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薩摩藩敷根火薬製造所跡

 幕末の一時期、霧島市敷根に薩摩藩が洋式の火薬製造所を設けていたというので、昨日(8月20日)仲間7人で探索に出かけた。
 9時に鹿屋市の北田無料駐車場に集合し、2台の車で敷根に向かう。
 敷根は旧国鉄大隅線の敷根駅があった町で、垂水(正確には垂水駅の次の海潟温泉駅)からの鉄道延伸で昭和47年に新たに敷設された海潟温泉駅~国分駅間(11駅=33.5キロ)の途中にある。
 せっかく敷根までその鉄路沿いの道を行くのだからと、途中にある「大隅麓駅」「大隅辺田駅」「大隅二川駅」「大隅境駅」「大廻駅」「大隅福山駅」のそれぞれの跡を見て回り、敷根の火薬製造所入口に着いたのは10時15分。Cimg2021
 (小さな橋の上から川の上流を望む。火薬製造所は右手の小山のような尾根のさらに奥にある。)亀割峠から敷根に下りすぐに右折をするとその道は旧鉄路の跡で、小さな川(高橋川)に架かる橋をUターンするように渡る。Cimg2003
 きれいに舗装された田んぼ道を約500メートルで「火薬製造所跡」と彫り込まれた花崗岩製の説明板が見える。Cimg2008
 昭和53年にここを調査した国分市教育委員会の手になるもので、一読してあらましが分かる。文久3年というから1863年に薩摩藩(当時の藩主は島津忠義)がここに洋式の火薬製造所を設けたそうだ。Cimg2013
 案内板からさらに50メートルも行くと駐車スペースがあり、そこからわずかに望まれた疎水の出口らしい滝があるところまで行ってみる。
 高さは3メートルほどで水が激しく落ちているが、これは水車の動力用の滝で、ここにかなり大きな水車が仕掛けられていたのだ。
 火薬の原料である「硫黄」と「木炭」それと「硝石」が石臼で挽かれたりつかれたりして粉砕されて混合されると火薬が出来上がる。Cimg2015
 滝の上部に上がってみて疎水の引き込み口は100メートルくらい上流にあるのが分かった。かなりの谷川で灰色の平らな石がゴロゴロしている。建物の基礎部分に最適な石だ。Cimg2020
 滝口の最初の水車を経た水はいくつかの用水路に分岐させられ、木炭小屋、硫黄小屋、硝石小屋に引き込まれてそれぞれの水車を回した。写真右手奥の方にそのような作事小屋が点々と並んでいたらしい。Cimg2025
 午後から「縄文の森」の会議室で行われた説明講演では、そのような作事小屋は明治10(1877)年に官軍によって破壊される直前には全部で22棟もあったという。
 ちなみに敷根と同時の文久3(1863)年に山川の成川(鳴河)にもその水力を利用した火薬製造所が設けられたが、山川のは4年後の慶応3(1867)年には廃止されている。おそらく山川のは人目に付きやすく、したがって幕府や敵の目に留まりやすいからだろう。その点、敷根の火薬製造所は錦江湾の最奥の山峡なので秘密の製造に適していた。
 薩摩藩で最初に洋式の火薬が作られたのは「滝ノ上火薬製造所」(1849年=藩主・島津斉興)で、これも湾奥である。疎水も稲荷川の最上流部から引かれていたからここも人目には付きにくい。
 講演の資料を見ると、火薬製造関係は斉興・忠義(孫)の時代が主で、カノン砲や砲台等の国産銑鉄による製造はその間に藩主となった斉彬の時代が主である。
 先見の明はひとり斉彬の身にあったのではなく、すでに斉興にも萌してはいたが、あらゆる点で幕府の要路と良い関係にあったのは斉彬の人徳だろう。

 さてこの人目に付きにくく秘密裏に火薬の製造ができた敷根火薬製造所だが、明治維新後は藩を離れて陸軍省や海軍省に移管され、その後民間の業者によった。しかし西南戦争の時に官軍(海軍)方の指揮官であった伊東祐麿少将によって反乱軍の手中に落ちることを恐れて破却されてしまった。
 伊東少将は薩摩人であったから、敷根の山中に火薬製造所があるのを熟知していたからできたことで、薩摩藩指折りの火薬製造所が、同じ薩摩出身の指揮官の手によって壊滅させられたのは皮肉な話だ。


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