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豪栄道の全勝優勝

 場所前はだれも予想していなかった豪栄道の優勝。

 カド番で、まあ勝ち越して大関からは落ちることのないように――くらいの「ひょっとして二ケタ行けばいいんじゃないの」との前評判だった大関豪栄道が、なんと15日間勝ちっぱなしという快挙を成し遂げた。

 この全勝優勝を予想した者はいかなる相撲通でもおそらく誰もいなかっただろう。
 
 千秋楽だったかその前日だったか、NHK実況でゲスト出演していた舞の海もびっくりしていた。そのくらい想定外のことが起きたのだ。
 
 
 横綱白鵬の休場も豪栄道に味方したには違いないが、それにしても全勝優勝というのは元横綱貴乃花が20数年前に成し遂げて以来、日本人力士としては久々の快挙だという。うれしい限りだ。

 豪栄道は自分以外の三役力士(関脇・大関・横綱)のすべてを破ったのだが、これに近いのが豪栄道以外の三役力士のすべてに土をつけた隠岐ノ海だ。素晴らしい快進撃で土俵を沸かせたが、下位の力士に6連敗しようやく千秋楽前日に勝ち越し、千秋楽でも勝って殊勲賞を受けた。

 大相撲もようやくモンゴル相撲から本来の伝統ある相撲に戻りつつあるのか、まだ予断は許さないが、高安・御嶽海・遠藤などの日本人力士の健闘を期待したい。


 想定外といえば、アメリカ大統領選も想定外の共和党のトランプ候補が大健闘だ。

 トランプ候補が1年前に立候補を表明した時点では、大方の見るところ「泡沫・自己満足候補」でしかなかったのだが、共和党支持者である白人保守層からは嫌われているにもかかわらず、「本当のアメリカにしよう」と、金権よりも心情的なナショナリズムに訴えかけることで支持を伸ばし、とうとう共和党の最終候補に上り詰めた。

 今や11月の本選を前に、民主党のクリントン候補とほぼ互角の支持率を維持するまでになった。

 これから本選までには何回かの公開討論があり、そこでこれまでの主張をそのまま維持するのか、もしくは変えていくのか、想像に余るが、トランプ候補の最初からの一貫した主張である「アメリカとの軍事同盟国はすべて経費を負担せよ」との主張は変えるまい。

 もし本当にトランプが大統領になったら日米安保でアメリカの軍事力(抑止力)におんぶし、「おんぶしているほうが安くつく」と言っていた日米安保堅持論者はいったいどうするのか?

 今頃、どうしようかと右往左往しているのではないだろうか、そして結論――「アメリカ様、どうか無理難題を吹っ掛けないで下さいよ。お金はいくらでも出しますよ。いつまでも日本に駐留してくださいね。中国が怖いですからね」――と大枚をはたくのだろうか。武器や戦闘機を言い値で買っている上でさらに!!

 そしてまたトランプは、「日本も核武装すべきだ」と言っているが、これに対しても「はい、そうします!」とすでに核武装論者の稲田氏を防衛大臣に任命してスタンバイしているのだろうか?悪い冗談でなければいいが!!

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台風16号の上陸

 台湾と西表島の間を通過してそのまま中国大陸へ上陸かと思われた台風16号は、速度を遅くしつつ急激に東へと舵を切り、東北東に丸二日かけて東シナ海を横断し、ついに19日の真夜中に鹿児島県の大隅半島南部に上陸した。

 ちょうど上陸したかと思われる時刻の午後11時半ころ、ブログを書いている最中に突然停電し、今日(21日)の午前11時にようやく通電した。その間ちょうど一日半(約36時間)、数年前に太陽光パネルを設置しオール電化になったことで困ったことが多々あった。

 一番困ったのが通電しないと水が流れないトイレだ。
 水道だけは出ていたので風呂にいっぱい溜めておき、使用する都度バケツに汲んで来て流したが、たった一日半だったのに結構厄介なことだった。

 炊事はガスボンベ仕様の卓上コンロ、風呂は一度は貯湯タンクにあった分で済ませたが、二日目は銭湯へ行った。鹿屋市全体でまだ数万戸が停電中というわけで、銭湯の込みようは半端ではなかった。「千客万来」とはまさにこのことかと思ったくらいだ。入る方からすれば「芋を洗う込みよう」だったが・・・。

 夜中に風速40メートルは吹いたようだが、被害は瓦が2枚落ちたのと庭木が根っこから傾いてしまったのが数本、それに10日ほど前にタネを播いて本葉が出かかった大根などが風雨で完全に横倒しになったくらいで軽微なものだった。

 自分は気づかなかったが12時半ころから1時間くらい風雨が止まったそうで、その時に台風の目に入ったと思われる。ということは台風の直撃にあったことになるが、台風の直撃は実に久しぶりである。

 記憶をたどると23年前、平成5(1993)年の9月初めにやって来た台風13号が当地での直撃台風で、この台風のすさまじさは今でも語り草になっている。
 
 何しろ上陸寸前の気圧が910ミリバール以下(当時はヘクトパスカルではなかった)で、その頃肝属郡田代町大原に住んでいたのだが、上陸して数時間後の午前中に最大の風雨に見舞われた。
 十分な戸締りをして家で息をひそめていたが、猛烈な風と共に玄関わきの雨戸が吹き飛び、慌てて家族4人で裏口から出て隣家にたどり着いてほっとしたのも束の間、今度はその隣家の玄関の横のガラス戸が割れて強風が吹き込み出した。
 こりゃいかん、と、外に出て避難所になっている小学校までまさしく這う這うの体で行き着いたのだが、その頃すでに多くの人が避難していた体育館の屋根がめくれ上がったそうで、皆急いで一階の長い廊下に移って来るところだった。

 午後も3時ころになると急激に風雨が衰えたので、廊下にひしめいていた人々は三々五々家路につき、我が家と数件の家族はそのまま小学校の廊下で一夜を明かしたのだった。家族一同ずぶぬれに近かったがまだ真夏の陽気であったため幸いにも風邪をひかずに済んだ。

 翌日帰ってびっくりしたのが納屋が全壊していたことである。また借家の屋根の瓦もだいぶ飛ばされていたので、手持ちのブルーシートに寅ロープを括り付けて屋根を覆って雨をしのいだ。瓦不足のためにどの家も2~3か月はブルーシートを乗せたままだった。ひそかに「難民キャンプ村」と名付けたものである。

 電気は一週間、電話は二週間は通じなかった。

 思えばあの23年前の台風こそ「スーパー台風」の走りだったろう。最大風速は役場の屋上に取り付けた風速計では最大で70mを超えていた(そこまでは測れたが、あとは針が吹っ切れていたそうだ)。

 地球温暖化はもうその頃から深刻化していたのだろう。時間雨量が100ミリを超えたのもやはりその頃からだった。省エネは待ったなしだ。

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まだ続く沖縄への押し付け

沖縄本島北部の在日米軍訓練場にヘリポートを建設するために、自衛隊の大型ヘリが資材運搬に動員された。異例のことらしい。

 北部訓練場の一部が県に返還された見返りにヘリポートを新設する工事だそうだが、返還ならいっそ全面返還が望ましいのに米軍はあの手この手で沖縄の広大な基地を手放そうとしない。沖縄県民もがっかりだろう。

 相前後して福岡高裁の沖縄支部では翁長知事の辺野古基地建設ストップに対する国の訴えを認める判決を出した。ほぼ国の主張に沿ったもので、翁長知事は「三権分立に反する判決だ」と憤りをあらわにした。

 判決内容で一番気になるのが、「外交・軍事は地方自治体の裁量圏内にあらず」という判決要旨で、これは――日米の間では日米地位協定および日米行政協定が結ばれており、日本政府にも最終的には自由裁量はなく、アメリカ様の言いなりになるしかない――ということの追認である。

 この地位協定・行政協定は日米安保に付随して結ばれたものであるから、アメリカの態のいい占領続行政策に軸足を置いた日米安保を解消するしか根本的な解決策はない。

 日米安保を解消したら中国(ロシア・北朝鮮)が攻撃してくる――というのが安保堅持論者の即座の反論だろうが、いったい中国が何を理由に日本に攻撃を仕掛けてくるというのだろうか。

 尖閣諸島を占領してくる――というのが今のところ一番可能性としては有り得るケースだが、彼らがそうしたらすぐさま国際世論に訴え、国連に訴えれば中国がいくら強弁しても非難をごうごうと浴びるだけで、いよいよ中国は国際的な孤立度を高め、下手をすれば共産党政府にとって命取りともなりかねない。

 つまりその時は日米安保が無くても日本の訴えに対して、米国はじめ多くの西側諸国および東南アジア諸国は中国非難の国連決議に持ち込み、経済制裁まではいくことはないと思うが何らかの制裁措置がとられるに違いない。国際世論(メディア)も連日大きく取り上げるだろう。

 そうなった場合、中国はさらなる侵略(例えば先島諸島への侵攻)をするだろうか。日本国民(住民)のいる島まで上陸しようとするなら、憲法9条が否定していない「個別的自衛権」に基いて自衛隊が出動して武力対応するしかない。

 米軍はたとえ今の日米安保が締結された状態でも、アジア太平洋政策における「リバランス」とやらで洞ヶ峠を決め込むに違いない。何しろ中国を敵に回したら最後、中国の有する天文学的なアメリカ国債は売りに売られて紙くずのようになり、アメリカ経済はいっぺんに信用を失い経済大国の地位から引きずり降ろされるのだから。(このことがあるから「リバランス」しているから手を出せないよ、と前もって言ってきたのだろう。)

 自国民が自国内において軍事的な危機にさらされたらただじゃすまない――とあくまでも「専守防衛」を堅持しつつ、中国軍が上陸もしくは先島諸島の領海に侵入して来たら徹底的に攻撃すればよい。国際的には何のお咎めもない軍事力行使である。

 このとき国際世論が「日本は憲法9条で戦力不保持を言っているのに、武力行使とはけしからん」ということは100パーセント有り得ない。そんなことを言う者がいたとしたら(むしろ国内に多くいるだろうが)、そういう輩は中国共産党寄りの代弁者か、ひょっとしたら金(利権)を握らされた奴だろう。

 第一まず、世界のそういう輩は自衛隊という武力機関のある事さえ非難してくるはずだが、そう言った杓子定規的な9条解釈を楯にして突っ込んでくる諸外国人を僕は寡聞にして知らない。

 国際世論のほとんどは日本の反撃を支持するはずだ。むしろ「よくやったぞ日本!」と歓迎されるだろう。国際的にはそれが今の日本の置かれた評判である。

 そこに米軍の後ろ盾があるのとないのとでは全然違う――などと日米安保堅持論者はあくまでも言うに違いないが、そんな他国頼みの腰の引けた人間はもう世界の誰からも相手にされないだろう。当のアメリカでさえ「もう日本を守れない(守らない)」(――ここは若干微妙だが)と漏らしているし、今度アメリカ大統領に当選するかもしれない公算の大きくなったトランプ候補によれば、駐留米軍の経費をもっと負担しなければ撤退する――と息巻いている。

 さあ、どうぞ出てってください、長い間お世話になりました。---そう,僕は大歓迎なのだが、安保堅持論者はこれに対してどう出るのか。「ハイ、ハイ、ごもっともです。思いやり予算を思いっきり増額しますよ。・・・それに尖閣で何かあったら一緒に戦ってくださいよ。お金はいくらでも出しますから」――こんな風に云うのだろうか?

 さあ、日本を守るために米軍が血を流したら、あの湾岸戦争に出兵しなかっただけで130億ドルを拠出せざるを得なかったが、「日本本土を守るために我々米国は血を流しましたよ」ならはるかに桁の違う1兆ドルか?

 まあ、金のこともだが、米軍のプレゼンスはいよいよ強まり、米中・米ロ戦争はもとより地球の裏側で米軍が「正義の戦争」を起こしたときには当然自衛隊も戦場に送られ、金どころの話ではなくなるだろう。日本が無くなるだろう。ハイ、それまでよ。

 こういうことにならぬよう、日本は専守防衛に徹した個別的自衛権だけは保持し、日米安保も集団的自衛権も保持せず、日本らしい国際貢献に邁進すべく、「武装永世中立」を宣言すべきだ。一番いいのは天皇の詔勅の形で国内・世界に向けて宣言することだと考える。


(追記)
 日米安保堅持論者は責任をもって沖縄の米軍基地を全国津々浦々に移設してハリネズミのようにし、日本を守ってもらうように米国にお願いすべきであろう。そうしないと「米軍の抑止力」が目に見えないので不安でしょうがないだろうし、それが沖縄に偏っているために手薄にならざるを得ない状況の解消になるはずである。これが最も完全な米軍による戦争抑止態勢ではないか。

 

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円形周溝墓の初源地

 前方後円墳の始原は帆立貝型古墳に求められ、その帆立貝型古墳の前駆的形態は弥生時代の「円形周溝墓」ではないか――との見方を補強する遺跡が、奈良県橿原市で見つかったようだ。

 ハンドルネーム 「Don Pancho」氏のホームページ(http://bell.jo/pancho/)内の「橿原日記」というカテゴリーに「2016.05.15 遂に奈良県でも見つかった弥生末期の円形周溝墓」という一文がある。今回はそれを参照させてもらった。

 それによると奈良県橿原市のポリテクセンター奈良という建物の改築工事中に一基の「突出部を持つ円形周溝墓」が出現した。7世紀後半の藤原京時代に建てられたらしい大型の建物跡の遺構がまず見つかり、その下層で今回の発見があった。Cimg2367
 今回見つかった円形周溝墓の直径は19m、周囲を幅6m、深さ50㌢の溝がめぐらされていた。築造された時期は墳丘部で見つかった土器から見て2世紀後半であると専門家は推定しているそうだ。

 その結果この円形周溝墓は3世紀になるとすでに瀬戸内海東部地域から河内地方に見られるようになる円形周溝墓群の一環として考えられ、大和地方でさらに一歩進んで初源期の古墳群と言われる「纏向型前方後円墳」の築造につながったとし、これまで大和地方でどうしても発見できなかった円形周溝墓に喜びを隠せないでいるという雰囲気が伝わってくる一文である。

 この発見によって箸墓古墳のような定型的な前方後円墳の前駆的形態としては纏向型(帆立貝型)前方後円墳が存在し、その纏向型前方後円墳の前駆的形態は「突出部を持つ円形周溝墓」である――との発展過程が描けることになる。

 突出部は「陸橋」とも呼ばれることがあり、これは墳丘部に至る通路であろう。墳丘部を盛り上げるために周辺の土をすくったあとには当然「周溝」という名の溝(みぞ)ができ、その溝の一か所は土をすくいあげないでおけばおのずから陸橋になる。


 さてではその前方後円墳の大本となった円形周溝墓が生まれたのはどこであったか――に興味が移る。

 上記のホームページでも触れられているように、大和地方では今回発見された弥生時代後期の円形周溝墓が初めての発見であることからして、初源は大和地方でないことは明らかである。

 周溝墓には円形の他に「方形周溝墓」があり、こっちは弥生時代の前期から西日本でかなり普遍的にみられるのだが、円形周溝墓は極めて少ないという。

 少ないながらも瀬戸内海の東側(香川・徳島・兵庫)では、前期の終わりから後期にかけて小型の円形周溝墓が築造されていたようだが、方形周溝墓20~30基に対して2~3基の割合でしか見つかっていないという。

 そこで思い浮かんだのが志布志市松山町秦野にある「京ノ塚遺跡」だ。

 ここでは何と丘の上に20基もの円形周溝墓が2基の方形周溝墓とともに発見された。
 時代は弥生中期で約2000年以上前の遺跡である。

 志布志市松山町がまだ単独の町であった時に建設しようとしていた「やっちくふれあいセンター」の基盤工事中に京ノ塚という丘の上でとてつもない遺構群が日の目を見た。

 丘の標高は170メートルで周囲がそれより20メートル程度低いだけなのでさほど突出した丘ではないが、登ってみると見晴らしの良いのには驚かされる。
 上り道を隔ててすぐ隣にやっちくふれあいセンターの大きな建物があるので東側の展望はないが、あとの方角はよく見渡せる丘である。おそらくここの弥生人もそれが気に入ってここを墳墓の地にしたに違いない。

 1基だけコンクリートで固めて残してあるが、直径は5メートルくらいの小ぶりなものである。副葬品のようなものはほとんどなかったようだが、一基のそばの浅く掘った穴から底に穴をあけた山ノ口式土器(弥生中期)によく似た土器が埋められていたという。南九州の古墳ではよく見られる葬送儀礼の原型かもしれない。

 これほど円形周溝墓がまとまって見られる遺跡はおそらくないのではないか。
 上記の「方形周溝墓20~30基にたいして円形周溝墓は2~3基しかない」という割合と真逆なのである。

 そうなると円形周溝墓が当地の弥生人では普通だったということになる。これはもう当地弥生人のオリジナルではないか。決して畿内などからの渡来人が来て造ったり、当地の弥生人が向こうの築造を学んだりしたのではないだろう。

 なぜならもし向こうからやって来た墓制ならこんなに海から離れた場所に造られず、まずはもっと海岸に近い地域に見られなくてはおかしいからだ。

 また、東九州自動車道建設にかかる発掘事業の中で曽於郡大崎町の「永吉天神段遺跡」でも、弥生中期の円形周溝墓(直径8メートル)とそれを取り巻くような土壙墓群が発見されている。すでに家族墓を超えて共同体の中で身分差が表れて来たかを思わせる態様が見られ、興味がそそられる遺跡である。

 志布志市松山町秦野に起源をもつ円形周溝墓が、海に近いより先進的な永吉天神段では身分制の表徴となってそのような態様を取ったのかもしれない。

 まだまだ大隅地域では「起源はここ」というような遺構なり遺物なりが発見される可能性が高い。
 


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築地市場移転問題

 生鮮ものの卸売市場最大を誇った東京築地市場の移転問題で、小池都知事がさっそく「事業の精査」による手柄を立てた。
 新しい移転先の豊洲市場の巨大な建物群の下では、「きれいな土とコンクリート被覆によって旧都市ガス工場操業によるベンゼン等の有害汚染物質除去と安全のための盛り土工事」(全体で850億円余りが投じられた)がなされておらず高さ4.5メートルもの空洞のままだったことが明るみに出たのである。(以下の画像は「バンキシャ!」から。)Cimg2301
 ある説明では、空洞にしないと配管等の点検ができない、というもっともらしい言い分があったようだが、肝心のこの盛り土による有害物質排除の方針を立案した専門家でさえ、Cimg2316
 空洞のままにしておくなんて聞いてないよ――というような驚きの発言をしている。「工事の進み具合についてももつんぼ桟敷だった」とも述べている。
 これを重く見た報道番組「バンキシャ!」の方で東京都の幹部に問い合わせたところ、Cimg2319
 何とも無責任極まりない唖然とするような答えが返って来た。
 工事業者を取り仕切っている例の「都政のドン」が幹部職員までこのことを知らないことにしておくよう口封じしているのだろう。
 まさか盛り土法を提案立言した上記の平田健正氏まで篭絡したのではないとは思うが、それにしてもこの「手抜き工事」によるピンハネは幾ら位になるのだろうか? せこい奴らだ。
 唯一の「地方交付税無配自治体」東京。特に努力をしなくても政治の中枢があるために企業等の本社・本店・本部が置かれて税金がどんどん入る東京。豊かな東京。地方からわんさか人が集まる東京。
 そんな中で行われている土木・建設・不動産業種のやりたい放題・取りたい放題の公共事業。Cimg2323
 この報道に早期移転賛成派の築地市場協会の会長も呆れている。Cimg2325
 幹部職員の説明責任を果たさないどころか上記のように開き直っている態度に小池都知事もがっかりを通り越してうんざりしているようだ。

 小池都知事にはこの際、東京都を「ぶっ壊し」て、「分都」に命を懸けてもらいたいものだ。
 「日本死ね!」で話題になった保育所の不足問題はそもそも地方から職を求めて東京に若者が集まるから起きたことだ(だから本当は「東京死ね!」というべきだったのだ)。
 こんな一極集中の東京は最低でも3割方は大阪にその中枢機能を移すべきだろう。その他の地方都市にも分散して少なくとも今の半分程度にまで身軽になるべきだ。
 また皇居を京都にお返しする「還都」も必要だ。この還都をこそ早くやってほしいもので、いつまでも徳川政権を倒した象徴としての「東京行幸」の宙ぶらりんのままにしておくべきではない。今や「世界平和の平安京」が待たれる時代に入っている。
 東京オリンピック全体にどのくらいの金がかかるのか知らないが(新競技場だけでも3000億とか)、そんな金があったら還都に使いたいものだ。その方がはるかに有意義ではないだろうか。宮内庁・文化庁それに文科省も京都に行ったらいいのだ(京都は最も大学が密集している都市だと聞く)。
 
 

 

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日韓併合の一場面

 残念なことに途中から見たので詳しいことは書けないが、NHKのファミリーヒストリー番組でフォークグループとして一時代を築いたチューリップのCimg2281代表・財津和夫(昭和23年生まれ)の祖父の代からの歴史を紹介していた(画像は父母の苦労話に改めて涙する財津和夫)。
 祖父は民平と言い、明治の初めに福岡県で生まれ、併合された朝鮮に渡り、息子の国平(財津和夫の父)は農業を手広く経営した。Cimg2278_3父・国平は熊本から同じように朝鮮に渡って農業に従事していた娘(母)と知り合い結婚し、和夫には兄が4人生まれたが、上の二人は幼いうちに亡くなっている。Cimg2280
 終戦後は何もかも手放して福岡県福岡市に引き上げ、そのころ当たり前だった引揚者を対象とした開拓事業に入り、ほどなくして近くにあった米軍のキャンプ地から出る「残飯」を集めて養豚事業を始めて軌道に乗りかかった。
 しかし開拓農場に博多競輪場が造られることになって土地を手放し、今度は食堂を始めることになったそうだ。(上の写真はその食堂でのもの。昭和31年。)
 結構繁盛したようだが、財津和夫は地元でフォークグループを結成後の4,5年後には東京に出ることになった。そのことを父母には内緒にしていたようで、出て行く当日に東京行きを告げたという。
 
 そんな昔を思い出して涙をこらえきれなかったのだろう。
 
 しかしこのヒストリーの中で、朝鮮半島で農場経営をする際に、二人の朝鮮人(当時は日本人だった)を雇い、家族同様に毎日を暮らしたことや、終戦で本土に引き上げるときにはそのうちの一人にすべてを託して来たというのには驚く(金品は持ち出せたが、土地や家屋は無償で手放すほかなかったのだろう)。
 その二人の朝鮮人の子供や孫も探し当てたが、財津家の農場と家屋を引き継いだ人には1男4女がおり、うち生存している4人姉妹は口々に「財津さんの残してくれた家と農地があったので生活に困らずに育った。ありがたいと思う。ぜひ財津さんの子供たちに会いたい」と言っていた。
 極めつけは財津家で一緒に働いていた人の後を引き継いだ長男(故人)が、水墨画家に頼んで描いてもらったという当時の財津家の農場と家屋の絵であった。
 それほどまでにして財津家との良き思い出を残しておこうとした故人にもだが、朝鮮の地で温かい交流を持った財津家の人々にエールを送りたい。Cimg2277
 財津和夫の母は老人ホームで亡くなったようだが、死ぬまで朝鮮での良き思い出に浸っていたらしい。所望する歌はアリランだったそうだ。
 
 台湾と朝鮮はかって日本の領土だったことがあるが、台湾人は今でも日本の統治を感謝している人が多い。
 その一方で朝鮮人はどうも一筋縄ではいかない。朴槿恵大統領の妹のように「日本の統治は悪くなかった」という人も出てきているが、多くは「挺身隊=従軍慰安婦」というような間違った情報に振り回されている。
 日本人の中には食い詰めて朝鮮に渡り、悪事に手を染める者もいたのだが、大方の日本人渡航者は多かれ少なかれ財津家のような交流を持っていた。そんなことが垣間見られたファミリーヒストリーであった。


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安芸の多祁理宮

 岡山の息子一家のところに行ったついでに、安芸の多祁理宮のあったという府中町を訪れた。「安芸の多祁理宮(あきのたけりのみや)」といっても知らない人の方が圧倒的だろう。
 Cimg2163
 広島県安芸郡府中町本町に鎮座するこの「多家(たけ)神社」を中心とするあたり一帯が「多祁理宮」のあった場所で、南九州からの神武東征軍(船団)がここに滞在したというのが記紀の伝承である。

 ただし、古事記では「多祁理宮」だが、日本書紀では「埃宮(えのみや)」という名称であったとしている。この神社では社名を古事記の「多祁理」の「たけ」から「多家」と名付けたものの、社名の脇にはカッコして「埃宮」を追記してある。要するに古事記と日本書紀どちらの記載からでも分かるように、「神武東征の途次に滞在したのは安芸国ではここ多家神社である」と両論併記してあるのだ。

 実はこの「たけ」も「え」も南九州には共通の地名が見られる。
 「たけ」は古事記で南九州熊曽国を「建日別(たけひわけ)」と言っているように南九州そのものを指し示し、また薩摩川内市にある皇祖ニニギノミコトを祭る山陵を「可愛山陵」と書いて「えのさんりょう」と読ませているように、「え」が使われているのである。Cimg2173
 立派な鳥居をくぐって80段ほどもある石段を上がると広い境内で、その先に社殿が見える。社殿の近くには両脇に花崗岩の標柱が立ち、漢文から取られた句が彫られている。(この字を書したのは江戸時代の広島藩主(42万石)であった侯爵浅野氏。)
 御祭神は神武天皇で、相殿に安芸国の祖「安芸津彦」が祭られている相当に由緒のある古い神社である。Cimg2161
 多家神社とは小さな流れを挟んで反対側にあるのが、「府中町歴史民俗資料館」だ。

 ここの館長さんに話を伺うと、神武天皇の腰掛石などの史跡もあるが、神武東征となるとほぼ懐疑的であった。館長さんは自分と同世代か少し上と見えたが、さもありなんで、我々世代からは戦前の「記紀神話はすべて真実」という太平洋戦争遂行上の「皇国民教育」は完全否定されて教えられたので無理からぬことである。

 しかしだからといって「記紀」は怪しげな書であるからと無視するのでは元も子もない。私はよく「汚れた水だけを捨てればよいのに、赤ん坊まで捨ててしまった」という比喩を使うのだが、「戦争遂行上の皇国民教育による記紀解釈」という「汚れた水」だけを捨てればいいのであって、記紀まで捨ててはいけないのである。

 館長さんは、この付近には「安芸国府跡」があり、「総社跡」も存在するから非常に重要な場所であったことは史実であると太鼓判を押された。
 
 自分としては古代から府中町でも要枢の地であればこそ、神武船団もここに船舵を休ませたのであり、もしかしたら水先案内人の世話でここにしばらくの行宮を建てて住んだのかもしれない。その名残が「多家神社」となったのではないかと考えることができるだろう。

 神武東征船団は古事記ではここに7年滞在したとし、日本書紀ではわずか3か月ほどしかいなかったように記載するが、どちらを取るにしてもそれだけ長期の滞在期間を支える現地豪族の受け入れ態勢が大きくものを言ったのである。(同じ東征上の滞在期間で古事記と日本書紀で大きく食い違うのは何故か? これについては二度の「東征」―神武と崇神―があったのだろうと拙著『邪馬台国真論』(2003年)で論じた。)

 「たけ」と「え」という南九州由来と思われる名称の他に、もう一つ「神武東征」の史実性を窺わせるのが、「鹿籠」という地名である。
 
 この地名を館長さんに言うと即座に「それはコゴモリと読むんですよ。ええ、ここから南にある地名ですよ」と、私が「かご」と読んでいたのを訂正して教えてくれた。

 薩摩半島の有名なカツオ節産地である枕崎市に全く同じ字を書いた地名がありましてね――と返すと、ほほう、と驚きを隠さなかった。
 
 コゴモリはもっと海に近い所で、何でもそこでは鹿を飼っていて宮島からの平家の密書を鹿の角に付けて遣り取りをしていた、という伝承があるそうだ。
Cimg2164
 そこで多家神社のすぐわきの道を南に向かった。Cimg2185
 「空城山」(あきしろやま)の麓を通ってちょうど2キロほどにもう一つ小高い丘があり、そこに「鹿籠神社」が鎮座していた。Cimg2188
 参道を3~40メートルも進んでいくと正面に社殿が見えた。と、その手前が池になっているのに気づく。池を覗き込んでいた保育園児と思しき女児を連れ赤ちゃんを抱っこしていた母親に尋ねると、池の中に錦鯉がいるのでパン屑をあげていたところだそうだ。

 池の向こうに社殿があるといえば、神様は海の関係だな――そう思いながら境内の掃除をしていた神主さんに問うと「宗像さんの女神で、イチキシマヒメですよ」とのたもうた。

 海の神様には違いないが、宗像大社の御祭神であるのなら北部九州の胸形族との関連なのか。
 神主さんもさっきの史料館館長のように宮島との連絡に使った鹿の伝承を話してくれたが、話しながら腑に落ちないようでもあった。

 この神社は昭和29年に再建されるまで、しばらく多家神社の摂社・貴船神社に合祀されていたが、地区民の霊夢により多家神社から引き離されたという経緯を持つ。

 神社の裏手は小高い丘で、その湧水で池が満たされていたのだが、高いマンションが建設されてから水が乏しくなって汚れが目立つようになった――と神主さんは諦め顔であった。
Cimg2240
 これは多家神社から鹿籠(こごもり)神社までの都市地図で、多家神社を含む一帯が古代からの要衝の地で、そこから南へ約2キロの鹿籠神社界隈はほぼ古代の海岸線である。

 ここに宮島との間を密書を角に付けて往復する鹿が飼われていたというのは漢字の「鹿」からくる連想で、応神天皇の13年条に注記として「南九州から鹿の皮をかぶった船団」があって彼らが船を着けたので「加古(鹿子)川」(兵庫県加古川市)という地名になった――とあるように、鹿とは実は「鹿子(かこ)」すなわち「舟子」のことではないだろうか。

 つまり府中町の地名「鹿籠(こごもり)」とは本来、薩摩半島の枕崎市にあるように「かご(鹿籠)」(かこ)なのであり、舟子(航海交易業者)の多く住んでいた場所のことを指すとした方が合理性があろう。

 この鹿児島(このカゴも鹿子すなわち舟子だろう)に由緒のある地名を持っているからには、やはりそこにいた航海交易民も鹿児島由来としてよく、航海交易を業とするからには海の女神「イチキシマヒメ」を祭っていて何らおかしくはない。

 以上、「たけ」「え」「かご」というように南九州由来と思われる地名・名称が府中町の狭い地域にあることを示した。
 神武東征と言い切ってよいか判断は分かれるが、少なくとも南九州からの相当な数の人々の移住の跡が古代安芸国の中心地であった府中町に見られることは確かである。

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