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TICAD初めてのアフリカ開催

 日本が1993年に立ち上げた「TICAD(東京アフリカ会議)」が今回6回目にして初めてアフリカのケニヤで開かれた。Cimg2144
 ケニヤの首都ナイロビで開催されたTICAD。Cimg2142
 日本の民間企業が安心して進出して生産等を開始できるように、安倍首相は「投資環境の整備をお願いしたい」と述べた。Cimg2143
 しかしすでに中国が大幅にアフリカには進出しており、投資額は6兆円に上るという。日本がこれから投入しようという資金の2倍にもなっている。
 アフリカでは中国の影響はとても強く、冒頭の画像のコメントにあるように中国による多額の投資を受け入れている国々の反応はいまいちだそうだ。
 仕方あるまい、やはり金の大きさがものを言っている。Cimg2141
 だが、日本の投資はあくまでも共存共栄を目指すもので、中国が多額の投資をしても現地に大量の中国人労働者を派遣してやってしまうという一種の「失業対策事業」とは一線を画す。Cimg2140
 日本の支援の目的はは単なる民間企業の儲けではなく、そのことを通して「アフリカ人のアフリカ人によるアフリカのための発展」が根底にある。
 とにかく「民生の発展」が主眼でなければならないのが日本の途上国支援である。


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アイガモの活躍

 我が家から1キロ半ほど行ったところの池園の田んぼはコメの普通作地帯だが、6月に植え付けられたイネがすくすく育ち、もう間もなく開花・受精が始まろうとしている。Cimg2081_1
 広い池園田んぼの一角では何年か前から「アイガモ農法」を実践している田がある。Cimg2079_1
 コンパネで作られたアイガモの小屋は畳半分ほどの面積。
 その前庭はちょうど畳一枚くらいで、全体が天敵除けのネットでがっちりと囲まれている。Cimg2074_1
 近くに寄って覗いたらすぐに「ガァ、ガァ」と大声をあげて小屋からぞろぞろと逃げ出した。Cimg2075_1
 よく見るとまだ羽が一人前ではない。背中から10センチ程度伸び始めたに過ぎないから、鶏でいえば大雛というところだ。Cimg2077_1
 そのまま脇目もふらずにイネの間の水の中に逃げていくのもいれば、立ち止まってこっちの様子を見守るのもいる。
 アイガモは田んぼの中の餌だけでは足りないから小屋のそばに人間が麦の圧片などの飼料を置いてやる必要があり、人間から餌をもらうことで次第に人馴れしてをしてくるのが常で、見守る時に一斉に首を伸ばしたり傾けたりするのは可愛いものだ。Cimg2080_1
 もう花を開きめしべを出しているのが見える。この状態だと9月末から10月初めころが刈り入れだろう。
 田植えしたころは梅雨の真っ最中で、今年は去年ほどではないが毎日のようによく雨が降ってやや日照不足が心配されたが、梅雨明けの7月18日以降は梅雨の悪天が嘘のようによく晴れて気温も上がり、成長にプラス材料が多かったから作柄はかなり良好と思われる。
 あとは台風が来るか来ないかにかかっている。
 大迷走台風10号はどうやら関東の南に引き返していくようなので心配ないが・・・。


 

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北海道が台風銀座に?

 つい先日台風7号が北海道へ直接上陸するという前代未聞に近い現象があったが、数日前にほぼ同時に発生した9号・10号・11号のうち11号が昨日(21日)の夜遅くまたまた北海道へ上陸した。990ヘクトパスカルと超小型だったため大雨は降ったが7号ほどの被害は出なかったのはよかった。(上陸後すぐに温帯低気圧に変わっている。)Cimg2067
 ところが今日(22日)の昼頃に関東に上陸した9号は、上陸時点で975ヘクトパスカルと小型ながら並みの台風で各地に風雨の被害をもたらしている。(画像はNHKのニュースから。以下同じ)Cimg2068
 9号台風は千葉県の館山市付近に上陸したあと関東の内陸を北上し、福島県から東北地方を縦断しながら明日再び(三たびが正しいが)北海道へ上陸する予想だという。

 もし北海道に上陸した時点でまだ「台風」であったなら、まさに前代未聞の三連発だ。北海道の気象観測始まって以来、一週間のうちに三つの台風が上陸したことになる。かっての台風銀座南九州でもこんな経験はなかっただろう。異常気象の一環と考えていい。
(追記:NHKニュースによると23日朝6時頃に気圧992ヘクトパスカルで台風のまま北海道に再上陸した。)Cimg2073
 異常と言えば、台風9号が千葉県に上陸したころ、鹿児島でも起きている。

 今日、明治に観測を始めて以来の最高気温37.4度を観測したそうだ。鹿児島はじめ南西諸島や沖縄は海に囲まれているため意外に最高気温はさほど上がらないのが普通で、鹿屋でも今日は36度であった。

 これでも十分に暑いが、8月の初旬以来35度内外の気温がずっと続いており、空気が乾燥している(といっても湿度50パーセントはキープ)ため、日陰に入れば何とかしのげる暑さだ。それにしても例年よりか1~2度は高い日々が続いている。

 そろそろ秋蒔きの野菜のシーズンだが、大地は乾燥しきっている。といって天気予報の雨マークは8月に入ってから2日もあったろうか。こういう時の降水は台風頼みなのだが、皮肉なことに北海道ばかり狙われている。Cimg2057
 昼のニュースを見ていたら、ちょうどリオデジャネイロオリンピックの閉会式に臨んだ東京都知事の小池氏の着物姿があった。

 恒例の大会旗引き渡しセレモニーで、次期大会を主催する東京に旗が渡された瞬間だった。

 昨夜は最後の種目である男子マラソンを途中(前半)まで見ていたのだが、終始雨模様だったようで、南半球では今の時期は「冬」なのだが気温は30℃もあるとか。選手たちは相当に走りにくかったのではなかったかと思う。
 だが、4年後の東京でも同じかさらに気温が高い可能性が高い。

 52年前の東京オリンピックは10月に開かれたのでその点問題はなかったが、8月では暑さ対策が急務だろう。

 しかしもともと気候の良い時期に開かれていたはずのオリンピックが8月になったのは、サッカーなどの超人気プロ競技が10月などの秋季には年間リーグ戦の大詰めを迎えるので、それを避けるためにオリンピックが夏の開催に繰り上げられたと聞く。

 「アマチュアスポーツの祭典」だったオリンピックにプロ競技が加わり、逆にそっちの都合に左右されたのでは本末転倒ではないかと思う。

 それに今日この頃を見るにつけ考慮しておかなければならないのが、「台風」の影響だ。高温の中、台風の直撃を受けたら、オリンピックが台無しだろう。

 小池さんも大変だろうが、時期を秋の頃に戻してはくれまいか。

 


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薩摩藩敷根火薬製造所跡

 幕末の一時期、霧島市敷根に薩摩藩が洋式の火薬製造所を設けていたというので、昨日(8月20日)仲間7人で探索に出かけた。
 9時に鹿屋市の北田無料駐車場に集合し、2台の車で敷根に向かう。
 敷根は旧国鉄大隅線の敷根駅があった町で、垂水(正確には垂水駅の次の海潟温泉駅)からの鉄道延伸で昭和47年に新たに敷設された海潟温泉駅~国分駅間(11駅=33.5キロ)の途中にある。
 せっかく敷根までその鉄路沿いの道を行くのだからと、途中にある「大隅麓駅」「大隅辺田駅」「大隅二川駅」「大隅境駅」「大廻駅」「大隅福山駅」のそれぞれの跡を見て回り、敷根の火薬製造所入口に着いたのは10時15分。Cimg2021
 (小さな橋の上から川の上流を望む。火薬製造所は右手の小山のような尾根のさらに奥にある。)亀割峠から敷根に下りすぐに右折をするとその道は旧鉄路の跡で、小さな川(高橋川)に架かる橋をUターンするように渡る。Cimg2003
 きれいに舗装された田んぼ道を約500メートルで「火薬製造所跡」と彫り込まれた花崗岩製の説明板が見える。Cimg2008
 昭和53年にここを調査した国分市教育委員会の手になるもので、一読してあらましが分かる。文久3年というから1863年に薩摩藩(当時の藩主は島津忠義)がここに洋式の火薬製造所を設けたそうだ。Cimg2013
 案内板からさらに50メートルも行くと駐車スペースがあり、そこからわずかに望まれた疎水の出口らしい滝があるところまで行ってみる。
 高さは3メートルほどで水が激しく落ちているが、これは水車の動力用の滝で、ここにかなり大きな水車が仕掛けられていたのだ。
 火薬の原料である「硫黄」と「木炭」それと「硝石」が石臼で挽かれたりつかれたりして粉砕されて混合されると火薬が出来上がる。Cimg2015
 滝の上部に上がってみて疎水の引き込み口は100メートルくらい上流にあるのが分かった。かなりの谷川で灰色の平らな石がゴロゴロしている。建物の基礎部分に最適な石だ。Cimg2020
 滝口の最初の水車を経た水はいくつかの用水路に分岐させられ、木炭小屋、硫黄小屋、硝石小屋に引き込まれてそれぞれの水車を回した。写真右手奥の方にそのような作事小屋が点々と並んでいたらしい。Cimg2025
 午後から「縄文の森」の会議室で行われた説明講演では、そのような作事小屋は明治10(1877)年に官軍によって破壊される直前には全部で22棟もあったという。
 ちなみに敷根と同時の文久3(1863)年に山川の成川(鳴河)にもその水力を利用した火薬製造所が設けられたが、山川のは4年後の慶応3(1867)年には廃止されている。おそらく山川のは人目に付きやすく、したがって幕府や敵の目に留まりやすいからだろう。その点、敷根の火薬製造所は錦江湾の最奥の山峡なので秘密の製造に適していた。
 薩摩藩で最初に洋式の火薬が作られたのは「滝ノ上火薬製造所」(1849年=藩主・島津斉興)で、これも湾奥である。疎水も稲荷川の最上流部から引かれていたからここも人目には付きにくい。
 講演の資料を見ると、火薬製造関係は斉興・忠義(孫)の時代が主で、カノン砲や砲台等の国産銑鉄による製造はその間に藩主となった斉彬の時代が主である。
 先見の明はひとり斉彬の身にあったのではなく、すでに斉興にも萌してはいたが、あらゆる点で幕府の要路と良い関係にあったのは斉彬の人徳だろう。

 さてこの人目に付きにくく秘密裏に火薬の製造ができた敷根火薬製造所だが、明治維新後は藩を離れて陸軍省や海軍省に移管され、その後民間の業者によった。しかし西南戦争の時に官軍(海軍)方の指揮官であった伊東祐麿少将によって反乱軍の手中に落ちることを恐れて破却されてしまった。
 伊東少将は薩摩人であったから、敷根の山中に火薬製造所があるのを熟知していたからできたことで、薩摩藩指折りの火薬製造所が、同じ薩摩出身の指揮官の手によって壊滅させられたのは皮肉な話だ。


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台風7号が北海道に上陸

 関東近海を目指していた台風7号がそのまま沿岸近くを北上してとうとう北海道に上陸した。(画像はnhkのニュースから)Cimg1996
 昨夜のニュースでは980ヘクトパスカルと気圧はさほど低くないので、大雨の警戒を呼び掛けていた。
Cimg2000
 確かに一夜明けた足寄町では、高齢者が唖然と立ち尽くすほどの洪水になった。Cimg2002
 しかし風の強さも半端ではなかった。
 大きな工場の屋根が剥がれたり、飛んで来た物で車のガラスが割れたりしていた。
 瞬間風速が40メートルとは人が立っていられないほどの風で、台風銀座と言われる九州南部でも最近はこれほどの風速は経験がない。
 
 今年は7月の初旬にやっと台風第1号が発生し、その後7月中に3個、8月に入って5号、6号、そして今度の7号だが、8月に入ってからの台風の進路が不思議で、3個とも関東から以北へと向かっているのだ。
 普通、9月下旬を過ぎたら台風の進路は日本南部を避けて早めに北上して行くというのがこれまでのパターンだったが、そんな前例が当てはまらなくなった。

 なにしろ今年の台風上陸の最初の地が北海道になったわけだが、こんなことはこれまで聞いたことがない。
 北海道にも台風は上陸しないことはないが、たいていはまず関東カか東北に上陸しその流れのまま北海道に上陸するか、いったん日本海に出た台風が北海道に再上陸するかのどちらかで、直接北海道に上陸するというのは大変珍しい。

 去年は同じ8月中旬の時点で台風の発生が16個だったから、今年はそのちょうど半分だ。
 一見して少ないようだが、最初に第1号が発生したのが7月初旬だから、その後の発生数6個は例年並みかそれ以上になってきている。

 今後発生する台風がどこに進路に取るのか、上陸はできたらしてほしくないが、ちょいと興味津々である。


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全国戦没者追悼式(2016年)

 戦争終結後71年を迎える今年の「全国戦没者追悼式」。Cimg1979
 今年はもしかしたら皇太子殿下がご名代でと、ちらっと思ったりしたが、やはり天皇陛下と美智子様であった。Cimg1978
 12時ちょうどに一分間の黙とうを捧げられる両陛下。

 昨年、ここで陛下は参列者一同とともに「黙とうを捧げます」というアナウンスの前にご自分の胸ポケットから追悼の辞を認めた物を取り出して読み始めるというハプニングがあった。

 そのことを陛下は先の「お気持ちの表明」の中で暗に高齢による失態のごとく触れておられ、「生前退位」を表明される一つの理由になっていたが、Cimg1981
 今年のお姿からは何の問題もないように見受けられた。

 追悼のお言葉の最後は決まって「世界の平和と、我が国の一層の発展を祈ります」で締めくくられるのだが、国家元首(世界ではそう見られている)が自国の戦没者への追悼の言葉の中で「世界の平和を」というような大きな願いを口にされるというのは、寡聞にして知らない。

 陛下は安保関連法案によって日米同盟及びありもしない日本の「集団的自衛権」を結び付けたことで、アメリカ主導の世界戦略に加担しようとしている現政権の方向性を危惧されているがゆえに、ことさら「世界の平和」をと表明されたのではないか――と考えることもできるだろう。


 話は変わって――Cimg1991テニスの錦織圭選手がオリンピックで日本人として96年ぶりにメダルを手にしたそうである。
 
 96年前と言えば1920年で、ベルギーのアントワープという都市で開催された。1919年に第一次世界大戦の結果ヴェルサイユ条約が結ばれた翌年のことだが、熊谷という選手が銀メダルを手にしている。大正9年のことで、当時の日本人の世界における活躍の一コマである。
 
 さて、ヴェルサイユ条約締結後の国際会議の中で日本から出席した西園寺公望全権大使の次官(全権副使)であった牧野伸顕が「人種差別反対法案」を提議したが、議長であり人種差別主義者のアメリカ大統領ウィルソンは表決では多数を占めたのに議案そのものを葬り去って早々に帰国してしまった。

 その後、アメリカは自ら提案した「国際連盟」には加盟せず、国際連盟の有力な加盟国になった日本(新渡戸稲造が事務総長を務めたこともある)を敵視し始めたのが太平洋戦争の遠因となっている。

 幕末に結ばされた不平等条約も1911年にはケリがつき、東洋唯一の民族自立の独立国家である日本は独自の道を歩み始めたのだが、間もなく国際共産主義運動(コミンテルン)の潮流にも対抗せざるを得なくなり、国内問題にも飛び火して複雑な国家運営を強いられる羽目になった。

 欧米植民地支配とは違った人種差別のない「大東亜共栄圏」構想はよかったが、いかんせん欧米による長い植民地体制は根が深く、容易には日本の思い描く共栄圏にたどり着くことができなかった。英米による「集団的自衛権」が蒋介石を支援し、またソビエト(スターリン)との密約も画策して、日本は矢折れ、弾尽きて敗れ、310万柱という尊い犠牲の果てに終戦を迎えた。

 あくまでも「終戦」であり、「敗戦」ではない。「敗戦」では「もう一度戦って、今度こそは勝とう!」となってしまう。もう「戦いは終える」、つまり二度としない――ということである。

 陛下が「世界の平和を」というとき、それは「戦争という手段によらない平和」であることは論を俟たない。

 


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尖閣諸島への中国船侵入

 8月3日から続いていた中国公船と200隻にも上る漁船の尖閣諸島周辺の「接続海域」への侵入事案で、今朝早く、その中の一隻の漁船とギリシャ船籍の貨物船が衝突した。Cimg1950
 14人乗りの漁船が沈没し、6名は海上保安庁の船が救助したが8名は行方不明になっている。Cimg1955
 最初このニュースを耳にしたとき、なぜ中国の海保に相当する官船が救助に当たらなかったのか――ということだった。漁船とともに近くには中国官船もいたはずだ。Cimg1957
 バカバカしいにもほどがある。
 つい一昨日は見かねた岸田外相が外務省に程永華駐日大使を呼びつけて厳重に抗議をしたのだが、程大使は「尖閣諸島は中国固有の領土だから文句言うな」と大見栄を切っていたのだ。
 それだったら今度の事故で中国側がすぐに救助したらよかろうに。辻褄が合わない。
 また、そもそも中国固有の領土であったのなら、なぜ明治時代に日本人が領有化して最初は個人に貸し付け、その後戦後も長い間、民間に譲渡したままだったのを6年前の民主党政権時代に個人から買い取って国有化する前に島を乗っ取らなかったのだろうか?
 これも辻褄が合わない。
Cimg1963
 今日の午後までこの中国海保官船が接続海域をうろうろしていたが、事故の発生を受けていながら自国の漁民を救助しないまま立ち去ったそうだ。
 呆れてものが言えない。Cimg1960
 事故の発生と救助の顛末を中国側に伝えると、「謝意」を表したという。
 どうも釈然としない。あまり考えたくはないが、もしかしたら中国漁船は貨物船を日本の船と見てわざと衝突させたのかもしれない。朝の5時半ごろというからまだ薄暗く、船に掲げられていたギリシャ国旗を見落としたのではないか?
 中国ならやりそうなことだ。中国漁船に衝突したのが日本の貨物船だったらすぐに中国海保船が停止して臨検し、船長以下を拉致するか法外な賠償金を吹っ掛けたかもしれない。
 そうやって日本を揺さぶるつもりだった可能性もあった。

 そこまでは考えたくないが、程永華駐日大使が「尖閣諸島は中国固有の領土」と妄言を平気で言い張るのを見ていると、つくづく情けなくなる。
 ああ、中国共産党政府はそこまで人道地に落ちたか。嘘八百を公式の席上で並べ立てる政府要人を見ていると、譴責よりも哀れさが先に立つ。
 孫文が(少なくとも蒋介石が)生きていたらこんなバカな嘘八百先生を要路に置くはずがなかったろうに。中国は共産党による桎梏を早く打破しなければならないと切に思う。


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長崎平和祈念式典(平成28年度)

 71年目を迎えた長崎原爆忌。Cimg1942
 長崎市長の後に演壇に立った被爆者代表80歳の男性。Cimg1930
 爆心地から6キロほどの自宅で被爆したそうだ。その日の11時2分、この人は自宅の木に登って枝を伐ろうとしていたが、突然目のくらむような火の玉がさく裂し、巨大な音とともに爆風を受けて転落した。Cimg1944
 すぐに自分は自宅の中で安静にさせられたが、母と父は爆心地近くまで様子を見に行き、その後、歯茎などから血が出て止まらなくなり死亡した。典型的な原爆症(放射線障害)だったという。Cimg1941
 オバマの初の現職大統領としての広島訪問に何度も触れ、核廃絶への強い願いを訴えていた。(ただし、この人の話の中で言及はなかったが、オバマが広島には来てなぜ長崎に来なかったのかについては、2009年8月15日付の当ブログ「浦上天主堂撤去の密約」を参照。キリスト教信者が極めて多い長崎を標的としたことは同じキリスト教国としてあってはならぬことで、できれば無かったことにしたいのが米国側の本音なのだ。ブログ中の「2個目のリトルボーイ」とあるのは誤りで、2個目は「ファットマン」というプルトニウム型の原爆――に訂正する。)
Cimg1943
 長崎純心女子高校生徒による「折り鶴」という曲の合唱の後、安倍首相が演説をしたが、ジュネーブで核廃絶のための法的整備を話し合う会議について「核保有国と非保有国がともに手を携えて・・・」という当たり障りのないことを言ったが、そもそもそのジュネーブ会議に核保有国は一か国も参加していない。
 ならば唯一の被爆国日本が中心になってそれを推し進めたいが、なにしろ日本政府はアメリカの「核の傘」が戦争抑止力に役立っていると認めているから、日米同盟の手前それはできない。
 つまり核廃絶を唱えることは同時に米国の「核の傘による戦争抑止力」を否定することにつながるので、大っぴらには言い出せないでいる。
 それどころか安倍首相は今度の内閣改造で新防衛大臣に稲田氏を起用したが、彼女は日本の核保有を実現すべきだとする考えを持っているのだから、一層無理な話だ。
 この人事を長崎市長も被爆者代表者も当然知っていたはずだが、改造人事があまりにも急だったせいかその点については演説稿に間に合わなかったためだろう、言及はなされなかった。しかし二人ともハラワタは相当煮えくり返っていたに違いない。Cimg1936
 長崎の原爆禍を地上最後のものにしたい――という被爆者の切なる思いはぜひ実現しなければなるまい。爆死した無辜の人々の無念と涙が、次なる無念と涙を軽減しあるいは消去できれば世界の平和は一歩も二歩も近づく。無念の涙が喜びの涙に変わる時はいつだろうか。

 


 

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今上陛下の「お気持ち表明」

 天皇陛下がテレビを通じて直接国民にお考えを表明されるのは2011年の東日本大震災以来で、今回は心情を吐露された点ではかなり立ち入った内容のあるお話であった。Cimg1835
 (画像はNHKテレビから。以下同じ)Cimg1842
 東日本大震災ではすぐ翌月に被災地を回られ、同じ年に疲労による入院をされ、明けてからは心臓バイパス手術を受けられ・・・というようにこの5年の間は多くの被災地慰問、戦地巡礼をされ、合間に手術や皇室祭祀・対外的なご公務と、「高齢に鞭打って」のお姿は痛々しいほどであった。
Cimg1863
 すでにご本人が高齢のために公務を完全には遂行できないと、周囲に漏らしていたようである。Cimg1879_2
 国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に違わぬよう「全身全霊」で公務に当たられたが、万が一公務中に倒れるような事態になっては、Cimg1907
 「これまでも見られた」というのは昭和天皇が人事不肖になって国民の間に見えない「規制」が働き、数々の行事等が中止になったことで、Cimg1908
 確かに様々な面で停滞が見られた。
 平成天皇はまた、天皇崩御後の長い服喪期間と一連の葬儀関連の儀式が1年にもわたることに対しても「停滞と心労」を心配された。
 また、いざ重篤な事態になれば皇太子を「摂政」にして天皇の代行とさせるとの皇室典範上の条文があるにしても、結局は崩御のその日まで天皇位に留まることに何ら変わりはないので、やはり昭和天皇の時のように社会的に種々の停滞や規制がかかってしまう――という趣旨のご発言もあった。
 
 以上のような理由から、国民統合の象徴である国事行為と、皇室祭祀の遂行に支障をきたすようでは天皇の役目は中途半端なものになり、それどころか年々衰えていく体力に合わせてそういった国事・皇室祭祀が縮小されて行っては元も子もない。したがってそうならないうちに退位して次代に譲位することが必要である――これが今上陛下のお考えだ。

 天皇制原理主義(明治憲法的な絶対君主制)者は、「そんなことを認めていたら天皇の地位が恣意的になり、なし崩しになってしまう」と言うであろうが、そもそも彼らにとって天皇陛下がビデオとはいえ直接国民に訴える(語り掛ける)という事態そのものが由々しきことであろうが、時代はもうそこまで来ている。

 今上陛下は「国民とともに」を最も大切なフレーズにしておられる。だから災害に遭い被害を受けた人々を見舞われ、それこそひざを突き合わせて励まして来られた。戦地慰霊の巡礼もそのお気持ちからだろう。
 
 思えば、今上陛下が皇位を継承した時のお歳は55歳。明治天皇は16歳、大正天皇は33歳、そしてお父上の昭和天皇は24歳。どの天皇も若くして皇位を継いでおり、若いがゆえにまさに時代とともに歩んだが、平成天皇は55歳という一般人ならあと5年で定年退職、あとは年金で悠々とした老後が待っている、という年齢で皇位に就かれ、就かれた早々から各地で地震や火山災害が頻発して古い言葉だが「寧処(ねいしょ)にいとまあらず」(のんびりしている暇はない)であった。

 一国民として、もう皇位を皇太子殿下に譲られて退位されることを願うものである。お疲れ様でした。これからは一般国民の高齢者と同様、皇室ご一家の中でよきおじいさま、おばあさまとして過ごされること希う。そのお姿がまさに一般国民の高齢者の象徴とならんことを。


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息を呑む朝焼け

 今朝5時半に愛犬ウメを散歩に連れ出したところ、倉庫が無くなって東がよく見渡せる庭の一角に来て息を呑んだ。
 何とも美しい朝焼けが水平線から立ち昇っていた。Cimg1819
 立ち昇っていた――という表現しかないが、二筋のオレンジ色の短冊状の光の集合体が水平線からニョキっと上空に向かっているのだ。Cimg1817
 東の空全体が茜色に染まるのはこれまでに何度も見てきたが、こんな形の朝焼け(御来光?)は初めてである。Cimg1816
 すぐそこで強烈な光源から光が放射され、手前に何か(例えば背の高いビルのようなもの)があれば影ができて光が分断され、このような二本の短冊状の光の束になる可能性はあるだろうが、無限に近い遠方からの太陽光だからそれは有り得ないはずだ。Cimg1824
 ウメの散歩を終えて帰ってくると、太陽が出ていた。やや黄色っぽい朝焼けだが、光の分断はない。
 いや、何とも不可解な朝焼けだったな。


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南九州最古の水田跡

 縄文時代にさかのぼる水田の跡が見つかったという都城市横市町にある「坂本A遺跡」を訪ねてみた。Cimg1763_2
 かっての北郷氏(都城島津氏)の居城「都之城」址に築かれた都城歴史資料館(上の写真)に立ち寄って坂本A遺跡について教えてもらい、その場所を確認した。坂元A遺跡からは縄文晩期(弥生早期)の水田跡と初期稲作の証拠品である「擦り切り孔のある石包丁」が出土したそうだ。Cimg1767
 説明を受けたあと歴史資料館駐車場から北に200メートルほど行ったところの「岳下橋西」信号を左折、そこからは県道31号線を道成りに5キロ行くと右手に「児湯食鳥」の工場があり、そこの信号を左折してもう一度左折した先に「坂本A遺跡はある。Cimg1768
 平成8年度からの圃場整備事業の際にこのあたりの横市川流域で20余りの遺跡が確認され、特にこの田んぼの下からは縄文水田が2500年余りの長い眠りから覚めた(真正面に見える小高い丘は「母智丘(もちがおか)」)。Cimg1774
 縄文水田の近くを流れるのは横市川で、この川の流域の沖積層に田んぼが広がっている。Cimg1772
 母智丘橋から眺めた「坂元A遺跡」のある田んぼ地帯。真ん中の母智丘橋のすぐ上辺り。右手には野球用の夜間照明灯の建つ市民広場がある。
 歴史資料館で受けた説明では、この田んぼの用水は横市川からの導水ではなく周囲にある小高いシラス台地から湧き出る水だったろうということであった。そのシラス台地からは時おりがけ崩れによって田んぼにシラスが流れ込んだらしいことも発掘の結果わかっている。
 いまのところ南九州で最も古い水田だが、もうそのころから大雨等による災害との闘いだったことを明らかにしたことになる。南九州特有のシラスはやはり大昔から手ごわい相手であったのだ。Cimg1798
 橋から北へ2キロほど行くと桜並木で有名な母智丘公園で、その一角には「母智丘神社(祭神・トヨウケヒメ)」がある。江戸時代末期に都城の地頭であった薩摩藩士・三島通傭が神社の衰微を放っておけずに整備・寄進(桜並木もその一環という)して今日の隆盛に導いたという(三島は明治維新後に福島県令を務めたことがあったが、その時に有名な「安積疎水」を完工させたことでも有名である)。
 幅の広い階段を200段も上がっていくと神社。裏手一帯は巨石群で巨岩を稲荷神社として祭ったりしているが、その奥に展望所がある。Cimg1788
 母智丘展望所から見下ろした「坂元A遺跡」の辺り。真ん中に母智丘橋。横市川が右から左へ流れている。Cimg1787
 展望所にある説明版。都城盆地はかっては湖だったという。さもありなん、国道10号線を宮崎方面に向かっていくと高城町あたりから大淀川は次第に隘路に入り、轟ダムでは峡谷(ボトルネック)となっているのである。

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初の女性都知事誕生

 7月31日の東京都知事選挙で女性の小池百合子氏が当選した。東京都政で初めて女性のトップが誕生したことになる。
 31日午後8時から開票が始まるというので、8時過ぎにインターネットで検索したら、8時10分過ぎくらいには「小池氏当確」とアップされ、さらに十分くらいしてテレビを見るとこちらも当確のテロップが流れていた。
 2週間前の鹿児島県知事選挙でも使われた投票所での聞き込み調査によるコンピューター解析という手法なのだろう、あっけらかんである。余りにも当確の情報が早過ぎる。Cimg1801_4
 画像は8月1日午前5時のNHKニュースから。Cimg1802
 小池氏は290万票、対する自民・公明推薦の増田氏は170万票。その差は約120万票。増田陣営の完敗だ。自民党東京都連会長の石原伸晃氏は立つ瀬がないだろう。しがらみを嫌う「東京都民党」にしてやられたのだ。
 特に驚きだったのが、自民党支持者の投票行動で、何と過半数の52パーセント近くが小池百合子氏に投票している。
 今回の全体の投票率は東京にしては高い50パーセント越えも小池陣営に味方したようだ。
 4年後のオリンピックについては利権・しがらみのきな臭い噂もあり、ここを徹底的に透明化しせっかくのオリンピックを成功裏に導いて欲しい。
 また、直下型地震等の災害予防についても準備が必要だ。
 例の保育所不足問題ではそれなりの腹案はあるようだが、そもそも圧倒的に事業所の多い東京一極集中の弊害がそこに現われているのだから、抜本的には「首都分散」しかないはずで、大阪や名古屋などに首都機能の分散を図るべきだろう。
 しかし都知事でそんなことを言ったら袋叩きにあいそうだが、「自らの身を犠牲にして」それこそまさに「崖から飛び降りるつもりで」実現し欲しいものだ。それだったら東京から日本を変えることができるだろう。
 唯一の「交付税不適用自治体」である豊かな東京は日本の首都であるがゆえに官庁街が形成され、誘致もしないのに続々と会社の本店が集まり、また地方からの優秀な人材が自動的に集まってくる。
 ということは逆に言えば、地方からは優秀な人材がいなくなるという事で、こんな状況が明治以来もう150年も続いているのである。
 そろそろ首都機能分散に本腰を入れるべきだろう。これを政府が東京に依頼するとなると、東京は「カチンと来る」だろうから、むしろ東京の方から言い出すべきではないだろうか。
 しがらみのない小池新知事なら奇想天外な提案も可能じゃないかと期待したい。
 また同時に「皇居の京都移転」(還都)も視野に入れて欲しいものである。


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