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円形周溝墓の初源地

 前方後円墳の始原は帆立貝型古墳に求められ、その帆立貝型古墳の前駆的形態は弥生時代の「円形周溝墓」ではないか――との見方を補強する遺跡が、奈良県橿原市で見つかったようだ。

 ハンドルネーム 「Don Pancho」氏のホームページ(http://bell.jo/pancho/)内の「橿原日記」というカテゴリーに「2016.05.15 遂に奈良県でも見つかった弥生末期の円形周溝墓」という一文がある。今回はそれを参照させてもらった。

 それによると奈良県橿原市のポリテクセンター奈良という建物の改築工事中に一基の「突出部を持つ円形周溝墓」が出現した。7世紀後半の藤原京時代に建てられたらしい大型の建物跡の遺構がまず見つかり、その下層で今回の発見があった。Cimg2367
 今回見つかった円形周溝墓の直径は19m、周囲を幅6m、深さ50㌢の溝がめぐらされていた。築造された時期は墳丘部で見つかった土器から見て2世紀後半であると専門家は推定しているそうだ。

 その結果この円形周溝墓は3世紀になるとすでに瀬戸内海東部地域から河内地方に見られるようになる円形周溝墓群の一環として考えられ、大和地方でさらに一歩進んで初源期の古墳群と言われる「纏向型前方後円墳」の築造につながったとし、これまで大和地方でどうしても発見できなかった円形周溝墓に喜びを隠せないでいるという雰囲気が伝わってくる一文である。

 この発見によって箸墓古墳のような定型的な前方後円墳の前駆的形態としては纏向型(帆立貝型)前方後円墳が存在し、その纏向型前方後円墳の前駆的形態は「突出部を持つ円形周溝墓」である――との発展過程が描けることになる。

 突出部は「陸橋」とも呼ばれることがあり、これは墳丘部に至る通路であろう。墳丘部を盛り上げるために周辺の土をすくったあとには当然「周溝」という名の溝(みぞ)ができ、その溝の一か所は土をすくいあげないでおけばおのずから陸橋になる。


 さてではその前方後円墳の大本となった円形周溝墓が生まれたのはどこであったか――に興味が移る。

 上記のホームページでも触れられているように、大和地方では今回発見された弥生時代後期の円形周溝墓が初めての発見であることからして、初源は大和地方でないことは明らかである。

 周溝墓には円形の他に「方形周溝墓」があり、こっちは弥生時代の前期から西日本でかなり普遍的にみられるのだが、円形周溝墓は極めて少ないという。

 少ないながらも瀬戸内海の東側(香川・徳島・兵庫)では、前期の終わりから後期にかけて小型の円形周溝墓が築造されていたようだが、方形周溝墓20~30基に対して2~3基の割合でしか見つかっていないという。

 そこで思い浮かんだのが志布志市松山町秦野にある「京ノ塚遺跡」だ。

 ここでは何と丘の上に20基もの円形周溝墓が2基の方形周溝墓とともに発見された。
 時代は弥生中期で約2000年以上前の遺跡である。

 志布志市松山町がまだ単独の町であった時に建設しようとしていた「やっちくふれあいセンター」の基盤工事中に京ノ塚という丘の上でとてつもない遺構群が日の目を見た。

 丘の標高は170メートルで周囲がそれより20メートル程度低いだけなのでさほど突出した丘ではないが、登ってみると見晴らしの良いのには驚かされる。
 上り道を隔ててすぐ隣にやっちくふれあいセンターの大きな建物があるので東側の展望はないが、あとの方角はよく見渡せる丘である。おそらくここの弥生人もそれが気に入ってここを墳墓の地にしたに違いない。

 1基だけコンクリートで固めて残してあるが、直径は5メートルくらいの小ぶりなものである。副葬品のようなものはほとんどなかったようだが、一基のそばの浅く掘った穴から底に穴をあけた山ノ口式土器(弥生中期)によく似た土器が埋められていたという。南九州の古墳ではよく見られる葬送儀礼の原型かもしれない。

 これほど円形周溝墓がまとまって見られる遺跡はおそらくないのではないか。
 上記の「方形周溝墓20~30基にたいして円形周溝墓は2~3基しかない」という割合と真逆なのである。

 そうなると円形周溝墓が当地の弥生人では普通だったということになる。これはもう当地弥生人のオリジナルではないか。決して畿内などからの渡来人が来て造ったり、当地の弥生人が向こうの築造を学んだりしたのではないだろう。

 なぜならもし向こうからやって来た墓制ならこんなに海から離れた場所に造られず、まずはもっと海岸に近い地域に見られなくてはおかしいからだ。

 また、東九州自動車道建設にかかる発掘事業の中で曽於郡大崎町の「永吉天神段遺跡」でも、弥生中期の円形周溝墓(直径8メートル)とそれを取り巻くような土壙墓群が発見されている。すでに家族墓を超えて共同体の中で身分差が表れて来たかを思わせる態様が見られ、興味がそそられる遺跡である。

 志布志市松山町秦野に起源をもつ円形周溝墓が、海に近いより先進的な永吉天神段では身分制の表徴となってそのような態様を取ったのかもしれない。

 まだまだ大隅地域では「起源はここ」というような遺構なり遺物なりが発見される可能性が高い。
 


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