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西都原古墳群研修会

 大隅史談会の3月月例会は宮崎県西都市にある「西都原古墳群」で行った。Cimg8488 朝の7時に鹿屋市北田にある城山下公園駐車場を4台の車で出発し、笠野原インターから弥五郎インターに抜けて国道269号で都城市内を走り、都城インターから東九州自動車道の二つ目の西都インターで降り、途中、講師の柳澤一男宮崎大学名誉教授も加わり、西都原古墳を案内していただいた。

 写真は最初に古墳群の概要を説明する柳澤先生(右端)と参加者(16名)。Cimg8490 天気を心配したがまずまずの日和となり、各古墳を見て回るjことができた。これは46号墳(墳長83.6m)である。

 先生の説明によると、西都原古墳群のある台地は南北4キロ余り、東西が2.5キロほどの広さで、ここに史跡としての古墳の数は約330基。そのうち著名な男狭穂・女狭穂を含む前方後円墳が30基もあるという。

 前方後円墳は首長墓であり、それら大小の首長墓は実は複数の系列に分かれて同時並行的に築かれているという。西都原古墳群では谷筋が区画(支群)を仕切る役割をはたしていて、そのような「支群」は5つに分かれ、それぞれが同族的な首長墓を築いていたようである。

 今登っている46号墳は西都原台地の最南部に位置し、第一支群のA(先生はA群でよいと言う)における最大の前方後円墳でA群の最後を飾る首長墓である。概ね4世紀の末頃の築造で、その後前方後円墳は築かれなくなるそうだ。Cimg8497 後円頂上で記念撮影。

 前方後円墳の場合、後円の頂上部は平らになっているのが普通。その上で死者への葬礼が行われるためだという。そこが単なる円墳と違うところかもしれない。(「後円」という字から受けるイメージは頭のてっぺんまで丸いのだが、墳墓に限ってはそのイメージは誤りである。)Cimg8502 同じ第一支群にある13号墳は46号墳の直前に造られたそうで、周溝のはるか手前に葺石で覆われた築造当時の姿を再現した模型が設けられてあった。

 この13号墳は玄室の中に入って見学できるようになっていて、今日の研修の目玉といってよい前方後円墳だ(墳長は約80m)。Cimg8503 後円部のやや上部に開けられた狭い入口から入っていく。Cimg8505 素掘りの玄室の中はかなり広く、真ん中に細長い船のような形の屍床が丸みを帯びた漬物石くらいの大きなの礫で造られていた。

 この中におそらく一本の大木を刳り抜いた「舟形木棺」が置かれていたという。その長さは6メートルを超えるというから相当なものだ。Cimg8507 「舟形木棺」はすっかり腐っており、その中に置かれていた遺体は無論だが、骨も酸性土壌によって溶けてなくなっている。ただお棺の中や遺体に塗られていた赤いベンガラ(酸化第一鉄)だけは消失せずに残され、玉砂利の敷石を赤く染めている。

 また副葬品はネックレスのような玉製品と三角縁神獣鏡が1枚、そして短い鉄剣があった。

――被葬者は女性でしょうね?

と質問すると、

「いや、一概にそうとは言えないが、可能性は高いでしょう」

とのことであった。

 このあと「第2支群」などを見る予定だったが、この第一支群だけで2時間を費やしたので,このあとは「酒元ノ上横穴墓群遺構保存覆屋」を足早に見学した。Cimg8515 酒元ノ上横穴墓の羨道と玄室。いま先生がしゃがんでいる辺りに窪みがあるが、これは地上から竪穴を掘った名残りという。つまりこの横穴墓群は南九州独特の「地下式横穴墓」と普通の「横穴墓」との折衷で、古墳時代も末期の様相を見せているそうだ。


 考古博物館内の食堂で昼食をとった後は博物館内を見て回った。Cimg8523 宮崎県内でも縄文時代早期の「壺」(右)が発掘されている。

 鹿児島県の上野原遺跡で7400年前の鬼界カルデラ由来の火山灰「アカホヤ層」の下から二個の「壺型土器」が発掘されたことで「縄文早期の壺」が作られたことが判明し、それに伴って宮崎県で過去に発掘されていた写真の壺が弥生時代のものではなく、縄文の、それもとんでもなく古い早期(11000年前~7500年前)のものであると訂正された、いわく付きのものである。Cimg8527 これは教科書でもおなじみの舟型埴輪で、西都原170号墳(前方後円墳)から採取された。170号墳は「男狭穂塚」と同じ台地上に築かれており、その陪冢とされている。子持ち家形埴輪とともに重要文化財だ(ただし考古博物館のものはレプリカで実物は東京上野の国立博物館にある)。

 博物館のボランティア案内氏によると、船底は一本の大木のくり抜きでその上に側舷やら波切やらを付加して完成された「準構造船」だそうである。側舷には片側に六つの櫂を固定するための突起があり、12人で漕いでいたことが分かる。人間の歩く速度よりは早く、ジョギングの速度よりは遅く、おそらく時速8キロ程度は出たであろうから、一日に8時間漕いで64キロは最低でも稼げたはずだ。日が長ければ、10時間漕ぐのも無理ではないので80キロ。これは対馬から朝鮮半島南部までの距離である。

 そう考えると、朝鮮海峡は天気さえ安定していれば三日で渡り切れる。鴨族や宗像族や安曇族はそうやって朝鮮海峡を往来していた、おそらく「定期便」のような形で・・・。

 南九州と南方海域や中国大陸南部とのつながりこそ密接だったという人は、この朝鮮半島との「定期航路」の濃密さを評価しないきらいがある。中国南部から日本列島(沖縄・奄美を含む)への航路はかなりの危険を伴う賭けの要素の強い潮路だった。8世紀から9世紀ですら遣唐使船の遭難・座礁が相当な確率で発生しているのである。


 1時半過ぎに次の目的地「生目古墳群」に向かった。

 生目古墳群は宮崎市跡江丘陵にある古墳群で、柳澤先生によると「4世紀代(古墳時代前期)の100mを超える前方後円墳が3基もある日本でも最古級の大首長墓築造地」だそうで、丘陵上に他に5つの前方後円墳を含めて約50基の高塚が確認されている。Cimg8534 写真は「葺石」を完全再現した生目5号墳(墳長57mの前方後円墳)。発掘された遺物(壺型埴輪=土師器)から4世紀末頃の築造と比定されているが、時代が下がるほど葺石は省略されていくという。

 ここには傍らに「地下式横穴墓」が作られているが、写真前方部のさらに向こうに横たわる7号墳(墳長46mの前方後円墳)は生目台地で最後の前方後円墳だが、それには地下式横穴墓が10基も周囲に作られているという意味で特異な古墳である。中でも後円部の周溝内に掘られた18号地下式横穴墓はレーダー探査の結果玄室の向きが後円部中心に向かっており、しかもその長さが5メートルもあるという。この7号墳を築いた主が埋葬されているかもしれず、そうなると日本で唯一の事例となるそうだ(生目古墳群の地下式横穴墓の総数は56基)。Cimg8532 5号墳からは宮崎平野が遠望される(大きな常緑樹の左手)が、縄文の海進のころ(早期~前期始め)は海であった。また弥生期から古墳期でも海は相当入り込んでおり、入り江と干潟が広がっていた。


 さて、この古墳群とほぼ同じ時代に築かれた西都原古墳群の最古級の首長墓系列の古墳群よりひと回り大きな古墳が続々と築かれたその背景には何があったのか――。

 柳澤先生によると古墳の大きさだけからみれば、4世紀代は生目古墳群の首長のほうが西都原古墳群を残した首長よりも格が上だった可能性が大きいそうである。

 しかし、生目古墳群での首長級の「王墓」も4世紀代のうちに終焉を迎えるころ、西都原古墳群で「男狭穂」(墳長176m。日本最大の帆立貝型古墳)・「女狭穂」(墳長176m。前方後円墳)という九州で最大の古墳が5世紀初頭に築造されるが、実は西都原古墳群でも首長級の前方後円墳はその後、ほぼ築造されなくなる。

 最後に宮崎市埋蔵文化センター「遊古館」の職員が話してくれたのが、標高の低い丘陵の北側緩斜面には弥生中期の「環濠集落」があったということ。この環濠集落は後期ではないので、次の段階である古墳時代の人々とは考古学上の断絶があるようだが、やはり繋がってはいるのではないかと考えられると・・・。

 そうか、ここでも「弥生後期」の遺構なり遺物なりが出ていないのか――。東回り九州自動車道建設に先立って行われた鹿屋市や大崎町での発掘調査でも弥生中期はたくさん出ているのに「弥生後期」はゼロであった。

 宮崎も鹿児島と同じ「古日向」に属するが、同様な現象はここでも観察されている。古日向の「弥生中期人」はいったいどうしたのだろうか?

 自説の「1世紀前半(弥生後期)に古日向(投馬国)から列島中央への移住(東征)があった」という見解が再確認されたように思う。








 

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