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福島原発事故5年目の状況

 読売テレビ今朝8時からの「ウェークアップ」を見ていたら、辛坊キャスターが福島原発事故の現場に立ち入って事故後5年となる現状(惨状)を取材報道していた。Cimg8369 除染は着々と進んでいるとは言うものの、汚染水は何万トンかわからないが巨大なタンクに溜まり続けている(三日で一つのタンクが一杯になるという)。Cimg8320 現場に入るにはまず管理棟で着替えをして放射線防護服を着用しなければならない。それから免震棟という汚染除去作業者の安全確保施設に行く。Cimg8333 この施設の外で、35.9マイクロシーベルトもあり、これは大阪での平均値の約7~800倍だそうだ。Cimg8354_2 次に行ったのがすぐそこに一号機の建屋が見える場所で、建屋からは100メートルくらい離れた地点だそうだが、Cimg8360 何と大阪の2500倍の値が出ている。Cimg8361 中でも水素爆発があった3号機は見るも無残で、1号機とともに「炉心融解」(メルトダウン)した炉心ではどのくらいの放射線量があるのか、Cimg8366 調査も全くの手つかずで、したがって5年たった今なお誰も分かっていないのだという。

 原爆の直撃を受けた広島、プルトニウム爆弾の直撃を受けた長崎でさえ、5年後には復興が進み、人々の生活が戻りつつあったのに、福島では被爆による死者こそ出さなかったものの、いまだに周辺の町から15,6万の人たちが消え、避難生活を余儀なくされたままだ。

 辛坊キャスターが最後に、「とにかく原発事故はあってはならないの一言」で締めくくっていたが、同じ番組では、最近強制起訴された当時の東京電力会長・社長・副社長の3名の話題も取り上げていた。Cimg8371 検察審査会の議決で起訴が決まったようだが、起訴内容は「避難した入院患者が適切な処置ができなかったため命を落とさざるを得なかった。その数は44人。その責任を取れ」というもの。

 確かに、メルトダウンということがほぼ分かっていたのに、発表をせずに後手後手に回ったため、病院サイドの対応が遅れて死に至ったという因果関係はあるので、その経緯を明らかにするためにも起訴は是としよう。

 しかし(ここからそもそも論になるが)、原発を政策的に推し進めてきたのは自民党政府であり、原発立地についても最終的なゴーサインを出したのも時の政府ではないか。

 日本は地震列島であることも十分に分かっており、火山噴火も多い国であることは世界承知の事柄である。

 背景に石油資源の枯渇という危機感(ローマ宣言)があったのは認めるにしても、その後にスリーマイル島原発事故やすさまじいチェルノブイリ原発事故があったにもかかわらず、「二酸化炭素を出さないクリーンで無尽蔵の安定したエネルギー源」という大義名分で突っ走ってきたエネルギー政策に、今度の原発事故はノーを突き付けたのではなかったか。

 福島原発事故を受けて日本列島の全原発は停止した。その時マスコミは「夏場の電力事情が大ピンチ。産業界から再稼働の要請!」なるキャンペーンを掲げて稼働を促したが、ふたを開けてみれば電力不足にはならなかった(ただし東京電力は若干不足したので他の電力会社からの融通を受けた)。

 大山鳴動して鼠一匹、何だ電力不足なんて嘘だったんだ――こう思ったのは私だけではあるまい。以降、原発に頼る政策への不信感がつのり、また廃炉および廃炉後の使用済み核燃料の処分の大問題も抱えていることが分かり、危機感さえ感じるようになった。

 日本は総力を挙げ、持てる技術力と協力体制で原発に頼らない世界一クリーンで安定したエネルギーを確保すべきだと思う。絶対にそれができる国なのである。

 安倍首相は「原発(技術)を世界に売り込む」などといってトップセールスを推し進めているが、とんでもない話だ。頭を冷やせ! もっと世界が安心して暮らせるような民生技術の開発をこそ推し進めるべきだろう。

 そして福島原発事故で避難せざるを得なかった人々に「二度と原発は作らないで、皆さんが安心できるエネルギー開発に邁進します。皆さんのおかげで目が覚めました」とお礼を言うべきではないか。

 また東京都民も「東電さんが千葉とか神奈川に作らずに東京から遠いあっち(福島)へ作ってくれたので、今度の事故では放射能被害を免れることができました」とお礼を言うべきだろう。

 東京電力の当時の最高責任者が事故の状況を真摯に証言することは非常に大切なことだが、それだけで終わる問題ではない。日本のエネルギー政策の根本が問われる問題になろう。

 

























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太陽光発電所の工事(2)

 2月になって始まった畑地帯の太陽光発電所の工事。

 昨日早朝にウメと散歩をした時には無かった網状のフェンスが、今日の午後行ってみたら一気に張り巡らされていた。Cimg8299 Cimg8296 中では太陽光パネルを乗せる南向きの傾斜鉄骨台がほとんど勢揃いしている。Cimg8297 Cimg8298 鉄骨の傾斜台にはパネルが二段に並ぶようで、そのために横張りの押さえを今7~8人の同じ色のヘルメットをかぶった電気工事関係の業者が取り付けている。

 つい1ヶ月前まで何の変哲もないだだっ広い普通の畑だったものが、こうしてあれよあれよという間に「発電所」に様変わりである。

 業務用の発電所はこの近辺に限ってももう少し大規模なものが他に二か所はあるが、完全な畑地帯のど真ん中にこうしてできたのは初めてだ。九州電力が買い上げるのか、そうだとすれば1キロワット当たりの値段はいくらになるのか(我が家のはキロワット当たり38円だが・・・)。最近のは安くなっているうえに、買取りを制限されるケースもあると聞く。

 もっとも4月からは電力供給の自由化が始まるから、その線で考えているのだろうか。完成したらこの事業者に聞いてみたいと思う。

 










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「大王のひつぎ海をゆく」講演会

 2月20日土曜日の午後、西都原考古博物館で「大王のひつぎ海をゆく」というテーマの講演があった。

 ちょうど来月の27日(日)に宮崎大学名誉教授の柳澤先生のご案内で西都原古墳群と生目古墳群とを巡る研修旅行を計画しているので、行程のデータが取れると思い行くことにした。

 往路は大雨に降られ、到着時間の遅れを気にしながらの運転だったが、午前8時半に我が家を出発して西都原古墳群に到着したのが11時15分。所要時間は2時間45分。距離は127キロだった。都城インターから西都原インターまでの高速道路は使わなかったが、当日は高速を使うから20分ほどの短縮になり、2時間半を見ておけばよいことになる。

 西都原古墳に着いたころには雨が上がっており、『この花館』というレストラン兼土産物店に立ち寄って3月27日の弁当の予約をしておく。約40名位ということで。

 考古博物館の講演は2階の研修室で行われた。Cimg8271 講師は宇土市市民会館館長で長年行政側の文化財・発掘調査に携わっていた高木恭二氏。

 大阪の高槻市にある今城塚古墳から出土した石棺が、宇土の特産である「馬門(まかど)石」というきれいなピンク色をしている石材溶結凝灰岩の一種によって作られたことが判明し、宇土で実際に石棺を作ってそれを大阪まで船で運ぼうという「実験考古学」に取り組み、2005年、ついに実行して成功を収めた。その提唱者であり行政側の実行委員長であったのが今回の講演者高木氏である。

 ピンク石製の石棺もだが、運ぶ手漕ぎの古代船と石棺(重量7トン)だけを載せる台船などもすべて手作りで用意し、漕ぎ手は水産大学校のカッター部の学生に依頼して約半年の特訓を経て、2005年(平成17年)7月24日から8月26日までの34日間(実働24日)かけて無事に宇土市宇土マリーナから大阪南港までを漕ぎ切ったという(漕ぎ手は他の海事系学校や大学生の応援を含め延べ740人)。

 その距離は1006キロというから実働24日で割ると、1日平均41キロを漕いだことになる。しかし講演の資料によると、

 <(曳航する石棺を載せた台船まで含めての)2.2ノット(3.6キロ余)の速さで仮に1日5時間航海すると、宇土から大阪まで1000キロメートルを50日間はかかったと思われる。荒天、漕ぎ手の休養、食糧等の調達を考慮すれば50日を超えた日数になったであろう。>

 としている。

 1日に漕ぐ時間が5時間とはえらく少ない気がする。

 船の構造が「準構造船」といって西都原古墳170号墳で発掘された教科書でもおなじみの国指定重要文化財の例の「舳先のそっくり返ったいかにも波を切りにくい形の船」をモデルにしたので、転覆はしにくいけれどもその代わり水の抵抗が大きい。それだけ漕ぎ手には負担がかかるので速度が遅いうえ、1日に漕げる時間も短くなる。漕ぐ時間がわずか5時間なのはそのせいである。

 今回のように7トンもある石棺を載せた台船を曳航してなら確かに時間距離が3,6キロ程度になるのだろうが、当時のデータによると単船(主船)だけなら4.3ノット(時速7キロ)は出たようである。そうすると1日の稼働時間も長くなり、8時間漕いだとすれば56キロは行けることになる。

 高木氏はまた「手漕ぎ船は沿岸が見える程度の沖合を走り(これを地乗り航法というそうだ。自分は沿岸航法と言っている)、夜は絶対に運航しない」と断言された。

 その通りである。

 これに従えば、魏志倭人伝に於ける行程記事で、朝鮮半島南部の「狗邪韓国」(金海市)から対馬海峡を対馬まで80キロ余を渡る際に「夜は運航せず、昼間だけで渡り切らなければならない」という「海峡渡海1日説」は正しかったことになる。しかも水の抵抗の多い準構造線ではなくもっと小型の舳先のとがった船なら80キロを一日で漕ぎ切ることは可能だ。

 次の対馬から壱岐までの約60キロも日中だけの運航で、また壱岐から末廬国(唐津)までの約40キロも日中だけの運航で渡り切ることになり、この三海峡を魏志倭人伝ですべて「水行千里」と表しているそのわけは「海峡はすべて一日で渡っている」、つまり<水行千里=水行一日>ということを意味している。

 この<水行千里=水行一日>を逆算すると、帯方郡の近くの港から出航した船は半島西岸から南岸を回るのに「水行七千里」であるから日数は「七日」で半島南岸の狗邪韓国に着く。そして三海峡をそれぞれ一日で渡って末廬国(唐津)までの三日を加えるとちょうど十日。距離表記では10000里。

 邪馬台国は「(帯方)郡から(一)万二千余里」と倭人伝にあるから、このうち一万里は水行十日に該当する(このとき当然ながら残りの二千里は陸行行程となる。したがって邪馬台国は唐津から陸路で行ける九州島内にあり、畿内説は成り立たない)。

 さらに邪馬台国が「投馬国から南へ水行十日陸行一月」ととる見方は間違っており、「水行十日、陸行一月」というのは「帯方郡からの行程」としなければならないことになる。もし投馬国からの行程としたら「水行十日」の部分は「水行一万里」と距離表記になるはずである。

 もう一つ、漢文表記では段落がないことに留意しなければならない。もし投馬国から南に邪馬台国があるのならば、「・・・投馬国、官は彌彌、副は彌彌那利。戸数五万戸ばかり有るべし。其の南、邪馬台国・・・」というように「其(の)」を入れるはずである。いくら史官の陳寿が「簡略を旨とする書き方をした」としてもわずか一字を惜しむわけがない。

 以上から邪馬台国は帯方郡から距離表記にして「(水行)一万(陸行)二千里」、日数表記にして「水行十日、(さらに)陸行一月」の場所にあり、九州島以外の場所に求める説は全く成立しない。

 さて、末廬国(唐津市)から東南に陸行500里で「伊都国」だが、この伊都国を「いとこく」と読んで、糸島市(糸島町と前原町の合併)に比定する説がほとんどである。

 だが糸島市なら壱岐から直接船を着けることができるうえ、唐津市から糸島市へは東南ではなく東北であり、倭人伝の記述に合わないから間違いである。この東南陸行という方角に何とか合致させようと末廬国は唐津ではなく名護屋だ、呼子だ、と汗だくだくの解釈が行われているが、そもそも糸島に直接船を着ければいいはずのものを、魏王朝からの銅鏡百枚を含む数々の賜物を海岸沿いの隘路・悪路をなにゆえに(文字通り汗だくだくで)糸島まで運搬しなければならないのか、訳が分からんとはこのことである。

 伊都国を「いとこく」と読み、しめたあそこに豪華極まりない副葬品を持った三雲・平原などの王墓が見つかっている――とばかり糸島(旧前原町)に飛びついたのが運の尽きであった。

 以来、邪馬台国論争は「カラスの勝手でしょ」とばかり、各人がてんでんばらばらに方角を変え、距離を変え、日数を変えて解釈しはじめ、いまだに紛糾止むことなき、自分に言わせれば「阿鼻叫喚」の態を示したままだ。

 末廬国(唐津市)からは素直に東南に歩けば伊都国に当たる――のである。自著『邪馬台国真論』(2003年刊)で伊都国を「いつこく」と読み、唐津市から東南にあたる松浦川沿いに500里にある戸数千戸の伊都国を、「厳木町は現在はキウラギと読むが、厳はイツと読むのが普通であるからイツキが原名であり、イツのキ(城)と解釈すればここが伊都(いつ)の王城となる。だが500里というにはあまりにも唐津から近いのが難点で、一応の候補地として挙げては置くが・・・」というように触れて別の候補地である「小城市」を伊都国ではないかとした。

 だが今では「厳木町」が伊都国である可能性を考えている。そのとき多久市が奴国となり、小城市は不彌国になる。ここまでが700里。そして小城市からは今の海岸線よりかなり陸側(天山山地側)を通って大和町から吉野ケ里(華奴蘇奴国)を経由して筑後川を渡り、久留米を経て1300里で八女に至る。ここが女王国。

 女王国の連盟国群は斯馬国以下狗奴国との境界にある奴国(玉名市)までの21か国で、すべて旧肥前・筑後南部にある国々である。古事記では九州に4つの国があるとした(筑紫国=白日別、豊国=豊日別、熊曽国=建日別、肥国=建日向日豊久士比泥別)が、そのうちの肥国に該当する国家群である。

 邪馬台国連盟国家群は「周旋五千里」(ぐるっと巡ると五千里ある)と書いてあるが、自著ではその解釈を施していなかったので、ここに付け加えておく。

 「周旋五千里」とは「船で巡ってみると五千里、つまり水行で五日かかるほどの広さである」と言っているわけだが、末廬国に到着した後、そこから一月(一か月)も日数を要する陸行などせず、船で九州の西海岸を回って有明海に入り最南部にある玉名(奴国)に行けるはずである、しかも五日で。

 こう思っていたのだが、あえてそこは避けたのである。魏の使いが通ったという東南陸行500里を優先させたためである。

 ではなぜ、当時の魏の使いを乗せた船は水行五日で回れる海路を無視したのだろうか。

 その理由は女王国の南にある狗奴国の攻勢にあったと考えられる。倭人伝本文に書かれているように、当時、邪馬台国と狗奴国はほぼ戦争状態になったのである。それだからこそ卑弥呼は二度目の使いを魏に送り援助を要請したのである(その結果、魏から「黄幢(オウドウ)」(将軍旗)がもたらされ、一時は狗奴国も手を引いたが、卑弥呼は死亡している)。

 この女王国の宿敵ともいうべき狗奴国は今日の玉名市を含まない熊本県域であり、当然有明海の制海権を握っていた。したがって女王国が招へいした魏の使い及び黄幢などを乗せた船は有明海域を通行するわけにはいかなかったのである。これが唐津から八女の女王国まで海路を取らず、陸路で通行した理由である。

 ・・・・・・・話がずいぶん飛んでしまったが、今回の講演で得た情報は大変にありがたかった。感謝したい。

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日本がアメリカの一州に?

 こういう馬鹿もいるんだな、と呆れている。Cimg8248 例えば・・・で述べているのだが、日本がアメリカの一州になることに「憲法上の問題は?」と切り出している。

 昨日開かれた「参院憲法調査会」の席上で、かってテレビの「行列のできる・・・」という番組でレギュラー出演したことのある弁護士出身の丸山という参議院議員の発言である。

 憲法ではそのような国際関係については規定がない。というよりそもそも想定していない。それが独立国家の憲法というものであり、憲法以前の話である。Cimg8249 これが言いたかったのか。日本がアメリカの一州になったら当然アメリカの憲法および諸法規が適用されるから、集団的自衛権は個別的自衛権に吸収されるし、日米安保も日本という国がなくなるのだから雲散霧消する。

 しかしそうなるといよいよアメリカ人として「テロとの戦い」に血を流すことになる。おそらくかって韓国軍がベトナム戦に駆り出されてとんでもない戦いを強いられたように、新アメリカ人となった旧日本人を「本当のアメリカ人になりたければ祖国(米国)のために血を流すんだ!」と戦闘の最前線に送り込むはずだ。

 彼はまたそうなったら北朝鮮による拉致事件も起こりえなかった――とも言っているが、どういう意味かよく分からない。拉致事件が発生したときに日本がすでにアメリカの一州であったら、米軍(とともに日本人部隊も)が出動して救出に行っただろう――としたいのだろうか。

 Cimg8251 これも例えば・・・と前置きしてアメリカの現状を、「かって奴隷だった黒人の流れである大統領が今のアメリカの大統領になっているが、奴隷が解放されたころにそんなことは全くあり得ない話だった」とし、もし「日本がアメリカの一州になっていれば1億2千万人の巨大な州としてその中から大統領になる人間が生まれてもおかしくはない」――というような意味のことを付け加えている。

 つまり彼は<日本がアメリカの一州になるなんてことは考えられもしないだろうが、アメリカの奴隷の立場にあった黒人が今の大統領になるくらいだから、ありえない話ではない>と言いたいのだろう。

 ここで彼が現大統領オバマをかっての奴隷の出身と取れるような事を言ったが、この認識は誤っている。オバマの父はケニヤ出身の非奴隷黒人であり、母はアメリカの白人なのだ。

 黒人とみればその内容も知らずに、「奴隷の子孫だ。アメリカでは黒んぼが悪さをしている」というような差別的思考に陥りがちなのは、戦後にアメリカナイズされた人間(要するにアメリカ好みの日本人)の偏見である。

(誰だって「ホワイト・オンリー」の差別に晒されたら頭に来るではないか。奴隷として売り飛ばされ、人間扱いさなかった黒人の子孫たちの身にもなってみるがいい。)

 丸山議員もその差別観の下に教育された戦後日本人の偏見からまぬかれていないことをはっきりと示したわけである。Cimg8244 野党三党は辞職勧告決議案を提出するそうだが、それよりこういう輩はアメリカに移住して市民権を獲得してアメリカ人になれという勧告決議案を出したらどうか。

 奴隷の子孫の黒人たちのわんさといるので、アメリカには行きたくないな――などと愚痴をこぼすのかもしれないが・・・。




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太陽光パネルの設置工事(鹿屋市下堀町)

 10日ほど前から我が家の北200メートルくらいの畑の中にパワーシャベルと軽トラック数台が停まり、コンクリート製の三角錐のようなものをたくさん並べていた。 Cimg8125 ビニールハウスの新設だなと思いながら数日前にウメの散歩でその近くに行ったら、どうもそうではないようだった。

 今朝作業の人が来て仕事を始めたので行ってみた。Cimg8123 聞けば太陽光パネルの設置工事だという。

 軽トラックの近くにいた人に聞くと、「50キロワットの規模で、3月中には完成する」――とのこと。

 我が家の太陽光パネルは25枚で約5キロワットだから、ちょうど10倍だ。パネルの数にして250枚位の設置数になる。Cimg8128 それにしても巨大なコンクリートブロックを埋め込んでいる。<ソーラースタンド>という商品名で重さは0.5トンもある。

 ビニールハウスの埋め込みの基礎もこんなコンクリート製だが、重さはこの15分の1くらいで天辺には鉄製のパイプ状の物が付いており、それにビニールハウスの骨格である直径20ミリほどのパイプを挿入して立ち上げる。

 この<ソーラースタンド>は天辺が真っ平らで、どうパネルを取り付けるのかが分からない。まあ、あともう少しすればパネルの取り付けが始まるだろうからその時まで待っていよう。

 それにしても今朝は寒かった。Cimg8130 この畑から我が家のある方を振り返ると、南の横尾岳山塊の中ほどから上は雪で真っ白になっていた。



 

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鹿屋市鉄道記念館

 志布志駅から鹿屋駅・垂水駅を通り国分駅まで33駅98.3キロを結んでいた「国鉄・大隅線」が廃止されて29年が経過した。
 大隅線は昭和62年3月13日を最後に姿を消した。
 大隅線の前身は大正4年(1915年)に鹿屋・高須間約9キロに登場した「南隅軽便鉄道」で、それ以来延伸に次ぐ延伸で、昭和10年(1935年)に国有化され、同13年に古江・志布志間が狭軌(線路幅1067ミリ)に統一されて「国鉄・古江線」が開通。
 その後も古江から垂水の海潟温泉駅までが昭和38年に、さらに昭和47年には念願だった国分駅まで延び、志布志から鹿屋・垂水を経由して県都鹿児島市までが一本のレールでつながった。
 しかしその喜びもつかの間、特定地方交通線(要するに赤字路線=廃止対象路線)に指定されて62年(1972年)に廃線となった。海潟温泉駅から国分駅までの10駅33.5キロの延伸が足を引っ張る形になった。
 同じ時期に志布志から都城までの「志布志線」(10駅・38キロ)も廃止になり、大隅半島から鉄路が消滅した。(同年か前年には薩摩半島側の山野線と宮之城線も廃止になっている。)
 以来、大隅半島は正真正銘の「陸の孤島」と化し、車社会となった。バス路線が代替交通機関となったのだが、いつしか個人の通勤には自家用車が使われるようになり、今では各家庭において勤めに出る人数分の車が保有されるのが当たり前になった。
 
 それはさておき、大隅線が廃止になった翌年の昭和63年に鹿屋駅跡の一角に「鹿屋市鉄道記念館」がオープンし、旧大隅線の歴史を今に伝えている。Cimg8090 昭和63年10月1日にオープンした鉄道記念館の全景。Cimg8092 記念館の南側には模擬ホームと踏切が設置されて、保線車両と当時走っていたディーゼル気動車が展示されている。Cimg8095 正面入り口から館内を見る。正面に当時の鹿屋駅表示灯がでんと構える。Cimg8109 表示灯の右側にある丸いワッペンが、廃止当日の昭和62年3月13日に運行された最終列車の最前部につけられていた物である。29年の歳月を感じさせない生々しさがある。Cimg8105 館内全体の俯瞰。正面のケースはNゲージ、その向こうのケースは大隅半島のジオラマが入っている。Cimg8099 壁には昭和13年に国有化されたころの駅舎や保線の様子を写した写真が数多く貼られている。(「さようなら大隅線」という横断幕は廃止の日に鹿屋駅前で行われたセレモニーの時に使われた。)Cimg8096 別の一角には手前に保線用の自転車(線路に乗せて二人の保線要員が漕いで行くようになっている)が置かれ、奥のガラスケースには 当時の国鉄職員の制服が飾られている。とにかく保線用道具の展示の多いのが特徴である。 Cimg8107 外の模擬ホームに停められている当時のディーゼル気動車「キハ20型441」。屋根が掛けてあるため29年の歳月を経た割には劣化していない。この列車は80人乗りで180馬力。志布志・鹿屋・垂水の高校生たちにとっては通学の足だった。 Cimg8111 ディーゼル気動車の中には入ることができる。入ったところには手作りの「国鉄大隅線略史」が貼ってある。Cimg8112 その横には超レアな中吊り広告「フルムーン」が当時のまま吊るされている。Cimg8113 フルムーンの裏側には「ジパング倶楽部」。このコマーシャルに起用された上原兼と高峰秀子の大物俳優コンビも今となっては懐かしい限りだ。
 
 国鉄も民間化への足掛かりとして、このようなサービス部門を充実化させつつあった。その時の「青春18きっぷ」は民営化後もまだ息長く余命を保っているのはうれしい。
 
  春一番  ジパング倶楽部の  余韻なお
 

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灰神楽の到来

 2月5日に4か月半の沈黙を破り、今年一回目となる噴火活動を再開した桜島。

 今朝は3日ぶりに今年2度目の爆発的噴火があった。

 7時20分頃に鹿児島地方のニュースでは速報として出されたのが7時15分の噴火で、これは爆発的噴火ではないので「今年2回目」とはカウントされず、それから一時間半後の8時41分にあった爆発的噴火が正式に今年2回目と表示された(噴煙の高さは2500m)。

 単なる噴火(噴煙が低く噴石も熔岩も少量)は噴火回数に入れず、「空振」や「弾丸的噴石」を伴い噴煙も中量以上で高さが1000mを超えるような爆発的な噴火をのみカウントしているようである。

 8時41分のはまさに爆発的噴火だったらしい。風向きが北西の風だったため、桜島の東から南東に位置する大隅半島へ噴煙が流れた。

 今朝9時に昨日まで「生涯学習発表大会」で展示していた物を片付けに東地区学習センターに出向き、大隅史談会の展示物を撤収した。そのあと全体の展示に使用していた机・椅子などを所定の位置に戻す作業にかかり、終わって一息入れてから帰途に就いたが、帰りの路上で運転する単車の前のフードが白っぽくなり、ハンドルを握る腕のジャンバーに白いものが少しずつ舞い落ちて来るのが分かった。

 我が家まであと1キロほどのあたりまで来ると、先を追い越して行く車が道路に積もりつつある火山灰を巻き上げはじめた。パリ・ダカール間を走る耐久カーレースほどではないが、向こうから来る車もホコリを立てながら走り抜けて行く。

 いやはや、とうとう来やがったか――というのが本音で、舌打ちしたくなった。

 家に帰り着いて止めてある車を見ると、案の定――Cimg8077 フロントの方が桜島方向なので万遍なくうっすらとCimg8078 灰化粧。Cimg8076 後部ガラスは屋根を越えて来たのが転げ落ちたのか、縞々模様に積もっている。

 2月5日の1回目の時はほとんど灰らしいものは飛んで来なかったのだが、これが本格的な降灰シーズンの幕開けになるのだろう。

 10日ほど前からは「スギ花粉情報」がテレビに紹介されるようになったが、今日のを見たら「少ない」であった。「皆無」ではないから少しは飛んでいるのだ。

 スギ花粉は2月後半から本格化するから、そうなると花粉と火山灰のダブルパンチ。ああ、鬱陶しい!




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生涯学習発表大会(鹿屋市東地区)

 今年度も年に一回の生涯学習発表大会が大隅史談会も会場を借りている鹿屋市東地区学習センターで開催された。Cimg8049 鹿屋市東地区学習センター。9時に到着した時はまだ開始1時間半前とあってくる人はまばらだ。

 昨日作成した資料展示に対する解説資料を、センターの輪転機で印刷して準備をした。Cimg8042 パネル一枚にちょうど収まった「大隅史談会へようこそ」。

 今年のテーマは我が得意とする<邪馬台国>だ。魏志の韓伝と倭人伝を基に、帯方郡から郡使が邪馬台国のある九州島にやって来た行程(距離と日数および方角)を朝鮮半島と九州島にプロットして完成。

 我が邪馬台女王国は福岡県八女市郡域、狗奴国は菊池川以南の熊本県域、そして5万戸という屈指の大国・投馬国は「古日向」すなわち鹿児島県と宮崎県を併せた領域である。

 この古日向を投馬国と比定したことにより、古日向からの<神武東征>は史実と断定し得た。

 なぜなら魏志倭人伝によると投馬国の王は「ミミ(彌彌)」で女王を「ミミナリ(彌彌那利)」であるが、古事記にも日本書紀にも神武天皇の皇子は東征前の古日向では「タギシミミ」「キスミミ」がおり、また東征後の大和における皇子の名も「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」と、どちらにも魏志倭人伝による投馬国王と同じ「ミミ」が付いているからである。

 魏志倭人伝という大陸王朝の「正史」に「ミミ」、日本側の日本書紀という「正史」(古事記は初期より古いが「正史」ではない)にも「ミミ」。これは無視しえない歴史的名称の一致である。ここから、「神武東征とは南九州古日向に存在した投馬国による東征である」ということが導き出される。

 繰り返していうが、南九州からの大和地方への<東征>はあったのである。ただ、自分としては「東征」というようなオドロオドロシイものではなく、実態は火山噴火活動の頻発や巨大台風による大災害(もしかしたら南海トラフ由来の大地震・大津波などもあったのかも知れない)によって南九州が大被害をこうむって住み難くなり、その避難・移住が「東征そして大和王朝設立」というように高飛車な書き方をされた可能性が高いと思う。

 一応、<神武東征は史実>を確定し得たので、これからはその原因・動機付けを精査して詰めて行けたらよいと考えている。

 

 さて大隅史談会に当てられた部屋にはほかに手話通訳の会や高齢者大学などの展示があるが、人はなかなか入って来ない。手持無沙汰なのでよその展示や舞台発表を覗いて回った。Cimg8061 入り口ロビーには陶芸や水彩画の展示。特に陶芸は素晴らしいものがある。Cimg8047 女性ばかりの素人陶芸グループだそうだが、中にランプを入れて光らせる置物の数々には目を奪われた。Cimg8051_2 いつも大隅史談会で使用している学習室では人だかりがしていた。見ると「飾り雛・下がり雛」の展示コーナーだった。Cimg8062なるほど目も彩な出来栄えの物ばかりが所狭しと飾られている。Cimg8053 同じ部屋にはキルト・パッチワークの展示が。これもすごい。

 他にも水彩画・生け花・水墨画・短歌・・・などの展示。Cimg8054Cimg8056Cimg8057Cimg8058

 舞台発表も合い間合い間に観に行ったが、どれも充実していた。フラダンス・日本舞踊・コーラス・琉球舞踊・社交ダンス・尺八・詩吟・・・、その他には太極拳・三味線・何とか体操・・・、と目白押しであった。Cimg8059Cimg8063Cimg8064Cimg8067Cimg8069Cimg8074何と豊饒な文化活動だろうか。しかも作品の作り手にしても舞台の発表にしても女性がほとんどで、わずかに男性が出演して女性よりも上回っていたのは尺八演奏と詩吟のみ。

 社交ダンスは男女ペアなので同数かと思いきや、一組は男性の代わりに男装した女性が踊っていたから女性上位だ。(この社交ダンスには何と90歳のそれも男性が出演していた!)

 会場にはたくさんの観客が詰めかけていたが、ここも女性客が9割以上を占めていた。

 女性なくしては成り立たない文化活動の数々。豊饒なことである。

 閉会の挨拶に立った同好会連合会長(これは男性)が、「この発表会だけではなく、たゆまずに精進して多くの機会を見つけてに発表を!」と訴えていたが、それもやっぱり女性陣へのエールに違いあるまい。









































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目覚めた桜島

 去年の9月以来4ヶ月余り、まったく活動していなかった桜島が今日の夕方6時56分に突如再開された。Cimg8028 画像は8時のNHKニュースから。以下同じ。Cimg8034 鹿児島市方面から見た噴火。Cimg8036 久々の爆発的噴火で火口から半径2キロは噴石や火砕流の危険があるとして注意を呼び掛けている。Cimg8032 気象台ではすぐに噴火警戒レベルを2から3に上げた。

 これまでのレベル2というのが有り得ない数値で、3が当たり前のレベルだったのが、ここ8年ばかりの桜島の常態だった。

 去年の9月はいったいなぜ噴火爆発が終息したのか、原因はよく分かっていない。

 桜島が「一休み」している間、鹿児島県では南西諸島のトカラ列島や奄美近海などでよく地震が発生したが、あれと連動しているのかどうか?

 霧島連山でも小規模ながら硫黄山で蒸気爆発が起きている。

 爆発的噴火が続くのか、それとも数回でまた収束していくのか予断は許さないが、続けば北西の風に乗って垂水・鹿屋方面に火山灰の降ることが多くなる。

 そろそろスギ花粉が飛び回るというのに、灰まではいらない。










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