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倉敷(阿知潟と吉備高島宮)

  1月3日、息子のところに三人目が生まれたので御祝いと孫守りかたがた倉敷まで行って来た。  Cimg7781倉敷は江戸時代に天領として代官所が置かれ、それなりににぎわいを見せていたが、明治維新で肝心の代官が廃され衰微するかに見えていた。しかし明治20年頃にその代官所跡地に「倉敷紡績所」が開業して以来、倉敷紡績の発展とともに町も繁栄しはじめ、今は江戸の名残りの蔵屋敷群と倉敷紡績の創業者・大原氏の残した美術・民芸などの展示で独特の街並みを形成し、多くの観光客を集めている。

 けれども自分としては、倉敷で一番興味のあるのは倉敷市南部の児島地方で、この児島に神武東征当時の「吉備の高島宮」があったという伝説があることだ。  

 児島は児島半島の付根の東側に展開する街で、港町の雰囲気を多分に持つ。ここにジーンズとはそぐわないことおびただしいが、知る人ぞ知るジーンズファッションの街でもある。(児島は和製ジーンズ発祥の地として有名だが、そもそもは倉敷紡績というリーディングカンパニーがあったればこその話である。)

 児島を見下ろす位置にあるのが半島の先端「鷲羽山(わしうやま)」で、標高こそ120mほどしかないが、登ってみれば360度の眺望が得られ、まさに海の風景の金字塔といっても過言ではないだろう。Cimg7802 鷲羽山からは「備讃瀬戸大橋」が眼下に望まれる。大自然の海に人工物の極致とも言うべき鉄骨製の巨大な橋が架けられてはこの原日本的な風景が台無しになると危惧されたが、こうして眺めているとさほどの違和感に襲われなかったのが不思議だ。

 12月に東京に行った時に大東京のビル街の人工建築物群をいやというほど見て来たせいだろうか、むしろ島と島とを結ぶことで大海の中に人間を拒絶するかのように浮かぶ孤立した島々がより人間に親しくなったように感じられ、うれしさの方が先立つ。そこには四国の人たちが長年想い続けてきた「本土との連絡橋を!」という夢が実現した喜びも反映しているのだろう。

――それはそれとして、この児島地区は昔は本当の島だったのである。そして先に触れたように「神武東征」の時の「吉備の高島宮」の所在地だったという伝承を持っている。

 今の日本史学では神武天皇以下9代目の開化天皇までは全くの「おとぎ話」として扱わず、10代目の崇神天皇の大伯母に当たる「ヤマトトトヒモモソヒメ」の墓が箸墓であり、実は箸墓こそはかの邪馬台国女王ヒミコの墓に違いない(というよりは是非そうしたい)という「畿内邪馬台国説」が抬頭してきているので、史学会的にも崇神天皇くらいからは歴史として認めてもいいのでは――というような潮流が生まれて来てはいるのだが、とにもかくにもそれ以前の天皇は「作り話」に過ぎず、したがって天皇家の鼻祖である神武天皇などそれこそ「鼻も引っ掛けない」から、その東征も「有り得ない」ことになっている。

 だが、私は『邪馬台国真論』を書いた時に投馬国を南九州(古日向)に比定したが、倭人伝ではその官(私見では王)が「ミミ(彌彌)」、副官(私見では女王)が「ミミナリ(彌彌那利)」とある。ところが記紀の神武・綏靖天皇時代にはこの「ミミ」が頻出する。「タギシミミ」「キスミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」と。そしてこの最後のカムヤイミミが古日向からやって来た庶兄(腹違いの兄)を殺して二代目の綏靖天皇になったというのである。

 この記述はまさに「古日向(投馬国)からの東征によって橿原王朝が始まった」ということを証明しているではないか。以来、私は「神武東征」(なる南九州からの大和への移住)は真実あったことだと考えるようになった。

(ただ、記紀の「神武東征説話」は余りにも神話的で大和地方における征伐も一方的な描写が多すぎる。俗に言う「話半分」として相当割り引いて読んでみないといけないのだが、大筋は認めていいと考えられる。「おとぎ話」と一蹴するのはむしろ歴史の醍醐味を貶めるだけである。

 戦前の「進歩的」日本古代史学会の寵児となった津田左右吉は「古日向に天孫が降りたのは日向という瑞名に引き当てたに造作に過ぎず、神武東征説話などあのような遅れた南九州が大和へ上って大和の豪族を打ち負かすことなど全くのおとぎ話」(要旨)――という記紀神話の把握の仕方が史学会では風靡し、そして今もおおむねその線で変わっていない。

 このような学会の姿勢を自分は「タライの中の汚くなった湯だけを捨てればよいのに赤ん坊まで流してしまった」と見る。赤ん坊とは「記紀」特に津田左右吉などが捨て去ったいわゆる神代(崇神天皇以前)の数々の説話のことである。)

 さて、鷲羽山にはビジターセンターという施設があり、中に入ると以外にも歴史的な展示が多かったのには驚かされた。鷲羽山の山頂部には古墳がいくつもあるというのだ。Cimg7813 花崗岩とその風化した砂礫でできているような鷲羽山だが、古墳時代には植生の腐食などでできた土もあり、墓を掘れないことはなかったようだ。頂上部に展示されているのは三基だけだが、他にもたくさんあるという。Cimg7818 瀬戸大橋を望むこんな石組も墓と言えば言える。ただし人骨や副葬品などの証拠物が無ければ古墳とは認定されない。ここからは下の下津井港を見下ろすことができ、下津井港を支配した交易航海民の親分が葬られてもおかしくはない。

 それよりも有難かったのが、館内にあった次のパンフレットだ。Cimg7831 A四一枚だけのパンフレットで作成したのは「みんなでつくる私たちの町児島・吉備の児島 『古事記』編纂1300年実行委員会」という会で、児島商工会議所が資金を出しているらしい。

 この地図が非常にありがたいのだが、その前に上の説明書きの部分で「『古事記』の国生み神話によれば、吉備の児島は日本で9番目の島として誕生した」とあり、地図の下の解説ではさらに『日本書紀』では国生みの最後に八番目の島として「吉備子洲」(きびこじま)を掲げ、吉備児島までを「大八洲」(おおやしま)としてあるとし、「その重要性、子の島として国土の繁栄に寄与する期待を込めているのではなかろうか。」と結んでいる。

 吉備の児島が当時は本当の島であり、瀬戸内海の海上交易中継地として他の島々より重要視されていたことが明確にわかる記述である。

 ところが、肝心の神武東征は省かれており、当然児島を有力候補とする神武東征の時の「高島宮」についての言及はない。

 この解説文を書いた人もそれなりの歴史通の人だろうから、やはり今時の通説(崇神天皇以前の歴史は造作に過ぎない論)に従ったのだろうが、地元の伝承もある以上はカッコ付きでもいいから触れて欲しかったと思う。

 高島の伝承地は下の地図で言うと、阿知潟海峡の右手(東)に流れ込む右から「吉井川」「旭川」のうち旭川の河口部あたりに「高島」という周囲1キロほどの小島がそれだというが、私見では児島全体を「吉備高島」と見る。ただし「高島宮」の「宮」の場所自体は特定できない。Cimg7832 立体地図の部分だけをやや拡大したのがこれで、真ん中に横たわる島こそが吉備児島で、島の左下(南西)先端に▲鷲羽山が見える。島のおおむね左半分が倉敷市児島で右半分は玉野市に属するが、倉敷市の中心部、上で述べた代官所のあった倉敷中心部は島の北側を東西に通じる海峡に水没していた。

 地図の上では島の北部の▲種松山のさらに北に「▲向山」という小さな島があるが、代官所はその向山の北麓にあった。また代官所のすぐ北には「鶴形山」という小丘があり、かってそこには妙見宮と、今も倉敷の鎮守として崇敬されている「阿智神社」が建立されている。この小丘もかっては海に浮かぶ島であったという。

 Cimg7788 JR倉敷駅と南口駅前。信号の地名表示に「阿知北」とある。
 今の倉敷駅の南側一帯の地名は「阿知」といい、小丘「鶴形山」にある阿智神社もそこから来た社名だが、児島の北側を東西に抜ける海峡を「阿知潟」と言った。満潮の時はそれなりの海峡だが、干潮時には浅瀬が続く海というよりは干潟に近かったのだろう。

 そこでこの地名「阿知」だが、倉敷市のホームページや阿智神社の説明板などによると、応神天皇の時代に半島から渡来した「阿知使臣(あちのおみ)」一族がここに住み着き、文化を伝え周辺を開拓したりした阿知使主に因んで名付けられたと説く。

 非常にもっともらしく思われる解釈だが、不思議なことにその阿知使主の高徳を偲んで阿知一族が建立したとされる阿智神社に肝心の阿知使主は祭られていないのである。Cimg7759 鶴形山(昭和の初めまでは妙見山と言われていた)のほぼ山頂部にある阿智神社(総門)。出かけた1月10日は倉敷の成人式だったらしく、着飾った女子が参拝に来ていた。

 この阿智神社の主祭神は宗像三女神(オキツシマヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメ)で、北部九州を勢力圏とした航海民・宗像族の奉祭する神々なのである。しかも相殿として副祭神20柱ほどを挙げているのだが、その中にも阿知使主の名は見えない。

 とすると当地での解釈「阿知という地名は阿知使主に基づく。また阿知使主一族が定住後に一族の氏神のような社を造って奉祭した」(阿智神社の由緒書きからの要旨)は正しくないことになる。

 阿知使主は『新撰姓氏録』によると、「後漢の霊帝の三世孫・阿智使主の後なり」(左京諸蕃上・木津忌寸)とあるように、後漢の皇室の一族のひとりであった。それほどの人物が肝心の阿智神社に祭神として姿が見えないのは不可解である。

 『延喜式・神名帳』によると式内社の「阿智神社」は一社だけあるが、そこは信濃国伊那郡で当地吉備国ではない。ただし備前国津高郡に二座あってそのうちの一社が「宗形神社」であるから、ここ倉敷の阿智神社は古来より「宗形(像)神社」と称していたのかも知れない。

 いずれにしても、どうやら阿知(阿智)が阿知使主に由来すると決めるのは早計のようだ。

 それでは「阿知」は何に由来する地名なのだろうか? 

 私見では「あち」「あじ」は鴨のことである。鴨とは中国大陸北部から朝鮮半島を経由して日本列島へ避寒のためにやって来る渡り鳥で、この習性が冬になると北西の季節風に合わせて日本列島に渡って来る(帰って来る)航海民の行動によく似ていることから「朝鮮半島まで船足を延ばして航海交易に従事する航海民」を鴨族と称するようになった――と考えている。

 こういった航海民「鴨族」は半島と九州全域および瀬戸内海航路を我が物顔に走り回っていた。その瀬戸内海での最重要拠点が吉備の児島を中心とする「阿知潟」ではなかったか。それ故に名付けられたのが倉敷周辺に広がる「阿知潟」であろう。

 また面白いことに児島の街には「味野(あじの)」という地名があり、これも鴨族に因んだ命名だろう。

 こうしてみると、阿智神社に宗像三女神を祀ったのは航海民である鴨(阿知)族で、彼らはこの阿知潟を拠点とし、また定着もしたのでおのずと我が祖神を祀った。その対象が宗像三女神であって何の不思議もない。Cimg7766 阿智神社から倉敷の伝統的蔵屋敷群のある観光の中心部を望む。かってはこの石段の下あたりまでが浅瀬になっていた。

 この浅瀬は倉敷の西側を流れる岡山県三大河川のひとつ「高梁川」のもたらす土砂により少しずつ自然に干拓が進んで行ったが、戦国時代末期(天正年間)に備前国主としてここまでを領有していた戦国大名・宇喜多秀家によって本格的な干拓事業が開始されたという。

 江戸時代に入った寛永19年(1642)に当地は天領となり、干拓はさらに加速されて今日見るような市街地にまで発展したのである。

 今はもう「吉備児島」の面影はないが、児島地区を島たらしめていた阿知潟海峡は児島湾干拓事業によりすっかり干拓・水田化されてしまった。その嚆矢はわずか400年と少し前だったということを前提に吉備の歴史を探っていく必要があるということだけは確実に言えるだろう。











 

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