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サツマイモの植え付け

 4月に入ってからサツマイモ(マルチ栽培)の植え付けがあちこちで進んでいる。Cimg8782 我が家の近くの用水路沿いのこの畑。毎年今頃になると畦一面にきれいな芝桜が咲き、待っていたかのようにサツマイモの植え付けが始まる。Cimg8783 苗を入れた腰の籠から取り出しながら、右手に持った菜箸のような物でマルチ(被覆)のビニールに切れ込みを入れて素早く苗を差し込んでいく。結構な速さだが、中腰が続くので時おり腰を伸ばさないといけない。 Cimg8786大姶良川まで降りて橋を渡り、再び台地に上がると、そこは南町に属する畑地帯だが、Cimg8787そこでも植え付けに忙しい。Cimg8785 同じ南町でも山下(やまげ)という横尾山系の登山口近くの畑。Cimg8784 ここで便利なものを見た。

 黒マルチビニールのど真ん中にタイヤのない車輪を当てておばさんが歩いている。聞けばマルチに切れ込みを入れる道具だそうだ。

 どうやら小学生などがよく乗る「一輪車」のタイヤ部分のようだ。尻を当てるサドルを取り払ってしまえば片手で楽に押していける。よく考えたもので、廃物利用(リユース)の見本のような光景である。

 マルチングはトラクターに装着したマルチ機がやってくれるし、この作業もほぼ自動化、そして収穫にハーベスターを使えば、大変なのは植え付けだけということになる。米もそうだがとにかくここ15~20年の農作業の効率化は目を見張る(ただし、その分コストが掛かるが)。

 ところでサツマイモに関して――「前田利右衛門異聞」としておこう。

 先日、高須町出身で今は神奈川県に住んでいるというМ氏が訪ねてきて次の歴史的人物は自分の先祖ではないか――という問題提起をされた。

 その歴史上の人物とは、薩摩藩でサツマイモを普及させて大功のあった「カライモおんじょ」こと「前田利右衛門」のことである。

 この尋ね人の姓は「前田」ではないのだが、そもそも江戸期の農民や漁民(利右衛門は航海系の漁民とされている)は姓を持たないのが普通なので、「利右衛門」という名の方だけを考えてみた結果どうもそうとしか考えられない、と考えるに至ったそうだ。

 この人の400年近く前の先祖に「利右衛門尉(りうえもんのじょう)」という名を持った人がおり、その祖父もまた「利右衛門尉」で、どうやら祖父の名を襲名したようである。祖父は通称「秀長」(~1633年)で、系図横の書き込みによると「慶長7(1602)年、9月、太守義久公より御朱印を拝し、琉球国へ渡り、御用の物を買い調えた。」とのことで、琉球への渡海を許されるほどの航海者だったことが言え、その名を襲名したということは孫である「秀門」(1636年~?)も航海者であったとみて差し支えない、と思われる。

 名の最後に付着の「尉(じょう)」はМ氏の家系が武家であるため、本来は「右衛門尉」という「官途名」であり、それに「利」が付いたもので、漁民(でも航海系)としてなら「尉(じょう)」を省いて伝わった可能性は高い。

 以上がМ氏の考えを私なりに再解釈したものであるが、一般的には「前田利右衛門」について、例えば氏の提示した鹿児島県のホームページにはこうある。産業・労働>食・産業>農産物>さつまいも通信>小事典>伝播と普及・・・<2、日本への伝来>と普及の中で、

『・・・栽培された記録としては1698年に種子島の島主・久基が琉球王に使いを出して持ち帰ったものが最初である。1705年には山川の船乗り前田利右衛門がさつまいもを琉球から持ち帰り、自ら畑で栽培し、近所の人々に分かち与えたところたちまちにして近隣諸村に広がり、広く薩摩藩全域に広まっていったと伝えられている。・・・』

 この記述のネタ本はおそらく1843年に上梓された薩摩藩の地歴書である『三国名勝図会』だろう。清潮社版の第二巻・山川郷の中の「利右衛門甘藷の功」(506~510ページ)に詳しく載るが、ここでは上記に関する点だけを引用する(旧仮名・漢数字等現代風にした)。

【利右衛門は大山村岡児ヶ水(おかちょがみず)浦の漁戸なり。土人の伝えに、宝永2(1705)年、甘藷(サツマイモ)を盎(おう=鉢)に植えて琉球より携え帰る。これより甘藷漸く諸方にひろまり、人民その利益をこうむるという。利右衛門、宝永4(1707)年7月に死す。墓は当村の堂之前にあり。その裔孫いつの頃にか絶えてなし。村民、利右衛門が甘藷を伝えしを徳とし、常にその墓を掃除し、花水を供う。・・・】

 『三国名勝図会』ではこのあと種子島久基のことも記述され、さらにもともとはルソン(呂宋=フィリピン)で栽培されていたのが大陸の福建に移植され、そこから琉球にももたらされ、坊津経由で薩摩へというように書いてある。ルソンからは持ち出しを禁じられていたようで、福建の人・陳氏が1594年にひそかに持ち帰って福建に広まったそうだが、このひそかにというところは前田利右衛門が琉球から持ち帰った状況と似ている。

 さて名勝図会の書き方で、「これは?」と思うところが一か所ある。

 それは甘藷を広め、村民から大いに感謝された人の「裔孫」(えいそん=子孫)がいつしか絶えてしまい、墓守がいなくなったので村民が墓を見ている――という箇所である。

 大功があって村民に感謝されたほどの人物の子孫が一人も残らずいなくなった・・・という状況は考えにくいのである。もし前田利右衛門が生涯独身のまま死んだとしても、彼の兄弟をはじめ従兄妹など何らかの血のつながりのある者はいたであろうから、その子孫がわが先祖として利右衛門の墓を守るというのが常識的には考えられるのだ。

 そういう係累が一切無かったがゆえに墓守もいなくなった、となると考えられるのは、前田利右衛門自身は山川郷大山村岡児ヶ水出身の人物ではなく、ある時期に役目が済んで故郷に帰った行ってしまったということか。それならば可能性としては大隅半島高須郷在住で祖父の代に島津義久に琉球渡海を命じられたМ氏の先祖「利右衛門尉・秀門」(1636年生まれ)が引き当てられてもおかしくはない(М氏によると高須の先祖代々の墓の中に利右衛門尉秀門の墓があったという)。

 ただし、そうなると寛永13(1636)年生まれの者が宝永2(1705)年、つまり数え年70歳の時に琉球に渡ってサツマイモの苗を持ち帰ることが可能であったろうかという点に疑問が発生する。可能性としてゼロではないが、極めてむつかしいことだろう。持ち帰った年代が宝永2年よりも早かった可能性もあるが、種子島久基が1698年に琉球から取り寄せて植えさせたというのは記録に残っているようであるから、それと同じ頃としても7歳若い63歳である。

 船乗りは頑丈だ――と言っても、還暦を過ぎた人間が琉球までの荒波に堪えられるのかどうか・・・。

 それとも本人は船主であって、雇っていた水夫に頼んで持ってこさせたのか――こう考えるとまた可能性は出てくるが・・・。

 まだまだ模索は続きそうである。











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