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日南線で串間へ

 志布志市内に用事があったついでに日南線に乗ってみたくなって串間まで行った。

 串間へは以前に「串間今町の農夫・佐吉が自分の畑である王之山(おうのやま)で、周王朝代の諸侯への賜与品である玉壁を発見した」という伝承に興味があって、「王之山」とはどこだろうか――と訪ねたのを含めて3度ほど行ったことがあるが、今回は平成20年に国の重要文化財に指定された「旧吉松家住宅」を訪れた。Cimg0321 出発駅志布志。ここは昭和62年までは志布志線の起点であり、大隅線の終点であった。

 両線が廃止になり、残ったのは日南線。つまり志布志駅は3つの路線が交わる鉄道の要衝だった。駅前のだだっ広い広場は鉄路が縮小した分、駅舎が東に移動した(というか、押し込められた)名残りである。Cimg0320 駅舎に向かって左手の隅のほうに「大水害復旧記念碑」なるものがひっそりと建っている。

 昭和13年10月13日から三日間台風がらみの豪雨で志布志線も大隅線(ただし当時は志布志から古江までしか開通していなかったので、正確には古江線)も線路土手をはじめ鉄橋も流され、まだ国鉄化して間もない両線に大打撃を与えた。

 しかし九州管内からの保線要員などの応援を受けて、突貫工事で10日後くらいにはおおむね復旧のめどが立った。その後も補修に追われたが、この石碑が建てられた12月までにはほぼ完全復旧を果たしたらしい。(こういう応援協力体制があったのは国鉄化していたお陰だろう。民営ではこんな早い全面復旧は不可能だったはず。おそらく倒産した?)Cimg0324 出発時刻前にトイレに入っておこうとトイレ前まで行くと「あれ?」。一瞬風呂場と勘違いする暖簾がかかり、しかも「男子」「女子」ではなく「男志」「女志」と書かれている。ここまで志布志は「志」にこだわっている。何しろ志布志市の旧志布志町宛のハガキなり封書なりを出すとき、「志布志市志布志町志布志○丁目」と書く場合が多く、宛先の住所には何と「志」が6回も出てくるのだ。

 こうなったら志布志では「し」に当てる漢字はすべて「志」にして、新しく「志布志語」を作ったら面白い。「志ばらく」とか「志りません」とか・・・。Cimg0325 南宮崎行きのディーゼルカーがぽつんと一両待っていた。車体は「キハ40-8099」だったか・・・。Cimg0328 運転手一人のワンマンカ―なので乗り込むときに整理券を取るのは市電でもバスでも同じだ。Cimg0331 整理券は切符ではないが、久しぶりのJRチケット。Cimg0342 車窓風景。大隅夏井駅を過ぎて見えてきた志布志湾。右手の奥の島状の半島は「ダグリ岬」で、ど真ん中に海を見下ろす全長50メートルくらいの前方後円墳があったのだが、取り崩されて国民宿舎が建てられた。泉下の豪族は地元の航海交易族(5世紀代)であったと思われるが詳細は不明だ。海の中にぽつんと浮かぶのは枇榔島。ここの枇榔は平安京に送られた。Cimg0351 大隅夏井―福島高松―福島今町と来て、いよいよ串間に到着。15キロほどの旅。電車賃は290円。柱の「運転中は話しかけないで下さい。」がユーモラスだ。最後に句点が付くと意思表示としては強い。

 機械に投げ込むべく290円を財布から出そうとしたら、駅員にやってください――と。駅員が居たんだった。確かにホームで待っていた。Cimg0354 串間駅。外観は造りといい色といい若干チャラい感じがしたが、隣りに「道の駅」的な店舗が続いていて、なるほどそっちの方がメインな仕組みらしい。(帰りに寄ってみたが内部は食事ができないこと以外は道の駅そのものだった。)Cimg0357 串間駅に着く直前にある踏切から駅方面を写そうとして行くと、何と市電(しかも広島電鉄の宇品行と表示)がでんと置かれていた。撮影後に寄ってみたら、そこは観光総合案内所であった。実家は志布志だという中年女性の係員から数種類のパンフレットをもらい、吉松家住宅への行き方を教えてもらう。Cimg0361 その吉松家は何と駅からわずか2分、郡元という信号を右折してすぐの旧志布志街道筋にあった。Cimg0362 石段のある表玄関の先に車が入れるようにコンクリート舗装をした通用口があるが、そっちからの方が観光的な入口に近い。真っ白い土蔵の反対側が見学者用の入口になっていて、引き戸の傍らには旧吉松家入口という墨書の案内板が掛かっている。

 案内のパンフレットによると、この住宅は明治から昭和にかけて串間の政治・経済に大きく貢献した吉松氏によって大正時代に建築されたそうで、再来年に建築後100周年を迎えるという。

 吉松氏は串間を飛び地として領有していた日向高鍋藩(藩主・秋月氏)の重臣で、明治維新後は代々串間村長を担ってきた家柄だということである。Cimg0372 屋敷の造りは「崩れコの字型」とでも言うのか、基本はコの字型なのだがコの字の先に付属して離れが付いていたり、大広間が突出していたりする。一階だけで部屋数は大小15部屋。二階に二間あるから全部で17間と台所や風呂・便所など延べ床面積は197坪(約600平米)。

 この母屋が建てられたのは大正8年(1918年)だが、ほぼ当時のままの造りは頑丈そのもので、張り巡らされた廊下の板一つとっても分厚く、今なお歩いてもミシリとも しないでいる。Cimg0368 手前が10畳、奥が15畳、ぶち抜きで25畳という大広間。百人くらいまでなら集会は可能だろう。ここもぐるりを廊下がめぐっていて、とにかく明るい。床の間には「鶴と松」の巨大な扇(直径2メートル)が飾られている。Cimg0371 洋間が一つだけあってガランとしていたが、ここは書斎だったという。床と天井はまさに洋室そのものだが、出窓風の大きな窓さえなければ、外目から洋室であるとは誰も気づかないに違いない。Cimg0388 コの字の一方の角にある「台所」はずいぶん広く、種々の道具類はまるで民俗資料館のようだが、驚いたのが屋敷内なのに井戸が掘られていたことだ。これは便利だったろう。かまども四つあり、使用人を含めて相当な人数が暮らしていたことを偲ばせる。Cimg0376 台所のある方のコの字先端(西)に和室が二間続きになっていて、そこには各種資料が置かれている。右手には仏壇と神棚があるからもとは仏間だったのだろう。手前のガラスケースには例の串間王之山出土の玉壁があったが、これはレプリカであった。

 帰りに事務室にいた若い職員に、王之山について最近何か分かったことがあるかどうか尋ねたが、無いらしい。今町の農夫・佐吉がどこを「王之山」と言ったのか、いまだに謎のままだ。Cimg0399 帰りは14時27分の志布志行だが、その前に油津・日南(飫肥)方面の上り列車が到着し、ホームにいた10人余りの人たち、中に5,6人は高校生だったが、その列車に乗り込んでいった。Cimg0403 帰りの列車は「快速」だった。どの駅を通過するのかと思っていたら、大隅夏井駅にだけ停まらなかった。ほんの1,2分早く志布志駅に着いたかな・・・。

 線路の継ぎ目のガタンゴトン、ディーゼルエンジンの変速音、ブレーキの軋み――これらは居眠りを誘うに十分なのだが、たったの20分ではね・・・。






















 




























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コメント

枇榔島のご紹介ありがとうございます。
先日コメントで入れましたが
探訪したいところです。

飫肥の弥五郎祭りや北郷の潮岳神社、それに
鹿児島神宮の勧請社の串間神社、油津の吾平津姫神社
何回かこの電車に乗車して探訪しました。

残念なことに、油津から潮岳神社方面へのバス路線が
廃止になった時の映像を紛失してしまって残念です。
(車窓からビデオを廻してたのです)

串間神社は謎が多いですね。
何か史資料がほしいところです。

古墳も機会があればゆっくり探訪したいものです。

投稿: 今井より | 2016年5月24日 (火) 13時15分

大隅史談会のメンバーを連れて近いうちに串間を再訪しようかと考えています。
 

投稿: kamodoku | 2016年5月25日 (水) 10時31分

それは楽しみです。

>串間今町の農夫・佐吉が自分の畑である王之山(おうのやま)

吉報をお待ちしております。

ps:昔、yahooオークションに古墳の遺物が出品され
物議をかもしたことがありましたが。。

投稿: 今井より | 2016年5月25日 (水) 10時43分

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