めて3時間後の10時には庭一面が銀世界で、通路など分からなくなっていた。Cimg7909 今朝庭の水道が使えなくならないうちに水を足しておいた池だけは凍らずに済んだが、家の屋根にも数センチの雪が積もり、せっかくの太陽光パネルも機能停止だ。Cimg7906 明日荷物を運ぶために昨日のうちに田代の友人から借りておいた軽トラックのフロントガラスに積もった雪が、傾斜に耐え切れずズリ落ちそうになっていた。その厚さを測ってみたらちょうど5センチあった。

 弱まってきたとはいえまだ雪は降り続いているので、今日から明日朝にかけても降れば、おそらく10センチは行くのではないか。

 裏の家の子供たちが8時頃から外に出てワイワイやっていたが、明日学校では格好の雪遊びで賑わうことだろう。Cimg7915 子どもは大はしゃぎだが、うちのウメは「アラなにこれ」――と小屋から出て来るには来たが文字通り二の足を踏み、またそそくさと小屋に入ってしまった。臭いが全くしないので、ウメにとっては不安の対象でしかないのに違いない。Cimg7916 庭の隅から東の方を眺める。

 天気ならば肝属山地の長々とした稜線が見えるのだが、雪雲の中でまったく見えない。晴れたら美しい雪山が姿を見せそうだが、それにしても猛烈な初雪である。

 (追記)

 その後も雪は降り続け、午後7時現在の積雪は11センチとなった。気温はマイナス1℃。

 今日は12時頃と午後2時頃にわずかに薄日の差したことがあったが、ほぼ雪空で、最高気温も朝からほとんど上がらなかった。

 夕方の天気予報によると明日朝の最低気温はマイナス5℃だという。こんな気象は鹿屋暮らしの13年で初めてのことだ。








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地層の断面(鹿屋市田淵町)

 今朝は6時半頃にウメの散歩に出たのだが、うっすらと霜が降りていた。まったくの無風でさほど強い寒さは感じなかったので、いつもより少し足を延ばして1キロほど先まで歩いたら、道路工事現場のフェンスに出食わした。

 プラスチック製の1㍍ほどの高さのフェンスの中を覗くと、かなり深い溝が掘られていた。まだ薄暗かったので黄土色とこげ茶色の区別が分かったくらいだったが、余りに表面がきれいに削り取られているので、もしかしたら発掘調査?と思いつつ散歩から帰った。

 朝食後にその現場に人が来る時間になったら行ってみようと思っていたのだが、あいにく小雨が降り出したので昼過ぎになって行ってみた。折よく現場用のプレハブの中に人がいたので声をかけると、発掘調査ではなく潅漑用水路の太い水管を埋めるための溝だという。Cimg7866 幅は4mくらいで、深さは一番深いところで3m50㎝という。

 そう言えば発掘調査でないことは、断面が垂直でないことでもわかる。Cimg7869 それにしても奇麗な削り方だ。鋼管を埋めるだけなら底の面だけは正確に平らでなければならないだろうが、側面はこんなに平かつ舐めるようにする必要があるのか。Cimg7868 案内してくれた現場責任者のような若者に聞くと、「いやあ、そう言われるかもしれないけれど、ここは配管が難しい所で途惑っているんですよ・・・」と返事。

 何でも、ここは上から配管して来た水管がすぐ近くにできる「ポンプ施設」に入って行く場所で、入りの水管と出の水管の両方が交差するらしい。

 そんな説明をすると、そそくさとプレハブに戻って行った。(午後3時で6℃と底冷えのする寒さだ。無理もあるまい。)

 そんな工事内容は見当もつかないが、この断面には興味をそそられる。

 道路表面から50㎝ばかり下に「降下軽石」の粒々した層が見え、そのすぐ下には幅5~60㎝の「アカホヤ層」が横たわっている。この層ができたのは鬼界カルデラ(薩摩硫黄島)の大噴火によるもので、約7400年前のこと。縄文時代の早期と前期を分別する貴重な指標である。

 その下は黒土のようなこげ茶の厚い層があり、さらにその下はアカホヤほどの赤さはないが火山灰の堆積層に違いない。いったいいつの物なのか素人には不明だ。シラス(約27000年前)でないことは確かだが・・・。Cimg7873 この現場から大姶良川へと下ってみると、何種類かの鴨が泳ぐ川面の向こう側は工事の真っ最中だった。

 この大姶良川を跨ぐ「水管橋」を造っているのだそうだ。向う岸にはすでにコンクリートの土台(真ん中に水管を通す穴が開いている)が建てられ、さらにその向こうに鮮やかな青色の水管橋が横たわっている。Cimg7874 こちら岸にもコンクリートの土台が姿を見せている。

 川を跨ぐ水路は錦江町や南大隅町などの山間部では時折り見かけたが、こんな平野部の川を跨ぐ水管(鋼管製)はお目にかかったことがない。3月下旬が工事期限だが、その時どんな姿を現すのか、このあたりの風景にマッチするのか気になるところだ。













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高隈山・桜島の雪景色

 昨日から今日にかけて強い西風が吹き、夜中には台風を思わせる強風が外で唸り声を上げていた。

 北海道の太平洋湾岸に960hPaというまさに台風並みの低気圧が北上し、東北・北陸・北海道は大荒れの天気になった。

 九州でも今朝は山沿いでは雪になる――という天気予報だった。

 岡山の息子のところに孫の世話で残っていた家内が一週間ぶりに新幹線で中央駅に帰り、午後の直行バスで垂水まで戻ってくるというので迎えに行ったのだが、14時台のフェリーはドック入りで就航せず、その次の便からは強風のため欠航になり、急遽シャトルバスで桜島フェリーに乗り込んで帰って来ることになった。

 予定より2時間ほども遅れることになったので、それまでの空いた時間に冠雪の桜島を観賞すべく、垂水郊外から桜島の北側の周回道路まで巡ってみた。 

 垂水市の旧仮屋である垂水小学校の前の道路を真東に行くと田んぼ地帯が広がるが、その田んぼを越えてほぼ真東に高隈山の主峰・大箆柄(おおのがらたけ)岳(1237m)が真っ白な雪を稜線上に纏っていた。1200㍍を少し超えたくらいの山とは思えないアルペン的な光景に驚かされた。Cimg7847_2

Cimg7850 上の写真の稜線を右にたどって行くと奥の方で尖がっているのが妻岳(1145m)で、その右手に見える二コブはその名も双子岳(1000m前後)だ。写真右手の三角錐は横岳(1102m)。Cimg7859_2 次に海潟を経由して牛根麓に行った。桜島の大正大噴火の時の降灰でうずもれた 「埋没鳥居(稲荷神社)」の展望所ができたというので行ってみると、たしかに眺望は抜群だ。昔の瀬戸海峡に新たに架けられた吊り橋風の巨大なパイプ橋を配してまとまりのある風景が展開している。見ていて飽きない構図だ。Cimg7855 大正大噴火による火山灰の猛攻で埋もれた石の鳥居。稲荷神社は島津氏の守り神とかで、領内のあちこちに勧請・建立された。ここの稲荷神社は右手の階段を上った頂上にある。この稲荷神社は大隅半島の宿敵肝付氏を降して傘下に収めたあとの天正二年(1574年)に建立したという。

 ここから道の駅・垂水までは指呼の間、2キロほどなので行ってみる。Cimg7861 名物の足湯だが、今日の強風と寒さで観光客はひとっこ一人いなかった。

 ここの売店でフェリ-情報を聞いてみると「垂水フェリーは2時過ぎに今日の欠航が知らされたが、桜島フェリーについては何の知らせも無いので通常の運航でしょう」とのこと。

 ほっとして桜島港へ向かう。

 時間はたっぷりあるのでいつもの早瀬戸経由ではなく、久しぶりに裏桜島の周回道路を行くことにした。

 桜島の北側を走るので冠雪の様子がよく見られるだろう――と思った通り、周回道路の分岐から7キロほど走ったところにある「浦之前港」で素晴らしい光景に出会った。Cimg7865 浦之前漁港の突堤から振り返って見た桜島。北向きの斜面なので5合目くらいから上が既にすっぽりと雪に覆われている。

 突堤に囲まれた船溜まりでは波静かだが、外洋は白波が立つ荒れた海である。もちろん漁に出ている船は無く、港には誰も見当たらない。こんな日、漁師たちはそれぞれの家で炬燵にでもあたってくつろぎながら、次の漁のことでも考えているのだろうか・・・。

















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台湾総統選挙で民進党候補が圧勝

 台湾で総統選挙があり、野党民進党の候補蔡英文氏が圧勝した(得票率56㌫余)。国会に当たる立法院の選挙でも単独過半数(約6割)に達した。(画像はNHK1月17日午前7時のニュースより。以下同じ)Cimg7836 蔡英文女史の実際の就任は今年の6月以降だが、近隣諸国では韓国に次いで女性の国家代表が誕生することになった。Cimg7834 蔡氏を推す民進党は与党国民党が中国共産党政府寄りの政策に軸足を移し、国民から「過度の経済中心主義で国民の間に貧富の差が広がり嫌気が蔓延している」として非常な不人気に陥り、今度の政権交代が実現した。

 人民間の平等を最高の理念としているはずの共産主義国家(人民共和国)に肩入れすると、国民の間に大きな不平等が生まれる――というのもおかしな話だが、中国大陸の人民からして共産党の息がかかっていないと貧困に落とされる(共産党関係者のみうまい汁を吸う)から、貧富の格差は天文学的なものになっている。(日本を始め世界中に旅行をして爆買いしている連中はうまい汁組の本人か家族および一族である。)

 一党独裁の究極の汚点がすでに頂点に達しているわけだが、相変わらず人民の間には普通選挙は無論他の政党や政治結社すら作れない状態である。日本が大正15年(1926)に曲がりなりにも「普通選挙制」(男子のみ)が施行されて90年が経つが、その時代にさえ追いついていないのが中国共産党独裁化の中国である。

 1949年に大陸では中国共産党政府(主席・毛沢東)、台湾では中華民国(総統・蒋介石)が政権を掌握したが、蒋介石とその子の蒋経国の代を過ぎてから台湾も完全に普通選挙の時代に入りいわゆる通常の自由主義諸国の一員になった。しかしながら1972年に共産党政府が国連入りし、英米の反対があろうかと思いきや台湾政府に代わって何と安全保障理事会の常任理事国に入り込んでしまった。台湾政府は怒り心頭、国連を脱退したのであった。

 英米の最も嫌うはずの共産党独裁国家が国連入りどころか、さらにこのように台湾政府を蹴落として常任理事国になった(させられた)背景は二つある。

 1949年10月に共産党政権が樹立するわけだが、その同じ年の1月に蒋介石率いる国民党は次第に力を増してくる共産党(毛沢東)に手を焼き、国連及び英米仏など同じ安保理の常任理事国に対して「内戦の調停」を依頼するのだが、彼らはあっさり拒否。「国連は内戦に不介入」というのがその理由である。しかし英米は日本と戦っているときには積極的に蒋介石の国民党政府を援助していた。ところが日本が負けてしまうともう大陸のことは知らんとそっぽを向いたのである。その後の共産党の伸張・席捲は見ての通り。(アメリカは朝鮮動乱で積極的に介入し、おまけにベトナム共産党への戦争を引き起こしているのだから、彼らの言う「内戦不介入」は当てにならないいい加減なものだ。)

 もう一つは日本対策である。結局のところ国連は「第二次大戦に連合国側だった諸国のために組織され、連合国を敵にした旧枢軸国はお情けで加盟させているのだ」というスタンスが本音で、反日なら中国が共産党政権であろうとなかろうと「そんなの関係ねえ」というわけなのだ。

 1955年のアジア・アフリカ(バンドン)会議以降、中国共産党政府は日本へ経済発展のための技術などを求めて接近し、彼我の経済的交流が始まり、劉承志・高崎達之助のいわゆる「LT貿易」(1962年11月に覚書調印)が軌道に乗ってきた矢先に、キッシンジャーが例の忍者外交で中国共産党政府を認め、国連加入への道筋をつけた。同時に日中間に楔を打ったのである。(このことが国際的に評価されて「ノーベル平和賞」を受賞している。台湾と日本を出汁にしての受賞であった)。

 日米安保および米軍の地位協定はそのような時間軸で見ると、特に沖縄に置かれている多大な米軍および基地は日本を守るためではなく、日中が接近しすぎないように打たれた「永遠の楔」に他ならないということになる。

 台湾とアメリカとの間にも同様な協定が結ばれているが、こちらも台湾と中国がもし戦っても積極的な介入はしないだろう。あくまでも抑止力でしかない。

 Cimg7839 今度生まれる民進党蔡英文政権が中国とどのような関係を築いて行くのかはよく分からないが、これまでの国民党馬英九政権のような中国接近策はとらないだろうことははっきりしている。しかも蔡次期総統は親日的と言われており、そうなると中国は余計に難癖を付けたがるだろうから難しい舵取りになりそうだ。

 ただ中国大陸人民の間にこのような開かれた普通選挙による総統選出が見せつけられたことで、民主化の動きが強く出て来るのではないかと期待はされる。

 台湾ではあの辛亥革命で清王朝を瓦解させ「三民主義」を唱えた孫文の遺志がほぼ実現し、今回もまたそれを見せつけられた。慶賀すべきことである。

 孫文は死(1925年3月)の4ヶ月前に神戸で「大アジア主義」に関する演説を行っているが、その中で「西洋の覇道を採るのか、東洋の王道を採るのか、日本よ」と訴えている。日本は西洋植民地主義とは違う植民地を台湾、朝鮮半島等で経営した(特に台湾では民生に多大の裨益をもたらしたことで台湾人に日本への憧憬が根強い)が、孫文の期待に外れてしまったように見える。

 今、孫文が生きていたら日本やアジアの現状をどう評価するだろうか。そして分裂したままの台湾と中国をどう融合させるだろうか、それともこのままだろうか? 

 しかし中国大陸が一党独裁の圧政から解放され、少なくとも今度の台湾のような公正で自由な普通選挙が行われることだけは強く願うに違いない。

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倉敷(阿知潟と吉備高島宮)

  1月3日、息子のところに三人目が生まれたので御祝いと孫守りかたがた倉敷まで行って来た。  Cimg7781倉敷は江戸時代に天領として代官所が置かれ、それなりににぎわいを見せていたが、明治維新で肝心の代官が廃され衰微するかに見えていた。しかし明治20年頃にその代官所跡地に「倉敷紡績所」が開業して以来、倉敷紡績の発展とともに町も繁栄しはじめ、今は江戸の名残りの蔵屋敷群と倉敷紡績の創業者・大原氏の残した美術・民芸などの展示で独特の街並みを形成し、多くの観光客を集めている。

 けれども自分としては、倉敷で一番興味のあるのは倉敷市南部の児島地方で、この児島に神武東征当時の「吉備の高島宮」があったという伝説があることだ。  

 児島は児島半島の付根の東側に展開する街で、港町の雰囲気を多分に持つ。ここにジーンズとはそぐわないことおびただしいが、知る人ぞ知るジーンズファッションの街でもある。(児島は和製ジーンズ発祥の地として有名だが、そもそもは倉敷紡績というリーディングカンパニーがあったればこその話である。)

 児島を見下ろす位置にあるのが半島の先端「鷲羽山(わしうやま)」で、標高こそ120mほどしかないが、登ってみれば360度の眺望が得られ、まさに海の風景の金字塔といっても過言ではないだろう。Cimg7802 鷲羽山からは「備讃瀬戸大橋」が眼下に望まれる。大自然の海に人工物の極致とも言うべき鉄骨製の巨大な橋が架けられてはこの原日本的な風景が台無しになると危惧されたが、こうして眺めているとさほどの違和感に襲われなかったのが不思議だ。

 12月に東京に行った時に大東京のビル街の人工建築物群をいやというほど見て来たせいだろうか、むしろ島と島とを結ぶことで大海の中に人間を拒絶するかのように浮かぶ孤立した島々がより人間に親しくなったように感じられ、うれしさの方が先立つ。そこには四国の人たちが長年想い続けてきた「本土との連絡橋を!」という夢が実現した喜びも反映しているのだろう。

――それはそれとして、この児島地区は昔は本当の島だったのである。そして先に触れたように「神武東征」の時の「吉備の高島宮」の所在地だったという伝承を持っている。

 今の日本史学では神武天皇以下9代目の開化天皇までは全くの「おとぎ話」として扱わず、10代目の崇神天皇の大伯母に当たる「ヤマトトトヒモモソヒメ」の墓が箸墓であり、実は箸墓こそはかの邪馬台国女王ヒミコの墓に違いない(というよりは是非そうしたい)という「畿内邪馬台国説」が抬頭してきているので、史学会的にも崇神天皇くらいからは歴史として認めてもいいのでは――というような潮流が生まれて来てはいるのだが、とにもかくにもそれ以前の天皇は「作り話」に過ぎず、したがって天皇家の鼻祖である神武天皇などそれこそ「鼻も引っ掛けない」から、その東征も「有り得ない」ことになっている。

 だが、私は『邪馬台国真論』を書いた時に投馬国を南九州(古日向)に比定したが、倭人伝ではその官(私見では王)が「ミミ(彌彌)」、副官(私見では女王)が「ミミナリ(彌彌那利)」とある。ところが記紀の神武・綏靖天皇時代にはこの「ミミ」が頻出する。「タギシミミ」「キスミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」と。そしてこの最後のカムヤイミミが古日向からやって来た庶兄(腹違いの兄)を殺して二代目の綏靖天皇になったというのである。

 この記述はまさに「古日向(投馬国)からの東征によって橿原王朝が始まった」ということを証明しているではないか。以来、私は「神武東征」(なる南九州からの大和への移住)は真実あったことだと考えるようになった。

(ただ、記紀の「神武東征説話」は余りにも神話的で大和地方における征伐も一方的な描写が多すぎる。俗に言う「話半分」として相当割り引いて読んでみないといけないのだが、大筋は認めていいと考えられる。「おとぎ話」と一蹴するのはむしろ歴史の醍醐味を貶めるだけである。

 戦前の「進歩的」日本古代史学会の寵児となった津田左右吉は「古日向に天孫が降りたのは日向という瑞名に引き当てたに造作に過ぎず、神武東征説話などあのような遅れた南九州が大和へ上って大和の豪族を打ち負かすことなど全くのおとぎ話」(要旨)――という記紀神話の把握の仕方が史学会では風靡し、そして今もおおむねその線で変わっていない。

 このような学会の姿勢を自分は「タライの中の汚くなった湯だけを捨てればよいのに赤ん坊まで流してしまった」と見る。赤ん坊とは「記紀」特に津田左右吉などが捨て去ったいわゆる神代(崇神天皇以前)の数々の説話のことである。)

 さて、鷲羽山にはビジターセンターという施設があり、中に入ると以外にも歴史的な展示が多かったのには驚かされた。鷲羽山の山頂部には古墳がいくつもあるというのだ。Cimg7813 花崗岩とその風化した砂礫でできているような鷲羽山だが、古墳時代には植生の腐食などでできた土もあり、墓を掘れないことはなかったようだ。頂上部に展示されているのは三基だけだが、他にもたくさんあるという。Cimg7818 瀬戸大橋を望むこんな石組も墓と言えば言える。ただし人骨や副葬品などの証拠物が無ければ古墳とは認定されない。ここからは下の下津井港を見下ろすことができ、下津井港を支配した交易航海民の親分が葬られてもおかしくはない。

 それよりも有難かったのが、館内にあった次のパンフレットだ。Cimg7831 A四一枚だけのパンフレットで作成したのは「みんなでつくる私たちの町児島・吉備の児島 『古事記』編纂1300年実行委員会」という会で、児島商工会議所が資金を出しているらしい。

 この地図が非常にありがたいのだが、その前に上の説明書きの部分で「『古事記』の国生み神話によれば、吉備の児島は日本で9番目の島として誕生した」とあり、地図の下の解説ではさらに『日本書紀』では国生みの最後に八番目の島として「吉備子洲」(きびこじま)を掲げ、吉備児島までを「大八洲」(おおやしま)としてあるとし、「その重要性、子の島として国土の繁栄に寄与する期待を込めているのではなかろうか。」と結んでいる。

 吉備の児島が当時は本当の島であり、瀬戸内海の海上交易中継地として他の島々より重要視されていたことが明確にわかる記述である。

 ところが、肝心の神武東征は省かれており、当然児島を有力候補とする神武東征の時の「高島宮」についての言及はない。

 この解説文を書いた人もそれなりの歴史通の人だろうから、やはり今時の通説(崇神天皇以前の歴史は造作に過ぎない論)に従ったのだろうが、地元の伝承もある以上はカッコ付きでもいいから触れて欲しかったと思う。

 高島の伝承地は下の地図で言うと、阿知潟海峡の右手(東)に流れ込む右から「吉井川」「旭川」のうち旭川の河口部あたりに「高島」という周囲1キロほどの小島がそれだというが、私見では児島全体を「吉備高島」と見る。ただし「高島宮」の「宮」の場所自体は特定できない。Cimg7832 立体地図の部分だけをやや拡大したのがこれで、真ん中に横たわる島こそが吉備児島で、島の左下(南西)先端に▲鷲羽山が見える。島のおおむね左半分が倉敷市児島で右半分は玉野市に属するが、倉敷市の中心部、上で述べた代官所のあった倉敷中心部は島の北側を東西に通じる海峡に水没していた。

 地図の上では島の北部の▲種松山のさらに北に「▲向山」という小さな島があるが、代官所はその向山の北麓にあった。また代官所のすぐ北には「鶴形山」という小丘があり、かってそこには妙見宮と、今も倉敷の鎮守として崇敬されている「阿智神社」が建立されている。この小丘もかっては海に浮かぶ島であったという。

 Cimg7788 JR倉敷駅と南口駅前。信号の地名表示に「阿知北」とある。
 今の倉敷駅の南側一帯の地名は「阿知」といい、小丘「鶴形山」にある阿智神社もそこから来た社名だが、児島の北側を東西に抜ける海峡を「阿知潟」と言った。満潮の時はそれなりの海峡だが、干潮時には浅瀬が続く海というよりは干潟に近かったのだろう。

 そこでこの地名「阿知」だが、倉敷市のホームページや阿智神社の説明板などによると、応神天皇の時代に半島から渡来した「阿知使臣(あちのおみ)」一族がここに住み着き、文化を伝え周辺を開拓したりした阿知使主に因んで名付けられたと説く。

 非常にもっともらしく思われる解釈だが、不思議なことにその阿知使主の高徳を偲んで阿知一族が建立したとされる阿智神社に肝心の阿知使主は祭られていないのである。Cimg7759 鶴形山(昭和の初めまでは妙見山と言われていた)のほぼ山頂部にある阿智神社(総門)。出かけた1月10日は倉敷の成人式だったらしく、着飾った女子が参拝に来ていた。

 この阿智神社の主祭神は宗像三女神(オキツシマヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメ)で、北部九州を勢力圏とした航海民・宗像族の奉祭する神々なのである。しかも相殿として副祭神20柱ほどを挙げているのだが、その中にも阿知使主の名は見えない。

 とすると当地での解釈「阿知という地名は阿知使主に基づく。また阿知使主一族が定住後に一族の氏神のような社を造って奉祭した」(阿智神社の由緒書きからの要旨)は正しくないことになる。

 阿知使主は『新撰姓氏録』によると、「後漢の霊帝の三世孫・阿智使主の後なり」(左京諸蕃上・木津忌寸)とあるように、後漢の皇室の一族のひとりであった。それほどの人物が肝心の阿智神社に祭神として姿が見えないのは不可解である。

 『延喜式・神名帳』によると式内社の「阿智神社」は一社だけあるが、そこは信濃国伊那郡で当地吉備国ではない。ただし備前国津高郡に二座あってそのうちの一社が「宗形神社」であるから、ここ倉敷の阿智神社は古来より「宗形(像)神社」と称していたのかも知れない。

 いずれにしても、どうやら阿知(阿智)が阿知使主に由来すると決めるのは早計のようだ。

 それでは「阿知」は何に由来する地名なのだろうか? 

 私見では「あち」「あじ」は鴨のことである。鴨とは中国大陸北部から朝鮮半島を経由して日本列島へ避寒のためにやって来る渡り鳥で、この習性が冬になると北西の季節風に合わせて日本列島に渡って来る(帰って来る)航海民の行動によく似ていることから「朝鮮半島まで船足を延ばして航海交易に従事する航海民」を鴨族と称するようになった――と考えている。

 こういった航海民「鴨族」は半島と九州全域および瀬戸内海航路を我が物顔に走り回っていた。その瀬戸内海での最重要拠点が吉備の児島を中心とする「阿知潟」ではなかったか。それ故に名付けられたのが倉敷周辺に広がる「阿知潟」であろう。

 また面白いことに児島の街には「味野(あじの)」という地名があり、これも鴨族に因んだ命名だろう。

 こうしてみると、阿智神社に宗像三女神を祀ったのは航海民である鴨(阿知)族で、彼らはこの阿知潟を拠点とし、また定着もしたのでおのずと我が祖神を祀った。その対象が宗像三女神であって何の不思議もない。Cimg7766 阿智神社から倉敷の伝統的蔵屋敷群のある観光の中心部を望む。かってはこの石段の下あたりまでが浅瀬になっていた。

 この浅瀬は倉敷の西側を流れる岡山県三大河川のひとつ「高梁川」のもたらす土砂により少しずつ自然に干拓が進んで行ったが、戦国時代末期(天正年間)に備前国主としてここまでを領有していた戦国大名・宇喜多秀家によって本格的な干拓事業が開始されたという。

 江戸時代に入った寛永19年(1642)に当地は天領となり、干拓はさらに加速されて今日見るような市街地にまで発展したのである。

 今はもう「吉備児島」の面影はないが、児島地区を島たらしめていた阿知潟海峡は児島湾干拓事業によりすっかり干拓・水田化されてしまった。その嚆矢はわずか400年と少し前だったということを前提に吉備の歴史を探っていく必要があるということだけは確実に言えるだろう。











 

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初詣(2016年)

 7日はまだ松の内、今日やっと初詣に行って来た。

 姶良川沿いの吾平町に鎮座する「鵜戸神社」「田中八幡社」そして鵜戸神社が元あった「吾平山陵」を廻る。Cimg7719 まずは我が家の東4キロにある鵜戸神社。祭神は神武天皇の父に当たるウガヤフキアエズ命と后のタマヨリヒメ。Cimg7716 境内と社殿。社殿の向こうは旧吾平町の役場(現在は鹿屋市吾平総合支所)。老健施設のグループが参拝に来ていた。

 このお宮の元あった場所は後で訪れる吾平山陵(正確には山上陵だが、いつも山陵で通じている。地元でも山陵が普通)にあったのだが、明治4(1871)年に彼の地では不便であるということで、ここにあった「若宮八幡社」を中福良地区に移築し、新たに鵜戸神社を建立した。Cimg7722 鵜戸神社から南へ1キロ余り、その若宮八幡社がこれで、ここ中福良に移転したあとは「田中八幡神社」と呼ばれようになった。ところが江戸時代の末に近い天保14年(1843年)に上梓された薩摩藩の地歴書『三国名勝図会』によると、宮の名は「正若宮八幡宮」とすこぶる格式の高い名が付いている。

 それもそのはずで大隅国一宮と言われる鹿児島神宮(当時の名は大隅正八幡宮)の四大分社の一つに数えられているからだ。建立した人物は都城に「島津御荘」を開いた平季基の弟・平判官良宗(たいらのほうがんよしむね)であるという。

 平良宗は兄と袂を分かって吾平に移住し、『建久図田帳』によると50町余を開拓して大隅正八幡へ寄進し、荘官を兼ねて当地で勢力を張った。その年代(長久4年=1043年)を示す「古鏡」を社宝としたという棟札があったことが分かっているが、残念ながらその鏡の行方は分かっていない。Cimg7727 田中八幡神社からさらに南へ姶良川が山中に入り、いよいよ清流になろうかという場所に吾平山陵がある。昼過ぎだったがもう7日ともなると参拝客もまばらだ。10軒ほどの出店も手持無沙汰のよう。Cimg7736 清流に架かる橋を三つ渡って進んで行くと、清浄な広場に到る。Cimg7730 右手には宮内庁書陵部桃山管轄区という看板を掲げた小さな事務所があり、その先から広場が始まっている。Cimg7731 進んで行くと伊勢神宮の五十鈴川に模したい清流の向こうに崖が迫り、その真下に鳥居が見える。Cimg7734 その鳥居の下に「山陵」という名の「洞窟」があるが、この川を渡ることは禁じられている。『三国名勝図会』では洞窟のある崖全体を「鵜戸山」、洞窟は「陵窟」としてあるが、陵窟の広さは四畝(400㎡)、中には高さ4尺余、周囲3丈9尺(12㍍弱)の「墳墓」があり、人力では動かしがたい「盤石」を斜めに載せてある――などと記述している。

 これがすなわち陵墓であるという。

 何らかの墳墓であることは間違いないようだが、果たしてウガヤフキアエズのものかどうかは何人も解明し得ないだろう。

 なお古典に言う「日向三山陵」とはここと、溝辺町の高屋山上陵(彦ホホデミ)、薩摩川内市の可愛山陵(新田神社の奥津城)で、『延喜式』によると、皇室にとってはあまりに遠方なため、京都の宇治田原に「東西一町、南北一町」の規模で「田村御陵」を設けて祭祀場所としてきた。Cimg7735 広場の左手、清流とは反対側の植林地の真ん中に三段くらいの石積みが残っている。あれが明治4年まであったという鵜戸神社の元宮の跡だろう。

 『三国名勝図会』では「鵜戸六所権現廟」として挿絵を載せているが、本殿のほかに舞殿、拝殿のある立派なものだった。その権現廟に祭られていたのは、ウガヤ・タマヨリヒメ・五瀬命・稲飯命・三毛入野命・神武天皇(トヨミケヌ命)の六神である。























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通常国会の開幕

 通常国会が開幕した。Cimg7702 ここ20数年で最も早い開幕だという。まだ「松の内」とあって和服姿の議員が目立った。

 これから180日間の長丁場、終了直後には参議院選挙が待っている。Cimg7699 開幕後の所信表明で右から左まですべての案件を網羅している自民党の強さについて、安倍首相は「自民党は1955年の保守合同以来、60年続いている政党である」と強調した。

 その当時の総理大臣は鳩山一郎で、鳩山はソ連とのパイプの太い政治家だった。次が石橋湛山で、そのあとを襲ったのが安倍首相の義祖父に当たる岸信介だった。岸内閣の1957年8月には、前年の1956年に日本が国連に正式に加盟したことを受けてアメリカ占領(地上)軍は撤退を開始し翌年2月に撤退を完了した。

 ところが1960年6月23日(この日は米軍を中心とする沖縄攻撃が終息した日だ)に、第2次岸内閣は「日米安保」を結んでしまい、残念ながらアメリカ施政権下にあった沖縄はもとより、本土における米軍基地の存続を認めて今日に至っている。

 安倍首相が誇らしく「自民党は60年間続いている」というが、そのうちの55年は日米安保(および地位協定)による沖縄の基地の固定化、本土の米軍基地による少なからぬ統制のもとにあるわけなのだ。Cimg7709_2 こうした現状の中で昨年は「周辺事態法をはじめとする安保関連法案」により無理やり集団的自衛権とやらを言い出したが、日米二国間の軍事的同盟を結んでいるのに、さらに「もっとも大切な同盟国が日本のために救助を行う時に、手をこまねいていていいのか」とばかり軍事同盟の上塗りをしてしまった。

 義祖父である岸元首相も「ちょっと行き過ぎではないか」と泉下で首をひねっているに違いない。あの時は本土から米軍が撤退したあとの旧ソ連・中国の日本への影響を心配した米国が、「岸元首相の戦犯云々」を脅しの材料としてうまく安保同盟に乗せたのである。(もっとも1951年9月にサンフランシスコ講和と同時に最初の安保条約に調印した吉田茂流に言うと、「やっこさん(アメリカ)に日本防衛をやらせれば金もかからずに済む」ということだったらしい。)

 今度のような二重安保でいよいよ日本は米軍の「走狗」となりそうだが、これではいくら日本が「国際社会でリーダーシップを発揮する」と言っても、あくまで米国の国際政策の二番煎じ、悪くすると「お先棒」を担ぐようになり、結局のところ国際的に見たら「日本はアメリカの軍用犬になった」と見られるだろう。

 そこには残念ながら日本独自の平和志向へのリーダーシップは感じられない。Cimg7705 今回の通常国会開会式で驚いたのが、共産党の出席だった。

 共産党の党是として「非民主主義的な天皇の存在を認めないので、民主的に選ばれた国会の開会に天皇がお言葉を述べるのも認めない」という方針なので開会式はこれまでずっとボイコットしてきたのだが、ここへ来て「国民政党」に脱皮しようということらしい。わずかながら頑なな心が進化したようだ。Cimg7713 また大阪維新の会から袂を分かった維新の党は民主党と組んでこの夏の参議院選挙に立ち向かうという。

 消費税のアップを先延ばしにしたので、原発の再稼働容認と安保関連法案成立が最も大きな焦点になる参議院議員選挙。いつのまにか18歳に下げられた選挙権行使も大きな話題だ。同じ高校3年生なのに選挙できる者と出来ない者に分かれてしまう不合理をどう克服するかが問題になろう。














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桜島火山の動向

 夕方のKKBニュースで「かごしまの夢・スペシャル」とタイトルして桜島の今年を占うコーナーがあった(画像はすべて同番組から)。Cimg7688 ゲストは京都大学桜島火山研究所長の井口教授。Cimg7674 まず桜島の活動を振り返ると、8月の旧盆の頃に突然火山性地震が多発し、噴火警戒レベルが3から4に引き上げられた。Cimg7675 地震が続いて収まらないので数日後には火口に近い地区の住民に避難勧告が出され、実際に避難をした人が続出した。

 地震の原因は桜島内部の岩盤の割れ目に新しく熔岩(マグマ)が上昇して貫入したことによるらしいが、9月下旬以降は地震も噴火爆発もすっかり収束し、11月25日には噴火警戒レベルは3を通り越して2にまで下げられた。Cimg7681 この事態は予想外で、7月までは超活発に噴火爆発をしていたのに、まったくの音無しの構えに入ったわけである。これには桜島住民も気味が悪いというようなことを漏らしていた。Cimg7680 前出の井口教授も「今おとなしいのは一時的なもので、いずれ活発化し、長ければ数年という期間継続するだろう」との見通しを述べている。

 その理由が「桜島にマグマを供給しているのは桜島の北の海底にある姶良カルデラのマグマだまり(赤い球体)で、101年前の大正大噴火(マグマの放出)によって沈んだ地殻が90パーセントまで回復して隆起しているのが分かっているので、マグマだまりも同様に90パーセント程度まで供給量が回復しているはずである」というものだ。

 100パーセント回復したら101年前(1915年1月)のような規模の噴火は考えられるかもしれないが、90パーセントではどうなんだろう――と疑問が頭をもたげるが、100年かかって90パーセント回復するのであれば、あと11年でほぼ100パーセントに達することになる。

 100パーセントに達したら確実にマグマが溢れて放出され大噴火となるのだろうが、95パーセントでも放出されることがあるのかどうかが問題だ。もし噴火した場合、その時は100パーセントで大噴火するよりは小さめの噴火で済むのかどうか。明確なことは解らない。

 いずれにしても、この10年のうちに相当な規模の噴火・溶岩流出は避けられないということだけは言えそうだ。

 (追 記)

①霧島連山の中の「硫黄山」で今日(1月3日)、火山性微動と若干の隆起が観測された。気象庁職員が調査に入ったが、噴気の温度は変わらず、ただ少し高温部の範囲が広くなっているようだが、格別の注意は要らない――と判定された。

 この硫黄山は今年になってから何度か噴気の上がり具合が多くなったとの目撃情報があるようになった。あの箱根の大涌谷に似ている面がある。箱根も今は噴火警戒レベルが下げられ、通常に戻っているが、今後の動きに要注意であることに変わりはない。

②今日の気温は全国的に異常に高く、東北以南の列島各地で「統計をとりはじめて最も高い1月の気温」を記録した。4月上旬の桜が満開の頃の気温だという。沖縄では3地点で25℃を超える「夏日」になったそうだ。

 正月の三が日はこれまでも比較的好天気に恵まれることが多かったが、当地鹿屋でも19℃と桜陽気になった。この時期の最高気温の記録はメモしたことがないが、おそらく過去にない高温だったに違いない。

 高温と来れば火山噴火か大地震が連想されるが、どっちなんだろう。霧島火山帯か、南海トラフか。火山島でしかも海沿いに住む人たちは特に要注意だろう。









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2016年元旦

Cimg7664 頌 春

2016年(平成28年)が始まりました。 

(昨年義母が亡くなったので「おめでとう」は控えます。)

去年は暮れから三が日は悪天候だったのだが、今年は実に穏やかな元旦を迎えた。初日の出も我が家の庭から拝めたのはうれしい。Cimg7665_2 午前7時30分に東方の肝属山系の稜線上に姿を見せた初日。2016年の佳き年を願う。Cimg7669 周辺は凍てついている。畑も庭も。今冬4度目の氷点下。7時現在、我が家の玄関前で0℃ちょうど。Cimg7660 霜の花となった庭の露地イチゴ。実は凍っているようだ。早く採っておけばよかった。Cimg7672 葉牡丹は寒さにめっぽう強い。

 この正月に4人目の孫が生まれる。これまで全部女の子だったが、今度は・・・(・・・も)、どうやら・・・。

 今年もどうぞよろしく





 


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