憲法改正の是非
今年の5月3日の憲法記念日は新憲法が施行されて70周年という節目の日(公布は前年の11月3日)。
NHKの特番で各党の党首かそれに準じる政治家を集めて討論会があった。ただ、今回は単に憲法の改正問題だけではなく、7月に参院選を控えているということでその点も大きな話題とあった(画像は夕方6時のニュースから)。 数日前に行われたNHKの電話アンケート調査の結果を踏まえてだったせいか、与党側は改正を前面に出さずに受け応えをしていた。
その調査は「憲法改正が必要と思いますか?」というもので、おおざっぱに言うと、賛成が20パーセント、反対が30パーセント、どちらともいえないが40パーセント、分からないが10パーセントというものであった。
明らかに反対(改正の必要はない)が10ポイントほども上回っていたので、 与党自民党代表の高村副総裁が、安倍首相と同じく、「一字一句変えないなんてことは、そっちの方がおかしい」というような認識であるのは当然のことながら、
今度の参院選では憲法改正を争点にしたくない、と逃げ、
同じく与党公明党の北側氏も争点にしたくないと、及び腰であった。
これに対して野党第一党の民進党(台湾の与党第一党の民進党と同じ党名だが、向こうからクレームがつかなかったのだろうか――)は、同じ70年という期間の点では、
これまで紆余曲折があったにせよ変わらなかったことに意義を見出している。この点では筋金入りの旧社会党系の社民党党首吉田氏が、
いつもの「金科玉条」ならぬ「金科御九条」主義を繰り返している。
今どき、「日本国憲法第9条によれば、自衛隊も違憲だ」などとして、自衛隊の存在すら認めようとしない者はほぼいないだろう。 これには直接の答えは出さなかったが、「日本の心を大切にする会」の中山代表は、現憲法を全面的に変えて日本の歴史文化慣習に合致した、一歩進んで日本の心を推し進めるような憲法を目指している。
ほかに生活の党、おおさか維新の会の発言もあったが、前者は憲法改正に懐疑的であり、後者は改正が必要というものであった。
憲法改正の論議では他はどうであれ、とにもかくにも、「第9条」の改正の是非が中心となる。
非改正論者の多くは、この9条に関してだけに最大の眼目を置き、「絶対に変えてくれるな」という。非常事態法案(安保法制)の制定に当たって昨年はここを基軸に、「戦争法案だから反対」という切り口で大ブレークを行ったわけだが、一方、改正論者は「自衛隊を国防軍」として名称上、正規の軍隊に格上げしたいと考えている。
安倍首相も後者の考えだろうが、しかしよく経緯を顧みてみると、実は「第9条を一字一句改正しないで自衛隊という軍隊を整備し、多額の予算をつけて世界でもかなり実力のある国軍になって来た」のである。
だから、今さら、「自衛隊を国防軍に書き換えたい」としても、すでに厳然とした既成事実があるわけだし、また、上で触れたように、「金科御九条」連中ももう「自衛隊は違憲だから廃止せよ」とも言わなくなっているのだから、無理に書き換える必要はない。
そもそも憲法第9条は第一項で「戦争放棄」を唱えているのだが、「自衛軍の放棄」もしくは「個別的自衛権の否定」などしていないのである。
第2項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあるのだが、しかしこの第2項はあくまでも第1項という大前提を受けての項目なのである。したがって第2項のこの「陸海空軍の不保持」は第1項の「国権の発動たる戦争と・・・(中略)国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」という前提に対する「陸海空軍の不保持」なのである。
要するに「諸外国にまで行って武力を使うような陸海空軍は保持しない」ということで、「外国から攻められたときに反撃して身の(日本の)安全を守るための自衛軍の不保持」などうたっていないのである。
頭の固い人は、このあたりを言うと、「詭弁だ」としたがるかもしれないが、では、実際の憲法第9条を見てみよう。
【日本国憲法・第9条】(全文)
第9条
(第1項) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。
(第2項) 前項の目的を達するため、
陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権はこれを認めない。
以上が改正問題の焦点になっている9条の全文だが、逐行で解釈を施してみる。
第1行は理想を述べたものである。制定当時の1945年(公布の時点)で、国際秩序は全く正義も秩序もなかった。日本が目指した東洋諸国の欧米列強による植民地支配からの解放は日本が敗れたことによって振出しに戻り、アメリカでは黒人に基本的人権は無かったのだ。
第2行は、これがまさに「戦争の定義」である。近くは日本対英米の戦争があり、それ以前に第一次大戦があり、日清・日露戦争や、薩英戦争・アヘン戦争など日本が開国してからというもの欧米列強の東洋への侵略と圧力、そして不平等条約に起因する多くの戦争があった。
第3行こそが、この第9条の眼目である。「国際紛争を解決する手段としては」という前提があってのちに、「そのような戦争は放棄する」としている。つまり国内の動乱やクーデターへの武器使用はいざ知らず、諸外国との戦いはもうしない――と言っているのだ。
第2項は第1項の定義を踏まえてのもので、
4行目は、第1項の第3行の大前提に立って以下の5行目、6行目が意味を持つという文言である。つまり5行目・6行目は第1項の縛りを受けているということに他ならない。
5行目の「陸海空軍の不保持」は「国際紛争を解決するための陸海空軍は持たない」と理解すべきなのである。自衛のための軍隊を持ってはいけない――とはどこにも書いていないのだ。
そして6行目の「国の交戦権」というのも「国際紛争を解決するための交戦権」と理解すべきで、これも自衛のための軍隊を持ってはならない――とは解釈できない。あるいはしなくてよいのだ。
以上、第9条は日本という独立国家が陸海空軍を持ち、それを自衛のために使用することまで禁じてはいないことが分かるのである。
ここまで言っても「戦争放棄=軍備廃止」という先入観に囚われ切った人のために、「個別的自衛権」を持ち出してもよい。
この「個別的自衛権」というのは「集団的自衛権」が唱導されてからあわてて生まれたような言葉だが、まず、先に生まれた「集団的自衛権」とは何か?
この「集団的自衛権」は第2次大戦の時に英米が主唱した「大西洋憲章」という対ドイツ共同戦線および戦後処理の取り決めの中で明確に表れた言葉で、簡単に言えば、「共通の敵を合同でやっつけましょう」というものである。
大西洋憲章の時は主に対ドイツだったのだが、その後日本が独伊と「枢軸国」を結成すると、日本をも標的とした取り決めになり、大戦後は国際連合結成の際に作られた国連憲章の下敷きとなり、敗れた枢軸国側の国家群は第53条により「敵国」扱いとなって、今に至っている。そのため、日本がどれほど分担金や相応の国連協力をしても安全保障理事会の常任理事国にはなれないのである。
ついでに言えば、1972年に中国共産党政府が国連に加盟した途端に、それまで台湾が常任理事国だったのに、すぐに台湾が追放され、その後がまに中国共産党政府が据えられたのも、対日戦勝国扱いされたからである。英米の思惑ではあくまでも日本は「敵国」なのだ。
話はそれたが、「集団的自衛権」とは以上の経緯からも分かるように、対ドイツ・対日本への対策上、勝者側の連合国諸国が締結した自衛権であり、「今度またあの枢軸国連中が我々に歯向かって来たらみんなでやっつけよう」という権利なのである。
( したがって安倍首相がアメリカとの連携を意識して「集団的自衛権」云々というのは筋違いなのである。もし本当にアメリカとの集団的自衛権を言うのなら、日米安保を廃棄し、さらに国連憲章上の『旧敵国条項」(第53条)をも削除させたうえで、つまり本当の意味で同格の国際連合加盟国にならなければならないのである。
実は日米安保のような国連加盟国内の二国間軍事同盟も国連憲章では禁じられており、あくまでも国連安保理による解決を目指すというのが建前なのである。そのためか日米安保は現在もう30年も一年更新の「自動延長」が続いたままだが、これはどちらか一方が「やめます」と言えば、一年後には廃止されることになっている。ただ、自民党がやらなかっただけの話なのである。)
これに対して「個別的自衛権」は本来どの独立国家も持っている固有の権利であって、その自衛を満たすための「軍隊」の保持は何ら禁じられていない。したがって近隣諸国が領土を侵害した場合、自衛権を発揮して武力で威嚇も、攻撃もできる。そのための軍隊および軍備は最低限必要だろう。
日本は幸いなことに島国であるから「国際紛争で海外に派兵する」点では、相当な抑制が効くし、これはしないと9条で宣言している。また仮に攻められるにしても、海岸線防備を徹底すればおおむね防げる。もっとも今どき日本を攻めてこようという動機のある国は無いから、未然に外交政策でもって抑止できるだろう。
自分としては以上のように、第9条は「専守防衛のための自衛軍の保持」は禁じていないと解釈するので、今おおきな問題となっている9条の改正はする必要ないという考えである。
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